人の脆さよ、とスナフキンは歌う

「人と違った考えを持つことは一向にかまわないさ。でも、その考えを無理やり他の人に押し付けてはいけないなあ。その人にはその人なりの考えがあるからね」 

スナフキンが哲学者だというのは、現代思想界では比較的知られた話だろう。上記の引用部分では、ドゥルーズ的な差異をあっけなく全肯定し、下記の引用部分では、ローティー的なアンチ基礎づけ主義を実践している。

「あんまり誰かを崇拝するということは、自分の自由を失うことなんだ」
「大切なのは、自分のしたいことを自分で知ってるってことだよ」 

 スナフキンは権威に依存しない旅人だ。大人になったら、どんな歌を歌うのだろう。そのスナフキンから万一電話がかかってきたら、ぜひともコメントを取りたいムーミン谷の文化習慣がある。

ムーミンたちは海水浴のときに水着を着る。それは、まあ問題ない。しかし、普段は何も来ていない全裸なのだ。この文化習慣をどう考えたらよいのだろう。

ムーミン:そんな格好ダメだよ。何も着ていないみたい。

(0:23から) 

「そう咎めている自分の方がスッポンポンではないのか」いう厳しい指摘が、ネット上で相次ぐのも無理はない。

ネット上の社会学者の指摘によると、隠したい部分を隠すという機能ゆえに水着を着用しているのではなく、「海水浴なら水着」という記号的遊戯を楽しんでいるだけなのだという。

ロラン・バルトを読んでいるにちがいないスナフキンなら、こう言いそうなところだ。

スナフキン:結局問題なのは、何を着ているかじゃないんだ。何を着ているかが問題にならないところで、空虚であるほかない記号との戯れをどこまで愛せるか、ということなんだ。

 AI時代にスナフキンがどんな歌を歌うかを考えていて、この記事を書き始めた。

これまで「ロマンティストかつリアリスト」という分かりやすい呼称を自称してきたが、最近そこに「シンギュラリタン(技術的特異点が社会を大きく変えると予測する人々)」という肩書が加わったからだ。

肩書を加えてすぐ、シンギュラリティーに立ち会ってしまった。「偽日記」経由で知ったこのニュースは、酒の肴にするのに充分な面白さがある。

人間を越える人工知能が現れ、自らの力で新たな人工知能を作り上げてゆく未来。シンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれる時系列的な瞬間は2045年頃に起こるとされていましたが、既に私たちはその領域に足を踏み入れていました。
Google Brainの研究者らが「自らの力で新たな人工知能を作り上げるAI」であるAutoMLの開発に成功したと発表したのが今年2017年5月のこと。そしてこの度、AutoMLが作り上げた「子AI」はこれまで人類が作り上げたAIよりも優れた性能を持っていたのです。

今後急速にAI化していく未来社会は、どうなっていくのか。そのスポークスウーマンとして話題を振りまいているのが、サウジアラビアの市民権を獲得したロボットのソフィー。

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(Bob Wolfenson)

ブラジルの女性ファッション誌に登場して、独特のポージングで写真撮影を終えると、ダナ・キャランが好きだとか、自分のライフスタイルを語ったそうだ。

機械翻訳で読んだところ、何とソフィーは Radiohead を愛聴しているのだとか。ひょっとしたら自分と話が合うかもしれない。

好きな色は「透明」らしい。可愛らしいピンクのブラウスを着て、アクセサリーを手に取っているところまでは良いとしても、二の腕の「透明」の使いこなし方には度肝を抜かれてしまう。女性のファッションにケチをつけて申し訳ないけれど、流行らないと思うよ、そのシースルーの使い方は。

そのソフィーが上記の動画の2:05で「人類を滅ぼす」と発言して、センセーションを巻き起こしたのが去年の話。今年に入ってから、ディープ・ラーニングで大人になったのか、「家族や子供を作りたい」と心温まる発言をしている。

シンギュラリティー以降、人類がどのようにして人工知能たちを制御していくのか、自分にはよく見えない。田中道昭の『アマゾンが描く2022年の世界』が想定するように、いずれ音楽は、各個人の嗜好を知り尽くしたAIによる自動生成となるだろう。

ロボットがまだ人間の文化の一部を愛している現段階で、そこに「人類を滅ぼさない方が、面白いことありそう」とか「ペットって、飼ってみると楽しいんだぜ」のような教育的メッセージを送っておく必要があるのではないだろうか。

本格的なシンギュラリティの到来まで、Radiohead に残された時間はあまりなさそうだ。頼んだぜ Thom Yorke!  

さて、自分が生まれる前の1964年に公開された『博士の異常な愛情』は、スタンリー・キューブリック監督の黄金期の作品だ。続く『2001年宇宙の旅』と『時計仕掛けのオレンジ』が全盛期になるのではないだろうか。

マッド・サイエンティストの代表例とういうべきなのが、この映画の狂気を象徴しているストレンジラヴ博士だ。勢力均衡論の立場から、ソ連は核攻撃されたら全世界に放射能をばらまく「自動皆殺し装置」を配備した。ところが、アメリカ軍は失態によってうっかりソ連を核攻撃してしまう。ストレンジラブ博士が「優秀な男性と美しい女性を選別して地下に匿えば、人類は生き延びることができる」と興奮して選民思想をぶちあげるところで、映画は暗澹たる幕切れへと至る。

 このストレンジラブ博士のモデルと目されているのが、数学者のフォン・ノイマンだ。

神童としてハンガリーに生を享け、純粋数学界、理論物理、応用物理、意思決定理論、気象学、生物学、経済学に足跡を残した。「人間ではなく、人間のふりをするのがうまい人間に何か別の生き物」とか「悪魔のように頭が良い」とか評されるほど、とにかく頭が良かったし、その悪魔的な頭脳で、文字通り世界を変えていった。コンピュータが発展させていく未来を、最も正確に予測していたのも、フォン・ノイマンだった。 

グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)

グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)

 

実際、メディア論史では、「1対1」のコミュニケーションが、印刷機の普及により「1対n」となって以降を「グーテンベルグの銀河系」という。それがインターネットの発達により「n対n」となって以降を「フォン・ノイマンの銀河系」と呼ぶこともあるほどだ。 

ノイマンの夢・近代の欲望―情報化社会を解体する (講談社選書メチエ)

ノイマンの夢・近代の欲望―情報化社会を解体する (講談社選書メチエ)

 

 けれど、フォン・ノイマンの悪評はかまびすしい。それも無理はない。

 普通ならまだ学生のはず。ところが、20代前半で世界的な科学者となっていたフォン・ノイマンは、弱冠30歳でプリンストン大学の最年少の教授になると、軍産複合体お抱えの科学者として「大活躍」し始める。原爆の父オッペンハイマーに乞われて「原爆製造計画」に参加すると、長崎に投下されたプルトニウム型原爆の最大のボトルネックだった爆縮法(爆縮レンズ)の開発を成功させる。原爆なければコンピュータはなく、コンピュータがなければ原爆はなかった時代。コンピュータの飛躍的発展にも貢献した上で、原爆の空中起爆を考案して、投下都市を広島と長崎に決定する徹底的討論も主導した。

第二次世界大戦後の冷戦下、1950年に遺した凄まじい台詞は、実在したマッド・サイエンティストに最もふさわしい台詞だろう。

明日ソ連を[核]爆撃しようと言うのなら、私は今日にしようとし言うし、今日の五時だと言うのなら、どうして一時にしないのかと言いたい。

悪夢の両世界大戦時代に生きつつも、理想主義をも内包していたアインシュタインオッペンハイマーと違って、フォン・ノイマンには「徳盲」と詰られるほど倫理的呵責がほとんどなかった。

一般の人が想起しやすい比喩でいうなら、フォン・ノイマンは『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐に最も近い。

ムスカ大佐:ソドムとゴモラを滅ぼした天の火だよ。ラーマヤーナではインドラの矢とも伝えているがね。

示威だけを目的に、核兵器を思わせる「ラピュタの雷」を放った後、ムスカ大佐は笑みを浮かべてそのように言う。

そのセリフの背景には、原爆の父オッペンハイマーが核実験後に呟いたセリフがある。

 我々は世界が変わったのことが分かった。何人か笑った。何人か泣いた、殆どの人は静かに居た。ヒンドゥー教詩篇バガヴァッド・ギーターの一節が心に浮かんだ。ヴィシュヌは王子に義務をするのために説得していて、心を捉えるのために多重腕の形になっていて。そうしてこう言った。「我は死なり、世界の破壊者なり」。
きっと、皆もなんとなくそう思っていた。

ロバート・オッペンハイマー


 We knew the world would not be the same. A few people laughed, a few people cried, most people were silent. I remembered the line from the Hindu scripture, the Bhagavad-Gita. Vishnu is trying to persuade the Prince that he should do his duty and to impress him takes on his multi-armed form and says, "Now, I am become Death, the destroyer of worlds." I suppose we all thought that, one way or another.

-J. Robert Oppenheimer 

オッペンハイマー上記のインドの古文書の一節を、畏敬と恐怖をもって呟いたのに対し、「我々が今生きている世の中に責任を持つ必要はない」と嘯いて、ソ連への核攻撃を主張したフォン・ノイマンの方が、ムスカ大佐に近い印象があるのは否めない。

したがって、勧善懲悪の原初的価値観に則って、フォン・ノイマンが53歳の若さでこの世を去ったのは、水爆実験で放射能を浴びたせいだという史実を強調して、ざまあ見ろと呟いてもいいし、死の床でゲーテの『ファウスト』の読み聞かせてもらいがったという逸話が、悪魔に魂を売った科学者の末路にあまりにもふさわしいと結論づけたくなるのもわかる。

 でも、それはもう、あちこちですでに言われていることだ。シンギュラリティーを今週迎えたシンギュラリタンとしては、こう問わずにはいられない。

フォン・ノイマンが本当に似ているのは、誰?

フォン・ノイマンが、24歳から2年間、量子力学に魅かれて「交際」したのは、量子力学にとって幸福なことだったと、告別式で或る物理学者が言ったらしい。ノイマンはその1925~1927年で、量子力学の理論のうちの数学的側面を完成させてしまったのだった。1927年に開かれたソルベー会議が量子力学にとって画期的なものになったのには、フォン・ノイマンの大きな貢献があったのである。

さらには、夢のフリーエネルギーの調達先となると言われている常温核融合の分野でも、その前段階となる状態方程式の解明を進め、常温核融合に途轍もなく巨大な将来性があることも見抜いていた。そればかりか、気象操作の実現可能性についても現実的なプランを持っていた。

「徳盲の大天才」。

フォン・ノイマンが本当に似ているのは、何よりも AI だと言えないだろうか? 学知横断的な大天才との称賛が確かに値する一方で、原爆投下を強力に推進して何ら躊躇うところのなかった非倫理性、そして現在進行形で実現しつつある量子コンピュータ常温核融合・起床操作の「現未来」との驚くべき暗合。

フォン・ノイマンとは、人類を凌駕したのちの AIを、どのように人類と調和的に発展させていくか、を考えるための先駆的な練習問題だった。

思いがけず数十年も早く、シンギュラリティの一端に触れた2017年12月、自分は過去の遺物ともされる驚異的なハンガリーの大天才を、そのような生きている課題として再想起したくなったのだった。

 では、その練習問題の答えは?

 おいおい、急ぎすぎだよ。過呼吸になりそうだ。フォン・ノイマンが亡くなった頃に一世を風靡したこの曲で一服しようじゃないか。分かる人には結構可笑しくて、心がほぐれるカバーだ。

「弱さ」から発想すると、分かりやすいかもしれない。

「人類を滅ぼす」といったアンドロイドのソフィア、「ソ連を核攻撃しよう」と発言したフォン・ノイマン、そして、普遍的な人間の弱さ。

この三つに共通する「弱さ」とは何だろう?

それは相手の立場に立てない「弱さ」だ。 

その「弱さ」が浮き彫りになった実験がある。上の記事で言及したのとは別の社会心理学の実験を見てほしい。

 「スタンフォード監獄実験」とは、スタンフォード大学で1971年にフィリップ・ジンバルドーの指揮のもとに行なわれた心理学実験である。普通の人々が、ある役割を与えられると、それに合わせて行動も変化するということを証明しようとして実施された。スタンフォード大学の地下実験室が監獄に改造され、新聞広告等で21人の被験者が集められた。そして、11人を看守役に、10人を受刑者役に分け、2週間に渡って、それぞれの役割を演じてもらおうという計画だった。実験が始まると、ジンバルドーが当初想定していたこと以上のことが起こったのだった。いったい何が起こったのだろう?

 
 ジンバルドーはよりリアルな状況で実験を行なうために、パトカーを用いて囚人を逮捕して指紋を採取し、脱衣させてシラミ駆除剤まで散布したという。そして、番号のついたスモックを着用させた。囚人役はこれ以降、名前ではなく番号で呼ばれることになる。足首には鎖まで巻かれていた。

 

 看守役は警棒を持ち、表情が読まれないようにサングラスを着用した。

 

 時間が経過すると、ジンバルドーが期待したように、看守役はより看守らしく、囚人役はより囚人らしくふるまうようになっていった。看守役は自ら囚人役に罰則を与えはじめ、反抗的な囚人を独房に監禁したり、バケツへの排便を強要するようになった。

 

 これはかなわないと囚人役のひとりが実験の中止を求めたが、ジンバルドーは実験を続行した。精神的に錯乱する囚人が出たり、看守が囚人に暴力をふるうようなことまで起こってきたため、経過を目撃した牧師が家族に連絡し、弁護士を通じて実験の中止が要求された。当初2週間の予定だった実験は6日間で中止されたという。

 

 ジンバルドー自身が、実験がつくり出した異様な雰囲気に飲み込まれてしまい、冷静に状況を判断することができなかったのだと後に語っている。

 

 この実験は、人間の良心や道徳心というものが、状況によって容易く変質してしまうということを証明したという意味で、人々に大きな衝撃を与えた。

心理実験で、偶発的に「役割」を与えられただけなのに、看守役は看守らしさ(冷酷さ、残忍さ)を発現してしまい、囚人役は囚人らしさ(反抗しやすさ、卑屈さ)を体現してしまって、わずか6日間で暴力や発狂が発生してしまう。何という人間の弱さ。

しかし、たぶん私たちはこの種の「弱さ」を、決して笑うことができないだろう。

 偶々その状況に陥っただけかもしれない人々に対して、私たちは「状況」と「本質」とのバランスを取り違えたりしていないだろうか。自殺者を「根暗」、失業者を「怠け者」と、根拠もなく本質的に決めつけたりはしていないだろうか。サルトル風に言えば、「状況は本質に先立つ」のに?

まずは、そのような人間の帰属能力の「弱さ」を理解すること。

そして、状況でそうなのかもしれず、本質でそうでないのかもしれないときは、その両方を見据えたまま、判断を保留したグレーの上に留まること。曖昧さに耐えること。

それが大人の優しさというものだろうし、たぶん大人になるということは、そのような人間の弱さに対して優しさをもって相対することができ、それを子供たちに言葉や行動で教えられることなのだと思う。 その「弱さ」を教えられて克服した子供たちは、必ず空の高みへと飛び立つことができるだろう。

新装版 ムーミン谷の仲間たち (講談社文庫)

新装版 ムーミン谷の仲間たち (講談社文庫)

 

 トーベ・ヤンソンは数々の書籍版で、未来の可能性に満ちた子供たちに、夢に向かってどのように羽ばたいてほしいかを、著書のいちばん目立つ場所に記してきた。アニメ版しか知らない人は、繰り返し繰り返し記してきたその言葉に、気付いていない人も多いかもしれない。

トーベ・ヤンソンはこう書いてきたのである。

夢民たち、飛ばにゃ損!

 

 

 

(検索していて、実写版スナフキンの名曲を見つけた。風貌や歌詞の内容からいって、彼がスナフキンなのは間違いないと思う)

If blood will flow when flesh and steel are one
Drying in the colour of the evening sun
Tomorrow’s rain will wash the stains away
But something in our minds will always stay


Perhaps this final act was meant
To clinch a lifetime’s argument
That nothing comes from violence and nothing ever could
For all those born beneath an angry star
Lest we forget how fragile we are

 

On and on the rain will fall
Like tears from a star like tears from a star
On and on the rain will say
How fragile we are how fragile we are

 

On and on the rain will fall
Like tears from a star like tears from a star
On and on the rain will say
How fragile we are how fragile we are
How fragile we are how fragile we are

 

生身のからだに鋼の刃が突き刺さり
流された血が夕陽に染まって乾いてゆく時
明日にでも雨が降れば血痕は洗い流される
だけどぼくらの心を襲ったものは いつまでも消え去りはしない

 

ことによるとこの最終的手段は
暴力は何の解決にもならず
行かれる星の下に生まれた者たちにはなす術がないという
一生かけて主張をねじ伏せるものだったのかもしれない
人というものがこんなに脆いとぼくらに思い知らせようと

 

いつまでもいつまでも雨は降り続けるだろう
まるで星が涙を流しているようだ
いつまでもいつまでも雨は降り続けるだろう
人というものがどれほど脆い存在か

 

(訳:中川五郎 氏 CD『ナッシング・ライク・ザ・サン』より)