あなたは教えてくれる

七五三はわかるが、八五三がわからない。八百屋、五百木、三百地ときて、やおや、いおき、という読みがわかっても、三百地の読み方がわからないのだ。何と呼ぶのだろう?

休日、地元の実家の近くにある三百地公園のベンチに腰掛けて、とりとめもなくそんなことを考えていた。

公園の近くにある聾学校に、盲学校を移転統合するという話は中止になったらしい。視覚障害者の鍼灸院のドクターも移転統合には反対だった。盲学校の生徒の通学の難しさは、聾学校の生徒のそれよりかなり深刻なのだ。彼らの一部は、いずれ盲導犬と一緒に生きていくことになるのだろう。

公園には、ほとんど草は生えていない。幸福の象徴ともされる四つ葉のクローバーも生えていない。

これまで数十年生きてきて、自分にはどこか縁遠い印象のある幸福について、今晩は考えてみたい。

 ここ数日は、胸が締めつけられるようなつらい話や危うい話をいくつか書いた。ペットの殺処分の話。そして、ロードレイジ車が子供の死亡事故を起こしかねなかった話。

その二つにつなげて、ぜひとも幸福な話を書いておきたい。ロードレイジ車運転手の住んでいた公営住宅とは少し離れていて、自分の実家のすぐ近所。小学校時代の友人も数多く住んでいた県営住宅に、本にもなった美談が残っている。 

救われた団地犬ダン―見えないひとみに見えた愛

救われた団地犬ダン―見えないひとみに見えた愛

 

カソヴィッツ監督によるフランス映画『憎しみ』では、人種差別と公営団地差別とが重なって、団地は荒廃し、敷地を牛が歩いていた。

しかし、幸いなことに、ロードレイジ車運転手のような人が住んでいたからといって、日本の公営住宅に、差別を受けるような言われは一切なさそうだ。そこに住む自分の年少の友人も、ポーカーフェイスだが心根のしっかりした青年で、幸せそうにガールフレンドと映っている写真を、時折りSNS上で見せてくれる。

『救われた団地犬ダン』は、自分の小学校校区で起こった実話だ。

幼稚園の帰り、二人の少女が、川を流れていく段ボールの中に子犬が捨てられているのを見つける。しかもその子犬は盲目。犬を飼ってはいけないルールの団地で、二人は秘密で子犬を飼い始める。それが大人に露見して叱られたとき、少女たちが大人に言い返す台詞がとても良い。

盲導犬はね、目の見えない人をちゃんと助けるのよ。それなのに、どうして、この犬を助けちゃいけないの。そんなのおかしいよ」
「じっちゃん。あのね、目の見えない人を助ける犬はいい犬だよね。だから、目の見えない犬を助けるのも、いいことなんだよね。捨てるほうが悪いんだよね」

 この台詞はなかなか言える台詞ではないし、見過ごして良い台詞ではない。数日前に、普通の人々なら、こんな立場に立ってしまうはずだと書いた。

動物愛護の思想的基礎となっているのは、何と言ってもピーター・シンガーの『動物の権利』だろう。自分は人種差別主義者でもなく性差別主義者でもないとの誇りを抱いている人でも、これを読んで、自分が「種差別」主義者ではないと胸を張れる読者は、ほぼ皆無ではないかと思う。 

ところが、この少女たちは、人間には何も利益をもたらさない盲目の犬を、同じ種の他の犬が盲導犬となって人間を助けているから救うべきだという。彼女たちの主張は優に「種差別」を越えているのである。

 映画化されて、これらの感動的なセリフを口にしたのが、この「女優」たち。7:46からバスの中で手を振っているのが、主演の女の子のようだ。とても利発で真剣に取り組んでいる様子が伝わってくる。

皆、ありがとう。ずっと、ずっと、友達でいようね。

盲目の子犬を育てるなんて、単なる子供向けの感傷的な物語に過ぎないのでは?

そんな醒めた声だって、聞こえてこないとは限らない。感情に引きずられて、共同体のルールを踏みにじるなんて、冷静な判断じゃない、とか。しかし、たぶんそれは古い価値観から見れば、ということになる。

ここ数十年で、共同体の中で生き残るためにこそ、共同体規範から逸脱した感情的な利他行為が必要だとする心理学的根拠が出現しつつあるのだ。一昨晩の記事ではこう書いた。

上の本はいま手元にないので、基礎的な知識で概説すると、行動経済学などでお馴染みの「人間の行動の非合理性」は、人間の知性が足りないせいで非合理なのではなく、一見非合理に見える行動にも、長期的な生存の可能性を高める互恵性原理が働いていることが、最新の脳科学の研究で明らかになりつつある。

その互恵性原理を賦活しているのが、意識下で自動的に作動している(互恵性原理を阻害する)合理的利己主義者検知モジュールと、合理的利己主義を放棄するための「感情」なのだというから驚きだ。感情は自然発生的にアプリオリに人間に備わっているものではなく、「生き残り」という至上命題を果たすためのツールとして、人間にインストールされているプログラムというわけだ。

「感情的な人間は損をする」と巷間よく言われる合理的な損得勘定は、実はハズレで、長期的に見れば互恵性原理支持者の方が生き残る確率が高く、だからこそ、互恵性原理を賦活する無意識の自動処理モジュールや損得勘定を越えうる感情が、生得的に埋め込まれている。進化心理学はそう語る。

まだ若いこの学問分野が一定程度進んで、学術的なお墨付きを得られれば、社会を良くするために利他的行動を取る人間たちの数が飛躍的に増え、彼ら同士の協働の件数がますます増えるかもしれない。 

この進化心理学の話の中で特に面白いのは、感情を上手く使えば、互恵性原理に順応しやすく、長期的生存の可能性を高めるのではなく、前提として長期的生存には互恵性原理が不可欠であり、それに順応するために感情というツールが発達したとする推論だ。 

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

 

 特に、感情が互恵性原理のもとで生き残るのに、強い効力を発揮するのは、功利主義者には解決不能な「コミットメント問題」を解決する局面である。

 自分の行動を自ら進んで何かにコミットするよう縛り付けることで解決できる問題(コミットメント問題)については、自分に約束を守らせる誘因を相手に提供すること(コミットメント方略)は有効。罪、怒り、嫉妬、愛等の感情には、そのような感情を持つことを相手が認識することで、コミットメントとしての役割を持つ。(著者は)一見非合理な行動が、コミットメント問題の解決に役立つ感情傾向をコミットメント・モデルと呼ぶが、これは、人が常に効率よく自己利益を追求しようとする自己利益追求モデルと対照される。

専門書なので、やや表現が固いと感じるかもしれない。「自分の行動を進んで縛り付けないと解決できないコミットメント問題」のわかりやすい設例は、ダイエットより恋愛なのではないだろうか。

 女性Aを口説き落としたい男性Aと男性Bがいるとする。男性Aは機会主義的合理主義者、男性Bは感情的非合理主義者で、女性は長期的に安定した恋愛関係を望んでいるとする。

 男性Aは、機会主義的合理主義者らしく、今ここで女性Aに出会えたことがどれほど貴重なことか、この機会を最大限に活用しようと説く。女性Aは男性Aに魅かれるが、男性Aが別の女性と会う別の機会が生じたとき、自分と同じかそれ以上に口説く可能性を感じて、男性Aの誘いを断る。

 男性Bは、感情的非合理主義者なので、恋愛感情に任せて、未来にある自分の選択肢を積極的に縛る「約束commitment」をする。つまり、たとえどんなに魅力的な別の女性が現れたとしても、女性Aを愛しつづけることを誓う。女性Aは長期的関係形成を重んじるので、男性Bの誘いを受け入れる。

気に入った女性をなるべく多く口説き落としたいという、男性ABの自己利益の最大化の観点からは、男性Bによる女性Aしか愛さないという「約束commitment」は利益に逆行している。しかし、愛情という感情的傾向により、未来の自分の選択肢を犠牲にすることを相手に伝えることができ、結果的により多くの恋愛関係の利得を得られるのは、男性Bなのである。

このような「コミットメント問題」を解決する感情的コミットメントは、愛情だけにとどまらない。正直さや公平さや忠実さなどを求める道徳感情保有者は、どのような未来の状況でも、(そうすることが機会主義的観点からは自己利益を減らす局面でも)、相手に対して正直さや公平さや忠実さを保証するので、却って社会的利得に恵まれやすいという逆説が成立する。

この辺りまで追うと、ロバート・フランクなどが提唱する感情主導による長期的社会的妥当性が、規範倫理学の三分類でいう徳倫理学と重なっていることがわかるだろう。

西洋倫理学の3つの伝統:Three core functions of Western Tradition of Ethics and Ethical Studies

 最も論証が難しく、つかみどころがなかった徳倫理学は、道徳的な感情や気質による「コミットメント問題」の解決を通じた、長期的に社会での生存可能性を高める処世術だと言えるのではないだろうか。

ところで、そのような徳倫理学の範疇にある道徳感情が、カントが論理的に導出する義務論的倫理のように「真理」として存在するかは、判断の難しいところだ。

 フランク-山岸俊男のラインは、「感情主導による長期的社会的妥当性」が、狩猟採集社会の先史時代から、人類が進化の過程で発達させ遺伝的に継承されてきた「真理」なので、それに合わせた社会設計をすべきだとする適応論的アプローチを主張している。これに対して、この分野の近刊を多く持つ金井良太は、人類の脳は狩猟採集時代からさほど進化していないので、脳の働きに適応するよう再帰的に社会を設計し直していくべきだとする。

どちらが正しいかを即断できる根拠はない。ただ、どちらにしても、人類の脳に内在する道徳感情を重要指標として社会設計を考えるべきだという結論は同じだ。 

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

 

新書並のコンパクトな情報量でまとまった知見を与えてくれる本書。とても面白かった。自分の興味に沿って、まとめてみたい。

途中、アダム・スミスの『道徳感情論』が出てきて、おっ出たな、と思った。アダム・スミスは「共感という認知能力が道徳の起源である」と述べている。道徳感情について論じているアダム・スミスと上述のロバート・フランクが、ともに経済学者であるのも面白い。

同じ分野を脳科学がどんどん耕している。脳内のMRI画像を用いてVBM解析を行ったところ、人間の脳に道徳感情(「傷つけないこと」「公平性」「内集団への忠誠」「権威への敬意」「神聖さ・純粋さ」)のそれぞれに対応する部位がすでに特定されたのだという。

しかも、共感能力(「共感的配慮」「視点取得」「空想」「個人的苦悩」)に対応する脳内部位と、道徳感情に対応する脳内部位とは大きく重なっているらしい。これらの生得的な道徳的資質を元に、幼児期からの両親を中心とする対社会的接触が信頼能力を醸成する、というところまで、科学的な分析が完了している。

チャート化するとこうなる。

共感能力→道徳感情→両親の愛情→信頼能力

 その先にあるのは、もう想像がつくはず。ソーシャル・キャピタルだ。定義はこちらで確認してほしい。  

これも想像がつくと思うが、ソーシャル・キャピタルの先には幸福があり、その幸福が、ソーシャル・キャピタルから独立して、客観的な物質的絶対量と正比例することはない。

 一般的に、社会的なつながりの広さと深さが、個人の主観的幸福度にとってもっとも決定的なファクターである。自分の家族や友人、恋人などとよい関係をもつことは、幸福の要件としては、お金や名声よりもずっと重要である。

となると、チャートはここまで延伸させても良いはずだ。

 共感能力→道徳感情→両親の愛情→信頼能力→ソーシャル・キャピタル→幸福

 今晩辿りついた分かりやすい結論は、上の一行だ。

個人的に、この本で一番記憶しておきたいと感じたのは、物質的富の負の側面に言及している次の一節だった。

 また、ソーシャルキャピタルは、当事者ではない周りの人の幸福度にもポジティブな影響を与える。自分が社会との充実した関係をもつことで、その周りの人も幸せになれる。これは経済学の用語では「正の外因性」と呼ばれる。一方、物質的な富(フィジカルキャピタル)には逆の効果、「負の外因性」がある。自分お収入が上がると、周りの人の幸福度が下がる。というのは、お金は社会においては相対的にしか価値を持たず、一人の収入が上がると、周りの人は相対的に収入が下がったように感じてしまうからである。

何を書こうとしているのかわからないとよく言われる。無理もないと思う。ここまで書いている途上で、まったく意識はしなかったものの、ひとつ挙げておかねばならない人名に言及しておきたい。

アダム・スミスの『道徳感情論』の立場可換性をリベラリズムの基礎に置き、正の社会的価値へのあえてするコミットメントを説き、そのコミッターが持つ倫理性の伝染力に賭ける、といえば日本一の社会学者である宮台真司。どの分野を調べていても、彼の主張に突き当たってしまうのには、ほとほと敬服してしまう。これから本格的な自己形成を行っていく大学生や高校生には、ぜひとも覚えておいてほしい人名だ。

 ここまで、あちこちの主題へと片足けんけんで跳ねまわりながら、ずっと幸福について書いてきた。当然、自分の人生観も大きく投影されている。自分がブレることのないように、もう一度まとめ直しておきたい。

人間には共感や信頼を中心とした道徳感情が脳に備わっている。金銭的価値のような数値化しやすい短期的自己利益を合理的に追い求めるのではなく、共感や信頼などの感情を重視した利他的な社会的関係を築く方が、長期的に見ると自分を幸せにし、周囲も幸せにする可能性が高い。

たぶん、或る種の人々は「利他的な社会関係が長期的に見ると互恵的に働く」という部分を信じにくいのだと思う。「オレはアイツにあんなに良くしてやったのに、アイツはオレに何も返してくれなかった」。そんなよくあるぼやきも聞こえてくる。

忘れてはならないのは、長期的互恵原理は社会を通じて働くということだ。自分が社会のどこかの部分に対して善行を働けば、社会のどこかの部分からお返しが恩恵として返ってくるのである。大丈夫。必ず返ってくる。

美しい人生よ… 限りない喜びよ… 思わず歌い出したっていいくらいだ。 

進化心理学なんてわからないという人は、スピリチュアリズムからアプローチすると、理解がかなり早くなると思う。ここに書いた「社会を通じての長期的互恵原理」と、善行を神様がカウントして必ず「お返し」してくれるとする「神様貯金」とは、ほぼ同じコンセプトだ。

もしこの記事を読んでいる読者の中に、自分が時間や労力を費やした善行に対して、まだ見返りが充分でないと感じている人がいるなら、一番高い可能性は、今後、社会のどこかの部分から「お返し」が返ってくるケースだと断言しておきたい。

信じられないって? 「情けは人の為ならず」。「正直は最良の戦略」。道徳感情に沿った長期的互恵原理を謳った諺や警句は、どの社会にもある。ちょっとだけでいいから、信頼してもらえないだろうか。

 盲目の子犬を育てたあの少女たちは、現在20代後半になるはず。映画で主演した少女も同じくらいの年齢だ。彼女は今どうしているのだろう。どんな職業についているのだろうか。

例えば、子供たちの脳にプレ・インストールされている共感能力や道徳感情を生かして、どんどん信頼関係を結べるよう導く小学校の先生なんかになっていてくれたら良いな、そんな風に想像してみる。また、茂松崎の歌が聞こえてきそうだ。この世に大切なのは… 愛し合うことだけと…

ふと脳裡で閃くものがあった。「茂松崎」を「シゲマツ・ザキ」とは呼ばずに「シゲル・マツザキ」と呼ぶように、first name と last name の前後入れ替えの可能性を、ここまでの自分は見落としていなかっただろうか。

つまり、盲目の犬を育てた団地の近くにある「三百地」公園は、「百地三」と読み直すべきなのではないだろうか? 自分でも何を言いたいのかわからなくなってきた。誰か教えてくれないか? あなたは教えてくれる…

あ、わかった。いま自分には暗号が読めた!

え、そんな説明じゃ全然わからないって? 悪いのは私です。この場をお借りして、真摯な謝罪を捧げさせていただきます。

許してニャン