「モルディブへは僕は行かない」

見たこともないのに、勝手に世界一の絶景だと心中で決めている場所がある。太平洋の北マリワナ諸島にあるロタ島で、島が美しいのではなく、ロタ・ホールと呼ばれる海中にあるブルーの光の束にうっとりするような魅惑を感じてしまうのだ。ひょっとしたら、あれは異世界への通路なのではと思わせるような神秘性を感じてしまう。画像検索の青々としたタイル張りには目を奪われてしまう。

ロタ ホール - Google 検索

映画『君の名は。』の中でも、平行する異世界の可能性を秘めたエヴァレットの多世界解釈について触れられていた。このような平行世界好きは、虚構の紡ぎ手にとってはよくあること。あの大江健三郎の『個人的な体験』でさえ、平行世界への言及が含まれている。2017年の現在に近いところでは、バシャールによる「ワクワク乗り換え型平行世界間移動仮説」が、自分は気に入っている。

●2015年~2016年のこの2年間で、大きな波動のシフトが起き始めると、バシャールは話します。今年をもって列車は駅を離れ、それぞれが目的地に向かって走り出しました。つまり、この2年間は、本当に本当に本当に本当の意味で、”素の貴方”になる事が、とても重要な時期というわけなのです。

●2015年の分岐点から、あなたの乗った列車が出発し始めました。あなたが乗れなかった列車には、まだ搭乗する事が可能です。自分のペースで良いので、あなたのワクワクをどんどん広げてゆきましょう。

●2015年の分岐点を境に、平行世界の地球が分離してゆきます。貴方が乗った列車から、他の列車へ駆け込む事は可能ですが、待てば待つ程、乗り換えは大変なストレスとなるでしょう。

●多くのスピリチュアル・リーダーが、同じように2017年以降を”未定”としているように、“全て”が文字通り変わってゆきます。2015年の分岐点を境に、全ての事柄がどんどんスピードアップしてくるようになります。高次元仕様でないエネルギーは、錆び付いて重たく、使い勝手が良くありません。機能しなくなって壊れてしまう、という一連のプロセスが、ほんのわずかな時間で繰り広げられるようになる。

日本に住む人達で、健康、発電、精神的繋がり等に関して、自然界と調和した方法を追求して突き進む人達、又は、あなたの波動が、最もシンクロする、自然界と繋がりの強い地域に移り住む人達で、”素の自分”を、調和の取れた方法で表現出来る人達は、無事である。それ以外の人達は、そうでは無い。近い将来、日本国に、”分岐”が訪れる。今まであなた達が追求してきた、古いシステムは崩壊し、今まで中心であった権力構成は、もはや機能しなくなるであろう。そして、自然界と調和した方法を追求する人達や、自然と調和した地域に移り住む人達による、調和された生活へと、移行するであろう。あなた達には、最高で10年の猶予がある。

大摩邇(おおまに) : バシャールが語る2015年~2016年

(引用元は上記サイト。強調は引用者による)

ロタ・ホールの垂直の光の束を見つめながら、幼少期に見たアニメの名場面を思い出していた。多くの人々がその職業を「名探偵」だと思っているコナンの職業は、自分にとっては「未来少年」だ。

未来少年コナン」の基本的な位置づけは、このブログの説明で充分だと思う。

 基本的には最終戦争で殆ど滅んだ地球を舞台に、自然の中で育った超人的な身体能力を持った野生児の少年が銛一本を武器にさらわれた少女を救出し、ついでに仲間と共に世界征服をもくろむ悪玉も倒して世界も救う。という世紀末系新世紀物語で、コナンのラナの救出劇と世界征服の野望の阻止がメインのストーリーであるが、孤島で「おじい」なる育ての親だけと暮らしていたコナンが、漂流したラナが再びさらわれ、「おじい」が死んだのを切っ掛けに島を出て、仲間を得て、一定期間社会で暮らし、そして成長してゆく物語でもある。


そして、村上春樹のいっていたような理想的な物語である「セックスシーンのないことと、決して人が死なないこと」を殆ど問題なくクリアしている。


正確に言えば、「セックスシーンのないこと」はキスシーンも無いほどに完璧にクリアしているものの「決して人が死なないこと」は「主人公は決して人を殺さない」「主要人物は誰一人として死なない」であるのだが、それでもこれだけ子供も大人も男も女も安心して楽しんで見られるものは少ないように思う。

年末年始は未来少年コナンを - 土偶StaticRoute

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上のリンク先のブログで丁寧に連続キャプチャーされている通り、宮崎駿にとっての「掟破り」のキス・シーンは、海底に沈んだコナンの生命を守るために供された犠牲だ。それが画面の背後に隠されるべきものではなく、思春期の少年少女が交わす初恋のキスより尊い「名場面」として広く人々の記憶に残るのは自然なことだろう。

 これはどこかに書いたはずと思って、あちこちの自分のデータベースに検索をかけたが、それらしきものが出てこなかった。

ロタ・ホールからコナンーラナへつながる想像上の執着との間には、たぶんこの周辺で語ったような「垂直」「青」「愛(とその切断)」の主題的連関があり、

巷間しばしば言われるように、バシャールならぬバシュラール的な文脈では、宮崎駿が「空」の人であるのに対し、自分は圧倒的に「水」の人なので、 

水と夢 〈新装版〉: 物質的想像力試論 (叢書・ウニベルシタス)

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 ロタ・ホールのような垂直の水路には、休みなく想像力をかきたてられてきたような気がする。例えば、その青すぎる水路は、きっと平行世界への隘路にちがいないという確信とか。

ソレルスのスキャンダラスな名作『女たち』の冒頭は夙に知られている。

世界は女たちのものである。
つまりは死に属している。
それについては、誰もが嘘をついている。

女たち

女たち

 

 それを模倣したわけではないが、コクトーの映画で水銀をうまく使って、鏡が液化するギミックをヒントに、 

 世界は水でつながり、鏡で隔てられている。

 そんな一行を念頭に置きながら、リゾーム的?にあちこちで癒合している平行世界を登場人物たちが行き来しなければならない世界を構想したことがある。「行き来しなければならない」と書いたのは、平行世界と別の平行世界との接合面にあるロタ・ホールのような水路で、登場人物たちにそれぞれ別の方向へ浮力がかかるからだ。

未来少年コナンで譬えれば、コナンを海底に固定する重い鋼鉄製の手枷はもはやない。しかし、ラナが空気を含みつつ浮力に逆らって海面から泳ぎ下ってくるのとは逆に、コナンの浮力は海底方向へかかっており、泳いでも泳いでも、二人は同じ方向へは浮上できない。ラナは空気を口移しては、しきりに首を横に振って何かを伝えようとするが、言葉を伝えようとすると、生命を守るための空気が水泡となって流れてしまう。それでも、ラナは何かを最後に伝えようとして、大きな泡を口から生み出したのち、二人の絡み合った指は離れ、別々の水面(≒鏡面)へ向かって浮上していかねばならない。

どこかの街角の鏡から浮かび出て、路傍にびしょ濡れで倒れ込んだコナンは、ラナから最後に聞いた言葉が「逆方向reverse」と聞こえたような気がして考え込むが、あれはひょっとしたら「生まれ直しなさいrebirth」だったかもしれない と思いあたる。……

同じものが同じように永劫回帰する根源的な退屈の円環の中で、それでも生を肯定できる強度の「運命愛」を、ニーチェは推奨した。小林秀雄は自己肯定や自己正当化の自然欲求に折り合う形で、「今ここにある自分」を肯定した。

けれど、「可能性の数だけ平行世界がある」というような俗流多世界解釈」に立ってですら、ニーチェ小林秀雄のような「運命愛」は困難だというのが自分の考えだ。パラディグマティックに広がる無数の平行世界に対して、ほとんど偶発的にいま自分が属しているこの世界が、その無数の平行世界を抑えて「表象=代表represent」しているからこそ、この世界を愛せる。ああでもありえたかもしれない、そうでもありえたかもしれない。そのような可能性を愛しているからこそ、それらを犠牲にする形で、偶発的に今ここに存在している世界をかけがえのないものとして愛せるのだと自分は考えている。そうでなければ、ああまで(平行世界に似た)種々の虚構へと、心が執拗に向かう根源的欲求の理由がわからなくなるのである。 

 というわけで、30代の自分が平行世界で訪れたにちがいないモルディブへは、この世界の自分は、もう一生行かなくてもいいと感じている。それくらいに、その平行世界での「思い出」を愛しているし、今のこの世界を愛する理由になっているから。

読む人が読めばわかる話だが、上で話したロタ・ホールのような rebirth な水路は、羊水に満ちた母の胎内体験に通じている。そこで浮力が逆方向にかかるのは、近親相姦の反映であり、そのときに逆方向へ別れた自分の(かつてつながっていた)半身を探し求めるのが、赤い糸(≒血のつながり)でつながった運命の異性探しの旅ということになる。これらの偏愛主題はあまりにも精神分析的で、自分がアンチ・オイディプスなドゥルージアンを「隠れ」という接頭辞をつけてでしか名乗らない理由は、この辺りにもある。

しかし、(今ここでそうなってしまう事情があるにせよ)、それだけではいくら何でも思春期的すぎるので、最後にロタ・ホールを別の「水脈」へつないでおきたい。

 あのエミール・クストリッツァの「アンダーグラウンド」の完全版が、今日から恵比寿ガーデンプレイスの映画館で上映されるらしい。

え? 上映時間5時間14分! 時間がないという人には、通常版(それでも170分!)の視聴をお勧めしたい。字幕なしなら You Tube でも観られる。

「20世紀ベスト10に入る奇跡の一本」との惹句は伊達じゃない傑作映画で、個人的な生涯ベスト10にも入っている思い出深い映画だ。 

2:37:34から2分ほどの「十字架を周回する燃える車椅子」の名場面を見てほしい。男二人と女一人を軸に織りなすこの巨編の中で、二人がこの場面で死に、一人が燃える車椅子の火を諦め顔で消そうとするが……。

しかし、第二次世界大戦以降も紛争の絶えないユーゴスラビアの半世紀を描き、登場人物もバタバタ死ぬのに、映画はトラジック・エンドにならないのだ。2:42:04からの場面、地下世界の水面から潜り込むと、その水路では rebirth して死者が蘇るのである。そこに満ちているのは「再生の水」だ。車椅子の上で焼死したはずの男と女も、勢いよく水を掻いて水面を目指すし、なぜか楽団もトランペットを吹いたり太鼓を叩いたりしながら水を潜っていく。

蘇った先の小島では、例によって狂騒の結婚式が繰り広げられていて、死者たちも蘇って酒を飲むは踊れや歌えやの大騒ぎだ。やがて、ユーゴスラビアを終わらせた領土分割を象徴するように、大騒ぎをする人々を乗せたその小島は切り離されて漂流を始めるが、結婚式を口実に大騒ぎしている人々がそれを気にかけることもない。

 歴史的には、多民族国家ユーゴスラビアは悲劇的な分裂を遂げた。しかし、そのような政治的民俗的分断を、こうまで朗らかに越えて、生の讃歌を踊りながら歌い上げられる映画は、他に類を見ない。十字架を周回する炎上車椅子のモチーフに引っ掛けていえば、反キリスト教の立場から、ニーチェ的な「生の肯定」を描いた「超人」的映画だと言えそうだ。 

そんな「ユーゴスラビアの美しい姿」は過去か虚構の中にしかないって? そうだろうか。多民族との共生を謳ったユーゴスラビアは、まだサイバー空間上に生きている。

Cyber Yugoslavia

歴史と和解

歴史と和解

 

 復讐や怨恨や憎悪や怒りは、右脳由来の自然発生的な感情だ。これらの感情の対義語が何だかおわかりだろうか? それは「和解」だ。

ところが、フィリップ・トゥルによれば、和解というものは、復讐や怨恨や憎悪や怒りなどの右脳由来の感情が、自分たちの共同体や「かつての敵」との未来志向の関係に、損害や混迷や無秩序をもたらしかねないと左脳的に学習して初めて実行できる行為だという。左脳的な論理操作の苦手な人は、和解すべき状況で和解するのに時間がかかることがある。

これまでの自分は、あたかも熱せられたフライパンの上で踊らされている犬のように感じることが何度もあった。その犬の立場に立って言うと、何か祝福すべき椿事がそこで起こっているなら、「アンダーグラウンド」のサントラの最後の曲(44:54 からの「Sheva」)の間くらいは、つまりはあと5分くらいなら、踊りつづけてもかまわないような気がしている。

検索しても意味の判然としない曲名の「Sheva」が、バシャールの唱える「勇気をもって進め!」を表す古代の言葉 Shivai に由来するように感じられてならないから。