ジャガーの横縞は祈りの12文字

ジャガーの光芒

 どうしてだろう。不意にそんな言葉が、脳裡に浮かんだ。「光芒」とは「一条の光」とう意味だ。ジャガーが最初に日本の銀幕で輝いたのは、いつに遡るのだろう。自分が知っているのは1962年の『憎いあンちくしょう』。「ン」のカタカナ表記が面白い。「あんちくしょう」については、この記事に書いた。

憎いあンちくしょう [DVD]

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 石原裕次郎ジャガーのハンドルを握って、東京から九州まで縦走するロード・ムーヴィーだったと記憶する。1962年の封切りで、ヒロインは浅丘ルリ子。戦後初のジャガーのスポーツカーのハンドルを握っている姿に、はっとさせる美しさがある。 

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(画像引用元:https://blogs.yahoo.co.jp/wk4868/22121087.html

 運転しているのは、XK120で、現行モデルではSタイプの造型が面影を引き継いでいる。 

 

大学生の頃、伊丹十三ばりに、「憧れの車はジャガーだ」と語っていた時期がある。どうして?と訊かれると、だいたいこんな感じで切り返していた。

特別な理由はないさ。強いて言うなら、オレ自身が一頭のジャガーだからかな。

 最近どうやら自分が同じネコ科のイエネコだという衝撃の事実が、周囲に露見し始めたようだ。間違えないでほしい。オレが猫をかぶっているのではなく、猫がオレをかぶっていて、猫がオレに化けているというわけだ。 

2003年に数か月だけ書いたブログで、やはり当時英国車だったジャガーについて語り、「ジャギュア」という表記で小説中に登場させていた大江健三郎につなげて書いたような記憶がある。「性的人間」の冒頭、「ジャギュア」は積載人数オーバーの七人を載せて、四国の田舎町を疾走するのである。「性的人間」の発表は1963年。まさしく当時の日本では、しなやかに疾走する英国車が映画や小説の飛び道具になるほど、大衆の羨望を集めていたのに違いない。

昨晩、レヴィ=ストロースの話をしたので、「火の起源」の神話を読み返したくなった。『神話論理』は時代を創った名著なので、ネット上で研究している人も多い。神話は火の起源が、燃えるような体躯を持つジャガーにあると語っている。

人々は遠征して、ジャガーから火を奪う。火のついている幹は、走るのが早い鳥であるホウカンチョウとバンが運び、その後を追って、シャクケイが落ちた燠をついばむ。

最晩年のレヴィ=ストロースからインタビューを取りつけた日本人は、この方が最後だったのではないだろうか。

 10年前に、2日間にわたってお話を伺ったことがある。僕は当時『くくのち』という愛知万博テーマ普及誌のエディトリアルディレクターを務めていて、その創刊号のためのインタビューだった。万博のテーマは「自然の叡智」というものだったから、「だったらレヴィ=ストロース氏に話を聞かなくちゃ」と提案し、当のテーマを考え出した中沢新一氏と、伊藤俊治氏、港千尋氏から成る編集委員会が賛成してフランスへ渡った。

その非売品の「くくのち」の創刊号が、幸運なことに、いま手元にある。中沢新一による「レヴィ=ストロースの『構造』とは何か」が、リーダブルな平明さと簡潔さがあってとても好きになった。

構造主義四天王の他の三人、ラカンフーコー、バルトたちとは違って、レヴィ=ストロースには「野生の思考」がある。西欧文明を作った「論証」「抽象」「実証」のうち、レヴィ=ストロースは「実証」に立って、「論証」「抽象」を否定するので、彼から発した構造主義に対して「抽象的」という通俗的批判をぶつけるのは筋違いだというのが論旨の導入部分だ。ニーチェの系譜に連なっているので、レヴィ=ストロースの「構造」は世界を肯定するというのである。

その次に引用されるレヴィ=ストロースの文章は、確かにフランス現代思想とはひときわ異なっている。

 構造主義者たちのなかには、自分がキュービズムやそのほかの近代絵画の流れから決定的な影響を受けたと考えている者がいますが、(…)私が構造主義者になったのは、ピカソやブラックやレジェやカンディンスキーを鑑賞することによってではなく、むしろ、石や花や蝶や鳥を見ることによって、構造主義者となったのです。構造主義的な思考の出発点には、まったくことなったふたつの刺激があると言えます。前者は――あえてそうよんでみたいのですが――後者よりも人間主義的であり、後者は自然のほうを指向するものだ、ということができるでしょう。

インタビューの方も、レヴィ=ストロース90歳のときのものとあって、善業績を振り返りながらの滋味深いものに仕上がっている。時間を取って、じっくり読みたい。

 さて、本を開いた左右のページで日英の大役を確認しながら読める豪華な非売品のこの雑誌は、執筆陣も豪華だ。その中で、昔は欠かすことなく全著作を読んできたのが、港千尋大学図書館にまつわる本を約10年前に出しているのが、今朝訪れた大学図書館の棚で目に留まった。 

つくる図書館をつくる―伊東豊雄と多摩美術大学の実験

つくる図書館をつくる―伊東豊雄と多摩美術大学の実験

 

 読みどころは、途中にある建築家の伊東豊雄港千尋の対談だろうか。洞窟に関する著書を持っている港千尋が、こう投げかける。

港:(…)長い間パリに住んでいたので知ってるんですが、たとえばパリのそれぞれのアパートの地下にはいわゆるカーブ、つまりケイブがありますね。それが他の地下道に続いていたりすることがある。パリの中心部分で使われている医師、その昔は近郊の石切り場で掘り出されていたのですが、都市が拡大するにしたがって、それらの石切り場を待ちが飲み込んでしまった。建築の歴史というのはじつは地下を掘る歴史でもあって、掘った材料の後の空間というのは目に見えませんけれども、その目に見えない空間が上に出てきたもののなかに住んでいるものなんだ、という思いを持ってきたんです。

(…)

伊東:そうですね。ここのところのプロジェクトはなにか20世紀の建築を象徴するミース(ファン・デル・ローエ)的グリッドをベースにしながら、それをさまざまな形で展開しつつ、そこにあるルールを考えることに興味をもっています。それをエマージング・グリットと呼んでいるのです。(…)

 こういう建築談義は好きなので、いつまでも読んでいたいが、先を急がねば。伊東豊雄のいう「ここのところのプロジェクト」の中に、「世界で一番美しい公共図書館」があるのをご存知だろうか。 東北へ行くなら、建築好きの自分が絶対に訪れたい場所。図書館らしからぬ透明性は、何となく、フランスにある美術館らしからぬポンピドゥーセンターを連想してしまうのは、自分だけだろうか。

せんだいメディアテーク〉の「メディアテーク」とは、フランス語で「メディアを収める棚」を意味する。図書館、映像音響ライブラリー、ギャラリー、スタジオなど多彩な機能を収めた施設だ。

この〈せんだいメディアテーク〉のコンペで優勝した伊東豊雄の案は建築らしからぬ軽さ、透明さで人々を驚かせた。信じられないほど薄い床を、何本もの鉄骨が束ねられた13本のチューブが支える。しかもそのチューブは踊るように曲がっていて垂直なものはほとんどない。チューブの中は階段、エレベーター、空調や電気の配管などが入っている。屋上に採光装置で取り入れた太陽光もチューブを通じて建物内に入る仕組みだ。人もエネルギーもチューブを通って上下する、木の幹のような存在なのだ。 

昨晩書いた大三島にも、伊東豊雄ゆかりの小さな施設がある。 

さて、ジャガーで始めたこの記事が、図書館の辺りをウロウロしていれば、あ、あの作家の話をするんだな、と気付いた人も多いだろう。今晩はこれを書きながら、ボルヘスのことをずっと考えていた。その予兆はあるにはあったのだ。 

小説の主人公は無名のゴーストライターだが、普通の人が単なる自然な模様だとしか感じないものに、特別な意味を読み取れる能力を持っていて、例えばタイヤのトレッドパターンや死体の背中に浮き出る死斑の模様から、何ごとかを感知できるという設定だった。 

この部分を読んだだけで、20代の自分が、強くボルヘスの「神の書跡」に入れ込んでいたのがわかる。

 おそらく私自身がこの探究の目的であるのかも知れない。しきりに考えているうちに、ジャガーも神の属性であることに思い当たった。

 そしてこのとき、私は敬虔の念で浸された。私は、時が迎えた最初の朝を想像した。ジャガーたちの生きた皮に教えを託する私の神を想像した。ジャガーたちは洞窟や葦原や小島などで果てしなく愛し合い、仔を産んで、最後の人間たちに教えを受け入れてもらうのだ。私はまた、虎たちのあの縞が、虎たちのあの熱っぽい迷路が、一つの図柄を保つために牧場や家畜たちを脅かしているのを想像した。牢獄のもう一方にジャガーがいた。その近くにいることで私は、自分の推測を確証するもの、ある秘められた好意のようなものを感じ取った。

 斑点の順序と配列を覚えるのに、私は何年も費やした。暗黒の一日でも一度は一瞬の光を与えられるせいで、私は黄色い皮の表面にある黒い模様を意識に刻み込むことができた。あるものは点を含み、別のものは脚の内側で横縞を形づくり、さらに別のものは輪のかたちで繰り返されていた。おそらくそれらは同一の音、もしくは同じ単語なのだ。その多くが赤で縁取りされていた。 

アレフ (岩波文庫)

アレフ (岩波文庫)

 

 牢獄に幽閉された男が、隣の牢にいるジャガーの身体の模様を暗記して、それを「神の書跡」だと信じ込むという話。男はその「神の書跡」が「宇宙=世界」だと信じて、狂喜する。それが、14文字から成る「祈りの言葉」だと知って、それを口にすれば全能の存在になると確信するに至るが、その確信があまりに強すぎたために、その「祈りの言葉」を口に出す必要がないと錯乱して、健忘症となり果てるのである。

これは、ごくごく短い神学的な短編だろうか。

否、違う。というのが、自分の回答だ。ジャガーの身体の模様に圧縮された「祈りの言葉」が、いったい何だったのかはわからない。しかし、この神学的な圧縮現象はまたしても表題作「アレフ」に登場する。(ちなみに、ここでいう「アレフ」は、宗教団体とは無関係)。短篇の中で「アレフ」が初登場する場面の描写は、どこまでもボルヘスらしい。

 階段の下のほうの右手に、耐え難いほどの光を放つ、小さな、虹色の、一個の球体を私は見た。最初は、回転していると思った。すぐに、その動きは、球体の内部の目まぐるしい光景から生じる、幻覚に過ぎないことを知った。〈アレフ〉の直径は二、三センチと思われたが、宇宙空間が少しも大きさを減じることなくそこに在った。すべての物(たとえば、鏡面)が無際限の物であった。なぜならば、私はその物を宇宙のすべての地点から、鮮明に見ていたからだ。私は、波のたち騒ぐ海を見た。朝明けと夕暮れを見た。アメリカ大陸の大群衆を見た。黒いピラミッドの中心の銀色に光る蜘蛛の巣を見た。崩れた迷宮(これはロンドンであった)も見た。鏡を覗くように、間近から私の様子を窺っている無数の眼を見た。(…)葡萄の房、雪、タバコ、金属の鉱脈、水蒸気、などを見た。(…)

 20代の自分が、ボルヘスの何に魅かれていたのか、世界中の読書家が、どうしてボルヘスの格別の敬意を払うことが多いのか、現在の自分にはその理由がよくわかる。そこで、選ばれた詩人や作家しか書きつけることのできない「宇宙の真実」が書かれているからだ。実は、ボルヘスの〈アレフ〉と同じものを、平安時代真言宗の開祖である空海が書いていることを、どれくらいの人々が知っているだろうか。

空海は『秘密曼荼羅十住心論』の中で、「金獅子」の例えを使いながら10の項目に細分化して、華厳宗の「縁起」の世界の話を、丁寧に説明している。

第三の項目は、現代の知識でいう量子物理学の話。「シュレディンガーの猫」の例え話で知られる複数の可能性が重なり合って存在しているという量子論を語っている。

「金獅子」の例えでは、金を削って作られた獅子像に仮託して、私たちがどのように存在しているかを説明している。その10項目の説明のうち、第三項目が、まさしく量子物理学そのものなのである。

 第三には、もしも獅子をみれば、ただ獅子のみあって金はない。つまり金は隠れて獅子は顕われるのである。もしも金をみれば、ただ金のみあって獅子はない。つまり金は顕われて獅子は隠れるのである。もしも二つの立場からみれば、金も獅子とともに顕われ、ともに隠れる。隠れるのをすなわち秘密と名づけ、顕われるのをすなわち顕著と名づける。 よって、これを一つのものと多くのものは隠れたり顕われたりするが、互いに条件によって隠れたり顕われたりし、ともに成ずるという教え(秘密隠顕倶成門)と名づける。 

 続く第四項目に登場するのが、〈アレフ〉だ。わずか2、3センチの球の中に、世界が丸ごと入っていたことを思い出してほしい。

  第四にはすなわち、この獅子の眼や耳や身体の部分、一々の毛なみにそれぞれすべて、子をおさめる。一々の毛なみの獅子は同時に直ちに一本の毛の中に入る。一本ずつの毛の中にそれぞれみな限りない獅子がある。またまた一々の毛にこの限りない獅子を載せて、それぞれ違って一本の毛の中に人る。このように重なり重なって尽きることなく、尽きることなく関係しあっているさまは、帝釈天の宮殿の周囲に張りめぐらされた網にある網目の珠のようであるのを、帝釈天の網目の珠が互いに限りなく映じあっている世界という教え(因陀羅網境界門)と名づける。 

 このアレフ的な世界の存在の様態は、この後の記述でも再説されるが、全体の中に部分があるだけでなく、部分の中に全体があるという説明は同じだ。ボルヘス空海との時空を超えたインターテクスチュアリティとは、ワクワクさせる連関だ。

 初読で読み落としていたのを、今晩見つけて興奮してしまった。第九項目では、何と空海は「引き寄せの法則」を説いているのだ。 

 第九にはすなわち、この獅子と金とは、あるいは一方が隠れ、あるいは一方が顕われたり、あるいは一であったり、あるいは多であったりしても、それ自体の本性がなく、心の めぐりかた次第で現象といったり理法といったりする。こうして一方が成就したり、他方が確立したりする。だから、これをすべての存在するものは本来清らかな心(如来蔵)をその本性とし、一つとして心以外のものではないという教え(唯心廻転善成門)と名づける。

 ボルヘスは、図書館が無数の書物の集合体であるだけでなく、同時に全世界の比喩であり、同時に無数の本を「唯一の書物」に還元する宿命の機会だと考えた。

短篇「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」では、「すべての作品はたった一人の作家による作品だ」と語った。その唯一の書物の書き手、唯一の作家を表すのに、私たちは「神」という言葉以上に、ふさわしい言葉を持っていないのではないだろうか。 

 うほうっ!

今晩もお馴染みの歓喜の叫びが出てしまった。「ジャガーの光芒」で書き始めたこの記事のうち、「オレ自身が一頭のジャガーだから」と語っていた男は、ちっちゃ目の猫だったようだし、「光芒」は「弘法」のミスで「弘法も筆の誤り」だったようだ。

けれど、短篇中で宇宙の法則めいた神秘的な登場をした〈アレフ〉が、他の何色でもなく虹色に輝いていたという事実から、私たちは今晩ここで繰り広げられたものが、「レインボー・仔猫ショー」だったかもしれないことを、とりたてて否定する材料もないことだけは、どうやら確かなようだ。

 

 

 

 

(20代の頃によく聞いていたサラ・マクラクランによるカバー)