「エルメスでサンドイッチを」

 文芸映画としてはそれほど良い出来ではなかったと思う。それでも、カポーティーの『ティファニーで朝食を』が今でもとても人気のある映画なのは、オードリー・オードリー・オードリー! ひとえに彼女の美しさによるのだろう。ただし、ティファニーを宝飾店だとも知らず、満足に言葉も知らない最下層の映画ヒロインでいるには、オードリーは顔立ちや表情に気品がありすぎる。 

原作者のカポーティーは、ピンナップ・ガールあがりのマリリン・モンローをヒロインに熱望していたそうだ。マリリンは、ヌード写真が流出しても「お腹が空いていたのよ」と軽くかわした下層階級出身。大都会NYを彷徨う「kook(大人にならない子猫)」には、マリリンの方がふさわしかったかもしれない。

本作の原作者トルーマン・カポーティオードリー・ヘップバーンではなくマリリン・モンローにホリーを演じてほしいと思っていたそうです。


しかし、モンローの演技指導を担当していた“ポール・ストラスバーグ”がオファーを受けるべきではないとアドバイスしたため、モンローがホリーを演じることはありませんでした。

ティファニーで朝食を」食べたことはないが、「エルメスでサンドイッチを」食べたことならある。ちなみにこれまで自分は、エルメス・ブランドの何かを購入したことは一度もない。

 東京に住んでいたとき、よく遊びに行っていた町は、池袋と渋谷。日常的に立ち寄るのが池袋で、仲間と騒いだりお洒落を楽しんだりしたいときは渋谷だった。頻繁に池袋へ行っていたせいで、鬼子母神の抜け道で「彼」と遭遇したというわけ。

池袋で一番多く立ち寄ったのが、西武百貨店。芸術系の ART VIVANT を冷やかしてから、リブロ書店の好きな棚めぐりをしたあと、谷川俊太郎プロデュースの現代詩愛好家たちの聖地「ぽえむ・ぱろうる」という書店内数坪書店に立ち寄るのが、お決まりのコースだった。まさか全滅してしまったとは。

しばしば通っていたので、西武百貨店の店舗構造は熟知していた。愛車を駐車場の何階に停めても、どこを通り抜ければ最短かがわかっている感じ。当時乗っていた車種はイギリスのコメディアンと同じで、色はチャコールブラック。

7階だっただろうか。駐車場横のいつもはがらんとしていて何もない空間を通り抜けようとして扉を開けると、警備員に止められそうになった。普段なら誰もいない空間に人々が集まっている。警備員は私の身なりを見て、「失礼しました」と言って、通してくれた。当時の自分はなかなかのお洒落さんで、大してお金もないのに、いかにもハイ・ファッションの匂いのする服で身を包んでいた。警備員は勘違いしたらしかった。

いわくありげな間接照明で薄暗いムーディーな空間を見回すと、少し状況が呑み込めてきた。その集まりは、どうやら外商の金持ちのお客さんを集めたエルメスの感謝会のようだったのだ。エルメスの会社の誰かが壇上に上がって、ブランドの新規展開について話していた。急造で整えられたらしき立食パーティーの卓上には、サンドイッチやフルーツジュースが置かれている。そのまま立ち去ることはできかねた。許してほしい。お腹が空いていたのだ。 

困ったことに、自分を招き入れてしまった警備員がこちらを不審そうなまなざしで見ている。ぞくっとした。またしても迷い兎だ。そうするしかないと感じた。ごく自然な仕草で手を伸ばしてサンドイッチを頬ばり、隣に立っている化粧の行き届いた若い美人に「何か飲みますか」と話しかけた。女性にはおしとやかに断られたが、警備員は納得したらしい。彼は俯いた。

外商を使うような桁違いのお嬢様はやはり違うなと感じたのは、彼女がこちらを向いて微笑みつつも、ちらりと私の帽子のロゴに目を走らせたとき。私の黒の帽子には堂々と白く「agnes.b」と刺繍されていたのである。あ、早いな。そう思った。心の中で脱帽せざるをえなかった。

感謝会はほぼ終わりかけだったらしく、スーツの男性の挨拶が終わると、散会になった。卓上のサンドイッチは、ほとんど手つかずで残されていた。桁違いに裕福な女性たちは、高級レストランの卓上にあるもの以外は、口にしない習性があるのではないだろうか。

コツは両手を使うこと。例えば10本の丸めたおしぼりでも、両サイドに両手のひらを立てて中央へ向かってぐっと圧縮した上で、右手の親指を左側のおしぼりの端へ伸ばせば、10本くらいは片手でつかめるはず。

その要領で、サンドイッチを両手でぎゅっと圧縮して、右の親指を伸ばして、右手で10切れくらいつかむと、いかにも金持ちがそうするように鷹揚な足取りで歩いて、その場を出た。警備員はすでにいなかったので、誰にもバレていなかったと思う。

百貨店の屋上でいただいた「圧縮サンドイッチ」のおかげで、空腹は癒された。癒されたけれど、やけに喉が渇いてしかたなかったのを憶えている。たぶん、あれは心の渇きだったのだろう。どこかで何かの思いがけない弾みで「迷い兎」にならない限り、ああいう種族の隣には立てないのだというような絶対的な「遠さ」の感覚に、若かった頃の自分は渇いてしまったのだと思う。

昨晩深夜、過労で救急病院へ行ってしまった。調子が悪いので、話がうまくつながっている伝わっているかどうか自信がないが、読んでもらえるだろうか。読むよ。え、本当? ありがとう。どういたしまして。

もはや、誰と話をしているのかもわからない。サンドイッチは売っていないが、広島にある好きなパン屋「ブーランジェリー・ドリアン」の話をしたい。

ドリアンといっても、罰金額不明のまま、シンガポールの電車へ持ち込み禁止となっているあの果物とは関係ない。「de Rian」と綴るフランス語で「どういたしまして」という意味だ。

そこで、再スタートでは、日本で作られた、有機栽培、ビオの小麦を使ってパンを作ります。

 

普通の外国産小麦の4倍の値段。うちが以前使っていた国内産小麦の2倍の値段の小麦粉です。

 

でも、ここでまた重要なのは、いい素材の食べ物を日常的に食べることです。

 

特別なものではダメなのです。

だから、値段は以前と同じでだします。パン屋の普通のパンより安いくらいです。

普通にやっていたら不可能ですが、帰国してからの一ヶ月間、工場の設備の使い方を変えて、スタッフ配置を変えて、経理にもメスを入れて、なんとか、ちゃんと商売になるところまでこぎつけました。 

広島に二店舗の規模でありながら、全国的な有名店で、通販のパンはずっと数か月待ちの品切れ。「有機栽培小麦で美味しいパンを提供したい」という理想だけでは現実が回っていきにくいことまで、職人の店主はよく見えていて、「流通関係全体図」を鳥瞰した上で、経理も含めたすべての工程に「革新」を施している。そこがパンの美味しさ以上に素晴らしいと思う。  

賞味期限のウソ 食品ロスはなぜ生まれるのか (幻冬舎新書)
 

「流通関係全体図」の中には、当然のことながらパンの廃棄ロスも含まれる。

自社サイトには書かれていないものの、上の新書で、「de Rian」が廃棄ロスをしないパン屋であることに称賛の筆が及んでいたのは嬉しかった。この新書は、お気に入りのパン屋が掲載されていたからというのでは全然なく、とても読みどころの多い本だ。それらの興味深い情報については後述するとして、数年前に自分が会社勤務と並行しながら考えていた「ソーシャル・ビジネス」の青写真について、ここで思い出しておきたくなった。

  • ローカルな地産地消型の「こども食堂」のネットワークをつくる
  • ネットワーク上の各拠点に、デパッケージと調理とシェルターの機能を備える
  • このネットワークに地域スーパーや地域農家たちのロス食品を乗せる
  • このネットワークに各家庭からのロス食品や子供服などを乗せる 

会社勤務と並行しながら通っていた大学院では、 経済学部で相続税について修士論文を書いた。税法は無味乾燥なので、カリキュラムの許す限り、興味をそそられる異分野の授業をとった。記憶に残っているのは、「ソーシャル・ビジネス」と「自動車産業におけるイノベーション」。多忙だったので調査する暇はなかったが、授業中だけ真剣に考えて思いついたのが、上記のアイディアだった。自分のアイディアのポテンシャルはどれくらいだったのだろうか。答え合わせがドキドキだ。

1. デパッケージ

日本が欧米諸国に比べて食品ロスがかなり多い問題は、賞味期限の1/3ルールだとされることが多い。日本初のフードバンクで広報を務めたことのある上記新書の著者 井出留美はこの分野の第一人者になるのではないだろうか。この記事でも取材を受けている。

ここで悪者になっている暗黙の食品ルールを緩和しようという動きも、すでにあるようだ。

しかし、それも食品業界の一部で起こっているとしか言えないし、意識改革を啓発するだけでは、この商習慣はなかなか変わりそうにない。それは、例えばセブンイレブンの弁当の値引きが裁判沙汰になってしまうほどに、自社商品の価格維持を通じてブランド価値を守ることが、 企業の至上命題になっているからだ。利害は衝突している。

そのボトルネックを「なめらか」にするのは、企業名のついた包装やパッケージを外して食物を提供することだ。ロス食品は、人々が食べる食卓まで運ぶことができれば、完全に生きる。

ロス食品と「こども食堂」の相性の良さに注目しない手はない。 

子ども食堂をつくろう!  ── 人がつながる地域の居場所づくり

子ども食堂をつくろう! ── 人がつながる地域の居場所づくり

 

 2. ロジスティクス(物流)

ロス食品解消のもう一つのボトルネックは、物流の送料的時間的コストだろう。

遠方とのロス食品のやり取りは、それらを無料同然でもらい受けていても、輸送コストがかかる。送料だけでなく時間もコストとなり、生鮮食品が劣化しやすい。となると、輸送に1時間前後しかかからない地産地消型ネットワークが適正サイズで、そこをボランティアの軽トラックが回遊する図が思い浮かぶ

この地産地消型のネットワーク上では、食品会社やスーパーや農家などの「プロ」から降りてくる食物だけではなく、各家庭で余った食物や子供服やその他の不用品も流通させれば良いと思う。人々が各こども食堂に持ち寄れば、定期ネットワークがそれを回収して流通させる仕組みだ。要は、何らかのロジスティクス上の発想のブレイクスルーがないと、全体の循環がうまく回らないのだ。

 物流を伴ったロス食品の解消運動として、井出留美の『賞味期限のウソ』は、イギリスの「Stamp Out Hunger(貧困撲滅)」を例に挙げている。郵便配達のネットワークを使って、食べ物などを届けたり引き取ったりするサービスだ。日本では一部の生活協同組合が手掛けているらしい。 

フードバンクという挑戦――貧困と飽食のあいだで (岩波現代文庫)
 

 さて、答え合わせ代わりに、上記の本をいま買ってきて読んでみた。ちなみに、この本の印税はフードバンク活動に寄付されるそうだ。自分が数年前に大学院の授業のあいだにぼんやり考えていたことが、結構当たっていて嬉しかった。

例えば、1.のデパッケージについては、企業のロス食品提供担当者が一番恐れていることが、自社商品のダンピング提供によるブランドイメージの失墜であることが確認できた。スイスにあるようなカリタス・マーケット(生活困窮者専用のス―パー)などの可能性が取り沙汰されているのも、提供側企業のイメージ保護を意図してのことだろう。日本のフードバンクの草分けの「セカンド・ハーベスト・ジャパン」では、デパッケージして週1000食の弁当を作る計画も実施されたという。

 2.の地産地消型ネットワークにしても、古参のフードバンク関西の理念はそれそのものだし、ネットワークの双方向性(食物や衣服を「もらう」⇔「提供する」)はまだ充分ではないかもしれないが、活動規模は4倍近くにまで成長したという。 

 いや、しかし困った。自分が全然実感できていない最大の難点が見つかってしまった。途方に暮れて、ちょっと甘いものを食べたくなったので、チョコレートを食べることにした。

 日本上陸から約15年。現在も尚、フードバンク運営の最大の壁は資金難だということが分かったのである。

 無償で提供された食品を無償で配るフードバンクの活動には、事業収入は発生しにくい。そこをどうするかは、大きな課題である。

 フードバンクは食品会社の廃棄コストを減らすことで食品会社を助ける活動でもあるのだから、食品会社に引き取り料を多少負担してもらえばいい、という考え方がある。しかし、それではフードバンクが「格安の産廃業者」になってしまう。アメリカのフードバンクでも、こうした例はない。

 では、アメリカのように、食品を受け取る施設から維持費を徴収してはどうか。しかし、今度はフードバンクがまるで「超格安のスーパー」になってしまう恐があるうえ、日本では「弱者」からお金を取ることに対する抵抗感も強い。その代金を負担できない、最も弱い立場の人たちを排除する結果にもなりかねない。 

 どうしたらよいのだろう? 不味い。数時間では短すぎる。全然良いアイディアが思い浮かばない。どうしよう。そのとき、背中がぞくっとした。たぶん、いま書いているこの記事が「続」っとするという合図だったのにちがいない。もう少しだけ考えて、別の記事でこの先を書きたい。

 …エルメスの商品のうち、もし自分が買うとしたら何だろう。手帳や財布が良いかもしれない。エルメスの手帳に、自分の未来を広げていき、他人の未来を少しだけ明るくできるような将来の予定をどんどん記入できれば、未来は面白いにちがいない。

でも、本当に欲しいエルメス製の商品は、ブランドの語源にもなっている「ヘルメスの靴」。 

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靴に翼が生えているので、自分の立場からふわっと飛び立って、相手の立場に立つことができたり、また自分の立場へ戻ったりすることもできるらしいんだ。しかも、ちょっとした心の訓練さえすれば、大金を積まなくても、この翼の生えた靴は一生の宝物にできるらしいよ。 

 

 

 

エルメスの高級バッグの語源となったジェーン・バーキンは、鰐の気持ちになって、こんな主張をしたらしい)