「さ」と「み」の間に舞い降りた cosmic girl

もう少しダニエラの話を。プロのシンガーソングライターだから、あのプーチンより遥かに巧く歌いこなせるのはわかるにしても、Radioheadの「Creep」を、なぜこんな若い女の子がカバーしているのか。その辺りが疑問だった。リストを辿っていくと、グランジ・ロックの金字塔の曲までカバーしている。

その理由は… わかってしまった。まだ wikipedia にも掲載されていない彼女のことだ。情報がないので断言はできないにしても、ほぼ間違いないだろう。…きっと、彼女の両親が愛聴していたんだ!

ダニエラの両親が若かった頃、自分も若かった。時代は90年代初頭で、自分は大学生。仲の良かったイギリス帰りの友人がなぜか「欲望の街」六本木が大好きで、しぶしぶ連れられて遊びに行ったクラブで、必ずこの曲が大音量で鳴り響いていた。英詞を口ずさんでいると、英語を話せる日本人に見えるらしく、「(酒の値段が安い)ハッピーアワーは何時まで?」とよく外国人に話しかけられたものだ。職業不詳の外国人たちが出入りする六本木のクラブで、オールナイトでも一番元気だったのは、酒も煙草も平気で嗜む東京の高校生たち。大学生の自分はこう呟いたものだ。「俺も年を取ったな」。そんな思い出を、さらに四半世紀ほど年を取ってから想起して、またしても同じ台詞をいま呟いたところだ。

なぜこんな話をしたのか。踊らなきゃいけないダンスが一向に終わらないからだろうか。それとも、音楽を流していて、ピクッと体が先に反応したせいだっただろうか。あるいは、どこかで見かけたスポーツカーに触発されたのか。きっかけは忘れたが、同じ時期に流行していて、Nirvanaとは違って大好きだったあの曲のPVを思い出したのだった。

I must’ve died and gone to heaven
Cos it was quarter past eleven On a Saturday in 1999
Right across from where I’m standing
On the dance floor she was landing
It was clear that she was from another time
Like some baby Barbarella With the stars as her umbrella
She asked me if I’d like to magnetise
Do I have to go star-trekking
Cos it’s you I should be checking
So she lazer beamed me
with her cosmic eyes

逝ってしまって天国にいたのにちがいない
だって時は1999年土曜の11時15分
ぼくが立っているダンスフロアの向こうに彼女が降りてきた
彼女が未来からきたのは明らかだ
バーバレラみたいに星々を傘にして
夢中になりたくない?と訊いてきた
宇宙旅行に行こうってことだろう
きみのことをもっと理解しないといけないから
彼女は宇宙的な瞳でぼくの心を射抜いた

*She’s just a cosmic girl From another galaxy
My hearts at zero gravity She’s from a cosmic world
Putting me in ecstasy Transmitting on my frequency
She’s cosmic

* 彼女は別の銀河出身のトゥエル・ウル・コズミック・ガール 
ぼくの心はふわふわと無重力になる 宇宙からやって来た彼女が
ぼくの周波数にダイレクトに干渉して 恍惚した気持ちにさせる
彼女は宇宙的

(…)

何の話をしていたのだったか。それがわからなくなってしまったのは、この記事をメキシコの地下水路のセノーテで書き始めたのに、その地下水路で迷ってしまって、記事を水路で結ぶことができなかったからかもしれない。セノーテの水路に絡めて、「水脈」を「みお」と訓読みすることや、ラカン的な発想での「未央」という少女名についても考えてみたかった。しかし、息が続きそうにない。水路はまだ続いているようだから、息の続いているうちに、泳ぎ切らねば。

不正選挙阻止が、この国を救い出す最短にして最適の答えであることは疑いない。

 

皆さん、聞いてください! 現在の日本の選挙では、グローバリストたちの息のかかったムサシという企業だけが、計数機の数値を操作できる仕組みになっています!
これは、私がこの選挙で当選できるかどうかより、はるかに由々しき問題です! 私はこの選挙が終わったら、自分の当選落選の如何を問わず、必ず「当選無効訴訟」を提起します! 皆さんの清き一票に不正操作がなされていないかを必ず確認します!
私は浮動票は欲しくございません。ただ、どうか「反不正選挙」票を私に投じてください! 一緒に、まともな選挙ができる日本を取り戻しましょう!


こんな演説をぶつことのできる新進の政治家が現れたら、ひょっとしたら大きな追い風が吹くかもしれない。

 結末をこのように書いたが、この結末では充分に記事を結びきれていないことを、今朝の朝日新聞が教えてくれた。 

情報通は10月上旬までの日本の政治の流れを、半年以上前から知悉していた。外務省の情報部門出身で、名著『戦後史の正体』の著者である孫崎享が、貴重な情報を発信していてくれたからだ。その囀りの日付けは2017年3月11日。

 ところが、希望の党による「リベラル潰し」が大衆の反感を煽ってしまったので、シナリオAはシナリオBへと移行し、「野党が潰し合ったせいで連立与党が大勝利」というエンディングに書き換えられた可能性が濃厚となった。これが数日前の話。 すると早速、シナリオBに合わせた報道を大新聞が打ち出してきたのが今朝、という流れだ。ジャパン・ハンドラーたちは、本気で日本を戦争のできる国にしようとしている。

 私はこの選挙が終わったら、自分の当選落選の如何を問わず、必ず「当選無効訴訟」を提起します! 皆さんの清き一票に不正操作がなされていないかを必ず確認します!

政権与党以外の立候補者で、投票日以前にこの台詞を演説で叫んでおくことが、自分の選挙区での不正選挙を行わせないための、最大の抑止力になる。この「清き一票を守る訴え」は、選挙結果が出る前に叫んでおかないと、痛くもない腹を探られることになるので、演説での訴えは投票日以前でなければならない。いつ国民に訴えるの? 今でしょ!

ニュースが入った。

ここ数か月、毎日書いているこのブログの内容と、世の中の動きがシンクロすることが多い。加計学園獣医学部の設計図流出のときも驚いたが、

 つい先日書いたこの記事に似て、カズオ・イシグロが脚光を浴びて、それに福岡伸一が讃辞を送っているのをニュースショーで見かけると、不思議な気分になる。

そのうえで、「川端康成さんや大江健三郎さんに続く作家になれることを喜ばしく思います。ノーベル賞といえば村上春樹さんの名前が浮かび、申し訳ない気持ちになります」と述べました。

一説によると、カズオ・イシグロは「村上春樹の弟分」なのだとか。「フランスの村上春樹」のケースでもそうだった。1%グローバリストたちの君臨するこの世界で、世界的権威であるノーベル賞で、政治的思惑を排した規矩正しい透明な選考が行われていると思ったら、大間違いだ。 

 川村湊によれば、フランス人作家への順当な受賞ローテーションが5~6年で、日本人作家への順当なローテーションは約25年。ただし、その25年おきにめぐってくるのは「東アジア枠」らしい。中国や韓国の有力作家も加わってくるので、日本人作家の受賞ローテーションは短くても半世紀に一回くらいになると推定できそうだ。

いくらなんでもフランス文学と日本文学の間に、10倍の格差があるとまでは考えにくい。要するにここにあるのは、単なる人種差別的なアンフェアネス。たとえ文学的価値の観点からはモディ<ハルキであったとしても、ノーベル賞受賞の可能性はモディ>>>ハルキのままで、残念ながらそれは今後も変わりそうにない。
(…)
村上春樹エルサレム賞受賞時に、有名な「壁と卵」演説で、パレスチナ支持を暗に打ち出した。それだけでも可能性が薄まったところを、カタルーニャ賞受賞時のバルセロナでは、原発批判まで行った。普通に考えて、これはノーベル賞受賞の可能性がほとんどなくなってしまったと考えるべき状況だ。そして、当然のことながら、市民虐殺反対にせよ、反原発にせよ、それらのメッセージを多くの人々の心に届けることに成功した作家が、1%支配層の作為的権威や杜撰さに満ちた賞から遠ざけられることは、その小説を愛する人々にとって、誇るべきことなのだ。

(…)

毎年あの時期になると、ハルキストたちがカフェに群れ集ったりして、信奉者のノーベル賞受賞を、まるでモディリアーニ肖像画のように首を長くして待っている光景は、あまりフォトジェニックじゃないと思う。歴史を見よ。アレはこの国の人々が信じ込んでいるほど美味い酒ではない。愛する作家と同時代を生きることの幸福は、作家がぶちあたって対峙している壁が何であるかを共に見つめ、共に考えるという思考体験の中にしかないのではないだろうか。

 村上春樹が文学的実力がありながらノーベル賞受賞に至らない理由は、上記の記事にまとめて書いておいた。肩を落としているハルキストたちは、誇りのありかを見つけるべく、括目して読むべし。

実態を知らないままノーベル賞の権威を妄信している人々には、「ノーベル経済学賞」がこの世界には存在しないことも、この記事にまとめておいた。私が命名した「ヌーベル中央銀行賞」は戦略経済兵器なのだ。

臨時ニュースが二本入ったせいで、すっかり何の話をしているのかわからなくなった。論理的構成力に「弱さ」があるからだ、という批判が飛んできそうだ。実は、この14年間で論理運用能力が飛躍的に高まったのは間違いない。論理操作には絶対の自信があるが、現在の状況を鑑み、あえてそのようには書かないだけだ。書ける範囲内での「器用仕事ブリコラージュ」。

横光利一がこれを読んでいたら「それは、檻の中の理論である」と非難してきそうだが、もとよりこのブログは「檻々の歌」だ。昭和初期から飛んでくる批判は甘んじて受けることにして、今晩は「弱さ」について考えてみたい。

 別段、境界性人格障害とまではいかなくとも、幼少期の両親による愛情の偏向が、子供の性格形成に大きな影響を及ぼすという学説があり、愛着障害と呼ばれている。 幼少期に定着した「愛着スタイル」の影響力は甚大で、人によってはそれを「第二の遺伝子」と呼ぶほどだ。

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

 

いま読み終わった。この新書は文学好きには特別に美味しく感じられる。愛着障害の観察例として、作家の名前がオンパレードなのだ。圧巻は、四回の結婚とアルコール中毒と自殺で生涯を終えたヘミングウェイ、生後七か月で遺棄された泥棒常習者のジュネ、日本では、孤児の川端康成や、育ての親に養育された夏目漱石など。

愛着障害についてのケースをたどっていくと、すぐに気づかされるのは、作家や文学者に愛着障害を抱えた人が、異様なほどに多いということである。夏目漱石谷崎潤一郎川端康成太宰治三島由紀夫という日本文学を代表する面々が、一様に愛着の問題を抱えていたというのは、驚くべきことである。

(…)

彼らの行動や思考が、独創性や革新性をもたらすということは、彼らが「親という安全基地をもたない」ということと深く関係しているように思える。(…)愛着が不完全で、安全基地を持たない場合には、そこに縛られることがないので、まったく常識を超えた目で社会を見たり、物事を感じたり、発想することができやすい。

自分も実は… と語り出すと思ったかもしれないが、不幸な育てられ方をしたせいで愛着すたいるに偏りが、などという以前に、先天的に感受性がとても強い気質だったことの方が、人格形成には大きかったと思う。少年時代に抱えていたあれこれは、20代の疾風怒濤時代にすべて燃やし尽くしてしまった。

意外にも、今の40代の自分に残っているのは、どんなものにもメタモルフォーゼしてやろうとする、シャールの詩句「虹色に輝く汝の渇きを歌え」のような変幻自在志向のスピリットと、痛みを感じている相手からその痛みを感じ取って分有してしまう「もらい泣き」癖だ。

そういう意味では、例えば Radiohead の「Creep」にある愛着障害を濃厚に感じさせる「弱さ」にはひたすら泣けてしまう。愛する相手の挙動のうち、自分にとって不利益なもののすべてが、100%自分が悪いのだと自責してしまう考え癖を感じるのだ。虐待された子供が抱きがちな心理機制そのままだが、自分が幼少時に虐待を受けたという事実はない。曲のそこここにある痛みが、自分の痛みのように感じられるだけだ。愛して分かち合うべき「弱さ」。……

一方で、「弱さ」とは異なる「弱み」というものもある。「弱み」を握られないよう「弱み」を作らない生き方を選ぶか、「弱み」を「弱み」としない生き方を選ぶか、どちらかになりそうだ。失ってはならないも失わず、守りたいものを守りたいなら。

OK。偉そうなことを言える立場ではない気がする。世界有数のトップリーダーたちが、どれほど「弱み」を握られないよう鉄壁の生き方をしているか、確認していこう。

 ドイツのメルケル首相。 

アメリカのオバマ前大統領。

ミシェル・オバマ前大統領夫人。

ヒラリー・クリントンビル・クリントン元大統領夫妻。

あれあれ? 「弱み」を握られないよう鉄壁の守りをしているどころか、誰もがとんでもない「弱み」を握られているようにしか見えない。世界のトップで矢面に立って1%グローバリストたちの「傀儡」を務めるには、逆にとんでもない「弱み」を献上しなければならないのかもしれない。

「弱さ」と「弱み」。これらの「さ」と「み」の間には「さみしさ」しか感じられない。

気分を直したい。

同じ「さ」と「み」でも、「美しさ」と「慈しみ」では、その間にあるものはまったく異なるだろう。実は、この二つの単語は語源が同じだ。あの cosmic girl はきっと「美しさ」と「慈しみ」の間に舞い降りたのにちがいない。不意にそんな確信が生まれた。

彼女の名前を訊きそびれたので、彼女がどんな名前かを想像しながら、「さ」と「み」の間を一文字ずつ探っていくことにした。

「し」、茂雄・長嶋。偉人だが女性ではない。「す」、彼女はスージーではないような気がする。…そんな風に一文字ずつ考えているうちに、ベッドに横たわっていた腕と脚に満ちている水分が泡立ってきたような気がした。身体を走る水脈がしゅわしゅわと疲労を湛えて、睡眠の沼の中へ自分を引きずりこもうとしている。「せ」… もう誰も思い浮かばない。「さ」と「み」の間には、まだまだ文字が残っているのに。もう自分は目を閉じていて、鼻息が睡眠呼吸に変わってしまったことを微かな意識で感じた瞬間、全身の水脈が波打って、ピクっとミオクローヌスが身体を走り抜けた。どうやら今晩も何とか眠りにありつけたことに感謝しながら、自分の意識がふっと消えていくのを感じた。

不親切で冷淡でありながら奇跡をおこなうより
むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたい


マザー・テレサ 

 

 

 

 

 


(クラブで外国人に Happy hour が何時までかを訊かれたりしていた頃、この二人はアコギ一本を携えて、アメリカのFM曲周りをしていたはず)。