旅へは、心に刺青した詩句と一緒に

正直に言うと、実際に小説を書いているときよりも、どんな小説にしようかと考えながら下調べをしているときが一番好きだ。書くのは楽しくないわけではないけれど、やらなければならない情報処理が多すぎて、疲れることが多い。きっとまだ書くのが下手なのだろう。

例えるなら、下調べが散歩、執筆がランニングといった感じだろうか。

処女小説の主人公を「路彦」という名前にして、その仲間たちを旅好きの若者たちに設定した関係で、『路上』のビート詩人たちの詩や小説を読み込んだ。ちょっと青いバタくささを感じたので、日本の「犬(≒死者たち)」について書くなら、日本の路地を知悉しているまなざしの持ち主に繋げたいと感じて、この著書を文脈につなげた。 旅をする路彦に、森山大道の写真集を持ち歩かせたのだ。

犬の記憶 (河出文庫)

犬の記憶 (河出文庫)

 

 彼の身体の緊張が解けた。埠頭のコンクリート上を膝行すると、魔法めいた意外さで出現した自分のトランクの留め金を外して開いた。トランクの中には、一泊分の着替え、歯ブラシセット、一冊の本が整然と収まっている。本を手に取って開く。それは小B6版の小ぶりな路上写真集で、詩のわからない彼が、この前衛的な写真群に漂っている放浪のセンチメントにはすっかりいかれてしまって、若い頃あちこちへ旅するたびに、肌身離さず携行した一冊である。果てしない草原の消失店へ伸びる一本道が映っている。夜の闇の中で炎上する自動車が映っている。そして、荒涼たる夜の海の暗い波肌。…… 

あれ、どこかでビートニクについて書いた記憶があったので、アーカイブに検索をかけると、懐かしいあの記事に出会ってしまった。今は非公開にしてある。もう半年以上も経ってしまったのか。自分の情報受容環境だと、全然そんな感じがしない。 

路上 (河出文庫 505A)

路上 (河出文庫 505A)

 

 ビートニクといえば、ケルアック、ギンズバーグバロウズの三人が通り相場で、私も小説の主人公を旅好きの「路彦」に設定したために、まずはこの三人を探査した。その周辺で、昨年こんな事件が起こっていたのを見つけて、いつか記事に書こうと考えていた。

上手く仕上がっている記事だと思う。こういう人間と人間の交錯する感じが、ビートニクたちの死後も続いているのが、とても面白く感じられる。下記の引用部分の主語は、「ギンズバーグ」だ。

 一方、パティ・スミスとは、彼女がまだ無名の書店員だったころに、ニューヨークの食堂で出会っている。サンドウィッチを買う金が足りなくて困っていたスミスに、10セントを出したばかりかコーヒーまでおごったのは、長いコートを着たスミスが「美しい少年」に見えたから(ギンズバーグはゲイであること公表している)。

こんな文脈でパティ・スミスと再会するとは思わなかった。「パンクの女王」という称号で呼ばれることも多い彼女。自分はパティ・スミスのポエトリー・リーディング(詩の朗読)が好きだったので、ドアーズのジム・モリソンに近い文脈で聴き込んでいた。

しかも、ギターケースに『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の英訳を入れて、仕事の合間に読んでいたという逸話は本当なのだろうか。何だか、いわく言い難い不思議な気分だ。

(途中でポエトリー・リーディング調にもなるニルバーナの名曲のカバー。下の記事で引用したダニエラのカバーと聴き比べてみるのも面白い)。

さて、ロードノベルの定義は調べていない。ただ、自分の勝手な定義では、ただひたすら旅を続ける「移動」そのものが主役でなければならず、主人公の特異な性格や、「指名手配で追いかけられている」といった旅を強制する状況や、目的地の聖地などが主役になってはいけないと考えている。そういう具合に範囲を絞り込んでしまうと、有名な小説以外にロードノベルらしいロードノベルが、なかなか浮かんでこなくなる。 

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

 

 日本の旅では、「駅から駅へ」「港から港へ」というより、「俗世間から異界へ」という移動が、物語化されることが多い。

先日、ある女子高生が、一番好きな映画は『千と千尋の神隠し』だと話しているのに遭遇した。そういえば、あの映画も異界譚だった。宮崎駿は、10才の知り合いの女の子に喜んでもらうために、『千と千尋の神隠し』を作ったのだという。

ネタバレを恐れず書いてしまうと、千尋が迷い込んだ先で好意を寄せるハクは、実は「川の精霊」のような存在なのだ。

千尋は自分が幼いころに落ちた「川」がハクの正体であることに気づく。幼いころハクの中で溺れそうになったとき、ハクは千尋を浅瀬に運び、助けあげた。千尋がハクの名前に気づくと、ハクも自分の名前を取り戻す。

千と千尋の神隠し - Wikipedia

自分がこのブログで推してきた「少女成長物語」の構造が、ここにも出現している。

ここでもまた記憶に頼って書くが、「獣との倫ならぬ仮婚」から「運命の男性との本婚」へ至るプロセスで、前者から後者へ移るための物語イベントは、河童の川流れのような「水難による獣の死亡」か「運命の男性が見初めての救い出し」だったと思う。

千尋は少女なので、「本婚」未満の「仮婚」を体験をして成長物語を生きなければならない立場だ。少女はいったん、倫ならぬはずの異類(≒獣)と結ばれてしまうが、「水難による獣の死亡」などによって、本婚のある元の世界へ戻る。それが、しばしば反復される「少女成長物語」の定型構造なのだ。

ここまで書けば、どうして千尋とハクが結ばれるハッピーエンドが映画の終幕を飾らなかったのかが、このブログの読者にもわかるだろう。それは「ハク=水難+異類」であるせいであり、ハクは千尋の仮婚の相手ではあっても、本婚の相手ではなく、少女の千尋にこの物語で課されているのは、仮婚体験による「成長」だからなのである。

 それにしても、知人の10歳の少女にプレゼントを贈ろうと考えた小さなきっかけから、どうしてこうまで(あまり知られていない)「少女成長物語」を見事に造型して、プレゼントできるのだろう。

宮崎駿の本領が、初期の『未来少年コナン』や『カリオストロの城』のような冒険活劇めいた「少年成長物語」にあることは疑いない。そして、世にある偏見の中で、ジェンダー・バイアスが最も強力なことも確かだ。

けれど、宮崎駿は、社会に満ちたそのような迷妄の束縛を、風をつかまえたメーヴェのように、ひらりひらりとかわしていく。かわしながら美しい航跡を刻んでいく宮崎駿の仕事群に、コナン以来40年経った今でも、自分は見惚れてしまうのだ。

さて、10歳の少女なら、ロードノベルを』読む代わりに『千と千尋の神隠し』を見るのがいい。しかし、20歳を過ぎた大人の男女なら? このブログの読者なら、次に誰の本がお勧めされるのか、想像がつくのではないだろうか。実は私は、千尋の書いた本が大好きなのだ。 

注視者の日記

注視者の日記

 

 冒頭、この本がどういう本なのかの説明がある。

ここに集められているのは、1989年の冬から1994年下秋までに、ヨーロッパの各地を旅しながら書いた文章である。チェコスロヴァキアの革命に始まる中欧、紛争中の旧ユーゴスラヴィアを訪ねたバルカン半島、緊張が続くベルファストやデリーを歩く北アイルランド、夏の地中海、ノルマンディー上陸作戦から50周年を迎えた大西洋。それぞれの文章が地理的に整理されているのは、そこに空間的な移動の跡が反映されていると考えたからだ。

 この本は、日本文学が20世紀に持った最高のロードノベルだと思う。十数年ぶりに読み返して、あれ?と思うほど、知らないうちに自分も影響を受けていたかもしれないと感じた。

パリ在住のとき、港千尋ベケットの家の近くに住んでいて、同じ本屋を使っていたらしい。その本屋の店主は詩人で、自分の好きな本しか置かず、仲間たちと朗読会や交流会をよく開いていた。しかし、鉢合わせすることはなく、仲間の集まりでもほとんどベケットの話題は出なかったという。訃報の直前までは。

 港千尋の旅は、ユーゴスラヴィアへと向かう。そこで、あんなに近所にいながら顔を合せなかったベケットと、『ゴドーを待ちながら』を通じてそこで再会する。しかし、アメリカの著名な評論家の華々しい登場以前に、港千尋は現場入りして、国立図書館や美術館や教会などが破壊されていく渦中で、やはりベケット演劇を上演しようとしていた現地青年と出会っている。港千尋は写真家でもあるから、写真も残っている。注視者のまなざしはソンタグより早く、「民族浄化」の戦争の現場へ駆けつけていたのだ。

上記は、ソンタグに触発されて書いた短編)。

 北アイルランド紛争をめぐる限界大戦下の都市の写真にも、見覚えがあった。ベルファストという都市名にも。

そのアイルランドの「監視都市」化の波及もあって、ロンドンでは監視カメラが逸早く普及し、それを諷刺するメディア・アーティストのヒース・バンティングを調べていたという流れだったような気もする。

02. 《CCTV
1997
ヒース・バンティング
世界中の通りに設置されたカメラを経由し,リアルタイムに各場所を監視可能.何か起きたらすぐに当地の警察にファクスできる親切なフォーマットつき.ユーザーが,ローカルな場を監視するグローバルなパノプティコンの一部となる.

ICC ONLINE | アーカイヴ | 2005年 | アート・ミーツ・メディア:知覚の冒険 | 作品解説ツアー

当時、監視カメラ問題の深刻さを教えてくれたこの記事も、よく覚えている。

 今晩『注視者の日記』を読み返していて感じたのは、写真家としてのメディア意識が思考や文章に濃厚に反映されていることだ。写真は被写体との間に空間的な距離があり、写真を見るときには時間的な距離があるメディアだ。ハンナ・アーレントを引きながら、この時空の距離が「公共空間」を生み出していたとするあとがきも面白い。

写真家だからこそ可能となった、世界の政治的文化的潮流の先端に触れたロードノベル。著者自身が、メディア環境の急変による自らの変化をも予告しているように、確かに、思考を手放さない「注視者は移動し続けなければならないだろう」。

 かくまでも、メディアによって私たちの存在が強く規定されるのなら、メディア論には何ができるだろうか。最新の学問知が結集されているのが、「デジタル・スタディーズ」シリーズだろうか。東大の情報学環による論文集だ。 

デジタル・スタディーズ2 メディア表象

デジタル・スタディーズ2 メディア表象

 

すべてを読む時間がないのは残念だ。 門林岳史による「メディアの消滅」という論考が楽しめた。メディア論の古典であるマクルーハンを輪にして、そこにボードリヤールヴィリリオキットラーをつないで、状況は「メディアの消滅」へ向かっていくとする論旨。というのも、私たち人間そのものがメディアと接続され、私たちがメディアを読み取るのではなく、メディアが私たちを読み取る「ポスト・ヒューマン」の時代が来ているからだという。わかりやすい。

 もう少しアクチュアルな論考なら、この本が最新の動向をギリギリまで取り込んだ充実ぶりを示している。しかし、文体が凄まじい。現代思想に慣れている自分は平気だが、IT系の勉強をしようとする理系の学生がこれを読んだら、どんな感想を抱くのだろうか。とても打ち直す気にならないので、画像で示したい。

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 これを理解できる読者は、どれくらいいるのだろうか。このページでは一度しか出てこないが、「別様にもまたあり得る(アオホ・アンダース・メークリヒ・ザイン)」はこの前後に何度も出没して、ルビがどうしても「アホオ・ダンス」のように読めてしまう。ひょっとしたら、この難解な文章は、あの伝説の「アホオ・ダンス先生」の現代的可能性を熱く語っているのかもしれない。 

 さて、文体は似ても似つかないが、上記の思想の領域については、実は自分も触れたことがあるので書いてあることはよくわかる。 

あ、ここで思想好きが跳躍できるような場所に、ラクラウが飛び石を置いてくれているなと感じるのは、よくあるデリダの反本質論に対する「非政治的」という批判に対し、「デリダ的でなければ政治的たりえない」かのように、彼がコインを鮮やかに裏返してくれている点だ。そうか、こんなデリダの現代的な生かし方があったのか、という感想。

あれ? もっときちんと書いたと思ってたのに、書いていなかった。

しかし、拙記事で言おうとしていることと、上記の難解なメディア論が言おうとしていることは、それほど隔たっているわけではない。要するに、社会の ICT 化に合わせて「情報倫理」を語ろうとするとき、レヴィナスデリダが端を開いた「倫理ー政治的転回」の周辺からしか、倫理的契機は見出しにくいということだ。「別様にもまたあり得る(アオホ・アンダース・メークリヒ・ザイン)」とはレヴィナスの主要概念であり、大黒岳彦は、デリダうやルーマンを援用しながら、レヴィナス存在論(外部の他者への応答責任から倫理的主体が立ち上がる)を、そのまま人工知能システムに応用することをもって、現代思想の側からの情報倫理の根拠の回答だとしているのだ。

『情報社会の〈哲学〉』は、あまりにも多い現代思想ジャーゴンを縦横に駆使しながら語られるので、現代思想好きの自分でも眩々するほどだ。おかげで、自分の心の奥底にぽつりと湧いてしまった問いへ、同書がどう答えているのか、どうにも探しあぐねてしまう。

 レヴィナス流の他者を前提とする存在論が正しいとして、同じことが IT システム(人工知能ネットワーク)に応用できるとする根拠はどこに?

きっとどこかに書いてあるのだと思う。まだきちんと読んでいないので、時間ができたら、ぜひとも読み込んでみたい。 

 ところで、メディア論は、何も工学的技術が花開いた20世紀に始まったわけではない。19世紀のモローの『刺青のサロメ』は、メディア論を援用せずには、解説しがたい絵画なのではないだろうか。 

裸体で踊るサロメには刺青が施されている。ところが、その刺青はサロメの裸体にではなくカンバスの上に刻まれているのである。メタフィクションに似たメタ絵画とでも言おうか。白いカンバス上に色を刻み付ける行為が、皮膚の上に刺青を刻む行為と直結していることが、その重層性のレイヤー間を画家の筆が自在に往還するのを許すのだ。この絵画の美しさは、だから、「宿命の女」サロメの裸体に由来するのではなく、その裸体に刺青を彫るのと同じ強度でカンバスに絵筆を振るう画家が、平面にメタ絵画的な深みを生み出したことに由来するのだろう。

今晩の記事も、まるでこれがひとつのロードノベルであるかのように、話が長くなってしまった。すまない。「ロードノベル」「注視者のまなざし」「メディア論」「宿命の女」「刺青」を掛け算した先に、自分の目交には、ずっと或る写真のイメージが揺曳していたのだ。 

ベルナール・フォコン作品集

ベルナール・フォコン作品集

 

 皮膚に刻まれた詩句が美しい。 

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 (咲き初める花の臥床で死んでゆく狼のように)

刻まれた刺青のように、ずっと心に懸かっているのは、この写真。意味は秘密。

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え? 長々と書いて、結局、この写真を引用したかっただけなのかって? そんなクレームも、あいにくこのフランス語の詩句通り、まったく聞こえないのさ。