沈下後の夜の Milkyway

ドリトル先生月へゆく (岩波少年文庫―ドリトル先生物語)

ドリトル先生月へゆく (岩波少年文庫―ドリトル先生物語)

 

 子供時代に読んだ「ドリトル先生」の名前が「do little」で、「ほとんど何もしない怠け者」を意味していたのを知ったときは、ちょっとショックだった。先生なのにほとんど何もしないなんて、大人として無責任なんじゃないだろうか。

それでも月へ行って帰ってくるとは、子供向けのお伽噺だな、と自分もまだ子供の時に感じていた。だいたい「little」は本場では「リル」って発音するんだから、まるでなっていないや。たぶん中学受験の準備のために、ピアノを習い始めた頃の感想だ。赤バイエルでは飽き足らず、片手だけで「エリーゼのために」を得意げに引いたりもしていたはず。大人ぶりたい年頃の小学校高学年の男の子は、ちょっと気が利いているつもりで、こんな悪口なんかも付け加えてしまう。「ミルキーはママの味」のキャンディーが恋しい子供向けの童話だな、とか。

  研修医として勤務したのが救急病院だったので、路彦は何度も患者の死亡に立ち会ったことがある。原因不明の昏睡状態で運ばれてきた50代の男性が、こちらが診断を下す間もなく息絶えていく間際、付き添った自分の手をきつく握りしめてきたことがあった。患者の意識はすでになかったはずなのに、瀕死の手は何を伝えようとして、あれほどきつく他人の手を握ったのだろう。手を離した後も、「最後の握手」の感覚はしつこく尾を引いた。出産直後の目も見えない赤ん坊には、鉄棒にぶら下がって自重を支えられるほどの握力がある。生きたいという生への執念は、手掌把握反射の形を取って現れるのかもしれない。

 上記の小説に書いたのは、実は脳外科医の弟から聞いた実体験だ。一方、赤ちゃんの握力がとても強いことは、よく知られているのではないだろうか。

生まれたての赤ん坊がどうしても拳を強く握って、指を開こうとしなかった。そんな逸話もよく耳にする。

上の記事で、人は皆「内なる手紙」とともに生まれ、自分自身に忠実である場合だけ、死ぬ前にそれを読ませてもらえる、というリルケの考え方を紹介した。

けれど、上記の動画を見ていると、赤ちゃんってこんなに小さいのか、どんな極小サイズの手紙も、持ち運んでいそうにないな、と感じてしまう。お伽噺としては、透明な小さな鍵(ちょっと格好良くいうと「リル・キー」)を手に握って生まれてくるという設定の方が面白い話になりそうだ。

通常、鍵は錠前と1対1の関係で、世界に1ペアしかないのが普通だ。

ところが、ヒロインの女の子が手にしているリル・キーは、小さな錠前ならたいていの引き出しが開いてしまう。自分向けでない間違った引き出しも、どんどん開けてしまう。でも、鍵も引き出しも極端に小さいので、引き出しの中身はちょっとしたメモが入っているだけのことがほとんどだ。

それらの小さなメモが彼女の未成年時代の人生を形作っていくことになる。

例えば、こんな文面のメモたち。

エリーゼのために」が存在したのは、きみとぼくとを救ったシンクロニシティ

 

ぼくを、友人たちを苦しめてしまったのを後悔して、きみがひと一倍頑張ってくれたのは知っているよ。

 

未成年のあいだで本当に良かった。殺すより生かすことの大切さを学んでくれてありがとう。

 

ぼくはきみの2倍以上の年齢だから大丈夫。きみの1/2倍以下の年齢の存在――つまりは、いつか生まれるきみの子供たちが、リル・キーを失くさずに世界から学びつづけられるように、しっかり見守ってあげて。きみ自身の「エリーゼたちのために」。

きっと、こういう文言が象徴する数々の経験を経て、主人公の女の子が成長していく童話になるのだと思う。けれど、こういう断片からだけで、物語を作り上げるのは難しいかもしれない。

自分が「エリーゼのために」の冒頭しか、片手の主旋律しか弾けないせいで、たどたどしい筋書きになってしまったようだ。そもそもこれは主人公の女の子が自由に生きて完成させる物語であり、自分が書き上げるべき話ではないのかもしれない。そんな気がしてきた。

ピアノと言えば、上の記事で引用したゲンスブールの不良中年ぶりは強烈な印象だった。グランド・ピアノにジェーン・バーキンを寝そべらせていたのが、無軌道なエロティシズムを感じさせ、しかもバーキンが恋する女性そのものの表情をしているのが、シャンソンの演奏というより、別のショーを見せられている感じだった。 

スワロウテイル

スワロウテイル

 

 グランド・ピアノを使った演出で言うと、話の筋はもうほとんど忘れてしまった『スワロウテイル』にも、独特の演出があったように記憶する。

グランド・ピアノの下で男女が抱擁した後、男が身体を起こしたとき、頭をグランド・ピアノの底面にしたたかにぶつけて、男が呻き、振動でグランド・ピアノが響きを立てる。その残響の音作りが上手かったので、さすがは岩井俊二だと感服した。

 その映像美には手放しの賛辞を送りつつ、脚本にはいくつか注文を付けたくなる。そんなレビューの数が多いので、その辺りが平均的な反応だと言えるかもしれない。

ただ、「円都yen town」という大々的なネーミングで、「基軸通貨戦争」を主題化する社会経済的批評精神を持った邦画は、他に見当たらないのではないだろうか。  

基軸通貨であることの旨味(シニョレッジなど)にアメリカの富の源泉があるので、イラク戦争フセイン大統領が抹殺されたのは、大量破壊兵器の有無ではなく、オイルマネーの決済をドルからユーロに代えたせいだったことにも、どこかで言及した。

 「世界通貨」の地位を獲得することが、どれほどの「不労繁栄」につながるかについては、この記事が詳しい。

 このドル基軸通貨体制こそ、アメリカが第二次大戦の戦勝によって獲得した最大の利権に他ならない。

 本来、ドル紙幣とはアメリカのFRBが発行する自国紙幣にすぎない。だが、アメリカの国璽が印刷された紙がそのまま事実上の「世界通貨」としても通用する。これによって、アメリカは印刷機を回すだけで、海外から天然資源や工業製品を購入することができる。

 アメリカ以外の国は汗水垂らして外貨を稼がないと徐々に貧乏になっていくが、アメリカは事実上、貿易赤字が存在しないに等しいので、必ずしも外貨を稼がなくてよい。

 毎年、巨額の財政赤字貿易赤字を計上しながらも、3億のアメリカ人たちが先進国として比較的豊かな生活を享受できるのは、このような基軸通貨特権のおかげに他ならない。 

円の流通圏の拡大を描いた『スワロウテイル』が公開されたのは1996年。すでに「失われた20年」は始まっていた。日本はどこで間違った曲がり角を曲がってしまったのか。

吉川元忠の説明は、例によって明快だ。

 日本は一九八〇年代に入って、経常収支の黒字基調が定着した。対外債権国への道である。このような場合、かつての十九世紀ビクトリア朝のイギリスがそうであったように、対外債権は基本的に自国通貨、つまりは円建てで持つのが一般的である。ところが日本の場合、具体的には大蔵(現財務)省が相手国通貨、つまりドル建てで持つとしたのは実に運命的な決定であった。  

円がドルに呑み込まれる日

円がドルに呑み込まれる日

 

 この経済書は10年以上前に書かれたものだが、「マネーの対米献上は果てしなく」と題された三章の冒頭も、「先見の明」に満ちていてとても良い。

 アメリカはプラザ合意以降、ドルの問題を円の問題にすり替えてきた。日本経済が輸出依存で円建て経済の仕組みをつくれなかった結果、ドルの維持が日本の死活問題でもあることを見すかし、ドル安になるたびに日本に金融緩和を要求、カネを引き出そうとしてきた。

 そのためには日本は円高では困るだろうとしての「非不胎化介入」や、日本はデフレに対処せよとする「インフレ目標」など、耳まれない政策手段が主張された。そして実際にはこれらの影響もあり、日銀は公定歩合を相次いで引き下げ、もはや金利では緩和の余地がなくなると、「量的緩和」として日銀当座預金残高の目標を引き上げていった。そして今後は、こうした超緩和の「出口」が厳しく問題となる。

 繰り返すが、これが書かれたのは2005年だ。

 2017年現在、大規模な金融緩和によって、2年で2%の物価上昇が起こると聞かされてきたのに、4年経っても物価の上昇がほとんど起こっていないことを知っている。

大規模金融緩和が日本経済に寄与するどころか、経済通の間では逆に悪影響を与えているという分析が出ている。 

同じ預金封鎖関連本を執筆した石角完爾は、貨幣乗数アベノミクスによって7~8からあべこべに3に減少したことに注目して、アベノミクスが国内の市中に潤沢に資金供給するどころか、むしろ民間にマネーが出回らなくなったと述べている。「サギノミクス」とは、言い得て妙だというわけだ。  

預金封鎖

預金封鎖

 

そして、大規模金融緩和からの「出口戦略」が不在であり、暴発のリスク(テーパー・タントラム)ばかりが高まっていることも、ここに書いた。

吉川元忠のいう「マネーの対米献上」も「出口の厳しさ」も、あまりにも的中しすぎていて言葉を失ってしまう。さほど多く経済学の専門用語を駆使しているわけでもなく、誰にでも読める明晰さで書いているのに、十数年前の吉川元忠の言説が現在の日本の経済状況をほとんど言い当てているのは、経済における政治性への嗅覚と分析力が、ずば抜けていたからだろう。

あれから十数年が経ち、「出口戦略」のリスクを国会で追及する元「伝説のディーラー」が上記のように警鐘を鳴らしつづけていることもあって、政権与党内でも、どんな異常事態が進行しているのかについて、多少の関心が現れたようだ。尤も、日銀に軽く無視されただけではあったが。 

日銀は来年度に2%になるとの物価見通しを示すが、目標達成時期の見通しは4年間で5度も先送りした「前科」があるため、今やそれを信じる人は皆無に近い。

(…)

出口論が熱を帯びてきたのは、与党内から説明を求める声が上がったのがきっかけだ。自民党行政改革推進本部(本部長=河野太郎・元行革担当相)が4月に首相官邸に出した提言が、こう警鐘を鳴らしたのだ。

 <出口に直面した際、日銀は毎年数兆円規模の損失が発生すると指摘される。損失が想定外に拡大してしまうと、いよいよ日銀は債務超過に陥る。財政も影響を受ける可能性がある> 

管見では、日銀を債務超過にしない方法が一つだけある。それは政府紙幣の発行だ。

きわめて簡単な政策であり、混乱も少ない。現在の日本銀行券と併用可能にして、無数の自販機などの紙幣機械の改良を迫るような混乱誘発的な導入ではなく、発行した巨額政府紙幣を、丹羽春喜の主張するように、ポンと日銀に売却すれば良いだけである。日銀券と違って政府負債勘定に入らないのだから、現行の事実上の財政ファイナンス(買いオペ)よりも、国民負担となりうる可能性には0:100くらいの雲泥の差がある。調べれば、数時間でわかることだ。

なぜ、自滅的政策が維持されるのか? それは、かつて政府紙幣を「円天のようなもの」と貶めて見せた現副総理の言動が如実に示しているように、1%側のグローバリストたちが、金融大混乱を通じて、99%の側の民衆から財産を集中的に収奪するためだと考えるべきだろう。 

預金封鎖、通貨切り替え、重税の財産税。
これらは、敗戦直後に日本で実際に行われた財政インフレによる国家政策だった。事実、国民は国に身ぐるみ剥がれたのだ。

資産フライト先として、以前は現物のゴールドをお勧めした。ところが昨今、資産フライト先の選択肢が急速に増えている。ブロックチェーン技術を応用した数々の暗号通貨が、それだ。いま暗号通貨をめぐる情勢が、最も重要で最も先が読みにくい。

「円都yen town」は日本国外での仮想の円流通圏だった。しかし、今後の国家財政の急転により円が暴落し、日本人の資産フライトが相次いだあとのこの国では、あの虚構の映画のように、円が流通していた頃の日本自体が、哀切きわまりないノスタルジアの対象になるかもしれない。

四国山地を越えて、沈下橋がいくつもある四万十川に沿ってドライブしたことがある。清流や山も美しかったが、何よりも夜に見上げた星空が、すぐ間近にあるように感じられるほど、あまりにも綺麗で見惚れてしまった。

大雨や台風によって濁流に橋が沈下しても、やがて嵐がおさまったあとの夜空には、嵐の前と同じように星々が美しく輝いていることだろう。最近の日本ではほとんどみられなくなったという Milkyway だって見られるかもしれない。星が見えたら、お祈りをしなければ。

沈下したあとの夜、それぞれの大切なリル・キーを握りしめて、多くの人々の志がその星空のしたでつながることができますように。