「人生リバース追体験説」にグッとくる

砂浜に本を埋める場面を、小説に書くつもりだった。

波打ち際に埋められた本は、どんな風に変質していくのだろう。具体的にイメージしたくて、実際に埋めることにした。

捨てたい本が手持ちになかったので、母の不要になった本を埋めることにした。場所は早春に梅が咲きそろうことで有名な景勝地。浜辺を歩くのが好きだったので、客の誰もいない遊園地の近くに愛車を止めて、しばしば散歩した浜辺だ。帰郷してまもなく、遊園地は閉園になった。

海へと突き出ている石垣がいくつかあるのは、その昔、小舟を乗り付けたり釣りをしたりするためだったのか。それとも、護岸用の石垣の名残りなのか。

石垣を数えて、目印の石を決めて、その横の濡れた砂を掘り返した。本を縦にして葬るのは礼を失しているような気がしたので、横置きに安置できるだけの穴を掘って、『私の少女時代』を葬った。少女時代に砂をかけるとき、一度も少女だったことのない自分の胸が、少し痛んだ。

ところが、3日後に来て、目印の石の横を掘り返したところ、何も見当たらなかったのである。波がたっぷりの砂を運んできて、新たな砂の層をかぶせたのだろうか。それとも、急速に微生物に分解されて、砂と見分けがつかなくなってしまったのか。後者のように思われたが、あっという間に一冊の本が解けてしまったのには驚いた。こうして『私の少女時代』は名実ともに、消えてしまったというわけだ。 

 

誰も知らない [DVD]

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是枝裕和監督の映画の中では、知る限り最高傑作だと思う。『誰も知らない』という感動的な映画のことを思い出していた。『誰も知らない』は誰もに知られている。主演の柳楽優弥が14歳のとき、カンヌ国際映画祭男優賞を史上最年少かつ日本人初受賞したからだ。

世界一の栄冠を手にした少年俳優の輝かしい船出。それが祝福するに足る吉報であることはわかりつつも、受賞のニューズがチャンネルジャックをしている様子に、苦々しいものを感じずにはいられなかった。 

 父違いの男児二人女児二人を置いて、母親が蒸発する。蒸発後に残された子供たち4人が逞しく生きていく姿を、映画はドキュメンタリーに近いタッチで描き出してゆく。ドキュメンタリーから遠ざかってはならないのは、これが実際に起きた巣鴨子供置き去り事件を基にしているからだ。

 子供たちだけの生活の中で、二女が死亡するのも同じ。死んだ二女が好きだったアポロ・チョコレートを19個買うときに、店員が愛想を節約した声で「遠足にでも行くのかなー」と不躾な声をかける場面が、一番つらかった。そう、遠足に行くんだ、あの子は。見たいと言っていた飛行機の見える海岸沿い、墓標のない空き地の地面の中へ。

 特殊な母親が起こした特殊な事件。バブル絶頂期の東京の狂騒が、そのような印象づくりに拍車をかけた部分もあったかもしれない。誰もに嘘のようにカネが回っていた時代、鈍くさくてだらしない女もいたものだ。そう母親に悪態をついておけば、事件で感じた嫌なもやもやを一蹴できる。認知的不協和の非合理的解消には、もってこいの単細胞思考だ。 社会が未熟なのだと理解できないほどに未熟な思考。

ルポ 消えた子どもたち 虐待・監禁の深層に迫る (NHK出版新書)

ルポ 消えた子どもたち 虐待・監禁の深層に迫る (NHK出版新書)

 
ルポ 居所不明児童: 消えた子どもたち (ちくま新書)

ルポ 居所不明児童: 消えた子どもたち (ちくま新書)

 

 2015年に出版された新書の双方に「ルポ」という名がついているのは、「居所不明児童」の実態の全貌をつかめないので、個別のケースについて報告せざるを得ないから。

石川結貴は、2014年厚生省が行った『「居住実態が把握できない児童」に関する調査』の数の増減をメディアが優先的に報じるのには落とし穴がある、と主張する。住民票に記載さえされていない「消えた子供たち」の方が、その生存実態が遥かに厳しいのだ。その暗数を示唆する数値(住民票からの消除数)が、全国の政令指定都市・県庁所在地・東京23区を合計すると、2013年1年間で約940人だったというのである。調査規模が全国なら、その数倍は覚悟しなければならない暗数だろう。それだけの数の子供が、毎年消えており、誰もその子供たちを追いかけることすらできないのだという。 

 NHKの取材班が途中で提起しているのは、さらに複雑な問題だ。

 子供を社会から消してしまう行動は、紛れもない児童虐待の一種だが、児童虐待を生む要因には、貧困や社会的孤立や子供の障害などの要因だけでなく、虐待する親の側が精神的疾患を抱えている割合が、50~70%もあるというのである。鬱病を発症して酒乱や浪費や自傷行為を繰り返すようになった母を、中学生の少女が庇いながら必死に生きていく姿には、胸を打たれるものがあった。

児童虐待を「虐待する親が悪い」とする杓子定規な固定観念だけでは、もともと社会的包摂性の乏しい日本社会は、永遠に「消えた子供たち」を取り返せないことだろう。比較的近い年度(2014年度)、全国の児童相談所が受けた児童虐待の相談件数は、何と約8万8900件で過去最多。ここ15年間で7倍以上に増えているのだという。

児相や学校や行政や警察が適切に連携して… などという提言は、ありきたりで誰もが口にできるものだが、「改正児童福祉法」成立の一報は喜ばしいとしても、自分の目の届く範囲で、弱い立場の子供を「法ー外」の場所へ置かない強い決意が、この国の大人に求められていることは間違いない。社会的連携は、専門家だけでなく、地域の大人たちを巻き込んでの紐帯とならねばならないだろう。

 ところで、NHK取材班による新書は、児童虐待へ至る親の側の心理についても取材している。50~70%の「虐待」親が精神疾患を抱えていることは先程確認したが、精神疾患には至らなくとも、かなり病的な心理機制を抱えていることが明らかになっているのだという。

  1. 暴力肯定意識   自分のストレスを発散するための暴力であっても、必要な「躾」や「体罰」だと強弁して、自分の暴力を正当化しようとする。暴力には、言葉の暴力や処遇の暴力も含む。
  2. 子供への「被害妄想」  「乳児の泣き声が自分を責めている」「子供なのに自分を莫迦にした目で見た」といった根拠のない被害妄想に囚われ、暴力を振るうことで仮想的有能感を取り戻そうとする。
  3. 自己欲求優先主義   子供の頃に愛情欲求が十分満たされなかったために大人になりきれず、自分の欲求と子供の欲求とがバッティングした場合、無条件に自分の欲求を通す子供じみた虐待行動しかとれない。 

 1.2.3 は、「虐待」親の抱える問題行動にとどまらないという印象を受ける人も多いことだろう。こういう自己愛性パーソナリティ症候群に似た「症例」は、社会のいたるところで私たちが目撃させられている莫迦げた陋習にほかならない。

自分は子供と呼べるような年齢でもないし、幸いなことに幼少時に虐待を受けて育ったという事実もない。それなのに、かつての「消えてしまった少女時代」に似て、自分がどこか「消えた子供たち」に似ている気がして、感情移入してこの記事を書いてきた。

しかし、最近読んだスピリチュアル関係の本では、「消えない」のが正しいのだそうだ。人間は死んだ直後、人生で主体として行ったすべての行為を、客体としてすべて味わい直させられるのだという。自分のやったことすべてを、それが善であろうと悪であろうと、立場を逆にして再体験させられるのだそうだ。

自分は「消えた子供たち」と同じく「法ー外」の場所に幽閉されて、さまざまな犯罪加害を受けてきた。ところが、不思議なことが次々に起きて、それらすべてを赦しうるような契機が思いがけない形で自分を訪れつつある。少しも恨んでいないと言い切れるようになったのは、自分がこれまでに苦しんで苦しんで苦しみ抜いた15年間を、加害者たちが残らず追体験してくれるという「死後主客逆転追体験説」を確信するようになったことが大きい。相手の立場になってこそ、自分のやったことの意味が分かるというものだ。

この15年の間に少しだけ霊感のついた自分は、神様に何度も気持ちの悪い映像を見せてもらっている。私の名誉を徹底して毀損する行為を働いた直後、「今度のは効いただろう」と振り返った人物に告げて、北叟笑んでいる男の映像。やがて亡くなるだろう彼は、無辜の被害者の気持ちを再体験させられたとき、何を学ぶのだろうか。

いずれにせよ、その学びが、なるべく実り豊かな貴重なものとなることを願いたいと思う。

「死後主客逆転追体験説」は、2018年の自分に新たな目標をくれた。自分が死んだときに、主客逆転して味わい直す自分の人生が、良いところも悪いところもあるにちがいないものの、体験し終わったあと、人間の温もりに満ちた暖かい印象を残すものであってほしい。いろいろなことがあり、いろいろな人々と、いろいろな関わりをしたけれど、最終的に結構温もりに満ちた何かを残せた。そんな死後の満足感に、自分はどうしても出会いたくなったのだ。

となると、こいつは、精一杯きちんと生き抜いて、きちんと死ななくては!