星々が見下ろす「空虚」という外心

Happily, that incident triggered an unlikely friendship between Eve, Buddy's victim, and me.

2017年の2月上旬のこと。ある霊能者の方に電話で予約を入れた後で仕事に戻ると、こんな英文に出くわした。

途中で出てくる Buddy とは筆者の飼い犬。和訳はこんな感じだろう。

幸福なことに、あの事件が Buddy の犠牲者となった Eve と私との、ありそうもない友情のきっかけになった。 

和訳しているときに鳥肌が立った。先ほど予約した霊能者の方は、12月24日生まれなので Eve と名乗っていたのだ。

そのシンクロニシティから約10か月。確かに「ありそうにない友情」らしきものは続いていて、今はお互いに少し先の夢を語り合うような仲、できれば助け合いながら叶え合おうと話す仲だ。

こういう典型的なシンクロニシティがどうして起こるのかは、よくわからない。『騎士団長殺し』に登場するイデアも、「時間と空間は人間が作った虚構」だと語っていたはず。その「前提」に深い関わりがあることだけは直感的にわかるが、いま自分が把握できているのはそこまでだ。

これも本当にあったこと。松山市の隣町にあるショッピング・モールに、当時2か月に1回くらいだけ行く習慣があった。滅多にいかない場所だったのに、或る日モールを歩いていたら、献血イベントの貼り紙がしてあって、え? 今、すぐそこに来ているの? と心が揺れて波立った。

でも、もう自分は今のマンションへ引っ越して、諦めるべきものを諦めたのだから、直接目撃すると余計に辛くなる気がして、結局のところ、足を向けなかったのだった。「それにしても凄い偶然だな」とまでは、そのときも意識したのだが、そのシンクロニシティをどう解釈していいかはわからなかった。

 以前とは全然ちがう経路を通って違うものを選んだつもりが、フラクタル図形の別の個所をつかんだだけだったかのように、見方次第でまったく同じものになる。ひとつの主題が形を変えて何度も立ち現れる。

日本の戦後史で、最も反復されている重要主題の一つは、たぶんこの危険すぎる主題なのではないだろうか。小説になっただけでなく、それが元で殺人事件まで起こった。

ちなみに自分は事件や背景について充分に把握できていないので、同じ主題の事件にかかわるどの立場も支持しないことにしておく。 

戦後『中央公論』と「風流夢譚」事件―「論壇」・編集者の思想史

戦後『中央公論』と「風流夢譚」事件―「論壇」・編集者の思想史

 

 中央公論にのっている深沢七郎氏の小説「風流夢譚」が天皇、皇后、皇太子、美智子妃などの“処刑”を、夢に託して描いているのは、皇室に対する名誉毀損、人権侵害だとして、宮内庁では法律上の検討をしているという▼読んでみるとなるほどひどいものだ。皇太子殿下や美智子妃殿下とハッキリ名前をあげて、マサカリが振り下ろされたとか、首がスッテンコロコロと金属性の音をたててころがったとか、天皇陛下皇后陛下の“首なし胴体”などと書いている▼過去の歴史上の人物なら、たとえ皇室であっても、それほど問題にはなるまい。が、現にいま生きている実在の人物を、実名のまま、処刑の対象として、首を打ち落とされる描写までするのは、まったく人道に反するというほかない▼(…)

(『朝日新聞』1960年12月1日。省略あり)

事件は以下のように進行した。

中央公論編集部の話によると、これは天皇制否定や革命待望の文学ではなく、残酷を描いて残酷を否定する革命恐怖の文学だという11月中旬から日刊紙、週刊誌、文芸誌の反応が出始めたが、内容への評価はまちまちであった。28日に「帝都日日新聞」(野依秀市)ら右翼の攻撃が始まり、宮内庁からも不快感と法的措置の検討が表明された。右翼集団は、中公本社へ乱入しての掲載陳謝・深沢の国外追放・『中央公論』廃刊などを要求したほか、団体機関誌による弾劾、日比谷公会堂で「赤色革命から国民を守る国民大会」を開催するなどの攻撃活動を展開した。中央公論社は問題の発生を公開せず、嶋中鵬二社長が電通吉田秀雄社長を介して右翼と交渉したが、結局は圧力に屈した。宮内庁に対しては謝罪し反省の意を表した。
交渉の行われていた2月1日夜に、大日本愛国党前党員小森一孝(17歳)が主人不在の嶋中邸を襲撃した。お手伝いさんが殺害され嶋中夫人が重傷を負った。これが嶋中社長への決定的な衝撃となったと考えられている。

(強調は引用者による)

リベラル21 君は「風流夢譚」事件を知っているか

天皇主義者である三島由紀夫は、果たして激怒して批判表明をしたのだろうか?

答えはノーだ。

三島由紀夫のような衝撃的な死を遂げた人物は、しばしば「利用可能性ヒューリスティクス」による事後的な合理化を被ってしまう。

利用可能性ヒューリスティック (availability heuristic) | リサーチと行動経済学 | マーケティングリサーチの専門会社、KFS

ちょうど三島を評論したがる初心の書き手が、三島の作品や実人生のあらゆる断片に、その「兆候」を読もうとするのとは、実態は正反対なのだ。三島由紀夫は、大本教の周辺に生起した「日月神示」にも上記短編のように冷淡だったし、70年安保闘争の対抗勢力の一派として割腹する以前、60年安保闘争のときには、その国家的大騒動の原因を「岸信介がニヒリストだから」という人格問題に帰したエッセイを遺している。

上記の記事でも書いたように、70年安保と60年安保とでは、三島由紀夫の思想的立場は大きく異なる。1960年の「風流夢譚」事件でも同じだ。後年の天皇主義者の面影は皆無で、何と深沢七郎「風流夢譚」掲載の「推薦者」だったという流言飛語が飛び回って、火消しに躍起になっていた。右翼のテロを警戒して、三島由紀夫宅にも警視庁の警護が付いた。興味深いのは、三島の弟が、この事件時の「右翼への恐怖」が三島由紀夫の「急激な右旋回」の契機となったと証言していることである。

そのとき彼の心中に胚胎した感情を、単純に「恐怖」と呼ぶ言説は支持できない。 

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

二・二六事件の蹶起者から、新婚を理由に除外された青年将校と妻が自害する『憂国』が描かれたのは、その翌年の1961年だ。 

三島由紀夫の二・二六事件 (文春新書)

三島由紀夫の二・二六事件 (文春新書)

 

そして、当の三島自身が、二・二六事件の最大の失策を「宮城封鎖しなかったこと」だとしているのである。

 二・二六事件は、戦術的に幾多のあやまりを犯してゐる。その最大のあやまりは、宮城包囲を敢へてしなかつたことである。北一輝がもし参加してゐたら、あくまでこれを敢行させたであらうし、左翼の革命理論から云へば、これはほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまりである。しかしここにこそ、女子供を一人も殺さなかつた義軍の、もろい清純な美しさが溢れてゐる。

その三島由紀夫自身が「皇居突入」を企てていたと主張する本が、最近出版された。 

三島由紀夫 幻の皇居突入計画 (フィギュール彩)

三島由紀夫 幻の皇居突入計画 (フィギュール彩)

 

 これを読んで、自分の知っている歴史上の事実のいくつかが、つながった気がした。ミッシングリンクがつながって、円環が完成したというよりは、垂直の壁面のいたるところに吸いついていた輪がパラパラっと剥がれて落ちてきて、どれもが見事に輪投げの垂直の棒にかかった感じ。

さきほど、ひとつの主題が形を変えて何度も立ち現れると書いた。その反対に、異なる主題だと思っていたいくつかの輪が、時間の重力から解き放たれて、一つの磁力に支配された同じ主題の変奏だとわかるような気がした。

三島通を自認する自分も、この件については知らなかった。一読、三島由紀夫の「皇居突入計画」は実在したと直感した。

用意周到な三島のことだ。二つの強力な伏線を、60年代末の現実社会の中に実線で引いている。

一つは、国立劇場の奈落だ。 

 三島が国立劇場を比較的自由に使うことができたのは、彼が国立劇場の理事(非常勤)という立場にあったためである。彼は、昭和四十二年四月から死に至るまで、この劇場の理事だった。彼の歌舞伎好みは有名である。また彼自身、いくつかの創作歌舞伎に手を染めており、上述の『椿説弓張月』以外にも、彼の作になる歌舞伎がいくつかここで上演されている。歌舞伎に対する愛好とこの劇場との係わりの深さからすれば、理事に就任するのに、なんの不思議もない。

 しかし、『三島由紀夫事典』「国立劇場」の項を執筆した織田紘二は、「たとえ非常勤とはいえ国立劇場の理事職を受諾したのは」「ほとんど公職につくことを拒絶していた感のある」三島としては異例のことである、とコメントしている。

国立劇場の奈落と言えば、歌舞伎役者が次々に転落することから「呪い」が取り沙汰されることもある特殊な場所だ。三島の「幻の皇居突入計画」を詳細に調べ上げた鈴木宏三は、その劇場の屋上で三島由紀夫の私兵組織「楯の会」がパレードを行った史実を引く。ここまでは三島ファンなら周知の事実だ。川端康成がパレードの一周年式典スピーチを全力で断ったことでも知られている。

鈴木宏三は恐ろしい台詞を歴史の中から拾ってくる。親しかった自衛隊の山本舜勝一佐に、国立劇場の舞台を案内しながら、こう言ったというのである。

奈落は、私の信頼する友人が管理しています。いつでもお使いください。

 え! 自衛隊の一佐に奈落を自由にお使いくださいとは、表や客席からは窺い知れない「秘密基地」を、「自衛隊員たちの秘密基地」としてお使いくださいという、武器供与の一種と考えて間違いないだろう。事実、それを聞いた山本舜勝もこう解釈している。

 私はようやくこの日の [引用者註:三島] 氏の真意を理解した。国立劇場は、皇居とは指呼の間にある。先日、三島氏の問いに私が答えたような非常事態 [引用者註:暴徒が皇居に押し入って天皇を辱めるような状況] が起こった場合、ここは絶妙の拠点になりうる。氏はその準備を着々と重ねているのだ。 

もう一つの強力な伏線が、三島たちが皇居内に隠し置いた「真剣」だ。「楯の会」のリーダー格だった持丸博はこう証言している。この史実にも驚かされた。 

 昭和四十三(一九六八)年九月、三島先生を筆頭に楯の会有志十人ほどで、皇居内にある皇宮警察の道場、済寧館で居合い稽古をはじめました。これは大森流居合といって、必ず真剣で稽古を行います。模擬刀だと、どうしても緊張感に欠けますから、怪我をすることは覚悟の上で真剣で行いました。

 済寧館での稽古の目的は二つありました。一つはもちろん人を斬るための訓練です。これは居合の稽古としては当然のことですね。もう一つ隠れた目的がありました。それは一週間に一度、済寧館に行って稽古をしてそれが終わると、練習に使った日本刀を同情に預けて帰りました。この日本刀を預けるということが、実は重要な意味をもっていたのです。もしも皇居周辺で何か異変が起こったときには、身一つで済寧館にたどり着けばいいということです。そこには武器がありますから。 

証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決

証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決

 

きわめつけは、文芸評論家の磯田光一に語ったこの言葉。

  亡くなる一か月前に、ちょうど三島さんに最後に会ったときに彼はこういうことを言ったのである。本当は宮中で天皇を殺したい、と言った。腹を切る前に。というのは、人間宣言をしたためにだめになったという。ところが宮中へはちょっと入れないから、自衛隊でという結論になったらしいのです。というのはどういうことかといいますと、人間天皇を抹殺することによって、『英霊の声』に出てくる、超越者としての天皇を逆説的に証明する。パラドックスとして。それに対する、自分は忠実な臣下としてのアイデンティティを確立する。そのためには、戦後の現存する天皇を殺すという発想を三島さんは持っていました。

(『新潮』昭和61年8月号)

凄い台詞を吐いているな、というのが第一感の印象だ。しかし、上述したように、三島由紀夫のような衝撃的な死を遂げた人物は、しばしば「利用可能性ヒューリスティクス」による事後的な合理化を被りやすい。過度の神格化と過度の蔑視が入り乱れていやしないだろうか。

三島由紀夫の身辺にいた人間は、市ヶ谷駐屯地のバルコニーからばら撒いた檄文にの一部にさえ、首を傾げる。

 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 

(…)

 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。

(…) 

(強調は引用者による)

http://www.geocities.jp/kyoketu/61052.html

「われわれは四年待った」と三島は絶叫する。しかし、事件の主要な目的であった「憲法改正の発議」は、その改憲研究自体が、わずか1年前に始められたものにすぎなかった。檄文の文脈は整序されているが、違和感を感じた関係者も多いという。

では、何が三島由紀夫を急変させたのだろう? 学習院高等科を首席で卒業し、昭和天皇の刻印入りの銀時計を「聖体拝受」した三島は、どうしてあんなにも死の直前に「皇居突入を企図する天皇主義者」のような苛烈で奇矯な位置へ急旋回したのだろう?

 『三島由紀夫の幻の皇居突入計画』を書いた鈴木宏三が、あの鈴木邦男の弟だという偶然を、私たちはどう考えたらよいのだろうか。 

実は三島由紀夫のことを調べれば調べるほど、困ったなと思うことが多い。畏敬の念に魅かれて調べているのに、「愛の処刑」を始め、切腹好きの状況証拠ばかりが挙がってくる。『憂国』の映画化の顛末を描いたエッセイは、三島のあらゆる文章の中で、最も高揚したワクワク感が伝わってくるものだ。それを読んで面白がれば面白がるほど、結局、この人のやりたかったことの中心が「切腹」以外のどこにあったのか、見失いがちになってしまう。

あるとき、その「中心」を三島由紀夫の外に置くべきなのではないかと思いついた。いわば三島という三角形の内側にある「内心」に目を凝らすのではなく、外側にある何者かをも含めた「外心」に目を凝らすべきなのではないかと思い至ったのである。「幻の皇居突入計画」を知ってからは、ますます「外にある外心」が気になって仕方なくなった。 

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http://www.himawarinet.ne.jp/~rinda/newpage88.html

三島由紀夫というどこか奇矯なところのある無邪気で純粋な天才は、死の直前、神々に選ばれて、みるみるまに「外にある外心」へ吸い寄せられたようみ見えてならない。

例えば、こんな証言。

美輪明宏さん:
あれはね、憑依霊が書かせてる物なの。だから、いろんな不思議なことがありましてね。私がお正月に皆さんが集まる時にいってて、盾の会の人とかローマ劇場の人とか大勢いるところにいきまして、私が霊視したときに憲兵が見えたんですね。2・26事件の時の将校で…「『憂国』を書いてる時に、自分であって自分でないようなおかしなことはありません?」って聞いたら、「ある」っておっしゃって…。眠くなっても筆だけ闊達に動いてるんですって。で、どうしてもやめられない。終わった後読み返して、文に不満があるんだけど、書き直そうとしても何かが書き直させない力が働いて、あれは不思議だったっておっしゃった。あの「憂国」というのは、純粋に三島さんではないと思っています、半分ね。

 

SmaSTATION-5

 どういう気持から書いたのかと聞くと、ゾッとする答が返って来た。「手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべるのだ。止めようにも止まらない。真夜中に部屋の隅々から低いがぶつぶつ言う声が聞える。大勢の声らしい。耳をすますと、二・二六事件で死んだ兵隊達の言葉だということが分った」

(平岡倭文重「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」)

英霊の聲 - Wikipedia

  宴席で陽気に笑う三島の背後に、何かうごめく影を幻視した。
  直観で美輪はその影が二・二六事件の決起将校の霊であることがわかった。よく見ると影は旧日本陸軍の将校服を身にまとい軍帽をかぶっている。

(…)

磯部浅一!」と三島が言った瞬間、まるでカメラのファインダー越しに、対象とピントが合ったかのように、その名前と“影”が一致するのを美輪は見た。「それだ!」

「何だ」と言わないでほしい。「何度か聞いたことのある三島自決のオカルト解釈か」。いや違う。違うはず。

『風流無譚』、二・二六事件三島由紀夫の「幻の皇居突入計画」…

この系譜に、まだ連なっているものがあるのだ。  

日本のいちばん長い日
 

 上記が表の歴史、下記が裏の歴史。 

日本のいちばん醜い日

日本のいちばん醜い日

 

(…)

  本書の題名はもちろん、半藤一利著『日本のいちばん長い日』を皮肉ったものである。半藤本は、昭和天皇ポツダム宣言を受託し、「終戦詔勅玉音放送)」で戦争を終結するまでに、天皇の「聖断」がいかに決定的だったかを緊迫感あふれる感動的な物語として綴っている。本書は、この数日間を当事者(陸軍や近衛師団将兵天皇側近、閣僚など)として経験した多くの目撃証言を徹底的に洗い出し、分単位の時系列で追い、目撃者間の矛盾とその原因を追究することで、半藤本とは全く異なり、「日本のいちばん長い日」は実は「日本のいちばん醜い日」だったことを暴き出したものである。

 本書の前半約三分の二を費やして浮かび上がった「日本の一いちばん醜い日」の実態は驚くべきものである。すなわち、戦争を続けるかどうかを最終的に決定しうる唯一者である天皇の最大の関心事は、日本国民の運命ではなく、自らが戦犯としての追及を免れるための保身と莫大な財産の保全であった。戦時にもアメリカはもちろんヨーロッパやロシアの権力者との秘密通信ルートを持っていた天皇は、ポツダム宣言受託に当たり、天皇制の維持と戦犯としての追及を免れる確証を得るとともに、莫大な財産をスイスの銀行口座に移し終えたことを確認して初めて降伏のための儀式に取り掛かったのだった。つい直前まで「本土決戦」を認めていた天皇が、軍の抵抗を削ぐために打った芝居が「偽装クーデター」とその鎮圧である。偽装クーデターは、天皇の意を受けた三笠宮の陣頭指揮で、入念な「シナリオ」の下で遂行された。
 そのクライマックスが、偽装クーデーターに強く反対した森赳・近衛師団長の惨殺である。戦時でもごく限られた警護士しか立ち入れない皇居の深奥部に、兵士が自由に動き回れる事態は、皇族が指揮しない限りあり得ないと著者は指摘する。同様に、「玉音盤」が強奪されようとした「玉音盤事件」もヤラセである。これらの一連の「芝居」が「玉音放送」を盛り上げ、軍民に対してもはや降伏を受け入れるしかない、という心理状態を作りだしたのである。そもそも「終戦詔勅」が、「敗戦」でなく「終戦」と命名されたこと自体に、天皇が自らの戦争責任を曖昧にし、「平和天皇」としてしぶとく生き抜くメッセージが込められている・・・

(…)

(投稿者 つくしん坊 ベスト500レビュアー 2016年3月18日)

 現在、朝の9時。もうあまり時間がない。最も秀逸と思われるレビューの一部を引用させていただいた。鬼塚英明の著書は、仮に経済ものは別としても、歴史ものには読むべきところが多くある。

自分も、二・二六事件の背景にあった国際金融事情を、表の歴史と裏の歴史の諸相について、この記事で言及した。

 浜口雄幸内閣の蔵相である井上準之助が、世界恐慌の真っ只中で金解禁に踏み込んだことが、大量の日本の金銀の流出を招き、昭和恐慌を招き、娘を身売りしなければならないほどの農村の窮乏を起こした。その反動として、五・一五事件二・二六事件などの青年将校たちによる暗殺事件が起こった。

 宮沢賢治が『グスコーブドリの伝記』に、一緒に暮らす妹が、見知らぬ男にさらわれる逸話を書き込んだのも同じ頃のこと。当時の東北の貧村では、娘たちの身売りだけでなく、「お腹いっぱい食べられる」といった甘言を弄して、婦女子を連れ去る事件が後を絶たなかったという。二・二六事件青年将校たちが、しばしば「愛する女性ー母なる自然ー日本」というように、国家(代名詞はshe)を女性的に身体化して殉死しようとしたのには、身体ごと奪われて底辺へ転落していく女子たちの悲惨な宿命的光景があったのだ。  

 金解禁の国際金融勢力に奉仕するための売国政策「金解禁」ののち、世界恐慌と昭和恐慌との激動の渦の中で、東北の寒村で、娘を見売りに出さねばならなかった親たちの気持ちは、いかばかりかと思う。

『風流無譚』、二・二六事件三島由紀夫の「幻の皇居突入計画」、宮城事件、宮城事件が偽装クーデターだった可能性… 

 

上記リストの最後の項目は、。昭和天皇が保身と免責のために創り出したとも言われる「永続敗戦レジーム」にまでつながっている。加藤典洋が執拗に「敗戦のネジレ」へ目を向けよと言い募り、丸山真男が敗戦の本質には「無責任の体系」があったと指弾し、柄谷行人が「『無責任の体系』とは、要するに、天皇が戦争責任を取らなかったことにある」と一言のもとに断言した「日本悪所論」の原点は、ここにあるのにちがいない。

自分が書こうとして途絶した文芸批評の論旨も、仏文出身らしい筆致をそこここに残しながらも、ロラン・バルトの『表徴の帝国』のように「空虚≒皇居」の虚焦点へと吸い寄せられつつあるのが、読み返すとわかる。

昭和の水面下では、どす黒い暗い怨念がとめどもなく溢れかえって、いまだに感受性の強い種族を突き動かし続けているのかもしれない。

冒頭の Eve 先生の鑑定に、自分が歴史上のどのような人物とどのような関係にあるかを教えられて、どうしてあのような小説や文芸批評を自分が書いてきたのか、私にはわかったような気がした。

まだ昭和の「裏の歴史」を信じられないって? 「表の歴史」を書いた半藤一利自身が、2015年にこう証言しているのに?

 68年、この本が新国劇の芝居になり、招待されて見物に行った帰り道のこと。終戦当時の肩書で言うと、荒尾興功・陸軍省軍事課長、井田正孝中佐ら事件の当事者たちも招待されていて、私が後ろにいるのに気づかず、「今度も出ませんでしたね。これは永遠に出ませんね」と話していた。食い下がったが聞き出せなかった。残念です。

 

『日本のいちばん醜い日』を書いた「鬼塚英昭」(1938年1月6日 -2016年1月25日)とは、本名だったのだろうか。

それが本名であろうと筆名であろうと、鬼気迫る筆致で、昭和の歴史を後世へ向けて刻んだ英雄のご冥福を、謹んでお祈り申し上げたい。