子供たちの内側に向日葵の種を

この記事の最後で「あしたのジョー」に言及したので、矢吹丈の必殺技「クロスカウンター」を自分が放ったことがあるのを思い出した。

自分は1972年生まれ。第二次ベビーブームの頂点の世代で、小学校の頃から無理に教室に詰め込まれたストレスからか、ヤンキー文化が隆盛をきわめていた。ジャズ好きの自分からすれば、Be-Bopとくれば、コルトレーンマイルス・デイビスになる。何だ、マイルスも知らないのか、ダンモのズージャの伴奏でよ、となるわけだ。 

ところが同級生たちに人気があったのは、漫画原作のこの映画。真似をして粋がっている奴らが多くて、正直言って鬱陶しかった。ある日、そんな風に粋がっている奴と、高校の廊下ですれ違った。東高生ではない知らない顔だった。意外にも、男は丁重な物腰で話しかけてきた。

「○○くんですよね。ちょっとお話があるので、学校の外へ一緒に来てもらえませんか」

「どうしてここで話せないんですか」

「大事な話なので、外じゃないと…」

学校の裏門を出たところで、急に男の態度は豹変した。「てめえぶっ殺してやる」とか言いながらこちらのボディーを殴ってきた。見かけた女子が「通報」して、同級生の仲間たちが助けに来てくれた。小一時間の押し問答の末、どうしてそんな話になったのかは今でもよくわからないが、自分は初対面のその男と、一対一の決闘をしなければならなくなったのだ。男は隣の松山北高の「自称番長」だった。

日時と場所が改められた。場所は司馬遼太郎の『坂の上の雲』を登り切ったところにある東雲神社の境内。胸いっぱいの不安と緊張とともに、石段を登っていったのを覚えている。境内には、立会人として、すでに東高の仲間たちが来てくれていた。ところが、北高のビーバップな連中は来ておらず、背の低い友人が一人付き添っているきり。

一対一の喧嘩が始まった。防戦一方だった。胸や腹は殴られ通しだったが、顔はよけられた。その顔を狙おうとして相手が上半身を近づけてくるのがわかったので、自分も右のフックを振るった。と同時に相手の右が自分の顔面に入った。

二人とも鼻血を垂れ流し始めた。境内の土が血で汚れ始めたので、そこで制止が入った。あとで聞いたところでは、自分のクロスカウンターの方が深かったらしい。今でも、右手の人差し指と薬指の付け根の間には、あのときの相手の歯の跡が遺っている。

二人は境内の入口にある手水で鼻を洗い、嗽をした。そのとき、自分の嗽を手伝おうとする相手の小柄な友人が、知り合いであることに気付いた。

今でもどうしても忘れられない。そいつのファーストネームは「生長」だったのだ。時々顔を出していた新宗教の高校生ネットワークの知人。後で聞いたのは、勉強もできて彼女や友人のいる自分が、気に喰わなかったらしい。「生長」くんからの謝罪はなかった。関係する「大人」に通報するのは簡単だったが、そんな名前がつくくらいだから、彼の両親も姉も妹も熱心な信者で、その新宗教組織の地方での「顔」だった。

他人の親の顔であれ、泥を塗るのは、あまり気持ちの良いものではないものだ。「ここは負けてあげてもいいかな」と考えて、喧嘩好きの友人を使っての卑劣な痛めつけのことは、黙っておいてやった。生長しろよ、という願いとともに。

一般論として、少年時代に人一倍粋がっていた奴が、人一倍魅力的な男になる、ということはありうるものだ。

ビーバップハイスクール』の主役は、やがて社会人になって、かなり「あぶない」二人の先輩ができ、おそらくテレビドラマ史上、最も多く「先輩!」という台詞をいう俳優に成長した。

松山ロケがあったのは自分の高校時代。女子たちは大騒ぎをしていた。「後輩」刑事役が松山入りしていないことを嘆いている事情通の女子もいた。刑事ドラマのその回で初めて披露された挿入歌は、いま聞くと懐かしくてたまらない。「ふざけた…ことは一切…ごめんだ」の部分は、今でも時々冗談じみた返答をするときに使ってしまう。

とめどもなく話が逸れていく気がする。昔乗り回していたローバーミニは、ハンドルがクイックすぎて、「握ったままくしゃみをすると、一車線ずれてしまう」という都市伝説を持っていた。あんな感じだろうか。

へっくちん。

早速くしゃみが出てしまった。そもそもの車線のずれは、昨晩「Apple Watch」から「向日葵」へちゃんとつないでおいたのに、ペクチンについて書かなかったことにあった。調べてもよくわからなかったので、ペクチンをやめてワクチンについて書いたというわけ。

今晩もアドリブ芸は続いている。今晩はペクチンについて書けるだろうか。

ペクチンはりんご、いちご、みかん、オレンジ、桃、柿、プルーンなどの果物に多く含まれる成分。特に熟していない果実ほど多くなっています。おくら、キャベツや大根などの野菜にも含まれます。りんごやオレンジ・レモン・グレープフルーツ・ライムなどの柑橘(かんきつ)類やひまわりの種から抽出されてジャム・ゼリー・お菓子・フルーツソースに使用されます。  

ペクチンの抽出元として、「種」の世界からは、堂々とヒマワリの種だけがランクインしている。家庭で抽出するなら、アップルパイの林檎を裏漉しするのが早いそうだ。

 さて、例によって散々な物議を醸しているのは、リンゴ由来のペクチンセシウムの排出作用があるかどうかだ。

肯定的な情報は2つ。

Vitapect摂取による体内セシウム濃度や心臓疾患への影響などを調べている。地元でできる汚染された食品を食べながら、Vitapectを1日に2回、5gずつ16日間にわたって摂取した結果、もともと体内セシウム濃度が中程度のグループでは、体内セシウムが39%減った。高程度のグループでは、28%減である。心臓血管系や心電図の異常も、Vitapect摂取により軽減されたという結果が出ている。 

今度は、子どもたちに放射性物質に汚染されていない食事を摂らせながら、Vitapectと食べさせた群と食べさせないプラセボ群で比較している。Vitapect摂取群は体内セシウムが33%減、非摂取のプラセボ群が14%減という結果だ。論文には、セシウムが消化管内に分泌してくるので、食べたペクチンセシウムと化学的に結合して排出される、という“仮説”が書かれている。

否定的な情報は2つ。

ちなみに、フランスでラットを用いて、実際に被ばく治療に使われたことがあるプルシアンブルーという物質とアップルペクチンセシウム排出効果を調べた結果が、2006年に論文として発表されている。結果は、プルシアンブルーは「効果あり」、アップルペクチンは「なし」である。

ところが、興味深いことにこの2つの論文を、けちょんけちょんにけなしている公的機関があるのだ。フランスの放射線防護原子力安全研究所(IRSN)である。 

後者に関しては、昨晩も同じような悲しい状況を目撃した。 子宮頸がんワクチンの有害性を研究論文で指摘した池田修一教授が、(目的論的に、あるいは結果論的に)、複雑すぎる裁判沙汰に巻き込まれてしまったのだ。ちなみに、子宮頸がんワクチンの定期接種を推進したのは「公的機関」だ。 

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

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この話は何度も聞かされてきた。ウルリッヒ・ベック『危険社会』以来の社会の高度な複雑性に対して適切に対処するには、「専門家以外の人々が予防原則を採用すること」への寛容さを持つことだと、私は考える。

欧米を中心に取り入れらてきている概念で、化学物質や遺伝子組換えなどの新技術などに対して、人の健康や環境に重大かつ不可逆的な影響を及ぼす恐れがある場合、科学的に因果関係が十分証明されない状況でも、規制措置を可能にする制度や考え方のこと。

EICネット[環境用語集:「予防原則」]

ペクチンによる放射性物質の排出効果については、上記の2つの客観的情報があれば、予防原則にのっとって、内部被爆の回避行動をとることは、充分に合理的なのではないだろうか。

ちなみに昨晩の子宮頸がんワクチンの接種に関して、井上芳保がアンケートを取った産婦人科医のうち、「子宮頸がんワクチンの定期接種には賛成だが、自分の娘には摂取させない」と答えたのは、何と、全員だった! 専門家であっても、肩書を外して大切な家族のことを思えば、「公的機関」は信用ならない存在のようなのである。 

犠牲になる少女たち: 子宮頸がんワクチン接種被害の闇を追う

犠牲になる少女たち: 子宮頸がんワクチン接種被害の闇を追う

 

 さて、バシャールからの以下のような宿題だが、検索してみると、比較的簡単に答えらしきものに到達できた。 

「日本は、主に、三つの領域で役立つことができます。日本が、地球に対して大きなインパクトを与え得る、三つの分野があります」とのこと。

  1. 人工知能
  2. フリーエネルギー装置(free energy devicesと複数形で述べていました)
  3. ひまわりの化学的構成物質の性質とひまわりの種の性質とに注目し、その性質(それらの性質)を理解することが、放射能によっておこる病気の予防と治療につながります。

これらの分野に関心を持ち、これらの分野を前進させることに情熱をもって取り組もうとする人々を結集し力を合わせることができれば、日本は、世界に大きなインパクトを与え得ます。

 3.のヒマワリに関しては、バシャールによる言及が、前半の「ひまわり」と「ひまわりの種」の二つに分かれていることに注意すべきだろう。

研究論文を当たってみると、確かに前半の「ひまわり」、つまりは成熟した種を算出する以前の花盤に関する研究が数多くあった。

Chemical composition and rheological properties of sunflower pectin, including gel-point temperature (Tg) were determined. Pectin from sunflower head residues was characterized and compared with low methoxyl commercial pectins. Pectin was isolated using sodium hexametaphosphate extraction followed by either acidified alcohol (KIM) or HCl solution (LIN) precipitation. LIN pectin resulted with a higher ash content (≈30%).The low methoxyl pectin extracted from sunflower heads had 11% degree of esterification, high anhydrogalacturonic acid content (77–85%) and low acetyl content (2.3–2.6%) on an ash-free basis. Viscosity average molecular weight ranged from 39,500 to 52,000. Sunflower pectin formed gels at high temperatures almost instantly in the presence of calcium ions.

Extraction and characterization of sunflower pectin - ScienceDirect

 

Pectin was isolated from sunflower head residues, using 0.75% sodium hexametaphosphate extraction followed by acid precipitation. The yield of pectin was7.3% of the head residues. The isolated pectin contained 89.2% anhydrogalacturonic acid, 2% acetyl ester, and 4.2% neutral sugars, which were mainly rhamnose and glucose. The degree of methylation was 38.5%. The pectin had a high viscosity (527 cp at 1% level) at pH 3 and a high water-holding capacity (57g water/g organic matter). The peak molecular mass of the sunflower pectin was > 523,000 daltons.

Extraction and Physicochemical Characterization of Pectin from Sunflower Head Residues - MIYAMOTO - 1992 - Journal of Food Science - Wiley Online Library

 これらの研究の中で、バシャールが「ひまわりの化学的構成物質の性質」に注意するよう助言している点は、おそらく「脱エステル化」の問題だと思われる。二つの研究論文のうち、前者はペクチンエステル化率11%、後者は4.2%とされているようだ。

ペクチン (Pectin) とは、植物の細胞壁や中葉に含まれる複合多糖類で、ガラクツロン酸 (Galacturonic acid)が α-1,4-結合したポリガラクツロン酸が主成分である。ガラクツロン酸のカルボキシル基がメチルエステル(methyl ester)化されたものをペクチン、メチルエステル化されていないものをペクチン酸(Pectic acid) と呼ぶ。天然ではガラクツロン酸の一部にメチル化が見られ、人工的に脱エステル化することによってペクチン酸が得られる。ガラクツロン酸の他にいくつかの多様な糖を含むことが知られる。分子量は50,000~360,000で、特に植物の葉、茎、果実に含まれる。アンリ・ブラコノーによって1825年に初めて単離された[1]。EDTA、クエン酸、シュウ酸などのキレート剤と共に加熱することで可溶化され抽出される。  

ペクチン - Wikipedia

エステル化された成分が、どうして人体にとって好ましくないかは、下記のブログが言及している。人体に必要なミネラルも同時に排出してしまうようなのだ。

ひまわりの花盤由来のペクチンには、主流のペクチンよりも市場における付加価値が高いことを、オーストラリアの業者が宣伝している。

http://www.australianoilseeds.com/__data/assets/file/0006/1221/Sunflower_Pectin_-_Adding_Value_to_Agricultural_Biomass.pdf

また、リンゴ(由来のペクチン)を比較すると、ひまわりの種に以下のような有用な特徴があるのがわかる。

  • スナック菓子代わりに子供がおやつとしてつまみやすい。
  • 販売者や消費者にとって、リンゴ本体より鮮度管理が簡単、皮むきなどの手間が不要。
  • アメリカなどの外国から放射能汚染のない安全な原材料を入手できる。
  • 安価。

あとは、ひまわりの花盤から抽出できるペクチンを、充分な程度に脱エステル化し、それを人々に愛用されている「ヒマワリの種」に近い形状で製品化して、普及させていくだけ。バシャールの示唆する内容には、一定程度の科学的裏付けが存在するので、この方向性と順序で、日本の子供たちの内部被爆の予防や緩和が進んでいきそうだ。

さて、今これを読んでいるこのブログの読者は、バシャールの発言にどの程度の信憑性を感じているのだろう。信じる人、信じられない人、信じられる発言、信じられない発言、いろいろとあるにちがいない。

けれど、当たるにせよ当たらぬにせよスリル(ワクワク)を感じないだろうか。

(余談だが、バシャールの好きなマイケル・ジャクソンの曲は、やはり「ワクワク」に通じる「スリラー」なのだという)

いずれにせよ、「ひまわりやその種の化学的構成に注目して、放射能被爆の予防と治療につなげるのは日本人の役割」というバシャールの「予言」は、かなりの確率で当たるのではないかと思う。というのも、「ひまわりの花盤由来ペクチン」の研究論文のうち、後者は MIYAMOTO 教授によるものなのである。

このブログを書いても書いても、終わらせたいものを終わらせられないせいで、サグラダファミリアのことを思い出した。1882年に着工して135年。まだ未完成ではあるものの、いよいよガウディー没後100周年の2026年には完成するのだそうだ。複雑な装飾とまるみを帯びたフォルムが、早期完成を困難にしてきたらしい。

自分もどこかまるみを帯びた何かを完成させようとしてきたのかもしれない。

ふとそんなことを感じたのは、「ここは負けてあげてもいいかな」の「不戦敗」に始まり、続く「先輩!」の俳優への言及したあと、文脈がさりげなくアップルパイに接続されていたからだ。自分はずっと至難問を解こうとしているのである。

いや、もはや万人向けのお題になんか心を砕かなくてもいい。ここは、ごくごく個人的に、決死的勇気を振り絞って、「シナモンのいない人生なんて、…?」と相手に訊いてみたい。

嗚呼、恐ろしいことに、その問いへの正解は、この広大な宇宙にたった1つしかないのだ。無数にありうる答えの中から、「アップルの入っていないアップルパイのようなもの」という唯一解を、果たして相手は口にしてくれるだろうか。

そしてそのとき、アップルパイからアップルを引き去ったあとのπに、こちらがうまく調整した事情を掛け合わせれば、円面積のごとき中身の詰まった円満な関係が生まれることにまで、相手は思い至ってくれるだろうか。

いや、それは難しい。難しすぎる。確率でいえば one in a million ぐらいだろうか。至難の業だというほかない。 

今晩も、至難問を解ききれたのかどうかは、よくわからない。

確かに「不戦敗」を「不戦 / π」に分解して、円満な解決を目指したのは、正しい方向性だったことだろう。しかしその先でどうすれば… と思い迷ったとき、「先輩!」と最多発生した俳優がナレーションを務める建築番組を、自分が好んで視聴していたことを思い出した。

番組が終了してしまったのは残念だ。そこでナレーターは、通常のナレーションよりも明らかに気障すぎる口調で建築を語ることで、「先輩たち」セクシー大下とダンディー鷹山からの色濃い影響を、赤裸々に表現していたのだった。

朦朧としてしまうほど、全力疾走してきたつもりだ。けれど、いつのまにか、至難問の解き方を見失ってしまったかもしれない。そんな不安に駈られて、ふと立ち止まったとき、いずれにせよ、と混ぜ返す誰かの声が聞こえる。この先にしか幸福がないわけではない。幸福を求めて全力疾走している今ここにいる自分も、幸福なのだ、いずれにせよ。

声はそう語りかけたあと、その理由をこう語った。

世界でただ一つの時間が流れているから。