玻璃ヶ浦に今は漕ぎ出でな

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

この熟田津とは、松山市道後温泉あたりにあった港だと言われている。現在の地図でいうと、海岸線から5km以上離れた山の麓の地点になる。山に港? 道後温泉の地に港があったと言われると、地元民としてはささやかな違和感を感じてしまう。

しかし、国文好き女子4人組は、解釈の平易なこの和歌自体にささやかな違和感を感じたらしく、「なぜ危険きわまりない夜に漕ぎ出すのか?」という問いを立てて、解読にいそしんでいた。昔に読んだ本なので記憶が正確か自信はないが、潮だけでなく月も待つのは、(航海の安全を期すのなら昼間に船を出せばよいだけの話なので)、月夜だけにできる行事を海上で行っていたはずだと論を進めていたはず。 

額田王の暗号 (新潮文庫)

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 万葉集に収録されている歌なので、奈良時代仏教の影響が濃かった天平文化の時代に、月夜の海上でできた行事と言えば……?

国文好き女子4人組は、それは死者との交霊ではないかという推論を立てていたはずで、その根拠になったのが、瀬戸内の海の上に出た月が、凪の波間に敷く一条の揺れやまない月光の道を死者が行き来すると信じていたからではないか、と結論付けていたように記憶する。その信憑性はよくわからないが、興趣をそそる解釈だと思う。死者と語らう万葉集は、正統的な純文学だったとも言えるというわけだ。

 純文学に娯楽小説を対置させるとすると、後者の英訳は Pulp Fiction こそが相応しいのではないだろうか。

パルプ・フィクション [Blu-ray]

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 同名のタランティーノの映画は有名だが、実は Pulp Magazine と呼ばれる戦前の大衆雑誌の浸透力と異種交配能力はとても高かった。粗悪な紙に印刷されたあの大衆小説のごった煮から、ヒーロー物が生まれ、SFが生まれ、ハード・ボイルドが生まれたのである。 

 というわけで、今晩は純文学と大衆小説の間にあるものは何なのかを、私流に考えていきたい。 

未完の平成文学史: 文芸記者が見た文壇30年

未完の平成文学史: 文芸記者が見た文壇30年

 

 純文学とエンターテイメント小説の双方を手掛けてきた新聞記者は、両者の間に本質的な区別があると語る。(自分には明文化したり規範化したりできる区別があるようには思えない)。

ただ、区別はあるのに、両者のクロスオーバ―現象は顕著で、それは①エンタメ系作家の問題意識が深化してきたこと、②純文学系の作家によるエンターテイメント参入、③新聞小説への純文学系作家の侵入がエンタメ系作家に刺激を与えていること、などが理由に挙げられるのだそうだ。自分は②にしか目が行っていなかったが、高村薫桐野夏生角田光代などの実例を挙げられると、確かにその通りだと感じられる。

 おっと、ここで年少の友人たちから、甘いものを差し入れしてほしいとの要望が届いたようだ。感じられる糖度の高低はあるにせよ、これまで毎晩欠かしたことはないつもりでいるが、OK。今晩も記事の結びまでには必ず差し入れようと思う。

さて、純文学とエンタメ小説の間にあるものが何かをあらためて問い直すと、それは映画になるかならないかがひとつの指標になると思う。

ここで言及した四方田犬彦が、村上春樹の小説の映画化について、面白い評論を書いている。

  村上春樹は初期に若手監督数人に映画化の許可を出して以来、16年ほど映画化の申し出を拒みつづけていたのだそうだ。その拒み具合の頑なさが大江健三郎に似ていると書いていたので、問いはこんな風に変容してしまった「 純文学とは映画化を拒むものなのか?」。

しかし、1988年には「(敬愛するという)キューブリックが依頼してきても断る」と言った『ノルウェイの森』の映画化を、村上春樹ゼロ年代に入って許可を出した。 

どんな状況の変化、心境の変化があったのかは寡聞にして知らないが、「純文学が映画化を拒むに足るジャンル上の理由はない」というのが私見だ。というか、自分はむしろ逆ではないかと考えている。 

キットラーと並ぶ世界的なメディア論者のノルベルト・ボルツは、刺激的な書名で「文学たち」の安住の地が「終焉」すると挑発している。先頃「近代文学の終わり」が宣告されたとも聞くが、「終わり」の最大の理由は表現物の他メディア移行であるにちがいない。ネット上に氾濫する夥しい「私小説」の群れ、他メディアへの夥しい才能の流出、文学を支えるべき下部構造たる「資本」の弱体化…

このような文学を取り巻くメディア状況にまなざしを一巡させた後、再びメディウム・スペシフィックという概念に立ち戻ったとき、「ボルヘス再び」を合言葉に「小説という媒体にしかできないこと」へと尖鋭化していく方向には、敬意を払いつつも、多くの賭金を置くのをためらう自分がいる。

ボルツがドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』をハイパーテクストで書かれた最初の哲学書の古典と絶賛しているので、ドゥルーズ風に言おう。純文学的書物というメディアが求めるものと、隣接メディアが欲望するものとへ、同時に誘惑されうる接続機械に擬態すること。ひとことで言えば、小説が「純文学らしくかつ filmogenic であること」。それを企図するのはそれほど難しくないし、衰弱している純文学が生の飛躍(エラン・ヴィタール)を踏み切る方向は、そちらしかないように思われる。

もう一段階段を昇ったところから言うと、純文学であれ何であれ、一定以上の強度を持った欲望なら、自らを変貌させつつ或るメディアから他メディアへ飛躍することは難しくない。待たれているのは、「見るまえに跳べ」的強度の命がけの跳躍。それだけだろう。  

 そういえば、少し前までこんな文体で書いていた、と自分を懐かしくさせる文章だが、書いてある内容に変更したいところはない。付け加えたいことが二つある。

一つ目。

「純文学的書物というメディアが求めるものと、隣接メディアが欲望するものとへ、同時に誘惑されうる接続機械に擬態すること」を、例示してわかりやすく説明しておきたい。

或る種の蘭には、雌のハチの姿そっくりの花弁を持つものがある。

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オフリス属の花を詳しく観察すると、花被片(花弁)の1枚だが、ほかとは形態が著しく異なる唇弁があり、それが雌のハチの後ろ姿にそっくりなのだ。種によっては、繊毛や曲がった脚、玉虫色に輝く羽の様子までを再現し、ハチが緑色の花に頭を埋めているように見えるものまである。策略を確かなものにするため、雌が分泌するフェロモンによく似た匂いまで発するという周到ぶりだ。

蘭とスズメバチは、ドゥルーズが頻繁に引用する生成変化の実例だ。蜂の「メスの蜂と交尾する」欲望と混じり合うために、蘭は花弁をメスの蜂の姿に擬態させて、自らの送粉という生殖を果たす。ここでは本来遺伝的にまったく別の系統にある存在が、双方の生殖の欲望を二重化させることで、新たな生成変化を生んでいるのだ。純文学と映画の間に、その種の生成変化があってはならないという法はないだろう。

二つ目。

「純文学であれ何であれ、一定以上の強度を持った欲望なら、自らを変貌させつつ或るメディアから他メディアへ飛躍することは難しくない」と書いた部分の、「強度」という概念を説明しておきたい。この「強度」は10段階評価の7などという具合に数直線上で測定可能なものではない。強度にある入力が加わるとすぐさま差異化してしまうような「変化の潜在可能性」だ。したがって「一定以上の強度を持った欲望」とは、社会の動的なシステムやメカニズムの中で、次々に差異を生み出しながら変転してゆく何ものかを指していることになる。簡単な話。メディア論上のドラスティックな変化が社会に起これば、純文学にだって劇的な変化が起こらないと、「反ー動的」な遺物として、過去の物になるだけだと思う。

そして、ここでいう「強度ある欲望」とは、決して対自的ではなく対他的で、決して単数的ではなく複数的であることも重要だ。

何の話をしていたのだったろう。そうだった。純文学系熟田津舟遊び+エンタメ小説+映画化=? という話だっただろうか。

上の記事の最後で、日本を代表する俳優が主演した名画と同名のビートルズの曲を引用した時から、たぶんいつかこの話をするのではないかと感じていた。伊坂幸太郎東野圭吾は、映画経由で密かに自分が注目を寄せている作家だ。

式に式を返すようで恐縮だが、上記の「純文学系熟田津舟遊び+エンタメ小説+映画化=?」という式に暫定的な答えを書きつけるとすると『真夏の方程式』になる。 

真夏の方程式 (文春文庫)

真夏の方程式 (文春文庫)

 

1:49で「一生の秘密よ」と母が囁いたあと、犯罪を犯した娘の涙に濡れた憔悴した肖像が水没して、美しい青の海の中を、彼女の伸びやかな肢体が自由に泳ぎ回るさまが美しい。この映画に出てくる「環境保全運動」は、正確には、故郷の海を守ろうとする環境運動ではなく、あのように美しい海を泳ぎ回る若い娘の自由を守ろうとする運動だったのだ。例えば、このような娯楽作品が内包する質の高さと圧倒的な人気の本線の縦糸たちを、同時に純文学的な何ものかの横糸とともに織りなすことは、自分には充分に可能な予感がしている。 

キャプテンサンダーボルト

キャプテンサンダーボルト

 

映画の最後にさしかかったところで、自分は強い郷愁に襲われてしまった。「駅舎を出ると埠頭」と、ふと即興の詩句を呟きたくなるような海岸に隣接した駅のたたずまいに、少年時代の記憶を想起させられたせいだった。

少年時代、本籍地の舞鶴市へ船で帰省するときによく目にした駅舎。旅の予感に満たされた心は、さきほど呟いた即興の詩句に、こう続けてしまいそうになる。

玻璃ヶ浦に今は漕ぎ出でな

 

 

 

 

伊坂幸太郎原作映画の挿入歌。歌詞が心に響く。人を見る目があるとの自負をかけて断言しておくと、この藤木一恵という新人女性アーティストは、きっと女優としても大成するにちがいない)。

こぼれ落ちたのは
涙じゃなく祈る声
見上げていたのは
雲の上の太陽


眠るように生きていた
いつも孤独だった
君に出会うその日までは
ずっとずっとここで


ひとりでも歌える
愛の歌があるとしても
ひとりでは探せない
両手に触れたこの温もり

 

仮面を纏えば
忘れられる気がしてた
記憶をしまった
箱に鍵をかけて

あんな暗い場所でさえ
君を見つけ出せた
戻ることができなくても
もっともっと遠く


ひとりきり覚えた
愛の歌があるとしても
ひとりでは届かない
ドアの向こうで待つ明日へ
ここからもう一度歩き出す with you...


悲しみを優しさに
変えてみせるから
いつかは必ず
本当の自分を許せたら
痛みも消えてく きっと


ひとりでも歌える
愛の歌はもういらない
ひとりでは探せない
陽だまりのようなこの温もり
君となら探せる
たことのない明日を