花vie en rose

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秋だ。ミレーの「落穂拾い」を思い浮かべていた。

調べてみると、落ち穂を拾っている3人の女性の社会的階層や、彼女たちを生かそうとする地主や有力農民たちのキリスト教的「慈愛」が興味深かった。言われてみれば、構図もとても良い。

 3人の農婦はおそらく生活に困窮した未亡人であり、農園に残された穀物を一生懸命に拾っているところなのでした。だから、あの絵はのどかな田園風景などではありません。当時の生活の厳しさ、人々の心のやさしさ、そして必死に働くことの尊さを1枚の絵でみごとに表現したから、心にしみる傑作と評価されているのです。

第39話 落穂拾いの秘密

あなたが畑で穀物の刈り入れをして、 束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。

(聖書 申命記より)

自分が書こうとして書き落とした断片を寄せ集めて書くことを、心の中で「落穂拾い」と読んでいた。書いたけれど、たぶん読まれていないはずなのに、書いたのと同じことが新しく生まれることがある。「落穂芽吹き」と呼ぶべきか。

2018年ヒット予測ベスト20

1位:マルチ AI スピーカー
2位:熱狂ライブコマース
3位:疲労回復ジム
4位:日本流グローサラント
5位:ハイドロ銀チタン
6位:UMAMI家電
7位:走って戦うジュニアシューズ
8位:遠近“スイッチ”メガネ
9位:即席パーフェクト・ヌードル
10位:みな得フードシェアリング 

 昨日発表された「日経トレンディ」の「2018年ヒット予測ベスト20」の堂々10位に、「みな得フードシェアリング」がランクインしたのには驚いた。この「みな得」とは「フードシェアリング」のアーキテクチャ全体の形容詞で、ロス食品を減らそうとする運動。実際に試験運用されているサービスは「Tabete」と名付けられている。

 TABETE は、飲食店や惣菜店等で発生してしまう余剰をユーザーとマッチングし、最後まで売りきる・食べきることを応援するプラットフォームとしての社会派 Web サービスです。
 予想外のできごとや急な予約のキャンセルなどによって発生してしまい、完全な対策が難しい飲食店での食料廃棄。本サービスでは、せっかく想いを込めて準備した食事を無駄にしたくないというお店の想いを「食べ手」が発見し、その食事をレスキューすることができます。「フードシェアリング」と呼ばれるこのしくみは、欧州などでは広く浸透していますが、国内での実際の試みは初となります。

このニュースは昨晩のWBSで放映されていた。閉店時間までに、余っている弁当を売り切りたいお店側が、ロス間際の弁当を4割引きくらいの価格で専用サイトにアップすると、指定時間内にお客さんが取りに来る仕組み。下記の記事で披露した急造アイディアの「時間段階型値札」の一種だとも言えるだろう。値段が多段階化するのも、時間の問題ではないだろうか。

アーキテクチャについての自分の提案は、平凡なものだ。発想は平凡なのに、検索しても出てこないのはどうしてなのだろうか。それはひとことで言うと、「時間段階型値札」。これが進みそうなのは、コンビニのお弁当だろうか。消費期限までに3段階くらいの複数の値段(600円→400円→200円)を設けて、それをバーコード管理すれば、値下げシールを貼って回る必要もない。

もうひとつの 「落穂芽吹き」に似た朗報は、この記事で言及した大野純一がツイッターを再開したこと。

自分は彼にこんなコメントを寄せた。

芸術というものが、社会のどのような文脈を得て存在できているのか。そんなあまりにも基底的な政治性すら読めないほど、無知な芸術家が多い中、大野純一は少し前にやめてしまうまで、際立った光彩を放つ聡明で繊細なツイッタラーだった。

記憶だけで話すと、豊富な渡欧経験のある大野純一は、日本特殊的な後進性や閉鎖性に敏感だったと思う。 


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この偶発的な2つの「落穂芽吹き」を受けて、今晩のお題は「港区と薔薇」で行こうと思う。

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写真は港区の竹芝埠頭。気に入って大金をはたいた写真だ。都会の一景へ向けて、これから羽ばたいていく若者たちをイメージして購入した。

波の音が好きなせいだろうか。少しだけ車を飛ばして、湾岸エリアに出没することも多かった。竹芝ふ頭や天王洲アイルやお台場公園など。そのような上京者の「土地勘」の一部は、10年以上前に書いたこの記事にも現れている。

『書を捨てよ、街へ出よう』と言われても、どちらも捨てられなかった自分は、 海岸沿いの公園のベンチまで出向いて、読書に耽ることも多かったのだ。

 波の音。……最近は多忙でほとんど耳にする機会がない。波の音を聞いたのは、このブログに引用したこの曲が、一番最近になるかもしれない。

海岸沿いの公園で読書に飽きると、ぼんやりと海を眺めながら、いつか自分は幸せになるのかな、と考えたりしていた。いや、無理だろう。あと数年で「期限」の20代は終わるし、多少「期限」が過ぎても、絵に描いたような薔薇色の幸せが、自分を訪れることはもうないだろう。それでも「La vie en rose」を聴くのは大好きだった。

Hold me close and hold me fast
The magic spell you cast
This is La Vie En Rose

 

When you kiss me heaven sighs
And though I close my eyes
I see La Vie En Rose

 

When you press me to your heart
I'm in a world apart
A world where roses bloom

 

And when you speak...angels sing from above
Everyday words seem...to turn into love songs

 

Give your heart and soul to me
And life will always be
La Vie En Rose

何だか生きづらいと感じていたのは、ゼロサム・ゲームが苦手だったからもしれない。どちらも捨てられないと言われても、どちらもが両立する可能性を考えてしまうタイプ。例えば、読書のお供にシュークリームとミネラルウォーターを持っていき、読みながらシュークリームを食べるのは意外に難しいことがわかると、シュークリームをきちんと完食してから、読書に戻るタイプ。この程度のことは、時間さえあればたやすい。

それでも、自分は生きづらいと感じていた。残る人生があとわずかしかないのに、作家になる夢を捨てきれずにいたのだった。

 当時のことはあまり思い出したくないので、話を逸らそうと思う。シュークリーム好きな人なら、この和菓子も間違いなく好きだと言えるのが仙台銘菓「萩の月」。メーカーサイトでは触れられていないが、「奥の細道」を旅した松尾芭蕉にも、萩と月を歌った俳句がある。

一家に遊女も寝たり萩と月     松尾芭蕉

(ひとつやにゆうじょもねたりはぎとつき)

 曾良という弟子と男二人旅をしていた芭蕉が、偶然同宿した遊女のことを思い浮かべながら、月の照る夜に萩の花を見ている。そんな情景のようだ。ちなみに萩の花は確かにピンクがかった女性らしい色をしている。

 この芭蕉の句を受けて、上田五千石が一種の本歌取りを行っているのを、ごく最近知った。これも興趣の深い句だ。

家にあれば寝るころほひを萩と月     上田五千石

 芭蕉と同じく、おそらくは東北の旅路にありながら、そこにない我が家を想い、そこにいない妻を恋うる句に変貌している。この句になると、頭上の月は単に自分を照らす光というより、自分と遠方の妻を同時に照らす光の媒介となり、目の前に光を得て匂い立つ萩の花が、恋する妻の姿と重なりながら浮かび上がっているで、絶妙な興趣を生み出している。

今ここにいない女性を想う恋歌は、この世界に数え切れないほどあることだろう。

先ほど引用した、波の音に乗せた弾き語りのバラードだってそうだ。

Sometimes you get lost in the world
Get out of touch with your heart
Then one day you wake up
Did we drift to far apart

世界できみが迷子になってしまうとき
きみの心に手が届かなくなる
やがてある日 目覚めると
ぼくたちは離れ離れなところに流されている


Are we going pick up the pieces
Just wait 'til our lease is up
What about all the things we lived for
No one wins if we walk on out that door

小さなかけらを拾い集めていこう
期限が切れるのを待ちながら
そのために生きていくもののすべてを
もしここから立ち去ってしまったら
二人ともが失ってしまう


Who's foolin' who
If we don't stay together
We're foolin' ourselves
Who's foolin' who
Without you girl
It's a livin' in hell
Who's foolin' who

誰が誰を失いつつあるのだろう
もし一緒にいなければ
ぼくたちはお互いを失うことになる
誰が誰を失いつつあるのだろう
きみがいなければ
世界は生きる価値をなくす
誰が誰を失いつつあるのだろう

予備校生だったとき、なぜか勉強せずにギターの練習ばかりしていた友人に、歌ってほしいと言われたので英詞を歌った。二人の間で議論になったのは「lease」って何? という疑問。結論は出なかった。

いずれにしろ、 二人が隔てられねばならない「契約期限」なんて、早くなくなってしまえば良いと思う。「lease」は「release」されるべきではないだろうか。できうるなら、甘みとともに。

(エンディング曲の歌詞に注目)

ところで、個人的な話を書くと、「今ここにいない女性を想う恋歌」と先ほど書いたのとは反対に、本当は「この波の歌のバラード」は自分が初めて「想いを寄せる女性が今そこにいるのを感じた恋歌」なのだ。

自分にはちょっぴり霊感がある。残念ながら、自在に超自然的な何かを感じられるというほどのものではなく、要所要所で必要なものを、ハイヤーセルフに霊感を通じて体感させてもらっている感じだ。当時、ほぼ確実に状況攪乱用に「偽者」が演じていると判断していた自分は、あの曲を引用したブログ記事で、初めて彼女が実際にそこに存在しているのを感じ取ることができたのだった。

彼女は私の視野の右にいて、ブログの映っている画面を見ていた。私はその画面の左側にいて、彼女のやや背後に立っているような気がしていた。彼女は興味を持ってこのブログを見てくれているようだった。彼女のオーラは巷間言われている例の感じでは全然なく、ひとことで言うと「ひたむきな優等生」。やっぱり、と心の中で呟いた。でも誰に対してもそれを証明することはできっこない。

ひとつひとつ消されていく……。そんな悲観的な感情に襲われた。自分の好きな人々が強制的に呼び出されて、そこで特大の遠心力を得て、遠くへ飛ばされていく。そうやって疎遠になった友人もいたのだ。

 「港区の薔薇」だから、次は薔薇の話をすべきなのだろう。けれど…… 上の話の続きを少しだけ書いておかねば。たぶん、この記事のリンクを貼っておくだけで、すべては足りるだろう。

先ほど話を逸らそうと思ったのは、15歳のとき20代までの生命との宣告を受けた自分が、いつか何かの弾みで「La vie en rose」のような幸福に浸る瞬間が訪れるかどうか、そんな問いを、頭に思い浮かべるのが怖かったから。可能性がきわめて低いと分かっていても、No と言われるとつらくてたまらない。

心の準備をするために、もう一度「La vie en rose」を口ずさんでみようか。そう考えたとき、そういえば vie について言及したことがあったのを思い出した。前後も含めて引用しておこう。

 すると海軍将校は相不変微笑を含んだ眼で、静かに明子の方へ振り返つた。さうして「ノン」と答へる代りに、子供のやうに首を振つて見せた。
「でも何か考へていらつしやるやうでございますわ。」
「何だか当てて御覧なさい。」
 その時露台に集つてゐた人々の間には、又一しきり風のやうなざわめく音が起り出した。明子と海軍将校とは云ひ合せたやうに話をやめて、庭園の針葉樹を圧してゐる夜空の方へ眼をやつた。其処には丁度赤と青との花火が、蜘蛛手に闇を弾きながら、将に消えようとする所であつた。明子には何故かその花火が、殆悲しい気を起させる程それ程美しく思はれた。
「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生(ヴィ)のやうな花火の事を。」
 暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下しながら、教へるやうな調子でかう云つた。

舞踏会・蜜柑 (角川文庫)

舞踏会・蜜柑 (角川文庫)

 

花火のような私たちの vie。そう唇でワンフレーズにまとめ直した途端、シンクロニシティに気が付いた。上で引用した「波の音のバラード」を演奏しているのは「Bonfire」、つまりは「イギリスの花火大会」。え? と思った次の瞬間、「La vie en rose」がまさしく「花vie」であるという偶然の重なりに、すっかり幸福な気分になってしまった。後は、自分も花好きになれば良いだけ。そう思い込んで、慌てて近所の本屋へ行って、花の本を買ったら、こんな俳句が見つかった。

海の音にひまわり黒き瞳をひらく     木下夕爾      

(うみのねにひまわりくろきめをひらく)

花の歳時記―カラー新書 (ちくま新書)

花の歳時記―カラー新書 (ちくま新書)

 

あたかも、あのとき瞼の裏に浮かんだ彼女を歌っているかのような句。

夢でもいい。醒めない夢なら、このまま幸福でいられる。そう呟きながら、「花火大会」の奏でる波のさざめきに、今も浸っているところだ。

 

 

 

 

(オードリーが映画の中で歌っている!)

(ダニエラまでおめかしして歌ってくれて… みんな、集まってくれて本当にありがとう!)