あらゆる噛み罠に花束を挿して

 波音は、たいていは控えめに心を和らげるリズムを奏で、夫人が子どもたちとすわっていると、「守ってあげるよ、支えてあげるよ」と自然の歌う古い子守唄のようにも響くのだが、また別の時、たとえば夫人が何かの仕事からふとわれにかえった時などは、そんな優しい調子ではなく、激しく太鼓を打ち鳴らすように生命の律動を容赦なく刻みつけ、この島もやがては崩れ海に没し去ることを教えるとともに、あれこれ仕事に追われるうちに彼女の人生も虹のように消え去ることを、あらためて思い起こさせもするのだった。 

灯台へ (岩波文庫)

灯台へ (岩波文庫)

 

いわゆる「意識の流れ」という描写手法をウルフは取る。取り立てて劇的な何が起こるわけでもないのに、言葉の粒が連なって、心の動きを際立てては崩す。寄せては返す波のようなエクリチュールが好きだった。 

こういう1/fゆらぎを内包するかのような、手描きの線に似たエクリチュールの対極にあるものは何だろう。

片脚で立ち、片脚を抱えて回るバレリーナ、あるいは、古典派経済学の需要と供給の一致点のような「点」のイメージだろうか。

実際、ウルフと画家の姉ヴァネッサを中心として形成されていた芸術家集団「ブルームズ・ベリー・グループ」のある男性を名指して、ウルフは姉にこんな手紙を書いている。

私は、メイナードが手遅れにならないうちに、あなたが彼の結婚をやめさせるべきだと、真剣に考えているのです。

 ここでいうメイナードは、実は有名なバレリーナとの結婚話を進めていた。メイナードのフルネームは、ジョン・メイナード・ケインズ。20世紀最大の経済学者だ。

このブログでは、石橋湛山の世界同時的先見性を照らすために、ケインズを引用したことがある。

東洋経済新報」の主幹ジャーナリストだった石橋湛山は、既存の経済理論に盲従しない「在野のエコノミスト」髙橋亀吉という部下を得て、自分たちの頭で新たな状況に即応した経済観に立って、旧平価ではなく新平価による金解禁を主張したのである。

驚くべきは、極東の島国にいた湛山たちが、ほぼオンタイムでケインズの『貨幣改革論』や「チャーチル氏の経済的帰結」を読み込んで勉強していたことだ。つまり、当時の湛山たちは、進取の気性と自前の刻苦勉励で、世界標準時にいたケインズと同じ先進的な経済提言を行っていたのである。ここに書かれているケインズの主張は、金解禁論争での石橋湛山たち少数派の主張とほぼ同じだ。 

通貨の過大評価と景気の関係については、ケインズも注意して観察していた。ケインズ第一次大戦後の一九二五年、英ポンドが、一度は放棄していた金本位制に旧平価で付記しようとしたとき、これに強く反対した。金本位制では通貨が割高になるため景気に悪影響を及ぼす、というのが彼の反対の理由だった。結局、三一年にイギリスは金本位制を持ちこたえられず、ポンドを切り下げた。このとき、ようやくケインズはイギリス経済の前途を楽観するにいたったという。つまり、金本位制復帰においてポンドを無理に高く維持することは高金利・デフレ圧力となり、製造業の活動、とくに輸出産業にマイナスであると考えていたのだ。これが大筋である。 

経済敗走 (ちくま新書)

経済敗走 (ちくま新書)

 

 

ケインズバレリーナの結婚は、点で途切れることはなかった。イギリスの名女流作家の予言の通りにはならず、うまくいったのだ。

何より、結婚後のケインズの仕事は、古典派経済学の需要と供給の一致点より、さらに複雑でさらに経済の実態に近い『一般理論』へと進化した。その『一般理論』を、よく目にするIS-LM分析で代表できると考えている人が多いようだ。(IS-LM分析については、下のサイトで勉強できる)。

http://www.findai.com/kouza/IS-LManalysis.html

ところが、その簡素すぎるグラフが、別名「ハンセン=ヒックス」モデルと呼ばれることからもわかるように、IS-LM分析は俗流ケインズ主義の金看板。ケインズの『一般理論』の全貌を捉えたものではない。

少なくとも、全部で5つの要素が組み入れられている。

  1. 消費性向(消費者がどれくらい消費したがるか)
  2. 資本の限界効率(投資家が投資からどれくらいリターンがあるかを判断する勘)
  3. 利子率(人々が貨幣を選ぶか他の資産を選ぶかを決定させる根拠)
  4. 人々の賃金水準
  5. 中央銀行が決める貨幣量

1. と 2. は完全に心理的なもの。3. は定量化できるが、利子率を根拠に人々がどの資産を選ぶかという「勘」までは、定量化できない。巷間言われるように、単純で素朴すぎる箱庭的均衡経済学との批判は当たらない。

むしろ、「ハンセン=ヒックス」モデルのように、極端な単純化を被る以前の『一般理論』は、不安や危機意識に翻弄されやすい人々の非合理的な経済行動の影響を、充分に考慮したものだったと言えよう。

その後、ケインズ理論は反ケインズ陣営の急先鋒だったミルトン・フリードマンらによって撃破された印象が強かったが、2008年のリーマンショックによって、マネタリズムの寒々とした断層が明るみに出ると、急速に人気を回復したらしい。

ただ、自分は2008年という年は、ケインズ復権の年というより、サトシ・ナカモトの登場した年だと記憶すべきだと考えている。

サトシ・ナカモト? 若手の有望Jリーガー? 違う。

https://bittimes.net/news/1085.html

2008年に画期的なブロックチェーン技術の論文を書いた正体不明の男。その正体の核心に近づいたとする記事もあるが、サトシ・ナカモトが実際に誰なのかは、プロックチェーン技術で世界の通貨がどのようになるかという大問題に比べれば、可愛らしいくらいに小さい。

すでに日本語には疎いだろう海外からも、サトシ・ナカモトは偽名であり、「中本」「智」という漢字の連想から、「Satoshi Nakamoto means CENTRAL INTELLIGENCE in Japanese」という発言が飛び出している。日本人のどう考えても、意図的に作られた偽名だろう。 もしも上記の通り「中本」なら、日本でのランキングは488位。10万人に6人ほどしかいないらしい。「智」と漢字化できるラストネームも含めて、開発者の名前が、偶然「中央諜報組織」と意訳できる名前になる確率は、どれくらいだろうか。

「サトシ・ナカモト」が、たった一人の匿名の人物を指し、彼がリバタリアンサイファーパンクの連中の助けを借りて、ビットコインを押しも押されぬ暗号通貨の基軸通貨としての地位を確立させた、なとどいうお伽噺から、そろそろ卒業してください。

ごもっとも。ちょっとした確率論に目をやることができれば、無事卒業できそうだ。

そして、上記の記事では、海外の暗号通貨研究者の発言がこう引用されている。 

・・・NSAビットコインを創り出したという主張は、何年も前に浮上し議論されてきたことである。

多くの専門家は、NSAによって設計され、米国・国立標準技術研究所(NIST)によって発行されたSHA-256ハッシュ関数を、ビットコインのために使用する理由について首をかしげている。

NSAが、ビットコインにSHA-256を使用することに固執しているという事実は、このハッシュ関数バックドアを作ったと仮定すれば、納得がいくようになる。

そのバックドアは、今のところ検出することが不可能に近いが、専門家が仮定するように、本当にNSAバックドアを密かに設けたのであれば、ビットコインユーザーを好きなように偵察することができるというわけだ。

日本の平成バブルとは規模が違う。リーマンショックの大波をかぶりながらも、何とか世界が経済危機を乗り越えられたのは、中国がさらにバブルを膨張させる役を買ったからだった。次に来るバブル崩壊は、きわめて激しい嵐になるだろう。リーマンショックなんてピクニック程度にしかすぎなかった感じるほどだろう、という識者もいる。

仮想通貨の急騰ばかりがニュースを賑わせている。罠から逃げるときの時宜や算段を、ちゃんと計算しているのだろうか。仮想通貨の背景までがしっかりと見えている人がどれくらいいるのだろうか。

まもなくやってくる「第二次世界恐慌」の後、もはや機能不全を起している不換紙幣に変わる金融システムが、「監視バックドア付き」で世界へ普及しつつあるのが、現状なのに。 

ニクソン・ショック以来、約半世紀続いてきた「不換紙幣の道」は、行き止まりが見えるところまできた。ゲーム終了が見えてきたので、不換紙幣の回収が始まりつつある。

 日本人にとっては降ってわいたような話であり、財布の中から1万円札と5000円札が消えることなど想像しにくい。しかし高額紙幣の廃止は国際的にも趨勢となりつつあるのだ。まず’14年に1万シンガポールドル(約83万円)紙幣の発行が停止。そして’16年11月にインドが1000ルピー(約1700円)紙幣と500ルピー紙幣を廃止した。インドの場合、同紙幣の保有者は4週間以内に別の紙幣に交換するか、預金するかのいずれかを迫られた。米国やカナダ、オーストラリアも、高額紙幣の廃止を検討している。

不換紙幣の道は、岬へ続く道だったのだ。岬の先には白い波頭が砕ける海があるばかり。

悪人

悪人

 

『悪人』は個人的に思い出深い映画だ。

深夜の山中で女を衝動的に殺してしまった主人公は、灯台の根元にある小さな部屋で、隠遁生活を送った。映画の中であるとはいえ、主人公は実際に人を殺してしまったわけだし、灯台から先へ逃げる場所もなく、生き延びる糧も尽きることはわかっていた。どこにもハッピーエンドになる要素はないのに、逃げ迷った主人公が最後に逢着した場所が灯台であることが、どことなく嬉しかった。

「悪」に苛まれることが運命づけられた人間が、それでもその先へ光を送れる場所へと辿り着く。それはウルフの『灯台』のラストシーンの祝福にも、通じるところがないではない。

Now he has crowned the occasion, she thought, when his hand slowly fell, as if she had seen him let fall from his great height a wreath of violets and asphodels which, fluttering slowly, lay at lenght upon the earth.

老人はやがてゆっくり片腕を下ろして、この記念すべき時を祝福したのだけど、リリーには、遥かな高みから詩神の落としたスミレやアスフォデルの花輪が、ひらひらと宙を舞い降りて、静かに地上を彩るのが見えたように思えた。

これから猖獗をきわめるだろう「悪」の時代を、私たちは強靭な希望の意志をもって、生き延びなければならないだろう。そんな固い覚悟の行き渡った身構えが、今晩も自分の脳裡から去りそうもない。