私たちの目クジラを追いかけて

ニャンたることだろう。とうとう、自分がジャガーではなく猫であることを、自らばらしてしまった。もうこれはついでに、妹の子猫がいたことも話してしまおう。

大学病院に長期入院していたのは15歳の時。15歳は小児科の最年長だ。もう名前も覚えていない。チャトランとでも呼んでおこうか。3歳くらいの女の子に、実の妹より猛烈になつかれたことがある。自分のいるキリンさんの集団病室へ、一日に何度も遊びに来た。

母親がつきっきりではなかったようなので、きっと淋しかったのだと思う。絵本を読んであげたり、一緒にかくれんぼをしてあげたり。プレイルームには、隠れる場所なんてないし、それで隠れているつもりなの?と言いたくなるような見え見えの隠れ方だったので、見つけていないふりをするのに苦労した。手紙や贈り物をたくさんもらった。当時上映されていた『子猫物語』のシールや便箋が多かったのを覚えている。

15歳の男の子と3歳の女の子の組み合わせが、傍目には不穏に映ったらしい。当時は何も知らない童貞だったし、あんな可愛らしい幼児に、何もするわけないのに。

ある朝、病室を出ると、廊下のキリンのマスコットの下で、チャトランが絵本を抱いて立っていた。「キリンさんの部屋に入っちゃダメって、ママに言われたの」。

看護師に「プレイルームで絵本を読んであげてもいいですか」を訊いてから、いつものように遊んであげたが、それがいけなかったのかもしれない。

入院患者は毎日ほとんどすることがないので、ほとんど病室にいる。「用事」があるのは週に数回なのだが、一週間もたたないうちに、或る「用事」のときに、チャトランはひっそりと転院していった。

「ごめんね、偶々タイミングが重なっちゃったから挨拶ができないことになって」と、申し訳なさそうに看護師がチャトランからの手紙を渡してくれた。「最後まで、お兄ちゃんに会いたがっていたよ」と言い添えて。

その頃からリテラシーは人並み以上だったのだと思う。手紙の文面に検閲が入っている痕跡が読み取れた。チャトランはまだ完全にひらがなを覚えきれていなかった。ひらがなの「よ」を書くとき、「よ」の右上に書くべき横棒を、間違えて左上に書く癖があった。幼児にはよくある間違いらしい。最終行の「変形」の例と同じだった。

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幼児・児童心理学 (教職課程シリーズ)

幼児・児童心理学 (教職課程シリーズ)

 

 チャトランからの「最後の手紙」には、こう書いてあった。

おにいちゃんのびょうきがはやくよくなるようにおいのりしています

母親の検閲が入って、母親が書かせた手紙なのがひとめでわかった。そこに、初めて正しい「よ」が書かれていたのだ。

別に誰かが悪いという話ではない。ただ、相手が子供だと、大人は平気でこんなお芝居を上演するんだな、というのが最初に来た感想だった。早く大人になりたいな。大人になれば、こんなつまらないお芝居なんかに巻き込まれずに、きちんとした話し合いを通じて、なるべく人を傷つけることなく、物事を進められるのに。

大人になってそうではないことを思い知らされたが、記憶とは不思議なもので、あれ以来ずっと、仔猫を見るたび、「残虐」の「虐」という感じを書くたびに、廊下で絵本を抱いて自分を待っていた孤独な幼女を思い出す。「虐」の漢字の下を書こうとするとき「ヨ」だったか、その逆だったか、一瞬迷う癖が自分にはあるからだ。

火垂るの墓』の節ちゃんばりの言い方で「血いがふえんのよ」とチャトランは病状を教えてくれた。何らかの造血障害を抱えていたのだろうか。大学病院では、棺に入って病棟を出ていく子供が多かった。生きていればアラサーだ。新しい自分の娘を抱いていてくれると、兄猫としては嬉しいニャア。

新しき入院先へ行きしまま行方不明の妹こねこ

 という挿話を書き残していたくらいで、あとは全部、連日連夜の記事更新で書き切ってしまった。もう何も書くことはないな、と図書館で溜息をついていた。

睡眠不足や疲労のあまり、血が淀んで、図書館のソファーで居眠りをしてしまった。5分間くらいの短時間うたた寝を三回。母似の自分は繊細で、父似の実の妹とは違って、どこでも寝られるような体質ではない。図書館のソファーで微睡みながら、まるで実の妹みたいなことをしている、ひょっとしたら、上の挿話のどこかに、妹につながる執筆の種が眠っているのかもしれない、妹が学生時代に参加したケニア人道支援の話だろうか…… そんなとりとめのない連想を追っていた。 

 そういえば妹は小学校の頃からどこでも深い眠りに落ちる癖があって、子供部屋が同じだった小学生時代、兄貴の自分はよく悪戯を仕掛けたものだ。一番面白かったのは、寝顔に落書きをする悪戯。おでこにマジックで漢字一文字を書き入れるのが定番だった。もちろんその漢字とは「肉」。小学生だけがする朝の集団登校のとき、友人に驚かれたと聞いて、腹を抱えて笑ってしまったが、時効だ。憎まないでくれ、妹よ。

はっと目が覚めた。15分の仮眠でも、必要な仮眠は精神をリフレッシュしてくれる。立ち上がって洗面所へ向かった。鏡を見ると「肉」の文字は書かれていない。リフレッシュした頭が、今晩書くべき内容を教えてくれたのだ。いま頭がフレッシュな人なら、誰でもわかるのではないだろうか。

「残虐な」「検閲」「肉のなさ」と来れば、米国による対日占領政策しかないだろう。

そう思って図書館の本棚を探すと、本当にその方向性の本が見つかった。 

頭の混乱はまだ続いていたようだ。いま人名を混同していたので書き直すと、この本では、食糧問題と戦争の相関性の観点から、戦前戦後の日本を概観している。戦前戦後、国内外を含めて、資料に基づいた実証的な記述がなされているので、右派のデマゴーグ本とは一線を画していて、安心して読める。

 要旨を私流にまとめるとこんな感じだろう。

「人口急増→貧困化→食糧難→戦争」という論理階梯が確実に存在する。また、階級格差が大きいほどこのプロセスが進行しやすい。 

 面白い記述も見つかった。第一次世界大戦で敗れたドイツに巨額の賠償金を課すと、必ず食糧問題を引き起して次の戦乱が巻き起こるだろうと、イギリス人のケインズが懸念していたのだという。

敗戦後の日本が、食糧難を乗り切るために、当時農業大国化しつつあったアメリカから食料を輸入し、「見返り物資」として工業生産品を送り返すという輸出入関係を迫られて、産業立国化した経緯もわかりやすい。日本は炭水化物を得るため、はたまたその先の肉を得るため、敗戦後の従属関係の中で工業生産国となったのだ。

どうやら上のフローチャートの汎用性は高そうだ。サミュエル・ハンチントンよりもエマニュアル・トッドを援用すればさらに固さの増す論考のように見えた。(『文明の衝突』については少しだけ下記のように書いたことがある)。

悪評喧しい「近代の超克」の荒唐無稽性だって、そのアメリカ版たる『歴史の終わり』が、ネオコン系の人脈に近いフランシス・フクヤマによって書かれたという事実だけでなく、彼が同じく荒唐無稽な『文明の衝突』を書いたサミュエル・P・ハンティントンの弟子であり、しかも師匠は師匠で(この記事で書いたように)「最終解決強制収容所」に似たFEMAを創設したという事実だけで、彼らの思想が(悪魔のという形容詞句をつけたくなる)プロパガンダにすぎないことはわかるはずだ。

さて、ちょっと気になったのは、日米開戦に至る直前の日本の対外政策の動きだ。

高橋英之が示唆するように、しばしば日本の右派が「開戦やむなしに日本を追い込むための経済制裁」として話題に挙げる「ABCD包囲網」は、それより以前に第一世界大戦後の各国の保護貿易主義拡大は認識されていたのだから、少なくとも仏印進駐以前の貿易関係を維持したまま、生産性増大を目指すべきだったと自分も思う。

そこでまたしても、「植民地放棄」「小日本主義」「貿易立国」を唱えた石橋湛山の偉大さを讃えてもいいが、この話にはもう少し先がありはしないだろうか。 

日米開戦の正体――なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか

日米開戦の正体――なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか

 

というのも、元外務官僚の孫崎享の『日米開戦の正体』でも、右派的でもなく左派的でもない「真の保守」の系譜につながるだろう記述が、たくさんあったからだ。

まずは現在の歴史教科書の記述から。

十一月二十六日のアメリカ側の提案(ハル=ノート)は、中国・仏印からの全面的無条件撤退、満州国汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の実質的廃棄など、満州事変以前の状態への復帰を要求する最後通牒に等しいものだったので、交渉成立は絶望的になった。 

 これに対して、ハル=ノートは最後通牒などではなく、受け入れ可能な通告だったと証言する政治家がいたと、孫崎享は指摘する。

  • (米国が提案した米・英・蘭・華・ソを含めた)多辺的条約の締結が何故悪いのか。
  • 仏印の領土に関し、日・米・英・蘭・華・タイの六か国間に協議条約を締結し、仏印における経済上の平等原則を確認することが、何故に到底同意できないのか。 
  •  仏印、さらにことに中国からの日本軍隊の撤退は陸軍としては耐えられないものであり、四年間にわたる日華事変の犠牲を無にするものだと思い込んでいたことは事実である。東條陸相が十月十二日の萩外荘での会議の際、「撤兵問題だけは陸軍の生命であって絶対に譲れぬ」と、強く主張していたが、これは日本陸軍だけの特有の考えであるという意外にはたしてどれだけの正当性があっただろうか。

 日米開戦を、(自主的に、あるいは工作員として)、すでに肚で決めていた個人や組織が、開戦の口実としてハル=ノートを利用したのが実態だったのではないだろうか。孫崎享の記述を読むと、そんな判断を持ちたくなる。

この本が面白いのは、世界史的に見て、日米開戦がどれほど莫迦莫迦しい愚挙だったかを嘲笑したアメリカ側の証言を引いているところだ。

 日本が一九四一年に下した米国攻撃の決断はまったく合理性に欠け、ほとんど自殺行為だったと考えられている。

(米国陸軍戦略研究所所長ダグラス・C・ラブレース)

 我が国を攻撃すれば、日本にとって破滅的な結果になることは、少し頭を使えばどんな日本人でもわかることだ。

(元国務次官補ディーン・アーチソン)

 その原因まで、アメリカ人が分析してくれている。親日派だったライシャワー元駐日アメリカ大使は、あっさりとこのような趣旨の断言をしている。

日本人が権威に弱く、日本社会が全体主義の無差別奴隷社会だからだ。

 要するに、私たちに拭いがたい後進性があることを認めることから、私たちは出発しなければならないということだ。つまりは「黄色い猿の国」から出発だぜ。その意味では、大学一般教養レベルの社会心理学を、同じ章で孫崎享が引用しているのは、現実主義的な説得力がある。ハル=ノートを契機に開戦強硬論を唱えた陸軍の主張は、一貫性バイアスや「フット・イン・ザ・ドア」のバイアスと、少しも変わらないのではないだろうか。認知的不協和の非合理的解消? 基本的な帰属のエラー? 大学時代に読んだので、個人的に懐かしく感じられる概念群だ。

けれど、18歳にわかるリベラル・アーツなら、どんな大人でも理解できる程度のものだし、それが短期間で学習可能であることを、幸福なことだと捉えたい。

ところで、この記事を書いている途中で、髙橋英之と高橋史朗を取り違えていたことに気付いた。最近、霊感やインスピレーションに愛されている自分は、このシンクロニシティーから何かを引き出せるような予感にしばらく包まれて、茫然と戸惑っていた。

シンクロニシティーに詳しい秋山眞人は、シンクロニシティーに音韻の共通性を活用したものがあることを証言している。

ちなみに、文脈上の偶然の一致の方も確認しておくと、ハル=ノートを受け入れ可能なものだったと証言した政治家とは、有田八郎。戦前戦中に外務大臣を務めた政治家で、三島由紀夫が左翼だと誤認されてノーベル賞を逃した『宴のあと』のモデルだった。三島とは、戦後初のプライバシー裁判を争って、和解している。

自分がファーストネームを見誤った高橋史朗は、30歳で留学して、アメリカの公文書研究に没頭した人物。江藤淳を導いて占領期の研究を支援したことでも知られている研究者だ。

ほら、ここへ帰ってきたのがわかるだろうか。10年以上前に描いたブログ記事。この方向性で、自分は中編の小説も書いたのだった。

また他愛のない偶然を強引に結びつけて、我田引水の文脈を捏造しているって?

そういわずに聞いてほしい。この記事を書いている途中、どうして自分がラストネームを間違えたのか、もしそこに偶然とは思えない偶然の意味があるとしたら、たぶんそれがとても大事なメッセージだと思うから。 

この本のあとがきは、このような一文で締め括られている。

最後に、占領下に生まれた私に、日本下歴史を明らかにしてほしいという願いから「史朗」と名付けてくれた亡き父に感謝したい。

(この手前までは本気。ここからは冗談)。

これを読んだとき、思わず自分は目くじらが熱くなってしまった、と書いた「目くじら」は「目頭」の間違いだ。「よ」く確認して書かなくては。

ん? どうして間違えたのだろう。「失敗は成功のマザーです」という名言を残した国民的英雄の和製英語「メイク・ドラマ」に似た言葉だな、「目くじら」は。

そうか、わかった! これはきっと、「Make the Era!」というこの国の死者たちからの気合のこもった「喝」なんだな。 OK。たぶん自分はそういう役回りだ。もう少しわかりやすく言い直そう。

国民的英雄の言うよう、日本が永遠に不滅であるために、黄色い国の猿たちよ、歴史を学ぼう! 新しい時代を共に創ろう! 知ろう! 知ろう! 知ろう!