涙を小洒落きれなくて

「ただの小洒落た駄洒落好き」。

このブログの文章が、そんな遠心力たっぷりの批判を受けているらしい。170ほどもある多種多様な記事からその二つしか読み取れないなんて、どうかしてい… おっと、危ない、危ない。遠心力に煽られて、ネガティブなことを口にしそうになってしまった。「向かい風でもポジティブに」を最近新たに座右の銘にしたばかりだった。

ちょっとだけ、「駄洒落」の周辺について解説しておくと、自分が時折り活用する言葉の響きの重なり合いは、文芸批評の文脈では「シニフィアンの戯れ」などと呼ばれたりする領域にある。ヒップホップの歌詞が駄洒落でないのと同じで、堂々たる文彩(フィギュール)であり、それぞれのジャンルが掘り当てた豊かな鉱脈のひとつだ。

自分の文章が気に入らないのはわかった。わかったから、20世紀最高の詩人のひとりであるパウル・ツェランの詩を読んでくれないだろうか。拙文がツェランの読者を増やす契機になるのなら、気分は上々にあがるというものだ。

そういえば、谷崎潤一郎の『細雪』から筆名をとった女流作家が、担当編集者が「シニフィアンではなくシニフィエと戯れてください」という「難しい」最後の言葉を残して異動していったと、どこかに書きつけていた。

彼女の小説は一作だけ読んだことがある。難しくもないし適切でもない助言のように聞こえてならない。きっと空耳だろう。実は現代思想 / 文芸批評の領野では「シニフィアンシニフィエ」はかなり流行遅れのジャーゴンなんですよとかいう話題を、「漱石=猫」主義に自発的に屈服した今となっては、粋がろうとして書きつける気にもならニャイ。今の発言も空耳だと思って聞き流してほしい。

そういえば、あそこのパン屋さんは美味しいですよね、とか他愛のない相槌を打っておけば、すべては足りるのではないだろうか。

(人文諸学全体に波及した言語論的転回に関わり深い「シニフィアン / シニフィエ」は、やはり広義の「哲学」の領域にあるようだ)

どこかにも書いた通り、自分は多種多様な欲望に順応しながら、その場を最大限に生かして、広義のポジティブなものを生み出していくことに関心が強い性格だ。

自分の人生がどうなったって、難解な書物の読書は趣味で続けるだろうし、なるべく社会全体を視野に入れるために、研鑽の対象を広くとるのも変わらないだろうが、人生は短い。どうせ限られた仕事しかできないのなら、自分のやりたいことに打ち込み、一緒に協働したい人と仕事をしたい。

いけない、いけない。ああやって莫迦にしてくる人間に対しても、ポジティブさを失ってはいけない。

したたかに反省してしまった。思えば、いけないのは自分の方だった。……

どうして「ただの小洒落た駄洒落好き」だと dis られるかという原因に、どうしてもっと心して相対しなかったのか、自分は。

それは「小洒落」具合が圧倒的に不足しているからに決まっているじゃないか!

というわけで、この記事では「ブリリアントな小洒落た駄洒落好き」を目指すことに心を決めた。

修行するぞ、修行するぞ、修行するぞ!
小洒落るぞ、小洒落るぞ、小洒落るぞ!  

デューク

デューク

 

 自分とは畑違いのような気がしていたので、江國香織の小説は半分も読んでいないと思う。ただ、タイトル付けの巧さは日本一だとずっと感じていた。このブログでもたびたび引用してきた『号泣する準備はできていた』も卓抜だし、『抱擁、あるいはライスに塩を』にも際立ったセンス・エリート感がある。

「名タイトル界」で頂点に君臨するとも言われるデュシャンの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」に迫る勢いを感じてしまうのだ。(「さえも」が何を意味しているのか、いまだに自分にとっては謎だ)。

というわけで、世評の高い江國香織ショートショート「デューク」を数分で読んでみた。

Great job! 素晴らしい! 

あらすじをまとめるとこんな感じ。

若い女の子が、愛犬デュークが死んで泣いていると、美青年に誘われたので、デートをして気を紛らわす。別れ際、美青年にキスされて、「ずっと愛していた」と言われて、その亡くなった愛犬が美青年に身をやつして会いに来てくれていたことに、女の子は気付く。

 ピンとくるものがあった。江國香織はこのブログを読んで「デューク」を書いたにちがいない! そもそものデュークの命名からして、この記事を参照している可能性が高そうではないか。

大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そしてニューオーリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから。

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

 

上の記事でボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』に言及した。「東郷」とは関係なく、「世界で最も悲痛な恋愛小説」とも言われるあの小説の冒頭のエピグラムから、「デューク」という犬名は取られているのにちがいない。

愛犬デュークと若い女の子との恋愛。それだけで、この二人の世界はこの上なく美しく満たされていた。そんな隠れた意味を、作者は犬の名前に込めたかったのではないだろうか。

さて、「デューク」のあらすじを読んで、あの短編がどのような構造を備えているか、頭に豆電球が点った人も多いことだろう。復習しよう。

narratologyが「説話論」と訳されたのは、プロップの『魔法昔話の起源』のように、分析対象が当初は民話や説話だったから。その実践例に挙げたいのは、日本で言うと、民俗学から出発した大塚英志『人身御供論』だ。記憶に頼って書くと、そこにあった漫画『めぞん一刻』(自分の高校時代に大流行していた)の構造分析では、「女が犬との人獣婚姻を経て、男との真の婚姻に至る」という物語定型が読み取れるとしていた。確かに未亡人のヒロインの亡夫は、黒塗りされて顔すら描かれておらず、代わりに夫の名で愛玩されているのは大型犬で、漫画は未亡人が年下の主人公と結婚して終わる。著者は「牽強付会かもしれないが」と遠慮気味な言葉を自説に書き添えているが、勝手にここで正解の太鼓判を捺しておきたい。というのは、漫画のプロットの傍流で、深窓の令嬢がプレイボーイと結婚する過程に、やや変形されてはいるものの、やはり先んじて「犬の婚姻」があり、それが人間の男との結婚に継起的に直結する筋書きが描かれているからだ。その定型のうち、人獣婚姻譚の部分をクローズアップした純文学が、多和田葉子の『犬婿入り』である。 

これらを念頭に「人魚姫」を読み返すと、女性の成長物語である人獣婚姻譚が、これほどまでにあからさまに生きている童話は珍しいと言えるだろう。

人魚という存在そのものが、人+魚の異類婚を象徴している。気を付けなければならないのは、この童話の説話論的観点からの主人公は、脇役に見える婚姻女性であり、彼女は人魚姫と同一人物であるということだ。先ほど「獣との倫ならぬ仮婚」から「運命の男性との本婚」へ至るために、「水難による獣の死亡」か「運命の男性が見初めての救い出し」を伴う、と書いた。人魚は王子様に見出されて「妹」のように可愛がられ、結婚式当日に「水の泡」となって消えてしまう。ご結婚おめでとうございます。人魚姫と婚姻女性が同一人物と考えれば、これが完膚なきまでのとんでもないハッピーエンドだということがわかるだろう。「水の泡」となって消えるのは、妹的な「仮婚」から「本婚」へ至る局面で消えてしまうもの。つまり、人魚姫はその女性の virginity そのものを象徴している。だからこそ、結婚式当日にそれは「水の泡」となって消えてしまうのだ。

隠れドゥルージアンらしからぬオイディプス的読みを施すと、この「獣との倫ならぬ仮婚」は、庇護してくれる父親への娘からの愛情(近親相姦タブー)の置き換えであるにちがいない。 

電車の中で泣いている女の子を庇うように立って、周囲の視線をから隠し、別れ際になって、感動的な台詞をいくつか残して去る美青年は、21歳の独り立ち間近の女の子にとっては、最愛の「父」なのだろう。そう思って、再読すると、父娘の至福の少女期との別れ際に、「デューク」が残していく台詞群に泣けてしまう。

「今までずっと、僕は楽しかったよ」

「今までずっと、だよ」

「僕もとても、愛していたよ」

「それだけ言いにきたんだ。じゃあね。元気で」

 と、ここまで書いた上の文章を読み返していると、どこかで何かを勘違いしているような気がするが、それがどこの何なのかがわからない。そもそも江國香織ほどの作家が「小洒落ている」だけの作家であるはずない、というところも勘違いにちがいないが、詳細は「修行」が終わってから考えることにしよう。

明朝までの修行の条件は以下の通り。

  1. 感動的で「小洒落た」オリジナル・ショートショートを書く。
  2. 先行小説のパロディーや、内輪向けの作品外の人物への暗示や示唆は含ませない。
  3. 2.と矛盾するが、このブログ記事を読んだ人にだけわかる駄洒落を1つ含ませる。
  4. 表現技法は掲載誌の読者層を考えてシンプルに。

 今のところ no plan。何とか頑張って書き上げたい。

 

  「嘘をつかせる写真」

  

「10才になったら買ってくれるって言ったじゃない」
 娘が唇を尖らせてそう言った。私は夕食の皿を片付けている。
「カメラなんか買ってどうするのよ」
「写真を撮りたいの。友達とか、ネコとか」
 私はラップのかかったシチューの皿を、テーブルの上に置いた。夫は今日も帰りが遅い。曇ったラップ越しに、芽キャベツの緑の玉が透けて見える。
「人の写真なんて気安く撮るもんじゃないわよ、その人の生命の一部を切り取るようなもんだからって」
 迷信に似たある種仰々しい言葉に聞こえてしまったかもしれない。娘はテーブルに両手をついて、身体を浮かせて遊びながら、何か言い返してきた。あら、この子はこんなに身長が高かったかしら。ついこの間まで、テーブルと同じくらいの背だったような気もする。
「ねえ、それ誰が言ったんだってば」
「お母さんの親友よ。ちょっと待ってて」
 私はクローゼットの前に立って、青い踏み台にのぼった。娘が洗面所で歯磨きできるように夫が作った踏み台。空のような青に塗って欲しいと頼んだのは私だった。
「何? 昔の写真」
 私は振り返って頷いた。娘が嬉しそうな表情をしていると、なぜだか私にまでその嬉しさが伝わってくる。封筒から抜き出して、数十枚の写真の束をテーブルの上に置いた。
「お母さんも高校生のとき友達と写真を撮っていたの」
 娘が束をめくっていく。写真は空や川や森などの風景ばかり、切り取られた青と緑の積み重なり。親友の晶子が、風景写真を撮るのが大好きだったのだ。
「ねえ、お母さん、訊いてもいい? お父さんとは初恋だったの?」
 娘はまじまじと真剣な瞳をこちらへ向けている。
「そうよ」
 それを聞くと、娘は写真の束をぽんとテーブルの上に投げ出した。そのうちの一枚がすべって、ウェッジウッドの花器にかつっと当たった。一輪挿しの朱色のガーベラが少しだけ揺れた。
  娘は椅子に座った足を交互に乱暴に跳ね上げている。
「嘘をついたでしょ。お母さんが嘘をつくときの顔、わかるんだから、私」
「お写真はつまらなかった? 人が映っていないと駄目なものなの?」
 私は娘に向かって微笑んで見せた。最初に交際した男性が夫だったのは本当だ。他人の心をわかるほど大人になったつもりで得意がっても、娘はまだまだ子供なのだ。
 私はキッチンに立って皿洗いを始めた。お気に入りの洗剤を垂らすと、泡からマスカットの香りが立ちのぼってくる。テーブルの上には、親友の祥子と甲州ワインの果樹園に行ったときの写真もあるはず。二人で葡萄を摘んで、ワイングラスに注いだ手搾りジュースで乾杯している写真が。
 二人きりの写真撮影旅行に行かなくなったのは、晶子が大学に入ってからしばらくして、モデルの男に熱を上げ始めてからだった。折に触れて電話はかけあっていたものの、いつのまにか疎遠になった。
「わお、すごい美男美女。お母さん、これ、誰?」
「誰も映ってないはずだけど」
 皿を洗い終わった。私は花柄の刺繍のあるエプロンを壁に掛けた。
「この人がお母さんの親友?」
 その写真には、晶子とモデルの男が笑い合っている様子が映っている。晶子は19才くらい、男は20代後半くらい。二人は幌を開けたカブリオレの2シーターに乗り込んでいて、こちらへ屈託のない笑顔を向けている。旅に出るような夏の服装だ。どこかおかしいような気がして、写真に目を凝らした。車が左ハンドルなせいだった。
 モデルの男はマセラッティを乗り回していて、周囲の人間に「マテラッツィ」と本場の発音をさせたがったらしい。そう晶子から聞いた。
「へえ、綺麗な人だったんだね。今はどうしているの?」
「さあ。最近連絡を取っていないから」
 写真の中で笑っている20年前の晶子は、ずいぶんと若々しくて眩しかった。結婚して、娘を産んで、やがて40代になった私を置き去りにして、晶子だけが毎年若返りつづけているような錯覚さえ感じてしまう。
「男の人は誰? お友達の彼氏?」
 そうよ、と言おうとして、不意に心が波立って、喉元にある言葉を奪われてしまった。
 当時、モデルの男は俳優への転身を目指しているところだった。晶子は呼び出されて男の部屋へ行ったらしい。泥棒に荒らされたかのように部屋中に服や物が散乱していたのを、時間をかけて片付けたのは晶子だった。台詞の稽古がうまくいかなくて、物に当たってしまったのだと男は説明した。
「彼の部屋ったら、絵とか写真とか芸術作品だらけで、とてもアートな感じ。生活感がほとんどないのよ」と頬杖をついて恋する乙女の瞳で、晶子が私にカフェで話したのを憶えている。
 けれど、その後たびたび晶子が呼び出されて抱かれたあの部屋は、その男の遊び部屋で、男には妻子がいたことが、後になって露見した。晶子が処女を捧げた晩、あの部屋を荒らしたのは別の愛人だったのだ。
 妻とすぐに別れるからと約束した男を、晶子は待つことにした。4年も待った。あるいは、4年しか待てなかった。
「そうよ。とても仲が良さそうで、幸せそうでしょう?」
 10才の娘にふさわしい説明を、何とか言い終わったのが合図のように、写真の上に水滴が落ちた。ひと雫、また落ちた。私の涙に濡らされても、写真の中の祥子は、初夏の光を浴びて、まだ笑っていた。ひと雫。娘が椅子から立ち上がる気配がした。気まずくなって自分の部屋へ戻るのだろうか。泣き顔を娘に見せたくなくて、私はそのままうつむいていた。
 いけない。次のひと雫で涙を止めよう。そう、思った。すると、涙は止まった。
 涙を思い通り止められるなんて、私も大人になった。そう思い直すことができた。次の瞬間、いつのまにか椅子の横に立っていた娘が、私を背中からぎゅっと抱きしめてきた。立ってくっついている娘の髪が、座っている私の髪のすぐそばにある。この子はこんなに背が高かったかしら。

 背中に生きている人間の温もりが伝わってくるのが、こんなにも幸せなことを、いま娘が教えてくれている。かすかに乳くさいような娘の髪の匂いが、鼻腔をくすぐってくる。
「言ったでしょう。私、お母さんが、嘘をついているの、わかるんだから」

 

 

 

(酷薄な色男宛てのボサノバ)