オープン・アイズがうるっ
羞かしいのでもう引用はしない。はっきりと言えるのは、今晩も気分は「ピザですわ」。代表的なピザの生地が「ハンドトス」と「クリスピー」であることを思い出して、要するに「フリスビー」のことを言っているのではないかとぼんやりと考えていた。
フリスビーの起源は、イェール大学の学生が、近所のフリスビー・パイ・カンパニーのパイ皿を投げ合って遊んでいたところから始まった。その「未確認飛行物体」が商品化されて世界中に広まり、今やアルティメットという国際競技になっている。日本の女子チームはアルティメット世界ランキングで首位だ。
日本の誇る大学の一つ、慶応大学SFCも、何か「新発明」を世に送り出したりしないだろうか。そういえば、SFCの学生の社会貢献意欲は高く…と書こうとして、それはすでに別の記事で触れたのを思い出した。その発言者は単なる補助金詐欺なのだろうか、それとも、第二のSTAP細胞騒動なのだろうか。情報はつかめていない。
とにかく、同じようなことを何度も書いていては駄目。今晩も、大人の事情で「才能が溢れて溢れて仕方ないふり」をしなくては。今晩の主題は「フリスビー」ともちょっと違うようだ。「ハンドトス」と「クリスピー」ともちょっと違う。最近邦訳されたばかりの「クリスパー」についてご存知だろうか。
文系の人間は理系の世界に弱いくせに理系の世界を語りたがる、という苦情が世にはあるらしい。ちょっと医療の世界に通じているふりをして、こんなことを呟く人がそれに該当するだろうか。
内科では薬のリスクはでかいな。
しかし、理系の人間は、この文章の自慢げなコノテーションより、この一文が回文だという構造的循環性に気が付くのだろう。実際、100年に一度の革新的技術とされているクリスパーの発見は、遺伝子配列の「回文」に気付いたところから始まった。実は、CRISPR とは「規則的な間隔をもってクラスター化された短鎖反復回文配列(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats)」の頭文字をとったものなのである。
実は、この配列の反復自体を発見して論文の隅に記述したのは、1987年の石野良純教授が世界初だった。 全然別の分野を研究していて、偶々発見したせいで、そちらへ深い関心が向かわなかったのだという。すぐには実らなかったものの、ここでも強調したくなるのは、基礎研究の大切さ!
ゲノム編集とは何か 「DNAのメス」クリスパーの衝撃 (講談社現代新書)
- 作者: 小林雅一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/08/18
- メディア: 新書
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今や研究者ならだれもが、手軽に遺伝子のゲノムを編集できる時代となってしまった。クリスパーを購入して実験するのは、アマゾン感覚と呼べるほど簡単だ。 日本語のガイド・ページもある。
では、到着したクリスパー・キットを使って、どのように遺伝子ゲノムを編集すれば良いのだろうか。
「ゲノム編集と言っても、大げさなものじゃないの」と或る女性研究者はずけずけと言い放つ。「細胞にクリスパー・キャス9の培養液を振りかけて、そのあと」と女性研究者はどんどん説明を進めていく。「細胞を、温度が三七度に保たれているインキュベーター(細胞培養装置)に四八~七二時間、つまり二~三日入れるだけ。それで細胞のねらった遺伝子が切れるのよ」。
え? そんなに簡単にゲノム編集ができてしまうの! ほとんど漬け丼を作る手間と変わらないではないか。
ちなみに、遺伝子が「切れる」とは、特定の遺伝子にハサミを入れて機能させなくする(「ノック・アウト」する)イメージだ。外部からの遺伝子を挿入する遺伝子組み換え技術とは、編集手法に違いがある。
ゲノム編集の応用分野には、大きく分けて二つの方向性がある。一つは、ゲノム品種改良、一つは、難病治療への応用だ。
農業系のゲノム品種改良については、国がすでに動き出している。2014年に開始された戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)がそれだ。 2019年までに達成する「最終目標」には、耳ざわりの良い素敵な言葉が書いてある。
最終目標(5 年)
- TALEN、CRISPR/Cas9 等のゲノム編集技術について、我が国の農林水産政策上重要な品目の育種で国内の育種関係者が容易に利用できる技術として確立する。
- 我が国の農林水産政策上重要な品目の育種において利用でき、これまでのゲノム編集技術よりもより高い精度と効率での編集を可能とする又はこれまでのゲノム編集技術では対応できない農林水産生物にも適用可能な新たな国産ゲノム編集技術について、2021 年度末までに国内の育種関係者が容易に利用できる技術として確立することを最終的な目標とし、農林水産物に適用するための利用条件を確立する。
上記のプログラムでは、収量の多いコメへの品種改良、日持ちの長いトマトへの品種改良、養殖に適した大人しいマグロへの品種改良などが、現在進行中らしい。
すでに私たちの生活へ応用され始めているのが、医療分野。2011年、飛躍的な病状の改善を成し遂げた患者の記事が見つかった。
In September 2010 Sharp received a single infusion of 20 billion of his genetically engineered immune cells. Within weeks his CD4 count doubled. “They test me every month and my CD4 count hasn’t fallen below 400. I haven’t had the usual bout of pneumonia since this treatment. I’d love to get a second infusion,” Sharp says. “I’m 55 years old and feeling better than ever, and now there’s a possibility I’ll actually see a full cure of HIV in my lifetime.”
シャープ氏は、2010年9月、遺伝子操作した免疫細胞200億個を一度に体内に注入しました。数週間で彼のCD4数値(エイズ患者の免疫機能を表す数値)は倍増した。「彼らは毎月私をテストしましたが、CD4数値は400を下回ったことはありません。この治療以来、私はいつもかかっていた肺炎にかかっていません。ぜひとも2回目の注入をしたいと思っています」とシャープ氏は言う。 「私は55歳で、これまでで一番体調が良いと感じています。今や、私が生きている間に、HIVの完治に本当に立ち会える可能性が出てきました」。
個人的に期待を寄せたいのが、ゲノム編集を用いた藻バイオエネルギー開発の加速化だ。「モバイル」だけでなく「藻バイオ」に注目している人々は数多くいる。
2010年に「藻」エネルギーの動向を概観したのがこの記事。執筆者は原山重明。
少し前に或るジャーナリストが激賞して注目を集めたオーランチオキトリウム。実用化が難しいとも囁かれつづけてきたが、「油田」としての生産効率はかなり上がってきたようだ。
生産効率の高い「藻」を生み出すには、これまでは、何千回も放射線や化学物質に浸して、「望ましい突然変異」を待たねばならなかった。しかし、ゲノム編集を使えば、そのプロセスを驚くほど高速化できる。
実際、上記の業界概観記事を書いた原山重明は、すでに世界的な自動車部品メーカーのデンソーと組んで、藻バイオエネルギーの開発に取り組んでいるらしい。2022年の大量生産技術の確立を目指しているという。
自分が勝手に「沈滞している」と思い込んでいた藻バイオエネルギーの業界は、着実に発展しており、ゲノム編集技術によってさらにその成長を加速させる可能性が高そうだ。
- 作者: ウルリッヒ・ベック,鈴木宗徳,伊藤美登里
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/07/29
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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となると、対処に困るのが、遺伝子組み換え技術と比較しながら、ゲノム編集技術をどのように社会の中に位置付けていくか、という問題になるだろう。
この観点からは、ウルリッヒ・ベックの主要概念の3つに立ち返るしかないのではないかと感じる。
活路はサブ政治の活性化によってしか開けないだろう。
この観点から見ると、クリスパー・キャス9の開発者が著書の最後で、こう書いているのは嬉しくなる。
読者のみなさんにこの本から学んでほしいことをひとつだけ挙げるとすれば、それは私たち人間が目的を定めない(オープンエンド)な科学的研究を通して、身の回りの世界を探求し続けなくてはならないということだ。
(…)
CRISPRの物語は、画期的発見が思いもよらない場所から生まれることを、そして自然を理解したいという強い思いに導かれるまま歩むことの大切さを教えてくれる。だがそれだけではない。科学的プロセスとそれがおよぼす影響に対して、科学者と一般市民がともに大きな責任を負っていることも思い知らせてくれるのだ。
時代を作る新発見の苗床となる「基礎研究の大切さ」が、「オープンエンド」という概念に対応しているのが良い。 第七章の要約文には「CRISPRは核兵器の轍を踏むのか? そうさせないためにも、社会を巻き込んだ議論が必要だ」との文言が読める。そこには、専門分化が進んで遥か高みに達した専門家が、大衆のレベルまで降りてきて、「オープンマインド」で対話すべきだとの姿勢が垣間見える。
「オープンエンド」と「オープンマインド」は、新世紀のあるべき科学者像の条件なのかもしれない。
完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?
- 作者: マイケル・J・サンデル,林 芳紀,伊吹友秀
- 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
- 発売日: 2010/10/12
- メディア: 単行本
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充分な安全性を治験によって確認してから、丁寧な説明を市民に対して提供してから。
そのような模範的な言説を書きつけることは、さほど難しくない。しかし、この先には究極の難題が控えているのだ。安全性の確保と丁寧な説明が提供されれば、品種改良による農産物や海産物のゲノム編集や医学治療向けのゲノム編集は、実現していくことになるだろう。
では、人間のゲノム編集は?
討議空間には、どうしてもこの本の内容が召喚されることになるだろう。 『ハーバード白熱教室』のときと同じく、設例にどう対処したらよいかがとても悩ましい。
完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?
- 作者: マイケル・J・サンデル,林 芳紀,伊吹友秀
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本の中で、ともに聾を抱えている或る女性同士のカップルはこう言う。
聾であることはひとつの生活様式にすぎないわ。私たちは聾者であっても何の問題も感じていないし、聾文化の素晴らしい側面を子どもとともに分かち合いたいと思っているの。
聾の子供が欲しいという望みをかなえるため、彼女は何世代にもわたって聾である精子提供者を探し出し、妊娠に成功する。ところが、この「おめでた」がマスメディアで報道されると、非難が殺到した。
一方で、報酬つきの卵子提供者を募集広告は、現代ではすでにありふれた広告となっている。高い身長、高い運動能力、高い健康度だけでなく、大学進学適性試験が1400点以上(日本でいう東大合格レベル)という条件に、高い報酬(5万ドル)がつけられている広告には、何の非難もなかった。
自分の中で整理すると、問いはこうなる。
機能的に完全に近い形で生まれることが、人の追及すべき幸福なのだろうか?
それとも、偶然引き受けた生存条件を、機能とは別の観点からの「完全」に近づけていくことが、人の追及すべき幸福なのだろうか?
自分は後者を支持するのは間違いないとしても、それをどのように説得的な思想として立ち上げていくかには、まだ時間がかかりそうだと感じている。
実は慶応大学のSFCの入試に、サンデルの論文の一部が原文で出題されていた。それを若い友人と一緒になって読み込んだことがある。サンデルが主要な足がかりにしていたのは「by chance(偶然)」だった。
偶然始まってしまったこんなトラブルに、長すぎる間、大事な時期の友人たちを巻き込んでしまって、申し訳ないなと感じる。
あの友人が、今年こそはチャンスをしっかりとつかんでくれると良いな。と、キーボードを打っていると、指先が少し震えた。finger は「フィンガー」だけど、singerの発音は「シンナー」に近いから気を付けろよ、と打ちながら、今度は呼吸が震えた。breath は「ブレス」だけど動詞の breathe は「ブリーズ」になるし、心と身体を温めてくれる羊毛は wool と書いてあっても「ウル」だから引っかかるなよ、と書きながら、瞳がうるっとなってしまった。