虹を越えて飛んでいく鳥

メリー・クリスマス。

思わず季節外れの挨拶をしてしまったのは、世界で最も売れたダンスミュージックのジャケット写真に映っているのが、たぶんあのクリスマス島のカニだから。道といわず野といわず、すべてを埋め尽くして、赤いカニたちがざわざわと海へ向かうさまは、世界有数の奇観だ。

感動的なのは、おなかに卵を抱えた母ガニが、月の満ち欠けを頼りに夜の砂浜に辿りつき、波に洗われながら子供たちを送り出すためにダンスする場面。愛する子供たちの巣立ちを、あんなにも盛大に手を振って見送ろうとする母心が愛らしい。(6:58くらいから見られる)。

これだけたくさんカニがいれば、暑中見舞いにラブレターを書くカニだっていないとは限らない。実際、自分は中3の夏にカニから恋文をもらったことがある。暑中見舞い専用の花火の図柄をあしらった葉書に、「あなたのことを思っています」とか「あなたの笑顔をこれからも見守っていきたいです」とか、中学生の女の子が書きそうな甘い文句がしたためられていた。ところが、末尾に差出人の名前として「かに」と書かれていたのだ。

これには頭を悩まされた。中学生時代が異性に一番アプローチを受けた時期だったので、それまでラブレターは何通ももらったことがあった。けれど、どれも知っている女の子か、その友人からばかり。他校生からもらったこともあったかもしれないが、媒介者が必ず差出人の素性を教えてくれた。

そこへ「かに」を名乗る謎の少女からの恋文が来たのだ。何をどのように考えたらよいのか。謎が解けずに当惑した。もちろん、知り合いに「かに」という渾名の女の子はいない。

中3の夏休みが過ぎて、9月の中旬か下旬に退院して、学校へ戻ると、知っている後輩の女の子が嬉しそうに話しかけてきた。

「すみません。先輩のご実家に出した暑中見舞いに、私の名前を書くのを忘れていたかもしれません」
「暑中見舞いありがとう。ごめん、返事を出せなくて。『かに』としか書いてなかったから」
「『かに』? 私そんなこと書いていませんよ」

彼女は真顔で驚いた。真顔だったが、私が3か月余の長期入院を経て学校に戻ってきたのを、心から喜んでくれている様子だった。

そのとき私はすべてを悟った。

その後輩の彼女は、多少なりとも競争率の高い片思いの先輩男子に対して、故意に自分の名前を書かずに葉書を出して、できるだけ長いあいだ相手の心を独り占めしようとしたのだろう。そして、13歳の少女が考えそうなその恋の企みは、見事に成功したと言わねばならない。受け取った先輩男子は、何日も「かに」のことを想いつづけたのだから。

「かに」は、いかなる意味でも名前ではなかった。13歳の少女が背伸びして書きたがる手紙の結語だったのである。「かしこ」の字間が狭かったせいで、「かに」に見えただけのことだったのだ。

虹の彼方に (講談社文芸文庫)

虹の彼方に (講談社文芸文庫)

 

 そんなカニ話を思い出したのは、昨晩一章だけ読み返したこの小説の中でも、10歳の女の子が背伸びして「かしこ」を使っていたから。

「ご自由におつかい下さい。わたし、これいりませんので。かしこ」

 これが冷蔵庫に残されたその伝言。「これ」が何かが気になるところだ。先に人間関係を把握しておこう。 

 わたしとわたしの娘は実の親娘(おやこ)なのだが、実の親娘のように信頼しあっている。わたしとわたしの娘はこの世界にあって困難を強いられる大洋ホエールズのファンだからだ。

 かつてわたしはわたしの娘の父親だった。現在(いま)では別の男が娘の父親を演(や)っている。かれは大洋ファンではないが、立派な父親だ。かれにはかれの妻、つまりかつてわたしの妻であった女といっしょに寝るという欠点がある、と娘は主張している。だがそんなことはよくあることだ。いちいち、めくじらたてるべきでない。 

 どうやら、主人公は離婚した妻に10歳の娘の親権を取られているらしい。週に2回タクシーでやってくる娘は、主人公にベッドサイドストーリーを話してくれるようせがむのだが、主人公はうまく話せない。「そして私が話す番になった」という名高い書き出しの直後から始まる主人公のストーリーは、無残にも虫食いだらけだ。

だが、ほんとうのところ、その一切の原因は『カール・マルクス』本人にあった。

何故(なぜ)なら、もうずっと以前から『     』はいたるところに存在していたからである。

(…)

カール・マルクス』たちは死にかけており、どこからも助けがやってくる気配はなかった。

『おれは死ぬまで退屈しつづけるだろう』と『カール・マルクス』は考えざるを得なかった。

 つまり一切は元に戻ってしまったのだ。『     』だけが残ったのである。

高橋源一郎の伝記的事実は、wikipedia に詳しい。

高橋源一郎 - Wikipedia

学生運動、逮捕、拘禁、失語症、肉体労働などを経て、逮捕から何と14年もかかったのちに出版されたのが、この小説。普通の人にとっては、単にシュールに見えるだけかもしれないこの作品の冒頭に、どれほどの絶望と哀切さを伴った、どのような寓意が込められているのかは、もはや火を見るより明らかだろう。

そして、話すべき話の中で虫食いとなっている『     』を埋めてくれるのは、離婚で別れ別れになった10歳の娘の方なのである。リアリズムのメガネを取って、現代詩だと思って、裸眼で読んでほしい。

「ご自由におつかい下さい。わたし、これいりませんので。かしこ」

 わたしは、娘の「虹の彼方(オーヴァー・ザ・レインボウ)」を手に取ってみた。

 実にいい。感じがいいではないか。こうなるとインスピレーションの問題かな。年は取りたくないもんだ。

 たしかにわたし向きだよ。それに子供向き。しかも万人向き。

 それでわたしは、わたしがするわたしの話の真の所有者を「虹の彼方(オーヴァー・ザ・レインボウ)」に決定することができたのであった。

「有難(ありがた)くいただいておきます。感謝」とわたしは言った。

「いいえ、どうしたしまして」と声だけ残っていた娘は答えたのでありました。

この作品についてはまだまだ語り足りないところ(「ケツくらえ」という少女の悪態の出所が『地下鉄のザジ』だとか)があるが、「自分向き、子供向き、万人向き」というところに今の自分は感じ入ることがあった。

その三つ揃いでなくても書けるし、書かねばならない局面なんかいくらでもあるだろうが、少なくとも自分が拠って立つ足元の地平だけはこの三つでできていないと、経験則から、書きつづけるのが苦しくなるような気がしている。ここでメタファーに「地平」と書いたのが重要で、どんなに権威ある社会的立場を得られたとしても、自分は「子供」や「万人」と水平で双方向的な関係を持ちたいと考える性格だ。

たぶんこの14年間の苦しい経験が自分を変えたのだと思う。普通の人より未熟なだけかもしれないが、実は自分は、上記の小説の主人公のように、未成年の子供から教えてもらうことがとても多い人生を送ってきたのだ。

 というわけで、最近は、想像上の兄貴だけでなく、想像上の娘や、想像上の高校生時代の妹なども、このブログに登場するようになった。彼女たちからも多くのことを教えてもらってきた。

えみりんの自慢をしてもいいですか? 彼女は我慢強くてリーダーシップの取れる将来楽しみな女の子です。えみりんが2歳だったら、絶対に肩車をして砥部動物園につれていってあげたいな、と感じます。もう20歳近い人ですが。

どこかにこう書いたこの「えみりん」は、下の記事にも登場している。

想像上の高校生時代の妹ゆみりんには、この記事で言及した。回転木馬とはメリーゴーラウンドのこと。

最近の若者はサリンジャーを読まないのかもしれない。動物園に回転木馬と続くと、話題が重なったように感じられるかもしれないけど、『ライ麦畑でつかまえて』のラストシーンに、最愛の妹フィービーを回転木馬に乗せる有名な場面がある。あそこではあれを引用したというわけだ。

回転がとまると、彼女は木馬をおりて、僕のとこへやって来た。「今度は、いっぺん、兄さんも乗って」と、彼女は言った。

「いや、僕はただ、君を見ててあげるよ。僕は見ているだけでいいんだ」

(…)

 「よし、わかった。でも、もう急がなくっちゃ。乗りそこなうよ。君の木馬に乗れなかったりしたら困るぜ」

それでも彼女はまだ行かないんだな。

 「さっき言ったの、あれ本気? もうほんとにどこへも行かないの? あとでほんとにおうちへ帰るの?」彼女はそう言った。

「そうだよ」と、僕は答えた。事実、ほんとにそのつもりだったんだ。僕はフィービーに嘘はつかなかった。後になって実際にうちへ帰ったんだから。

(…)

 雨が急に馬鹿みたいに降りだした。全く、バケツをひっくり返したように、という降り方だったねえ。子供の親たちは、母親から誰からみんな、ずぶぬれになってはたいへんというんで、回転木馬の屋根の下に駆けこんだけど、僕はそれからも長いことベンチの上にがんばっていた。(…)でも、とにかくずぶ濡れになっちまった。しかし、僕は平気だった。フィービーがぐるぐる回りつづけているのを見ながら、突然、とても幸福な気持になったんだ。本当を言うと、大声で叫びたいくらいだったな。それほど幸福な気持だったんだ。(…) 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 知っている人がどれくらいいるかはわからないが、とりわけここ一年の自分は、かなり迷信深くなった。偶然に思えるようないくつか重なると、ついついそこから新たな「順路」を読み取りたくなってしまう。たぶん、今ここで、こんな Fiction の断片を書きつけねばならない展開なのではないだろうか。

 ある休日の朝、四つん這いの背中に想像上の娘を乗せて、お馬さんごっこをしていたとき、娘が出し抜けにこう叫んだ。

「お馬さんごっこはもうやめた。飽き飽き。だって、フォニーじゃないんだもん」

「フォニー?」

 どうして娘はそんな危うい言葉を知っているのだろう。ジョン・レノンを暗殺した男が、ジョンを誹謗中傷するのに使った一語。あるいは、江藤淳が日本特殊的な私小説ではない純文学の新機軸に与えた蔑称。

「本物のフォニーに乗せてほしいの」

「本物のフォニー? ああ、そうか」と私は笑った。語義矛盾がほどけたのだ。「小さなお馬さんのことだね。それを言うなら、フォニーじゃなくてポニーだよ。ポニーなら危なくない」

「本物のお馬さんは危ないの?」

「キャンディーキャンディーのアンソニーみたいになっちゃうこともあるから。でもポニーなら安心だから乗りに行こう」

 では、出かける準備をしようというと、娘は大喜びして、家で遊ぶときにはいつも脱ぐ決まりにしている靴下を、自ら小さな手で苦労しながら履き始めた。

「ねえ、パパ、ひとつ訊いてもいい?」

「パパにはいつだって何でも訊いていいんだよ」

「キャンディーキャンディーのアンソニーって、甘いの? メロンパンアイスくらい甘い?」

「メロンパンアイス?」

銀天街のお店でママに買ってもらったの。大事にしまっているんだ。お店のきれいなお姉さんが書いてくれた似顔絵」

 娘の靴下を見下ろすと、踵のふくらみがくるぶしの辺りに来ている。もう一度娘を座らせて、靴下の踵をあるべき場所へ戻してあげた。こんな小さな女の子が、いつか恋をする年齢になるなんていう野蛮な出来事が本当に起こりうるのだろうか。

「もちろん甘いに決まっているさ」と私は言った。「おまえのアンソニーはパパが探して見つけてあげるからね。とびっきり甘いやつをね」

「ありがとう」と娘は言った。そして玄関を出る私の脚に縋りついて「パパ、大好き」と付け加えた。

 というわけで、想像上の娘と一緒に、言い換えると、一人で、今日の午前中にドライブがてら、日本のポニーこと野間馬を見に行ったのだった。

しかし、明治時代になると、国が軍馬(戦争に使う馬)を育てるために小さい馬を育てることを禁止したり、昭和になって農業機械や自動車が普及したためその数は年々減っていきました。昭和30年代になると今治市には1頭もいなくなり、やがて日本中でも6頭だけとなってしまいました。そのうちの4頭を守り育てていたのが松山市の長岡悟さんでした。長岡さんは昭和53年に野間馬のふる里である今治市に、この貴重な4頭を寄付してくれました。今治市では、さっそく「野間馬保存会」を作りこれらの馬を「ふる里の宝」として地域のみんなで大切に育て増やしてきました。

飼育員の人に聞いてみると、現在「のまうまハイランド」にいる野間馬は約50頭。繁殖しても、全体数は横這いにしかならないのだそうだ。今治市直営なので斜陽の暗い雰囲気は皆無だったが、夏休みが終わったせいもあって、閑古鳥が鳴いていた。

ツイッター上で持ちきりになっている新設獣医学部への野間馬の提供や貸し出しについては、現場にはまったく情報は降りてきていないらしい。信頼できるジャーナリストのまとめはこちら。 

田中龍作ジャーナル | 【加計疑惑】条例違反してまで天然記念物の野間馬をアベ友に捧げる今治市

情報はかなり錯綜しているようだ。ドライブして、サンドイッチを食べて、ちょっとだけ話を聞いて帰ってきたが、あと1時間くらいぶらぶらしていたら、いま話題沸騰のこのフリージャーナリストに会えたのかもしれない。惜しいことをした。

 カニ、虹、動物園、回転木馬、野間馬とつなげてきて、自分でも何を書きたいのか見失いそうになってしまった。

そうだった。この記事で虹について書いたのは、或るブログの異国の写真に映っていた虹に触発されたからだということを、書こうとしていたのだった。

しばしば難しい話をしているせいで、あるいは、しばしば悲しい暗い曲をかけているせいで、このブログ主は誤解されがちなのだと思う。芸術家気取りの変わり者に見えると思うけど、素は話好きのジョーク好き。自分の足で立っているベースにあるのは、万人や子供と双方向で協働しながら、狭くはこの国、広くは世界を、スプーンひとさじ分でもマシにしたいという夢想だ。

虹のかかったあの夢へは、いつだって歩いていけるし、そうするのに子供か大人かは関係ないと思う。そして、いま自分の足で立っているこのベースをホームベースにして、そこを「故郷」とか、「虹の彼方」とか、或いはもう少し一般的な別の名前で呼べたらと、夢想は尽きない。

 このエントリは実は手紙のつもりで書いた。返信をもらえたら嬉しい。書きづらかったら署名は「かに」でかまわないから。

 

 

  

Somewhere over the rainbow
Way up high
There's a land that I heard of
Once in a lullaby
虹の向こうのどこか 空の高みに
ある国が浮かんでいる
昔 子守歌でそう聞いたことがある


Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true
虹の向こうのどこかに
空が真っ青で
本気で信じた夢が
本当に叶う場所がある


Some day I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
Away above the chimney tops
That's where you'll find me
いつか星に願おう
すると目を覚ますと
わたしは雲を遠く下に見おろしていて
悩みのあれこれがレモンの雫のように
煙突や屋根の上へぽつりぽつりと溶け落ちていく
そういう場所でわたしはあなたとめぐりあう


Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly
Birds fly over the rainbow
Why then, oh why can't I?
虹の向こうのどこかへ
青い鳥が飛んでいく
虹を越えて飛んでいく二羽の青い鳥
そうならどうして、どうしてわたしたちが
二人で虹を越えられないことがあるだろう