この国の明日へ、手紙をください

カニレターの届いていない郵便受けなんて、シナモンの入っていないアップルパイのようなものだ。 

確かイギリスの小説にそんな一節があったような気もするが、気のせいかもしれない。手紙でなくとも、ある程度意思疎通ができれば、相手の心が未知数に思えて不安になってしまう「x の悲劇」は避けられるし、形のないものが確かにここにあると信じて歩いていくのが人生だろう。

 悲劇といえば悲劇的世代としてよく引き合いに出されるのが、自分の属する団塊ジュニア世代。この国で最も子供の数が多く、最も受験競争が激しく、大学卒業直前にバブルがはじけて就職氷河期に突入した不幸きわまりない世代ともされる。しかし、自分はその世代の特性ともされる性格類型や消費行動類型の典型に合致しないし、人数だけはやたら多い自分らの世代をターゲットとした広告を見せつけられると、頼むから放っておいてくれないかな、と感じないでもない。

OK。正直に書こう。この直前の言い回しは、下記の小説からの借用で、世代論的受け止めのせいで、どこか過小評価されてしまったのでは?と感じさせる小説から、記憶だけで引用したつもり。 

ジェネレーションX―加速された文化のための物語たち (角川文庫)

ジェネレーションX―加速された文化のための物語たち (角川文庫)

 

世代はしばしば10年毎に区切られるが、このクープランドの処女作には、そういった世代論を楽々と超越した詩的な細部の横溢に魅力があった。手元に文庫はないので記憶だけで引用するが、若者たちが集まって「もし地球上の自分の記憶の中で、1つだけあの世へ持っていけるとしたら、どんな記憶を持っていく?」という話題について語り合う場面も印象的で詩的だった。ある登場人物は「雪」だと言う。あなたなら、どんな記憶を持っていくだろうか。世代論なんか軽く越えた深みのある哲学的問題提起だと、今でも思う。

もう一つ憶えている挿話があって、人は誰もが「内なる手紙」を持って生まれてくるが、人生が終わるまでにその「内なる手紙」を読むことはほぼ不可能で、それでもその手紙に返信を書かなくてはならないという話。手元に本がないので、私の潤色が入っているかもしれないが、日本通のクープランドは、或る日本人社長との実体験に基づいていると思われる挿話を披露していたと思う。

職階が低いのに、外国人であるからという理由で、(クープランドに近い存在の)主人公が社長に社長室へ誘われた。「大切なものを見せたい」ということらしい。社長室に入ると、社長は金庫の中から、ある煽情的な写真を取り出した。マリリン・モンローがスカートの下に下着をつけないまま、例の地下鉄から地上の通風孔へ吹き上げてくる突風にスカートを煽らせたところを、ローアングルで撮った写真。写真が不鮮明なので、機微ある女性の一部は「スペードの黒のように真っ黒だった」と作者は書いていたと思う。そんなパパラッチ写真が「内なる手紙」への返信だなんて絶対に間違っていると激怒して、主人公は社長室から踵を返す。外国人がなぜ怒ったのかがわからなくて、不安のあまりその社長が、社長室を出た主人公をひょこひょこと追いかけてくるという描写がやけにリアルだったので、たぶんクープランドが体験した実話なのだろう。

 と、ここで種明かしすると、「悲劇といえば悲劇的世代として…」からこの段落の直前までは、3月11日に書いた封印中の前ブログの記事。手元に文庫本を用意できたので、自分の記憶力の「答え合わせ」をしてみたい。

 手を入れて取り出したものは、距離のあるぼくから見ても、何なのかわかった。写真だ――一九五〇年代のモノクロ写真で、犯行現場を撮影したものみたいなもの。ミスタ・タカミチがその謎の写真に眼をやって、溜め息をつく。それから、ひっくりかえすと、「これがわたしの、いちばん貴重な品だ」という意味に息を吐きながら、ぼくに手渡してくれ、ぼくは、正直に言うけど、それが何なのかにショックを受けた。

 マリリン・モンローの写真だった。チェッカー・キャブに乗りこむところで、ドレスを持ち上げ、下着なしで、カメラマンに投げキスをしている。そのカメラマンが、恐らくは、記者時代のミスタ・タカミチなのだろう。公然とセクシャルな、真正面からの写真で(いやらしい想像にふけらなくていいよ――教えてやる、スペードのエースみたいに真っ黒)、ひどく嘲るようだった。それを見ながら、ぼくは、無表情にこちらの反応を待っているミスタ・タカミチに『おや、おや』とか何とか、くだらないことを言ったけれど、実は心の中では、ひどく無念だった。こんな写真が――本質的には単なる下品なパパラッツィ写真だし、それを言うなら掲載可能ですらない――いちばん貴重な持ち物だなんて。

 そこで、ぼくには抑えきれない反応が起きてしまった。耳に血が昇り、心臓がどきどきする。汗が吹き出し、詩人リルケの言葉が浮かんできた――我々はみんな、一通の手紙を内にもって生まれ、自分自身に忠実である場合だけ、死ぬ前にそれを読ませてもらえる、という考え方だ。耳で燃えるような血がこう言うんだ。ミスタ・タカミチは、どこかで金庫の中のモンロー写真を自分の内なる手紙と間違えたし、ぼく自身も、何か似たような間違いを冒す危険にさらされているって。 

 このあと、怒りに追い立てられるように「ぼく」が社長室を辞去すると、どう対処していいかわからない社長が「ぼく」についてくるときの「ひょこひょこ」というオノマトペまで同じだった。20年前に読んでいた小説をここまで覚えているのなら、記憶力はまだ大丈夫だ。仕事をしなければ。ざっと再読したところ、作者のアート好きで性的マイノリティで文化社会学好きで宗教的感性の持ち主であるところが、よく出ている小説だと感じた。

 「内なる手紙」のような宗教的とも存在論的とも言えるモチーフは、まとめてエピファニー的だとまとめるとわかりやすいと思う。

20代の頃、小説を書くならこの本を読むべきだと勧められた。 自分も同じ立場の人に教科書として薦めたい名著だ。小説の様々な属性についての専門的な短いコラムが、新イギリスの新聞に連載されていたことに驚くが、それこそ、あとがきで訳者が言及しているイギリスの「ハイカルチャー愛」のなせる業なのかもしれない。

小説の技巧

小説の技巧

 

 しかし、エピファニーの項目に限っては不満が残る。というより、その定義が少しずれていはしないか。

カトリック背教者ジェイムズ・ジョイスにとって、作家という天職は司祭職の俗世版のようなものだったから、エピファニーという言葉にしてもジョイスは、ありふれた出来事や思いが、作家が技巧を駆使することによって時を越えた美を帯びるに至る過程を言い表すのに用いた。

 20世紀最大の小説は、ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』とプルースト失われた時を求めて』だ。イギリス人のジョイス愛に理解がないわけではないが、上記のような「異化」そのものの説明に「エピファニー」をあてるのは、ジョイスが頻繁に言及した幅広い「エピファニー」のうち、貧しい部分によってそれを代表させたとの批判を免れることは難しい。エピファニーに当てられるべき「顕現」という訳語を確認した上で、この文脈ではドイツのベンヤミンを招来するのが正しいのではないだろうか。 

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

 

 上記の著作をまとめたブログに、参照すべき文脈が見つかる。そこでは、ジョイス的な「存在のエピファニー」の発展形として、ベンヤミンアドルノ的な「間空間的エピファニー」やプルースト的な「間時間的エピファニー」が措定されている。

存在のエピファニーの特性は以下の3つにまとめることができる。(1) ある現実についてそれが何であるかを示し、(2) その何かとはあるものの表現であり、(3) そのあるものとは紛れもなくよい道徳的源泉である(p. 535)。構成的エピファニーは(2)を否定した(…)

エピファニーの発生源はがジョイスのいう「物自体」ではないなら、何になるのだろう。

・間空間的ないし構成的エピファニーと20世紀の芸術的実践の間に見られる並行関係の例としてテオドール・アドルノを挙げることができる。アドルノは近代芸術を、統一性という抑圧的全体性に抗うものとして捉えた。「和解が私たちから逃れるのは、普遍的な概念が常に、個別的なものの現実の一部を見せないようにしているからである」(p.534)。しかしモダニストたちは、私たちが事物を把握すること―すなわち「名づけること」―に対して、かつてのロマン主義者が夢想したような楽観的な態度を取ることはもはやできない。だが、事物を布置の中にはめ込むことはできる。これが間空間的エピファニーの一形態となる。「その諸要素はそれらが指示するものを表現しはしない。それら諸要素はある空間を構成し、さもなければ無限に隔たっているであろうものを近くへともち来たらすのである」(p.534)。

(強調は当ブログへの引用者による)

平たく言えば、ベンヤミンアドルノ的な「間空間的エピファニー」とは、本来なら関連がありえない物同士(地上から見る星は、遠近法の働かない視覚上どれほど近接していても、その星と星との間には、実際は気の遠くなるような距離がある)のあいだに、つかのまの「星座線」を引くことによって、「世界はそうなっているのかもしれない」という脱日常的な「顕現」の感覚を得ることなのである。

事実、ジョイス自身も『フィネガンズ・ウェイク』でそのような「間空間的エピファニー」の最高度の現出に成功しており、そもそも、作家が作品に対して神の位置をもって日常世界への alternative を提出している以上、あるいは、その創造過程において自己統御可能な自意識以上の何かにしばしば浸潤される以上、ベンヤミン的な「間空間的」、プルースト的な「間時間的な」エピファニーにコミットせざるをえないことは自明なのだが、ジョイスを貧しくしか読まないと、教科書のような名著でも、しくじってしまうことはあるのだろう。

 そのしくじりを「教科書」として再設定して、ページをめくりつつ、広い対象に新たな正典であるかのように再説することもできなくはないが、どこまでがロッジ個人のしくじりだったのかは、大いに時代や状況に依存していて不分明だ。アドラー的冷静さで誰が負うべき罪であるかを正確に線引きしていけば、私見では、当代随一の小説技法概説書を出版できる「光輝さ」(ジョイス)を備えた人物が、そのしくじりを自分の責任として引き受けるべき部分はほとんどないし、ましてや線の向こう側にあるものすべてを自分の責任であるかのように俯きつつ内面化する必要なんて、さらさらないと考える。It's not your fault.

真の意味で私たちが失敗したとしたら、それはマリリン・モンローの失い方であったかもしれない。 

同じく、ダイアナ妃も悲しい形で失わなければならなかった。

いずれのケースも、諜報組織の工作員が、死に瀕したことで最低限の良心を取り戻し、倫理的に許されない反社会的行為の告白へ至った暗殺事件だった。

死に瀕したと言えば、同じような「裏真実」を告白した書物を世に問うて、ヨーロッパに一大センセーションを巻き起こしたジャーナリストもいた。心臓病の持病を持ち、子供を持っていないことが、生命を賭けた告発へと彼を後押ししたのだという。

“ドイツ政治家はアメリカ傀儡”ドイツ人ジャーナリストはアメリカ支持記事を書くよう強いられている ウド・ウルフコッテ + 12月5日に東京で大地震を起こす計画? + ウクライナ原発[事故」 | 続 さてはてメモ帳 Imagine and Think!

下記の記事でこう書いた。

  • 大国と従属関係にあった国が、どうやって不平等条約を解消したのか。
  • アメリカの軍事支配を受けていた国が、どうやってそこから脱却したのか。
  • 自国の独裁政権を倒した人たちは、そのときどのような戦略を立てていたのか。

上記の3つの箇条書きは、確かに正しい道筋だと思うが、何か知恵を出してくれ、と言われた気がして、対米自立型保守の立場から個人的に二つのアイディアを考えてみた。今日のところで思いついたのは、二つ。①工作員遮断集団による出口調査の実施と、②フリージャーナリストによる Dying Messageの取材だ。

エラリー・クイーンの『Xの悲劇』は、殺害された被害者の Dying Message を解読して、真犯人逮捕へ至る推理小説だった。

上記の三例のように、死期が近づいてきたことで良心を取り戻し、存命でありながらも世界を動かす Dying Message を発することのできる人々がいる。

そのわずかな、しかし、きわめて貴重な証言を発掘できる可能性に賭けて、草の根のフリージャーナリストたちが駆け回るような社会は、どれほど絶望の色に染め上げられていようと、まだ希望の残っている社会だと言えるかもしれない。

拝啓 中曽根康弘 様

 

日航123便墜落事故の真相を「墓場へもって」いかず、「戦後政治の生き証人」として、この国の明日を生きる国民へ宛てて、真実の手紙をお届けいただけないでしょうか?

 

 RAPT | JAL123便墜落事故の真実を「墓場まで持っていく」と言った中曽根康弘こそ、JAL123便撃墜の首謀者ではないのか。

元気でいますか。
大事な人はできましたか。
いつか夢は叶いますか。
この道の先で

 

覚えていますか
揺れる麦の穂 あの夕映
地平線 続く空を探し続けていた

 

明日を描こうともがきながら
今夢の中へ
形ないものの輝きを
そっとそっと抱きしめて
進むの

 

笑っていますか
あの日のように無邪気な目で
寒い夜も雨の朝もきっとあったでしょう

 

ふるさとの街は帰る場所ならここにあると
いつだって変わらずに あなたを待っている

 

明日を描くことを止めないで
今夢の中へ
大切な人のぬくもりを
ずっとずっと忘れずに
進むの

 

人は迷いながら揺れながら
歩いてゆく
二度とない時の輝きを
見つめていたい

 

明日を描こうともがきながら
今夢の中で
形ないものの輝きを
そっとそっと抱きしめて
進むの