迷宮脱出はアリアドネーの糸を辿って

「独創性」というものへの心理的ハードルが、自分は高すぎることで損をしてきたタイプかもしれないような気がしている。

昔書こうとしていた小説で、『モンローの踵』という題名をうっすらとイメージしながら、謎の死を遂げた伝説の女優を織り込めないものかと苦心惨憺していたことがあった。(高級家具店ショールームで実際に暮らす謎の美女のゴーストライターを務める小説とは別の小説)。

マリリン・モンローの代名詞ともなったモンロー・ウォークは、マリリンが小柄なこともあって、巷間想像されているのとは違って、実際は必ずしも性的誘因力に満ちたものではない。むしろ、そこで片方のハイヒールの踵が5mm削られていたという事実に注目して書いたのが、この記事。

斬られた首=太陽、縫い閉じられた瞳、ゴッホの切り落とされた耳などを経て、いつのまにか自分の中にある身体毀損の強迫観念の連鎖は、フラミンゴの翼の尖へ辿りついていた。

 

想像上のロンドンでの顛末は別時に語ることにして、動物園のフラミンゴがやはりある種の「引き裂き」を強いられていることを、檻越しに観賞する人間は知っておいてもいいと思う。動物園で飼育管理されているフラミンゴは、遠くへ飛んでいけないように羽根の先を習慣的に鋏で切られつづけるのだそうだ。これを「断翼」と呼ぶらしい。

 

暗殺説の絶えないモンローが、実際に息を引き取ったときに受話器を握りしめていたという逸話には、それが偽装工作である可能性を知りつつも、涙を誘われてしまう。

自分には、翼の尖を切られつづけるフラミンゴの姿に、モンロー・ウォークの発祥となった映画を撮ったとき、モンローが片方のヒールの踵を5mm切り落としていた事実が重なって見えていた。モンローは羽搏いて逃げるべきときに、翼をどれほどばたつかせても飛ぶことができなかったのだ。あるいはコード付きの受話器に、あるいは受話器の先の誰かにしっかりと繋留されてしまっていて。

 受話器を握って亡くなったマリリンの電話線は、誰につながっていたのだろうか。 

メディアアートの教科書

メディアアートの教科書

 

メディアアートの教科書に過不足なく収まっていると、収まっていること自体が彼らしくないように思える。ヒース・バンティングはそういう芸術家だ。

街角に招かれざるメディア・アートを闖入させる彼の手法は、当時公衆電話をハッキングして、公衆電話から電話を掛けるのではなく、公衆電話に電話をかけるメディアートを仕掛けていた。

携帯電話の普及によって、もはや前世紀の遺物と化している公衆電話ボックス。ヒースのメディア・アートは当時かなり話題にのぼって、成功を収めたはずだ。しばらくしてヒット映画の『アメリ』の中で流用されて多くの観客の知るところとなったので、自作小説ではヒースの作品を引用しにくくなった。 

 しかし、小説では、実際にその「公衆電話ハッキング」が成功するところを描くつもりはなかった。主人公と懇意になったヒース役のアーティストが、「trrrrr...」の音が確かに耳へと返ってきたので、「アート」は成功したはずだと力説した。しかし、主人公は指定された公衆電話の前で立ち会っていたので、電話が鳴らず、「アート」が失敗だったことを確認している。主人公は、しかし、アーティストの話や口吻から、世界のどこかの別の公衆電話が鳴ったにちがいないとまでは確信する。

誰にも聞かれることのない声なき声。

それが、若い頃から自分が抱えている主題のひとつだ。そこに、マリリン・モンローの自殺(あるいは他殺)を決して救うことのなかった受話器と電話線がつながっているのである。

ところで、この小説の構想を練っていたのは、90年代半ば頃だったはず。インターネットは本格的な普及には至っておらず、日本語の情報は決して多くなかった。ネットとは別の情報源から仕入れていた都市伝説に、自分は不思議なくらい惹きつけられていた。

 ある夏の日、両親と4歳の娘の家族連れがTDLに出かけた。昼時になり、3人がレストランの前に並んで順番待ちをしている時、娘が『トイレに行きたい』と言い出した。その女の子は、もうトイレに一人で行くことができたので、母親はトイレの入り口まで付いていき、入り口で待っていた。
 しかし、なかなか娘が出てこない。不審に思い、トイレの中に入っても娘の姿はない。トイレの出入り口は、一つしか無かったので、見落とすことは考えにくかったのだが、父親のところに一人で戻っているのかと思って引き返してみた。しかし、そこにも娘の姿は見当たらなかった。
 さすがに心配になって二人は迷子センターに向かった。係りの人が手配をし、広大な園内を探したのだが、なかなか娘の姿が見つからない。そこで、迷子センターの責任者が園内に通じる出入り口を一箇所だけ残して全て封鎖し、両親をただ一つ開放されている出入り口に案内した。そして二人はそこを通る人たちの中から、自分たちの子供を見つけ出すことになった。
 随分時間が経った頃、アラブ系の外国人の集団が二人の前を通り過ぎようとした。彼らのうちの一人は、暑さにやられたようにぐったりとしている男の子を抱きかかえていた。この様子を見た二人は、この一団は無関係だろうと判断したが、母親の方が、男の子のはいている靴がおかしいことに気が付いた。その靴は女の子用の靴のように見えた。しかもそれは数日前、娘に買った靴と同じだった。
 母親はとっさにその男の子のもとに駆け寄り、相手から引ったくるようにして男の子の顔を覗き込んだ。
 果たして男の子だと思っていたその子は、彼女の娘だった。よく見ると娘は、服を着替えさせられていたばかりか、短く切られた髪をスプレーで染められ、カラーコンタクトを入れられ、別人のように見せかけられていた。ぐったりしていたのは、何か薬品をかがされたためらしかった。
 後に分かったところでは、その集団は臓器密売組織のメンバーだったという。

ディズニーランド誘拐事件 

自分はこの噂の周辺もぜひ「潜入取材」してみたいと感じて、ディズニーランドのアルバイトの面接まで行ったことがある。週三回以上浦安に通う時間がなかったので諦めざるをえなかった。

現在ではネットで情報が入手できるのもありがたいし、噂が真実性のない都市伝説だったことも、とても嬉しい。けれど、ディズニーランド以外の世界中のいたるところで、同じような「実話」が存在していることを知っている今、やはり「誰にも聞かれることのない声なき声」に、思いを馳せずにはいられないのだ。 

告発・現代の人身売買 奴隷にされる女性と子ども

告発・現代の人身売買 奴隷にされる女性と子ども

 
  1. 「受話器を握ったままのマリリンの変死」
  2. 「公衆電話を不意にけたたましく鳴らすメディア・アート」
  3. 「ディズニーランドでの臓器売買目的の子供の誘拐」

軽くリストアップしただけでも、思わず自分で自分を笑ってしまう。初心の作家志望が、こんな独創的すぎる複雑すぎる小説を書けるわけないのに。

しかも、自分はこれらを統括する二つの神話を作品の中に呼び込もうとしていた。ひとつは、ソポクレスの『アンティゴネー』。もう一つは、アリアドネーの糸による迷宮脱出譚だった。

どうして前者の「アンティゴネー」を絡めようとしたのかは、第三者にはわかりにくいと思う。ディズニーランドの少女誘拐は、「ジェンダー・トラブル」という最も根深い私たちの偏見によって、危うく遂行されそうになったことに注目してほしい。 

 訳者の知人の知人だったこともあって、第三波フェミニズムの動向が伝わりやすかった自分は、幸運にも、ジュディス・バトラーの著作群を、翻訳されるのとほぼ同時に読むことが多かった。記念碑的著作である『ジェンダー・トラブル』も面白いが、次作の『アンティゴネーの主張』も読み応えがある。 

アンティゴネーの主張―問い直される親族関係

アンティゴネーの主張―問い直される親族関係

 

 約20年前に貼った付箋がそのまま残っているので、該当ページだけ読み直した。なるほど。朧気ながら、当時の自分が何を面白いと感じていたのかが思い出されて、楽しかった。

たとえば、コクトーの『大胯開き』でもそうだったように、ヘテロセクシャルに限定しない方が、はるかに人間関係の発展可能性の選択肢は増える。 クィアドラマツルギー上、演劇的なものを増殖させる作用があることに、以前から自分は注目していた。

 これらの詩的箴言とは別に、コクトーの筆は、とんでもなく入り組んで錯綜した恋愛関係を、「詩才だけが可能にする速さ」で綺麗に描き分けている。

 美しき多情なあばずれジェルメーヌ①を中心に、その妹分のルイーズ②、主人公のジャック③、ジェルメーヌのパトロンの金持ちオシリス④、ジャックのイギリスの友人ストップウェル⑤、ルイーズのトルコ人彼氏マヒエディン⑥の6人について、①④、②③、①③、②⑥、①②、①⑤、①⑥の恋愛の順列組み合わせと、その恋愛関係を誰が知っていて誰が知らないかが巧みに情報処理されている。

 凡才には描きがたい①②のベッドシーンに遭遇しても、詩人はわずか二行で事足りる。

 

 彼女たちは頭文字のようにからみ合って、眠っていた。そのからみ方はあまりにも精巧なので、一人の肢体が相手の肢体と見紛うばかりであった。一糸まとわぬハートの女王を想像していただきたい。 

アンティゴネーの主張』の論旨は、早逝した竹村和子による解説が大変わかりやすい。長くなるが引用する。

バトラーは、アンティゴネーの反抗を、 「乱交的服従」という奇異な概念を創造して、説明する。
 思えばアンティゴネーの家庭は、そもそもが非常にクィアな家庭である。なぜなら父オイディプスは、知らぬこととはいえ父を殺害し、母(イオカステー)と結婚した。そうして生まれたのが、アンティゴネーたちである。したがってオイディプスは、アンティゴネーの父であると同時に、同じ母イオカステーから生まれた兄でもある(そしてイオカステーは、アンティゴネーにとって母でもあり、また祖母でもある)。またアンティゴネーの兄弟たちは、そのような兄オイディプスの子どもなので、アンティゴネーの甥でもある。このテクストでは、親族関係の語彙は、眩量を起こさせるような多義性、多価性のなかで、その規範化能力を失いはじめているようだ。

 しかもアンティゴネーは、オイディプスが自分の運命を呪いつつ、盲目となって自国を追われたさいに、父に「従順に」従ったが、そのようなアンティゴネーに対して、オイディブスは「死んでいる男以外にどの男も、この先おまえにはいないだろう」という意味の予言をおこなう。このとき「死んでいる男」という言葉でオイディプスが意図したのは、父である彼自身だったが、彼もまたアンティゴネーの兄であることを思えば、同じ兄ボリュネイケースに忠誠を捧げたアンティゴネーは、オイディプスの予言をそのままに生きたということにもなる――ただし「兄」という言葉の指示対象を、オイディプスからポリュネイケースに入れ替えて。同様に、「兄」という言葉にポリュネイケースだけを意味させようとするアンティゴネーの意思もまた、彼女自身の家庭の錯綜した親族関係によって切り崩される。「兄」という言葉は増殖し、それは「父」オイディプスをも意味するものと なり、兄への愛は父への愛と融解する。逆もまた真なりである。さらに言えば、兄は男のきょうだいを意味する言葉であるが、決然と「男のように」反逆する「妹」によって埋葬の儀式を執りおこなわれるポリュネイケースは、「兄」という言葉に秘められている男性性を、アンティゴネーに譲り渡したようだ。そしてこのジェンダーの逆転はすでに、父
(=兄)のオイディプスに導かれながらも、実際にはアンティゴネーの方が盲目の父(=兄)の手を引いて導くという、主従の関係の逆転によって、予表されていたことでもある。支配的な言語に服従しつつ、禁じられた愛、禁じられた転倒を連鎖的に意味してしまうアンティゴネーの反抗を、バトラーは「乱交的服従」と呼んだ。

 オイディプス的な家族構造による小説の支配。そういった支配が、いかに小説生成の現場から遠ざかった具体性のない幻想であるかは、ドゥルーズ=ガタリによる『アンチ・オイディプス』を読めばわかるはず。しかし、問題はその読後だ。ではどうやってその「神話」の後を書き継いでいくのかという戦略については、当時も今も、文芸批評のほとんどが口を閉ざしているような気がする。

ヘーゲルラカンに説得的な反駁を加えながら、バトラーが目指したのは、おそらく文字通りの、そしてそれ以上の意味を生み出す「ポスト・オイディプス」だったにちがいない。小説や演劇は、そのジャンルの特性上、常に規範的統制よりも連鎖的逸脱の方向から豊饒を紡ぎ出してくるのである。

さて、「アリアドネーの糸による迷宮脱出譚」の方は、さらに奥深くまで小説に食い込んでいくはずだった。

 アリアドネーはテーセウスに恋をし、彼女をアテーナイへと共に連れ帰り妻とすることを条件に援助を申し出た。テーセウスはこれに同意した。アリアドネーは工人ダイダロスの助言を受けて、迷宮(ラビュリントス)に入った後、無事に脱出するための方法として糸玉を彼にわたし、迷宮の入り口扉に糸を結び、糸玉を繰りつつ迷宮へと入って行くことを教えた。

 テーセウスは迷宮の一番端にミーノータウロスを見つけ、これを殺した。糸玉からの糸を伝って彼は無事、迷宮から脱出することができた。アリアドネーは彼とともにクレータを脱出した。

アリアドネー - Wikipedia 

 この神話の解釈を、どれくらい調べたかはよく覚えていない。自分の勝手な解釈では、この神話は『君の名は』のような運命の男女が結ばれる話だ。牛頭人身の怪物ミーノータウロスは、その出生の秘密を紐解けば、「原光景」そのものだと解釈すべきではないだろうか。

ミーノータウロス - Wikipedia

原光景(げんこうけい)とは - コトバンク

 そのような子供にとっての精神的外傷を、自分と相手とを結ぶ一本の糸で克服し、迷宮を脱出する婚姻譚。20代の自分は、このような抽象的な神話を、夢の中の情景でありながら、どうしてもリアリティを伴った不条理劇に改変したがっていた。

荒野に迷宮が建てられている。それは10メートルはある登攀不可能な壁や壁や壁を組み合わせて作られた難攻不落の迷路。神話と同じく、アリアドネーに渡された糸玉の片方の端を入口の扉の把手に括りつけて、テーセウスはミーノータウロスの討伐に向かう。

ところが、少雨の荒野をなぜか巨大な雨嵐が襲い、みるみるうちに迷路内は雨水で満ち、水位が上昇していく。テーセウスは泳ぎながら、迷宮の奥へと進む。しかし、どのように進んでも進んでも、迷宮の奥にいるはずのミーノータウロスには辿り着けない。雨は降りやまない。罠ではないかと思って、もう迷宮から出られなくなったのではと不安になって、テーセウスは討伐を諦めて、アリアドネーの元へ引き返すことを決意する。 

しかし、アリアドネーの糸は手繰り寄せても手応えなく、水の中で垂れるばかりで、一向に入口が近づく気配がない。必死に糸を手繰り返して、とうとう糸の先へ近づいたと思った瞬間。テーセウスは、水面の上に糸の先端が浮かんでいるのを発見する。糸の先端にはドアの把手が結びつけられている。それを見た瞬間、テーセウスは絶望する。

固く糸を結びつけたはずの把手は、確かに糸に結びつけられたままだったが、把手が唯一の扉から外れてしまっていたのだ。どこかで、大きく水の流れる音がする。テーセウスが泳いでいる迷路内の水位が、急に下がり始める。唯一の扉が水圧で破壊されたのにちがいない。巨大な洪水が、アリアドネーを押し流してしまったかもしれない。 

水の引いた迷路の一角で、テーセウスは、糸を結びつけられた把手を撫でさすりながら濡れた地面に倒れ伏している。

と、そこで、主人公は目覚めるだろう。そして、いつのまにか、自分の片手が受話器を撫でさすっていたことに気付くだろう。次の瞬間、マリリン・モンローが同じように亡くなったことを想起するだろう。 

 20代の頃に書こうとしていた別の小説のうち、構想を覚えている部分は、ざっとこれくらいだ。リストは少しだけ長くなる。と打ったこの文字が「栗鼠とは少し長くなる」といま変換された。実話だ。

  1. 「受話器を握ったままのマリリンの変死」
  2. 「公衆電話を不意にけたたましく鳴らすメディア・アート」
  3. 「ディズニーランドでの臓器売買目的の子供の誘拐」
  4. クィア攪乱による人間関係の発展可能性の多様化」
  5. アリアドネーの糸による迷宮脱出失敗の悲劇」

正直言って、現在でもこれらを組み合わせた奇想天外な小説を書ける予感が、まったく湧いてこない。おそらくは「独創性」に賭けるところが大きすぎて、綺想の湧出や敏捷な連想作用に頼っていた若い頃の方が、才気が却って作品の完成を遠ざけていたとまでは言えそうだ。今は別のやり方を知っている。

今晩は雪がちらついている。月曜の祝日。私立・県立・国立大学・私立大学のすべての図書館が休館していて、新しい知識を仕入れることができなかったので、昔話を書いた。

「誰にも聞かれることのない声なき声」。

昔の話をしても、最近の話をしても、自分の追いかけている世界の通奏低音は変わらないようだ。同じコンセプトで書いた記事もある。

ん? 「声なき声」のはずが、どこかから声が聞こえたような気がした。手元に貝殻はないので、海の音がしたわけでもないだろう。声なら、やはりここかと思って耳をあてたスマホは、しかし、無音だ。電話が有線から無線に変わって、どれくらいになるのだろうか。無線になって、線は見えなくなっても、すべてが完全に見えなくなっているわけではない。そう信じたい気持ちが強い。

また、どこかから声がした。声は必死にこう言っているようだった。

電話でお話ししたいです。

 

 

 

 

 

 

 

(同じく、一対の男女が糸で拘束しあう映画だったと記憶している)