『劇場』を読む

もし純文学界に株式市場(Stock Market)があったら、この人は上場以来、何度かストップ高を経験してきた優良銘柄なのではないだろうか。もちろんデビュー作で対アメリカの姿勢に因縁をつけられて、江藤淳の共感しにくい激怒を買った村上龍や、アメリカ文学への無理解から冷遇された初期の村上春樹のように、デビュー時の「株価」は大抵その作家の真価とはかけ離れているものだ。それを知りつつも、平成の太宰治こと又吉直樹が、かなりの注目銘柄なのは誰しも認めるところだと思う。念のために付け加えておくと、それは彼が小説家以外のところで獲得した知名度や人気とは関係がない。

「神谷」というお笑いの鬼才の行状が読者をぐいぐい惹きつけた『火花』とは打って変わって、『劇場』は主役が鬱屈した劇作家であるせいで、起伏のなだらかな落ち着いた調子が全体を支配している。ところが、それでつまらないかというと、全然そうではないのだ。

この程度の状況で憂鬱になっていることが、みっともないようにも思えてしまう。「そういう自分に酔っているんでしょ?」と本気で言って来た女を、携帯の電話帳に「得意気なタコ」の名で登録しなおした。

「ゴマって口のどこかに隠れてて、だいぶ時間がたって出てきたりしますよね」

 おそらくは短詩形で培った諧謔やウィットが、いつものように次々に飛び出してくる。そのような短詩形の「おかしみ」を愛せる趣味の良さだけでなく、反復横跳びのように、数テンポ毎に機知の飛び出す高頻度にも驚いてしまう。別の分野で磨き上げられた才能が、小説でも確かに生きているのだ。

読者としてクライマックスが二度あるのを感じた。二つ目はラストシーンで、誰もががその「泣き笑い」の切なさのきわまりを体感できるはず。一つ目は、ひょっとしたらその場面が描き出していることの全体像を見落とす読者もいるかもしれない。気付いてほしい、平成の太宰治がそこに「とんだそら豆」を重ね合わせていることに。

 そら豆が飛ぶ前に『劇場』の最初のクライマックスを確認しておこう。主人公の鬱屈した劇作家の永田は、自分勝手な言動のせいで、居酒屋バイトで交流のある恋人の沙希や劇団仲間たちから孤立し、バイト帰りの沙希が居酒屋店長宅へ持ち帰られてしまったのを追いかける。おおよその場所しかわからず、途方に暮れていたところで、沙希の自転車を見つけて、どこへともわからずベルを鳴らしつづける。すると、近くのマンションから沙希が出てくるのである。

 すると、そこから張りつめた表情を浮かべた沙希が出てきた。沙希は遠くから一度僕の顔を見たが、近づいてきてからはすっと地面を見ていた。
「こっちやったんや。あのマンションかと思ったわ」
 沙希は何も言わなかった。
「なにしてんねん」
 笑いながら言えた自分に僕は驚いていた。沙希は何も言わなかった。

これらの抑制された描写だけで、読者は沙希の不貞行為を読み取らなければならない。あなたは読み取ることができるだろうか。

隠されているからこそ引き立つ味というものもある。アメリカ? 知ったこっちゃない、と、たぶん作者は考えている。「だし(=stock)」という調理文化があるのは、世界で日本と中国だけやのに、なんで使わへんの、と今にも呟きそうな「和風だし」の職人なのだ、又吉直樹は。

自分が30分の速読でも、この場面にある不貞を読み逃さなかったのは、沙希の造型に先行作品のヒントがあるような気がしたからだ。

ヨシ子
バアの向かいの煙草屋の看板娘。処女で、疑いを知らぬ無垢な心の持ち主。信頼の天才。色が白く、八重歯がある。初登場時18歳。 
人間失格 - Wikipedia

 居酒屋店長宅から出てきた沙希を乗せて、主人公の自転車は走り出す。このときの彼の溢れる思いがほとばしり出た長台詞も、哀感があってとても良い。『人間失格』の「信頼の天才」ヨシ子の残響を聴くこともできる。

 (…)初めて沙希ちゃんと会った時も、沙希ちゃんのこと神様やと思ったで。最初、俺に『殺される』って思ったんやろ。逃げなあかんで、そういう時は。俺、あの時、不安定でさ、死にかけとったからな。でも、死にかけてるって感じることは、生きたいって願うことやからな。ちょっと哲学やけど。沙希ちゃんおらんかったら、マジでやばかったわ。ほんま。だから、だからでもないけど、みんな幸せになったらええな。みんなな。上手くいかへんな。なんでやろう。俺の才能が足りへんからやな。俺、ずっと一人で喋ってるけど大丈夫? 神様、うしろ乗ってますか?」
 沙希がぼくの服をつかんだ。つかまれた部分から体温が伝わる感覚があった。沙希は小刻みに振動しながら嗚咽していた。

「あんなに神様のようにぼくを信頼してそばにいてくれたのに、ぼくが駄目な男のせいで、他の男に心の隙間に付け入られて、純粋なきみに浮気なんかさせてしまって、ごめん」。主人公の心の中身は大体はそんなところだと思う。方向性に多少のズレはあるが、太宰治の「とんだそら豆」は、このように展開した。

「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」
 堀木の声も顔色も変っています。堀木は、たったいまふらふら起きてしたへ行った、かと思うとまた引返して来たのです。
「なんだ」
 異様に殺気立ち、ふたり、屋上から二階へ降り、二階から、さらに階下の自分の部屋へ降りる階段の中途で堀木は立ち止り、
「見ろ!」
 と小声で言って指差します。
 自分の部屋の上の小窓があいていて、そこから部屋の中が見えます。電気がついたままで、二匹の動物がいました。
 自分は、ぐらぐら目まいしながら、これもまた人間の姿だ、これもまた人間の姿だ、おどろく事は無い、など劇はげしい呼吸と共に胸の中で呟つぶやき、ヨシ子を助ける事も忘れ、階段に立ちつくしていました。
(…)
 自分は起き上って、ひとりで焼酎を飲み、それから、おいおい声を放って泣きました。いくらでも、いくらでも泣けるのでした。
 いつのまにか、背後に、ヨシ子が、そら豆を山盛りにしたお皿を持ってぼんやり立っていました。
「なんにも、しないからって言って、……」
「いい。何も言うな。お前は、ひとを疑う事を知らなかったんだ。お坐り。豆を食べよう」
 並んで坐って豆を食べました。嗚呼、信頼は罪なりや? 相手の男は、自分に漫画をかかせては、わずかなお金をもったい振って置いて行く三十歳前後の無学な小男の商人なのでした。 

太宰好きを公言しているからといって、又吉直樹のあれこれを何にでも太宰治に結びつけるのは、読みの怠惰を正当化せんとする牽強付会ではないか? そんな声が聞こえる。作者は几帳面で真面目な人だ。きちんと手がかりを読みの現場に残してくれている。沙希は太宰治と同じ青森出身なのである。 几帳面なだけではなく聡明でもあると感じさせるのは、自分の小説のありようを自分で分かっていることを、読み巧者にわかるよう書かれていることだ。それを紋中紋と呼べるかどうかは微妙であるにしても、いみじくもジュリア・クリステヴァがテクストのナルシシズムと呼んだように、テクストが自分について語り出す瞬間がつかのま出現する。

 (…)店内を歩いていると、『暗夜行路』、『破戒』、『人間失格』と近代文学の小説が揃っている棚があった。自分のサッカーゲームのレギュラーメンバーが並んでいるように見えて落ち着いた。はじめから破滅的な状態で始まる小説がこんなにもある。

 そこでふと、ここに並ぶ近代の作品に対する批判的な意味合いで、あの軽いノリを漂わせながら最終的には深刻な内面を表明するようなものが発生したのかもしれないとと頭によぎった。だとしたら、自分も結局は同じような反発を繰り返しているだけなのだろうか。自分の好みも繰り返しの反発を担う一端に過ぎないのだろうか

 (強調は引用者による)

ここにある言葉は『劇場』が『劇場』について語った言葉だとも言えるだろう。

しかし、慌てないでほしい。ここで又吉直樹は自分の小説にどこか行き詰まりの感覚があると語ろうとしているのではない。

彼が感じている閉塞感を、言葉通り取って、近代文学への抵抗可能性への懐疑と見るのは間違っている。小説の中に自分の選好という指向性が1つであること、1つしかないことの限界と不安の中に、彼はいるのである。言い換えれば、それは、日本の近代文学がなぜか偏愛を注いだ一人称による私小説的伝統にそこはかとなく漂っている閉塞感を、彼が無意識に嗅ぎ取っている証拠でもあるのだ。

これも名場面に入るだろう。『劇場』の最終場面で、主人公はまたしてもあふれる思いを長い長い台詞にして声に出す。そのあとでこう続ける。

僕は長い間、一人で話し続けていた。
「ごめんね」と沙希は泣きながら言った。

この後の20行ほど、沙希は「ごめんね」ともう一度言うだけで、もう何も喋らなくなる。「ごめんね」。ひょっとするとその声は、テーブルの上に置かれた彼女の写真がそう言っているように、主人公に聞こえるだけなのかもしれない。さらに主人公は仮面をかぶって彼女を笑わせようとする。仮面のせいで主人公は外の世界がほとんど見えなくなる。それでも電気をつけたり消したり開演前のブザーの真似をしたりして、ひとり「劇場」で何ごとかを芝居にしようとする。

この最終場面のどん詰まりが、鬱屈した劇作家と沙希の恋愛の終わりであると同時に、私小説的な一人称的世界の限界からくる閉塞感と重なっていることを、読者にはぜひ読み取ってほしい。

『火花』から『劇場』へは地続きだった。近代文学の豊かな素養、短詩形で鍛えられた発想力、良質のおかしみを早く多く量産する力が、見事な純文学を生み出した。文章技巧も上手くなり、小説のプロットメイクもより巧緻になった。

このあとゲレンデのなだらかな同じ方向をだらだら滑り降りていくのは、たぶんこの作者にとっては簡単なことだろう。しかし、ダダすべりを最も嫌う種族に生まれついた彼は、毅然として stock を雪面に突き立て、さらに困難な高みを目指すのではないだろうか。

 一人称とは真逆の、ポリローグ(多数対話)的な方向へ。クロノロジーは多方向的に編成され、テクストレベルはメタフィクションオートフィクションを伴いつつ複層化される。そのような小説世界の豊かさのいずれかに関わり深い場所で、彼はまた新たに言葉を紡ぎ始めるのではないだろうか。

そのとき、異なるもの、新しいものに自らを痛めながら身体を開いていく作者は、「アメリカ? 知ったこっちゃない」とは言わないような気がする。アメリカのいにしえの民に古くから伝わるこんな名言を、ふと想起するかもしれない。

向上心が止まらないんですよ。
クリアしたらどんどん次の扉を開けたくなる。
しかも、そのカギがどんどん開くんですよ。

劇場

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