北斗七星のひしゃくで雪を掬って
上の記事で書いた天使的美声の持ち主 Cocteau Twins の Elizabeth Fraser は、90年代の私的偏愛盤だった Massive Attack 『Mezzanine』でも、美声を披露している。懐かしい。どこか茫然として、あの頃のように、ダウナーなトリップに誘われてしまう。
20代の頃、負の感情をアースするために、年に数回、独自開発の儀式を行っていた。「淋死」と書いて「サビシ」と呼ぶ仮死状態ごっこ。部屋を真っ暗にして、あえてベッドから落ちた固い床の上で、毛布に小さくくるまって、暗い音楽に浸る儀式だった。フリスクのような清涼剤を齧っては、「どんなにきつく毛布にくるまっても、スースーする隙間風が心に吹き込んでくるよ」と、自分で自分に訴えたりしていた。消し流したかった負の感情とは、孤独。兎に似た寂しがり屋だったのだ。
Massive Attack や Portishead や Tricky など、90年代にトリップ・ホップの一群を生み出した街は、イギリスのブリストル。ブリテン島の東岸近くにロンドンがあるのは、ご存知の通り。ちょうどその線対象の西岸に、ブリストルはある。ちなみにバンド名の Portishead は、ブリストルの隣にある人口2万人くらいの港町の名に由来する。
そのブリストルの町づくりが大成功しているのを知って、調べてみたくなった。
Bristol Legible City was a hugely successful, groundbreaking project. It created the template for all subsequent city centre wayfinding projects. It’s success lay in a holistic design philosophy and the assembling of a talented, multi disciplinary design team. Signage formed perhaps the most obvious manifestation of a complete information delivery system that provided a consistent look and feel across all touchpoints.
ブリストル・レジブル・シティは、大成功をおさめた画期的なプロジェクトだった。その後のすべての市中心部の街路探索の計画の雛型を生み出したのである。総合的なデザイン哲学と、才能のある分野横断的な設計チームを編成できたところに、その成功はある。サイネージは、ひょっとしたら、すべての接触地点で一貫した視認性と空間把握を提供する完全な情報伝達システムとなり、最も明らかなマニフエストを形作ったかもしれない。
ブリストルは、14~18世紀くらいには、ロンドンに次ぐ大規模な貿易都市だったらしい。ところが、産業革命の波に乗れずに町は沈滞し、軍事産業の工場がやってきたのが祟って、第二次世界大戦でドイツ軍に激しく空爆されて、街はズタズタになってしまったのだという。
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現在の人口はわずか40万人。昔日の繁栄の面影を失ってしまったブリストルの活性化に一役買ったのが、90年代の地元発の文化の新潮流だった。
冒頭のゴシック美あふれるブリストル・サウンドは港町 Portishead から世界各地へ輸出されて人気を博し、クレイアニメの『ウォレスとグルミット』も日本の『ハウルの動く城』を上回る世界的ヒットとなった。
そして、ドイツ軍の空爆でずたずたになった街を再生するために、起ち上げられたのが「ブリストル・レジブル・シティ」プロジェクトだ。レジブルとは「わかりやすい」という意味。
- 一貫してデザインされた情報の流れで都市の多様な部分をつなげる。
- 都市の魅力をもっともっと知ってもらい、見つけやすくする。
- 都市に明解なアイデンティティを与え、各地区の個性を強める。
- 地域や国の交通政策や交通計画と調和しながら、公共交通利用を促進する。
大々的に予算がかかっているわけではない。むしろ40万都市にできる簡素な仕掛けで、点から線へ、街の文化資源をつないでいる印象が強い。
たぶん、実際に街歩きをするときに、一番実感できるのだろう。街路標識や地図が格好良くデザイン統一されていて、わかりやすい。例えば、個性的な鳥の巣箱のように、都市の随所に芸術家たちの作品を点在させて、区画それぞれの個性を演出したりもしている。
莫大な公金を投入して「箱もの」施設を作るのではなく、すでにある文化資源と文化資源、彩ある区画と区画をつなぐことに主眼が置かれているのは、空襲で寸断された町の復活劇にふさわしく、拍手を送りたくなる。
いわば、「ブリストル・レジブル・シティ」とは、街にばらばらに点在していた文化資源に「わかりやすい星座線」を引き直す戦略とでも言い換えられるかもしれない。
さて、海外の都市計画の面白さをセンスよく教えてくれる『シビック・プライド』は、しかし、国内編の続編の出来が今ひとつ淋しい仕上がりなのだ。ここで、今晩も一夜漬けの答案のくせに断言してしまうが、それは市民が持つべきプライドの源泉にスピリチュアルな聖域が充分に含まれていないからだ。
スピリチュアリティによる地域価値発現戦略 (地域デザイン学会叢書)
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昨年出版されたこの本には、ほとんど類書はないのではないだろうか。伊勢神宮や出雲大社や熊野三山など、あるいはより小規模な厳島神社や高尾山のような「聖性」を含む観光資源を中心にして、どのように街づくりを展開していくべきかが提言されている。
「聖性」には似つかわしくない「ZTCAデザイン」理論が登場する辺りは、どことなく広告代理店が書いた本のようでもあるが、分析自体は妥当なので参考になる。自分の言葉でまとめ直したい。
Z:Zoning:既存の文化資源の範囲づけや動線の確定。
T:Topos:既存の文化資源にさらに文化資源を新設して文脈付けをする
C:Constellation:Tに加えて、文化資源を組み合わせてストーリー性のある「星座」を作り、観光客の記憶に残る物語を創出する。
A:Actors network design:文化資源の運営で活躍できる人たちの協働ネットワークを作る。
ブリストルが福岡くらいの港湾都市だと思い込んでいたので、人口が自分の住む松山市より少ないと聞いて、ファイトが湧いてきた。何とかして、松山市でこの「ZTCAデザイン」の下絵を描けないものだろうか。
Cのコンスタレーションのうち、古代の人々に最も親炙していた都市計画の「物語」とは、風水で間違いがない。
一六、北斗、セブンスター…。
実は、この記事で書いたように、松山には北斗七星の星座線である「ひしゃく」の文脈が、街中に点在している。
この北斗七星のひしゃくは、北から来る鬼を封じる効験のに効力があるとされてきた。実際、801年、桓武天皇の命を受けて征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、討伐した蝦夷と日本との間に、七社で北斗七星の星座線を描いた。
熊野奥照神社の社殿によれば、津軽地方は王城の鬼門にあたることにより、古くから鬼神の蜂起が発生して庶民をおびやかすことがあったという。そこで津軽の阿姿羅というところに千坊の寺を建てて鬼神を平定し、国土擁護秘法を修した。ところが鬼神の横行は一向にやまなかった。
そこで桓武天皇の時代に、田村麻呂が名を受けて官民五万八千とともに、蝦夷を攻めた。このとき、田村麻呂は閉廷した津軽に七つの社を建て、そこに武器を遺棄して、あたかも田村麻呂将軍がこの地に常駐するかのごとくに見せかけることにした。
田村麻呂はその際、七社を北斗七星の形に配し、星の威光を借りて鬼神を封じたという。明治九年頃に岸俊武の「新撰陸奥国誌」に熊野奥照神社古文書から引用された図が掲載された。それは岩木山を中心とする十二里四方の範囲に点在する七つの神社の配置図であった。しかもその配置が北斗七星の形をなしていた。
この「北斗七星による結界」が、松山市にも存在することは、市民の間でもあまり知られていない。御幸町をロシア人墓地へ向かって上がった急坂、右手には「駅伝ガールズ」たちと接近遭遇していた松山大学の御幸キャンパスがある。山腹を斜めにすべって昇るエレベーターがよく語り草になる。
そのキャンパスの北側に龍穏寺がある。ちなみに地図上に墓のある足立重信とは、水害をもたらす暴れ川たちに「複雑な手術」改修して、「重信川」を作ったその人。
坂上田村麻呂と同じだ。やはり、松山城の北側に、北からの鬼の侵入を防ぐ「北斗七星による結界」が張られているのだ。加藤嘉明は、さらに陰陽師の安倍晴明が悪霊封じに使った「晴明桔梗印」、いわゆる五芒星で、松山城を取り囲んでもいる。
上記の無類に面白い松山本を書いた土井中照は、俳句や能がこの地で盛んなことにも、呪術的な鎮魂の狙いがあったのではないかと推測している。走り出した興味が、どこまでも尽きない感じだ。
札幌を舞台にした探偵ものを、第二弾までチェックした。仙台を舞台にした冒険活劇は、伊坂幸太郎の伏線の魔術師ぶりが生きた快作だった。
松山城を中心に陰陽道の結界を張りめぐらせた江戸時代の加藤嘉明、明治時代の『坂の上の雲』に登場する漱石と子規や、秋山好古と真之、昭和の伊丹十三や大江健三郎。……
これらの各時代の地元の偉人たちを縦横に織り込んで、随所に俳句を鏤めながら、『俳都物語』とか『探偵は湯船にいる』とか『長風呂刑事』とかいう映画作品原作を、いつか伊丹十三トリビュートで書いてみたいと、自分は秘かに熱望している。 俳都にいて、それを考えているだけで、ファイトが湧いてくるのだ。
さて、スピリチュアリティを中心に置いた町づくりや町おこしが、今どうして注目されているかというと、スピリチュアリズム自体が大きな興隆期にあるからだといえよう。
危篤状態の患者が生死の境を彷徨ったあと、事実通りに克明な治療現場の様子を語ったり、光や花にあふれる臨死体験を語ったりしたことを、自称「科学主義者」はどう説明するのだろうか。キュブラー・ロスは、全盲の患者が同じような体験を克明に語った実例を、複数採取している。そろそろ、否定できないことは否定できないと認めるのも、悪くないタイミングのはずだ。
- 作者: エリザベスキューブラー・ロス,Elisabeth K¨ubler‐Ross,鈴木晶
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上記の『スピリチュアリティの興隆』という学術書では、人々の霊性体験が、修道院のような隔離施設から、社会内組織へ、やがて脱組織化された一般大衆へと、段階的に浸透していった歴史に言及している。そして、キリスト教の「外」へ出てホームレス支援に当たった本田哲郎にこう触れるのである。
[引用者註: ホームレス支援にあたるため] 釜ヶ崎に来て、一年、二年、三年と経つうちに、ほんとうの意味でのいのちのわくわく感は、だれからだれに伝えられているかということがはっきりと見えてきました。ボランティアとして助けてあげているつもりの当の相手の、えんりょがちな、なにげない仕草や表情から、こちらが充実感や明日を生き直す元気をもらっているのは、まぎれもない事実でした。
釜ケ崎と福音――神は貧しく小さくされた者と共に (岩波現代文庫)
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「いのちのわくわく感」に置かれた強調は、原著者によるものだ。修道院からキリスト教組織へ広がり、今や組織外へと広範に普及しつつある「霊性」由来の善行が、これも一般大衆に膾炙しつつあるバシャールの説く心理と、まったく同じなのは、どういう種類の偶然なのだろう。
世界保健機構(WHO)が、「肉体的、精神的、社会的に完全な状態」という「健康」の定義に、「肉体的、精神的、霊的、及び社会的に完全な状態」を指すというように、新たに「霊的(spiritual)」を加えるべきかどうかが、世界的に議論されている世紀に私たちは生きている。
今日も、日本列島は厳しい冬の冷え込みに晒されている。北陸の金沢はもちろん、私の生まれた「敗戦湾」の舞鶴市でも、雪が積もりつづけていることだろう。南国の松山では粉雪がちらつくことはあっても、雪が積もることはない。
「雪 偲ぶ肩」
非公表の本名で作ったアナグラムをふと思い出したのは、数日前にお会いした霊能者の方から、数奇なことに、亡くなった後に知り合いになった或る女性が、依然として幽界で苦しんでいると耳にしたからだ。
厳寒地の人が白い息を吐きつづけるように、彼女は黒い息を吐いているという。冒頭で自分が戯れに言及した「淋死」の状態にあるのは、彼女なのかもしれず、状態はあれより遙かに苦しく淋しいのかもしれない。
『半神』は、結合双生児を切り離す難手術で、なぜか消えてしまった双子の片方を捜索する話。個人的には、夢の遊民社時代の野田戯曲の頂点だ。小劇場演劇であり、かつ、野田秀樹ワールドのことだから、「時空」は激しく入り乱れる。8:21から、行方不明の双子の片方を探して、自分も行方不明になっていた認知症の老数学者が、死んだ双子の片方を抱擁している場面が忘れられない。
「謎っていうのかい? この子供は?」
「それは子供です」
「子供っていうのかい? この謎は?」
20代で亡くなる生命だと少年時代に宣告されたのに、なぜか40代になっても、自分はそれなりに健康な身体で生かしてもらっている。自殺を考えたことも、一度ならずあったが、多くの人々の無償の献身によって救い上げていただいた。感謝の念は、いつまでも尽きない。
もしも、あの切り離された双子の片割れのように、エアポケットに落ち込んでいる「知人」がいるのなら、何とか自分が力を得て、あるいは他人からご助力を得て、その黒すぎる念を洗い浄められる「雪」を届けてあげたいような気がしている。どうすれば救えるのかを思いめぐらしながら、自分の街から北の方角で降りしきっている雪のことを考えている。北斗七星のひしゃくで「雪」を掬って、持って行ってあげたいと考えている。
(高校時代、「淋死」中によく聴いていた曲)