明日の気分はジョージョーだ

スティーブ・ジョブズが製品デザインだけでなく、デバイスを駆使したライフ・デザインにも炯眼を持っていたことは、よく知られている。

 アップルとかかわるすべてのデザインが自然とつながっていき、そのつながる先に、ほかのメーカーやブランドで味わえないもてなしが満ちている。 

アップルのデザイン

アップルのデザイン

 

 ここまでで「ライフ・デザイン」とか「もてなし」とか言われている部分が、「ユーザー・エクスペリエンス(UX)」に相当する。かつてのソニーウォークマンで革新的なUXを提供したのを例外として、日本のモノづくりは技術志向(ハイスペック志向)に偏っているので、市場で伸び悩みやすいことで、多くの識者が一致しているようだ。

その意味では、アップル・ウォッチも優れたUXを提供してくれそうだ。電話、メール、音楽、写真、心拍測定… 使い始めた人が手放せなくなると言うのもわかる。切り離せない片腕のようなものになるのだろう。

「美しい日本の私」を国際的な舞台で語った作家に、美女から片腕を切り離してしまう話がある。wikipedia であらすじを読み返しただけでも、川端らしさの真骨頂が出ている短編なのがわかる。急いでいる読者はゴチック部分だけでも、どうぞ。 

 「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」と娘は、右腕を肩からはずし、「私」の膝に置いた。その若い娘の袖なしの服の肩や腕を「私」がきれいだと思っているのに気づき、娘は片腕を貸してくれたのだった。雨もようの靄の夜、「私」は大事に外套の中に娘の腕を抱きアパートに帰った。
「私」は、娘の片腕をベッドの上に置いてくつろぎ、娘の腕と会話し戯れながら、以前関係した女たちのことを思い出したりした。ベッドに入り、「私」はゆかたをひらいた胸に娘の腕を添寝させた。娘の手首の脈と「私」の心臓の鼓動が一致してきて、片腕は安らかに眠った。
「私」は枕元の明りをつけ、娘の腕をしみじみ眺め、「これはもうもらっておこう」と無意識につぶやき、うっとりしたまま自分の右腕を肩からはずして、娘の腕とつけかえた。だが娘の腕が自分の感覚として感じられず、「遮断と拒絶」があった。「私」が娘の腕に、「血が通うの?」と訊くと、「“女よ、誰をさがしているのか”というの、ごぞんじ?」と娘は聖書の言葉を言った。娘は夜中に目が醒めるとこの言葉をよくささやくのだという。
娘の直角に曲げた小指と薬指の一辺でできた四角の窓から、「私」は「たまゆらの幻」を見た。娘は、「私」の過ぎた日のあこがれやかなしみの幻を消しにきたと言った。やがて娘の腕の感覚が自分の知覚になってきて「遮断と拒絶」がなくなった。自分のような汚濁の男の血が娘の腕に入っては、元の娘の肩にもどる時に支障がないか「私」は心配になったが、いつのまにか、そのままうっとりと深い眠りに堕ちた。
突然、横腹に触る「不気味なもの」に驚いた「私」は、「ああっ」と叫んで飛び起き、ベッドに落ちている「私」の右腕を見て戦慄する。次の瞬間、「私」は「魔の発作の殺人」のように、娘の腕を自分の肩からもぎ取り、「私」の右腕とつけかえていた。
動悸がしずまるにつれ、「私」は「自分のなかよりも深いところ」から悲しみが噴き上がるのを感じた。投げ捨てられた娘の片腕は、手のひらを上向けて指先も動いていなかった。動転した「私」は娘の片腕を拾い、「生命の冷えてゆくいたいけな愛児」のように抱きしめ、娘の指を唇にくわえた。その爪と指先のあいだから、「女の露が出るなら……」と思いながら。

片腕 (小説) - Wikipedia

これは受験国語には出題しづらい短編だが、川端康成の穏当な主題の短編は、よくセンター試験に出題されるのではないだろうか。19歳の自分は、三島由紀夫全集を読み飛ばしたり、地元大学の劇団に加わったりと、勉強以外で多忙だった。ただし、川端康成好きの名予備校講師の授業は積極的に出席した。三島より川端が好きと仰っていたように記憶する。 

東大現代文で思考力を鍛える

東大現代文で思考力を鍛える

 

 その祖父にあたる出口王仁三郎Apple Watch を予言していたことをご存知だろうか。敗戦直後に亡くなったのに、生前に、テレビもリニア新幹線も風力・潮力発電も、すべて予言していたのである。 

注目すべきは、以下の部分だろう。

「電線が地上に張りめぐらされているうちはだめな世の中で、『ミロクの世』になればそんなもんはなくなる」

彼はこうも言っています。

これは電線が地下に移されるというより、自家発電が一般化することを意味しているのではないでしょうか。しかも、今の太陽光・風力・ガス式の自家発では、とても送電網の廃止には至りませんから、どうやらフリーエネルギーが実用化されるようだ。

この革新的な自家発システムの普及によって、本当の「エネルギー革命」が起こり、送電線・鉄塔・電線・電柱はおろか、電力会社すらも要らなくなる・・・王仁三郎は「ミロクの世」をそんなふうに描写しているように思えます。 

 出口王仁三郎自身にも予言は降りるが、大本教に近い場所にいた岡本天明に降りた「日月神示」が、この種の予言の中では最高の結晶度を感じさせてくれる。自分は夢中になって読んで、人生観が変わった心地がした。主観的な感覚なので上手に言葉にできないが、屋久島を訪れる旅行者が「屋久杉に呼ばれたので来た」とよく答える感じに近いかもしれない。心のどこかで「呼ばれた」感覚を感じたのだった。

日本の前途を憂いて割腹自殺した三島由紀夫も、若い頃「日月神示」に遭遇している。しかも、友人たちと連れ立って、岡本天明自身に霊言が降りる場面にも立ち会ったらしい。ほとんど実話だと推測できる極小サイズの短編が残されているのだ。

 戦争末期のT大学の法学部は神奈川県下のある海軍工廠へ動員された。木の香だけは新しい二階建てのバラックが学生たちの宿舎であった。

 私は軍隊毛布を窓へかけて西日をさせぎり、暇さえあれば六法全書を枕に昼寝をしていた。六法全書はコリコリと固くて、昼寝の枕にもっとも適当であった。 空襲警報で待避するとき、私が一番逃げ足のはやいことも知れわたっていた。

 尤も戦争末期には、命惜しげに振る舞うのが、(私は本当に惜しいのだが)却って一種のインテリ的ヒロイズムみたいなものになっていて、私がそれをやっていると思われるのは心外だった。

 そのころ一人の学生が珍重している奇怪な写本の噂が伝わっていた。その学生Sは、実業家の父親をその春南方へゆく船が撃沈されて失うと間もなく、母親を神戸の空襲で家もろとも亡くしてしまった不幸な人だった。四十九日も明けぬ不幸にめげず、彼が明るい顔をしているのは、父母が信じていたある新興宗教に帰依しているからだと言われた。

 Sの部屋へある夜ぶらりと訪ねてゆくと、私ともSとも同級の学生たちが四、五人思い思いの恰好をして、Sから写本の説明をきいているところであった。それは教祖が深夜祈祷のあげく神がかり状態になり、自動筆記した墨書の原本だという。

 和綴じの鳥の子の帳面に、一字もよめない雲のような字体がうねっていた。これはみな数であらわしてあるのだとSはいう。十はとであり、九はくである。そう思ってよむとよめそうに思われた。その新興宗教大本教系統らしき神の示現によってひらかれ、「よいむなや、こともちらろね、しきる」何とかかんとかといういろは歌を呪文に用いていた。

 週に一ぺんは神社の予言があり、それがこの秘密の写本なのだ、とSは特高を憚って皆の口を封じたすえ、『北が光るぞ、北に気をつけよ、猫のあとに犬が来るぞよ』などという荒唐無稽な予言を、うすぐらい管制用電球の下で読みあげはじめた。 荒唐無稽と言ってしまえばおしまいで、奇妙に親しげな卑俗な文体のその予言は、気持ちの中へぬるぬると這い込んできて追い出すことができない。

 また今晩も東京の空が真夜の夕映えのように不吉な赤さに染まり、近くにあるべき米国軍の敵前上陸もここから程遠からぬ相模湾を狙うにちがいないなどと思うと、私たちは顔を見合わせて微笑するが、誰一人この予言に心をゆすられていないのはなさそうである。

 たとえばこう思うそばからその予言は『白き人、中つ国にあらわるるぞ。白き人というは別のことではないぞよ』などと故意か偶然かおあつらえむきにつづくのである。

 その二三日のち教祖のところで祭典がひらかれるから列席しないかとのSの誘いに、物好きについて行ったのは私と高等学校時代資本論を読破したというNと詩人肌のKと将来法律学者になるつもりのOの四人であった。

 教祖は日本画家の由で、小田急線のあまり人の下りない駅のすぐ裏手に、なかなかハイカラな洋館に住んでいた。 Sは勝手知ったる様子で奥のほうで何やら相談に加わっていたが、そこへひからびた小男が入って来て挨拶した。教祖であった。

 松葉を巻いた手巻煙草をすすめられたが、四人とも一トのみして咳がとまらなくなった妖しい煙草を、教祖は平然と吸っているので、きっとどこかしらえらい男であろうと思われた。家中人の出入がはげしく、信者たちが常人とかわらぬ時候の挨拶をして大声にわらっているのが却って異様なものにきこえた。

 その日は初夏のきわめてよい日和で、祭典はうしろの山の中腹で天日の下にひらかれるのだと私たちは告げられた。その前にみそぎが要求されたが、私は頭にタラタラと水をふりかけて済ました。唯物論者Nは褌一本になって大童であった。

 山の中腹はきれいに切り拓かれてところどころにひょろ長い松が残されていた。子供の砂あそびを拡大したように、富士を中心に七つの山と七つの湖が土で象られ築かれたおりその一つ一つに七五三縄が巻いてあった。富士山の前にだけ鳥居があり、榊の代わりにすべて松が用いられた。

 列席者はもっとも熱心な信者である赤ら顔の退役中佐や、蒼白でしじゅうぶるぶるふるえている神経病の青年や、霊媒の役をつとめるモンペ姿の大佐未亡人など信者二十数人と私たちとである。

 未亡人は目をつぶって何か呟き出した。ややあってがくりと崩れ折れた末我にかえると、彼女は信者のほうをふり向いて、『只今、いよいよ煎豆に花が咲くぞよとお告げがございました』と感激的な口調で言った。信者は一せいにお辞儀をし神経症の青年はそれをきくなりテンカンを起こしたのか倒れかかって信者に援け起こされた。

 この明るい初夏の空の下に行われた神託が何故か落花生を連想させたので私は腹が空いているのを感じた。それが恐怖を忘れさせた。恐怖は忘れた代わりに、人間が一体何のために何をやっているのか、その時から私にはよくわからなかった 。 

三島由紀夫集 雛の宿―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)
 

 三島由紀夫を常人より遥かに詳しく知る人間の一人として、感慨に堪えないのは、憂国の情による割腹自殺へ至る「兆候」が、人生の間に何度も訪れているのに、それに気付くべきでないときには気付かない運命を辿るという逆説だ。

ちょうど三島を評論したがる初心の書き手が、三島の作品や実人生のあらゆる断片に、その「兆候」を読もうとするのとは、実態は正反対なのだ。三島由紀夫は、大本教の周辺に生起した「日月神示」にも上記短編のように冷淡だったし、70年安保闘争の対抗勢力の一派として割腹する以前、60年安保闘争のときには、その国家的大騒動の原因を「岸信介がニヒリストだから」という人格問題に帰したエッセイを遺している。

これは、おそらくどの三島研究者も言及したことがないと思うが、当時の三島の思想的位相は、後年出現したスローターダイクに近かった。三島ほどの天才でも、未知の渦の真っ只中にいるときは、何を追うべきなのかを見誤りやすい。 

シニカル理性批判 (MINERVA哲学叢書)

シニカル理性批判 (MINERVA哲学叢書)

 

蓮田善明が上官を射殺して自らも拳銃自殺したのは、上官が「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」からだという。出征前に、16歳の早熟の天才三島由紀夫を「悠久な日本の歴史の請し子」と激賞した蓮田善明の記憶が、三島由紀夫の中で回帰してくるのは、時が成熟しきった四半世紀後だった。

戦時中、20歳前後だった三島は、日本の神々しい復活を説く大本教を、「邪教」だとして冷淡に退けた。その四半世紀後、大本教の分派で「神の国」日本を説く「生長の家」の谷口雅春に、三島は面会を申し入れている。「自分の行動を理解できる唯一の人物」だと考えて、割腹自殺を決行する一週間前、どうしても逢いたくなって不意の訪問をしたのだという。

何を伝えようとしているかわかるだろうか。生まれる前に「どうしてもこのことをやり遂げたい」 と神々に懇願した「ミッション」は、この世に生まれて記憶がすべて消えた後も、きっと形を変えて何度も何度も、その人の眼前に出現するのだ。

蓮田善明論/戦時下の国文学者と〈知〉の行方

蓮田善明論/戦時下の国文学者と〈知〉の行方

 

そして…… 最近の自分がふとした瞬間に感じるのは、「日月神示」の或る部分が、回帰してきている感覚だ。

石屋の仕組みにかかりて、まだ目覚めん臣民ばかり。日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。今度は神があるかないかをハッキリと神力見せて、石屋も改心さすのぞ。

 アイカギ (…) コノカギハ イシヤト シカ テヲニギルコトゾ 

魂の叡智 日月神示:完全ガイド&ナビゲーション (超知ライブラリー)

魂の叡智 日月神示:完全ガイド&ナビゲーション (超知ライブラリー)

 

初読では、この部分が最も自分に響かなかった部分だ。いま手元のブログ記事で簡単に数えられる事案だけ数えても、たちどころにこんな三連リストができてしまう。

その直後からの、日航機「墜落事故」+プラザ合意、バブル崩壊、オウム+阪神淡路大震災東日本大震災……。同じく冷戦以降、日本国内では半島系巨大宗教団体によるマイノリティ支配の強化が進み、海の向こうでの反日感情に呼応するように、国内でも反中嫌韓感情が高まった。

どれほど冷静に情報を分析しても、これらすべての背景に、アメリカ諜報組織の暗躍を認めないことは難しい。

「予定通り」、原発の安全装置は外され、東日本大震災が発生し、原発メルトダウンした。この「予定通り」という副詞句は、事実として、上の文章のどこまでを修飾していると解釈すべきなのだろうか。 

東日本大震災後、テレビで執拗に反復されたこの「検診のすすめ」の背後では、日本の未成年の少女たちへの「予防ワクチン接種のすすめ」が国策として進められていた。2010年から2013年まで、子宮頸がんワクチンの予防接種は、厚生労働省によるワクチン接種「緊急促進」事業だった。

何をそんなに緊急に急いでいたのだろうか。間に合わせなくてはならない「予定」でもあったのだろうか。その3年余りのあいだ、日本の未成年の少女たちの接種率は7割弱にまで高まったという。

まったくナオミ・クラインの言うとおりだ、と溜息が出てしまう。甚大なショックを与え、人々の脳を「白紙状態」にして、同一情報のシャワーによって洗脳する。…… 

それでも、最終的な金融戦争の果てに、99%の私たちに残されているものが何なのかだけは書いておきたい。それを映し出している動画は、人々に強烈な恐怖をかきたてずにはおかないだろう。

「空中キャンプ」と火葬で始まったこの記事。私たちを待ち受けているものを、concentration camp、つまり「集中キャンプ」と書くと誤訳になる。正訳の「強制収容所」めいたFEMAキャンプでの土葬なのだと、正確に言い換えておきたい。

連中は本気でアメリカを終わらせるつもりだ。 

強制収容所への移送の口実に使われるのは、国軍が自国民のために使用する生物化学兵器で、その事前訓練(!)に参加した女性兵士から、実際の書類画像付きで告発がなされている。 

自国軍が生物化学兵器を自国民に使用する可能性について、元CIA作戦要員から、これも事前に警告がなされていた。

自分も、CIAによる生物兵器の開発と自国民への使用について、この記事で簡単に触れた。

mega-death は笑って済ますことのできる駄洒落ではなく、まさしく洒落にならない事態だとしか言いようがない。もちろん日本は「植民地」なので、宗主国の命令通りにFEMA キャンプの創設が進められようとしている。 

 このような1%グローバリストたちの陋劣な奸計に対して、私たちが「人間の羊sheeple」以外のどんな行動を取りうるかを、昨晩ずっと考えていた。

ユダヤ研究の周辺を探索してまわったが、なかなか判断の難しい書籍が並んでいた。アカデミシャンの側からは、この著作の出来が素晴らしいと感じた。 

日本人の“ユダヤ人観”変遷史

日本人の“ユダヤ人観”変遷史

 

 類似した論旨の新書版なら、読みやすいこれだろうか。 

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

 

 逆に「陰謀論」のユダヤ研究の最大の傑作は、太田龍によるものだろう。 

猶太(ユダヤ)国際秘密力

猶太(ユダヤ)国際秘密力

 

 「陰謀論」研究のトゥルーサーとして名高いアマノウズメは、「覚醒シリーズ」の力作動画群の最後を「日ユ同祖論」で結んでいる。

「日ユ同祖論」の書籍版としては、この本が充実していた。 

 真実はあまりにも錯綜していて、一晩で正しい道を立証することはできそうにない。ただ、最大の感想としてどうしても書きつけておきたいのは、「シオニズム」に対する研究がまだまだ不足しているという事実だ。  

シオニズムとは、世界中に離散したユダヤ人たちを糾合して、イスラエルの地(パレスチナ)に国家を樹立しようとする運動のこと。ヒトラーによるユダヤ人大虐殺は、シオニストユダヤ人たちの故郷創出の欲望に、ナチスが協力して実施された強制民族移動運動だった可能性を指摘する声も、後を絶たない。だからその「民族的偉業」を主導したヒトラーは、敗戦をやすやすと生き延びたのだろう。

ネット上でこの「逆説的奸計」に最も詳しく解説しているのが、このサイト。長大なので、冒頭だけ引用する。 

シオニストたちが最も恐れていたこと、それは反ユダヤ主義者たちの策動ではなくて、むしろ、世界のあちこちに散らばっているユダヤ人たち(ディアスポラ)が彼らの民族としてのアイデンティティを失って、それぞれの住む国家社会に「同化」してしまう、ということだった。


金沢大学教授で中東現代史専攻の前田慶穂氏は、『ユダヤ人とは何か/ユダヤ人1』という本の中で、ナチスシオニストの協力関係を指摘している。

「ナチ党が政権を獲得した直後の1933年、『世界シオニスト機構』の議長代理だったユダヤ人ヨアヒム・プリンツはこう書いていた。『強力な勢力(ナチス)がわれわれの支援に訪れてくれ、われわれを改善してくれた。同化論は敗れた』と。」  

ナチスとシオニストの協力関係

しかし、この周辺の論点それぞれに結論を出すことは、私たちにとって必ずしも優先すべきことではないのではないだろうか。

1%グローバリストたちの人種構成どのようであれ、彼らの目的は、地球の資源が消尽しきらないように、世界人口76億人をその1/10程度に削減することにある。70億人ぐらいを殺したくてたまらないのだ。 

では、フリーエネルギーが開発されて、地球の資源が持続可能であるという見通しが、遠い未来までほぼ確定したら?

再び「日月神示」が別の意味を持ってこの状況へ回帰しているのを、このブログの読者なら感じられるのではないだろうか。

石屋の仕組みにかかりて、まだ目覚めん臣民ばかり。日本精神と申して仏教の精神や基督教の精神ばかりぞ。今度は神があるかないかをハッキリと神力見せて、石屋も改心さすのぞ。

 アイカギ (…) コノカギハ イシヤト シカ テヲニギルコトゾ 

1%グローバリストのなすがまま。サンドバッグよろしく、無防備な身体に好きなだけパンチを打ち込まれていた「あしたのジョー」に、最後の最後、クロスカウンターを打ち込む「一厘」のチャンスが残っているような気がしないだろうか?

どの予言がどの程度あたっているかは、あまり重要ではない。

ただここ数日、自分の頭からある確信が去ろうとしない。それは、フリーエネルギーを開発するのが日本人の運命的な役回りなのだという確信。 

バシャール: 前にもお伝えした通り、日本の方は「共同で作業する」ということにとても慣れていて、非常に効率的に組織として動くことができます

ただし、もう少し個性、「個」というところにフォーカスを置いて、たとえば「集団のなかにあっても個人の力をどう発揮していくか」という考え方に立っていくと、たとえば何かを創るという形で、世界に貢献することができてくると思います

そのうちのひとつは、たとえば、先ほどの無限大のエネルギーをつくる、ゼロポイント・エネルギー、フリーエネルギーなどのデバイスですね

(…)

日本にはすでに、そのためのリソース(資源)があり、テクノロジーがあり、共同作業するという能力も持っているというわけですから、ゼロポイント・エネルギー・デバイスを迅速に創ることができます

ただ、その大義のもとに、行動に移していくかどうかは、皆さん次第です

(強調は引用者による) 

BASHAR 2017 世界は見えた通りでは、ない バシャールが語る、夢から覚めてありありと見る、世界の「新しい地図」。

BASHAR 2017 世界は見えた通りでは、ない バシャールが語る、夢から覚めてありありと見る、世界の「新しい地図」。

 

 上記の本の発売は2017年10月、バシャールとのセッションは7月だった。時間が経過するにつれて、バシャールが暮れるヒントはより具体的になっていく。約一ヵ月前のセッションでは、こんな具体的な発言が飛び出したらしい。

2017年11月11日のバシャールの公開セッション@オークランドのQ&A時に、「日本人が、世界のために、取り得る役割」についてたずねた日本人女性(小林ますみさん)がいました。


バシャールの答えは、
「日本は、主に、三つの領域で役立つことができます。日本が、地球に対して大きなインパクトを与え得る、三つの分野があります
とのこと。

  1. 人工知能
  2. フリーエネルギー装置(free energy devicesと複数形で述べていました)
  3. ひまわりの化学的構成物質の性質とひまわりの種の性質とに注目し、その性質(それらの性質)を理解することが、放射能によっておこる病気の予防と治療につながります
 これらの分野に関心を持ち、これらの分野を前進させることに情熱をもって取り組もうとする人々を結集し力を合わせることができれば、日本は、世界に大きなインパクトを与え得ます

今晩の記事の諸々の論点に、どこまで信憑性を感じてもらえるかはわからない。

少年期に影響を受けた三島由紀夫を出発点にして、現代の日本がどれほど無惨に蹂躙し尽くされ、「永続敗戦状態」にあるかを書いてきた。ここ数週間は、量子コンピュータ人工知能やフリーエネルギーなどの最先端技術に、アカルイミライがありそうだと書いてきた。

そして今晩逢着したのは、おそらくはすべてが日本の神々によって予言されていた道筋に、1%グローバリストたちの陰謀や奸計を溶融させる形で、日本から世界の闇を砕破する光明化の運動を起しうる「神一厘」に似た希望の可能性だった。

たぶん今の自分に思い描ける終着点は、ここだと思う。

 

 

これを書いている途中で降りてきた「あしたのジョー」のインスピレーションについて、個人的な追記をしておきたい。

作・演出・主演で打ったその芝居の内容を要約するのは難しいが、ヘッセ『車輪の下』的主人公の少年が約束に遅れたことで、ヒロインの少女が怪人20面相一味やらサルバドール・ダリやらに狙われて、明智探偵率いる少年探偵団の助けを借りつつ、車輪の下(ゲ)経由の「ゲゲゲの鬼太郎」、車輪の上(ジョウ)経由の「あしたのジョー」らも関わっての大混乱の大闘争の中、主人公の少年が誤ってヒロインの少女を刺殺してしまうも、世界の時の流れを何とか止め、時間の円環の上(車輪の上)を少年が少女との約束を果たしに際限なく走っていく、という脚本だったはず。

ヘッセ『車輪の下』は、社会との軋轢の中で才能を潰されて、主人公が溺死してしまう小説。「上」へあがるには「あしたのジョー」の最終場面のように「完全燃焼」しなくてはならなかった。そして、最後の最後、倒れ込んでいた主人公は顔を上げる。

 この曲を聴くたびに、舞台上で絶望の果てに倒れ込んでいた自分が、ふと魅入られるように虚空を見つめ、「虹が見える」とかすかな声で呟く場面を思い出してしまう。 

立ち上がって、輪廻の「車輪の上」を全力で走っていくのは、目の前で刺殺によって落命した「永遠の恋人」に再会するため。その「永遠の恋人」は三島と共に割腹自殺した青年と同じく「神とつながった日本」なのかもしれない。

何を伝えようとしているかわかるだろうか。生まれる前に「どうしてもこのことをやり遂げたい」 と神々に懇願した「ミッション」は、この世に生まれて記憶がすべて消えた後も、きっと形を変えて何度も何度も、その人の眼前に出現するのだ。

戯曲の主人公を「車輪の上」へと導いた「あしたのジョー」は、最終回で完全燃焼の完全さによって「真っ白な灰」になる。それもいかにもバシャール的なら、自分が高校時代に「二代目頑張T」をデザインしたときに書き込んだ言葉も、いかにもバシャール的だった。

情熱がすべて決める