月から降ってきた温かいエール

最近激しい頭痛に苛まれることが多くなって、深夜に救急病院へ行ったりもするが、医者に診てもらっても、原因はよくわからない。そういう衰弱の中にいるせいだろうか。自分へ向けられた温かいオーラが感じられるような気がする。「しょうがないさ」と諦めて、諸事に埋もれていた自分を励起するような生命力が、伝わってくるような気がするのだ。

しかしそれも気のせいかもしれない。 それも心々ですさかい。

「しかしもし、清顕君が初めからいなかったとすれば」と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のようにおもわれてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。
「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。…その上、ひょっとしたら、この私ですらも…」
 門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。「それも心々(こころごころ)ですさかい」(…)
 これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……

 これは、三島由紀夫が自決当日の遺稿とした『豊饒の海』第四巻『天人五衰』の名高い最終場面だ。ジン・ジャンとは輪廻転生をとげたタイの王女の月光姫のこと。四人目の転生者の安永透はどうやら偽者のようで、上記の最終場面では、輪廻転生どころか、視点人物がそれまで出逢った人間たちの実在さえ、相対主義の曖昧な霧の中へと消失していってしまう。 

三島由紀夫 幻の遺作を読む?もう一つの『豊饒の海』? (光文社新書)

三島由紀夫 幻の遺作を読む?もう一つの『豊饒の海』? (光文社新書)

 

豊饒の海』論としては出色の井上隆史の新書は、『豊饒の海』の構想が途中で大きく捩じ曲げられてしまったことを、緻密な草稿研究によって裏付けている。三島がなぜあのような死を遂げたのか。割腹自殺は言われるよりはるかに苛酷だったらしく、三島の筆は『天人五衰』の途中で、大岡昇平に揶揄されながらも決して手放さなかった独自の美文調を放棄してしまうのだ。そして衰弱した筆は、三島らしからぬ多くの改行を伴いつつ、コカコーラの自販機を描写したりする。末期の眼に映る「最後の世界」は、とうとう三島の文学世界を突き破ってしまったのだ。虚構世界を突き破った自動販売機は、あれから半世紀。雨後の筍のように日本の津々浦々をびっしりと埋め尽くし、今や原発2基分の電力を消費する繁殖っぷりだ。

あイタタタ…。原発の話をしたのがいけなかったかな。ここで頭痛が再発したということは、生命力のある方向へ話題を転換せよとの神託なのかもしれない。

実は発電するときのエネルギーのうち、電気になるエネルギーは40%に過ぎない。残りのエネルギーのうち40%は熱になる。その熱を少しお裾分けしてもらうような気分で、これまで書いた電気関係の記事の整理と発展を心がけたい。

 今晩書きたいのは、これらの問題の整理。大枠を提供してくれるのは、『次世代エネルギーの最終戦略』だ。2011年の東日本大震災を受けての出版なので、最新の情報が載り切っていなかったり、成熟した議論になり切っていないところもあるが、電気を考え直したい一般の人々向けに開かれているので、問題の整理にはうってつけだ。 

次世代エネルギーの最終戦略―使う側から変える未来

次世代エネルギーの最終戦略―使う側から変える未来

 

 水力火力発電か、原子力発電か、再生可能発電か。という問題の立て方が、よくよく考えてみると、戦略的には間違っているということに気付かねばならない。どの発電形態が最も理想的かという抽象的な議論を、既得権益死守側と続けることは、論争の長期化、つまりは相手側を利することにしかならない。 

エネルギー進化論―「第4の革命」が日本を変える (ちくま新書)

エネルギー進化論―「第4の革命」が日本を変える (ちくま新書)

 

 飯田哲也が新書でわかりやすく示しているように、90年代に欧米で再生可能エネルギーが爆発的に普及したのは、電力のあり方が(国家主導による)「供給プッシュ型」ではなく、(民間競争による)「需要プル型」に変わったためだ。

 比喩的に言えば、ストローを使って食べるゼリーの駄菓子がありますが、ストローにゼリーを押しこもうとするのが供給プッシュ型。一方、ゼリーを吸い込むのが需要プル型、と考えてみるとわかりやすいでしょう。

 この比喩の適合相当性は、RPS(固定枠制度)よりも、経済合理性と民間競争要素を多く備えたFIT(固定価格買い取り制度)の方が優れた制度であることが、事実上実証されたことからもわかる。上記新書の文脈では後景にしかないが、「需要プル型」には消費者が自由に好きな発電や好きな電力会社を選べるという大きな利点がある。 

電気をコメにたとえてみよう。

(…)もしもこの物流会社が全国ネットでコメを運んでくれ ていたら、関東地方のコメ不足(引用者註:例えば、原発事故による計画停電)は解消できた。物流部門が広域で需給調整できるからである。
 東日本には東京水田以外の稲作農家や東北水田や北海道水田など、数多くの水田があり、それぞれにブランドを付け、銘柄を誇るように工夫して生産することもできる。これが生産者の競争となる。それぞれにコストが違うが、それは消費者の選択である。さらに新種米(新エネ)も流通でき る。この点では「とにかく急いで単一ブランドを量で確保」という一貫供給体制は現代の消費者ニーズに合っていない。

コメは日本の主食で自給率は100%に近いが、全国的に配送され流通し、消費者が自由に銘柄を選び、競争優位にある優れた米だけが市場に残っている。それが禁じられなければならない理由、つまり、地方分割垂直統合型システムにメリットがないことも、『発送電分離は切り札か』で明確に述べられている。

確かに、完全な発送電分離を実現するには、原発系の既得権益層の暗躍もあって、どうしても時間がかかることは否めない。しかし、GHQに強要された現状の地方分割垂直統合型システムでも、「需要プル型」は部分的にすでに実現している。

それでも自社発電所を持つ企業幹部は、「電力会社から電気を買うのはバカバカしい」と語る。

 2004年に稼働開始した舞鶴発電所(定格出力180万kW)の建設費は5700億円とされる。これに対して、神戸製鋼所保有する2002年稼働の神鋼神戸発電所(同140万kW)は2000億円だ(いずれも石炭燃料火力発電)。発電コストの約5割を占める建設費で1kW当たり2.2倍も違うのだから、先の企業幹部の発言は偽らざる本音だろう。

 大企業ばかりではない。地下から湧き出る温泉蒸気でタービンを回す地熱発電を導入する霧島国際ホテル(鹿児島県)では、使用電力の約25%を自家発電でカバーしている。

「弊社では1984年に敷地内に地熱発電所を建設しました。5000万円かかりましたが、ほぼ同額の電気料金を5年で削減できた。つまり5年で元が取れたわけです」(営業担当・竹下卓氏)

 「バカバカしい」と製鉄関係の企業幹部が実際に言い捨てていた動画は、消されてしまったようだ。丁寧に見てほしい。担当者が言っていたのは、「大企業向け電気料金>>>自家発電コスト」を比較しての感想だ。

東電の電気料金体系は極めて不透明で、大企業ほど安くなっている。一部の大手はキロワット時あたり8円以下とも聞いている。だからこそ、経団連などに所属する大企業からは電気料金値上げに関する文句が一切出てこない」

 1キロワット時あたり8円という額が事実なら、大手企業は一般家庭の30~40%程度の料金で電気を使用していることになる。 

 整理すると、料金体系はこのような数直線上の配置となりそうだ。

一般家庭向け電気料金>>>大企業向け電気料金>>>自家発電コスト

そして、大企業向け電気料金が一般家庭向けよりも極端に安いのは、規制緩和による競争圧力と自家発電設備との競争が働いたためだ。原発の即時廃炉が難しくても、さらに低コストで自家発電できる技術革新が目白押し。それらを使って、「需要プル型」の電力環境を部分的に取り入れることはそれほど難しくない。

最初に言及した『次世代エネルギーの最終戦略』では、①ナショナルレベル、②コミュニティレベル、③需要家レベルの3つに整理して、電力システムに「需要プル型」の働きかけをかけるよう提唱している。

そのレベル整理にしたがって、私見をメモしておきたい。

1. ナショナルレベル

GHQの占領体制から脱却して国際競争力を確保するために、エネルギーの安全保障のために、発送電分離を主眼とする電力システムは不可欠。例えば、ブラジルがバイオエタノール導入により、エネルギーの海外依存率を22.8%(2000年)から3.8%(2009年)に大きく低減させた事例が参考になる。 

バイオエネルギー大国 ブラジルの挑戦

バイオエネルギー大国 ブラジルの挑戦

 

 2. コミュニティレベル

ドイツのハノーファー市は人口50万人ほどの緑豊かな中堅都市。広島の姉妹都市でもあり、嬉しいことに毎年異国の被爆者を追悼するために式典が開かれているのだとか。 

なぜドイツではエネルギーシフトが進むのか

なぜドイツではエネルギーシフトが進むのか

 

 電力公社を持ち、事実上「原発由来の電力輸入」はゼロ。市役所には環境政策を強力に推し進める気候保護課があり、バイオマス、太陽光、風力などの再生可能エネルギーだけで、市内の電力の100%(2013年は50%)をまかなえるようなエネルギーシフトを積極的に推進している。他にも興味深い取り組みは多々あるが、一読似ているなと感じたのは、この記事で言及した岡山県真庭市の取り組みだ。

コミュニティレベルのエネルギー・シフトの成功例として読むなら、こちらの日経の記事が良さそうだ。

ドイツのハノーファー市では、環境政策を積極的に導入し始めてから、「市民生活に満足している」と答える市民の割合が次第に高まり、10年代半ばには他を大き引き離す驚異の92%を達成したのだという。

真庭市の事例でもわかるように、地方自治体レベルでエネルギー・シフトすると、その地域に恒久的な雇用が生まれ、地方自治体としてのブランド確立につながるので、消滅可能自治体たちの生存可能性が高まるのは間違いない。消滅回避対策が手詰まりとなっているだろう896の自治体のほとんどは、検討に値するのでは?

3. 需要家レベル

過去に大規模な停電事故で「電気の暗い」イメージを生み出してしまったカリフォルニア州では、2020年までに、新築住宅の100%をZEH(売買電トータルで電力消費ゼロ住宅)にする。(カリフォルニアと日本では規格の定義がやや違うが、ここではそれに触れない)。

日本でも、2020年までに新築住宅の100%をZEHにする目標が掲げられた。

f:id:tabulaRASA:20171025094821j:plain

そして、V2H(電気自動車の蓄電池と住宅との連携)を標準装備すれば、買電なしの「100%ZEH」も可能となるので、先進的な住宅メーカーはすでに住宅を開発し、販売を開始している。

「人がどれだけ幸福かは、どれくらいやりたいことをやりたいときにできるかで決まる」という言葉がある。巨大システムに依存しないことを選択可能な、社会制度の改革と技術革新によって、人々がさまざまな自由に選べる選択肢が増えることが、この国の人々の幸福の拡大につながっている。白熱している最新の電気事情の動向を駆け足で追いかけてみて、そんな温かい熱のある印象を感じた。 

コカ・コーラ カナダドライ ジンジャーエール 500ml×24本

コカ・コーラ カナダドライ ジンジャーエール 500ml×24本

 

 記事を書き終えたので、何か飲もうと思って、自販機の前に立った。もう外は明るくなっているじゃないか。ZEHの発電源はすべて太陽光だった。「手のひらを太陽に透かして見れば…」。この子供向けの歌の作詞者は、やなせたかしだったはず。太陽に透かすと、手のひらに熱のある赤い血が通っているのがわかった。赤く色づいた楓は、この季節によく似合う。

「生姜ないさ」と諦めていてはだめだな。ふとそんな気分になる。誰かが好きだと言っていたし、今朝はカナダ産のジンジャーエールを飲んで、水泡にキスしようか。どの時かどの場所かで、月光姫からのエールをもらったような錯覚にしばらく浸っていたいから。

 

 

 

Fly me to the moon
Let me play among the stars
Let me see what spring is like
On a, Jupiter and Mars
In other words, hold my hand
In other words, baby, kiss me

 

Fill my heart with song
And let me sing for ever more
You are all I long for
All I worship and adore
In other words, please be true
In other words, I love you

 

Fill my heart with song
Let me sing for ever more
You are all I long for
All I worship and adore
In other words, please be true
In other words, in other words
I love you.