ゴールの先にある白紙を見つめて

今朝、目が醒めたとき、今晩は何を書こうかと考えていると、鳥の啼き声のような声で、no, no, ...という声が、どこかから聞こえた。何を否定したいのだろう? 朝からネガティブな言い草はよしてくれよ、と思って起き上がろうとしたときに、先ほどの声が、高校生の時に流行したこの曲の歌い出しに似ていることに気付いた。

この曲は当時も今も格好いいと感じる。でも、この曲しか好きじゃなかったので、自分の思い出ディスコグラフィーの中ではデュラン・デュランはミニサイズだ。自分に舞い降りてくる多種多様なインスピレーションの中では、「Actually」を降ろしてくださったとき(非公開記事)に感触が似ているような気がした。

きっと今朝のインスピレーションにも意味があるにちがいないと信じて、頭の中でミッシングリンクを探しまわっていた。曲名の「Nortorious」は「悪名高い」という意味。悪評について考えてみたが、手掛かりはつかめない。

「わかった」と思った瞬間、可笑しくて吹き出してしまった。頭の中でこんな連想がつながったのだ。

「Nortorious」=「能登→リアス」=「敗戦湾(若狭湾)」 

くすくす。いくら何でも、これを「神様からの霊言」としてブログに書いたら、神々を信じている方々が憤然とするにちがいない。霊感なのか、自前のインスピレーションなのか、今の自分は区別がついていない。自分の言語センスの卓抜さだということにして、今晩ブログで使おうと考えていた。

ジム経由で大学図書館へ行く。本棚に並んでいる膨大な本の背表紙に目を走らせる。数学の本を探していたのに、フランスの小説に目が留まった。というより、その小説と目が合ったような気がしたのだ。最近はテレビの録画を見ていても、目が合って羞かしくなって消してしまうこともある。きっと、全身麻酔にかかっているせいだと思う。 

 偶然手に取ったこの小説をパラパラめくって、偶然指を止めて見入ったページに、こんな文章が書かれていた。ざわっと鳥肌が立った。

 一生の間には、どこからかお告げの声を耳にする、選ばれた朝の来ることがあるもの だ。目がさめた瞬間、まだあてもないさまよいが続いている中を、ひときわ荘重な調べ がわれわれに向けて鳴り渡る。それはちょうど、何をしてよいかわからぬままに自分の部屋の使い慣れた品物を一つ一つ手にとってぐずぐずしているうちに、早くも大旅行への出発の時が来てしまったようなものだ。夢よりももっと予覚に満ちたそのうつろな朝の光の中を、遥かな警告のようなものが忍び寄ってくる。それは街路の舗石に一歩だけ聞こえた足音かも知れないし、覚めぎわの眠りをくぐってかすかに届いてきた最初の鳥の声かも知れない。

(ゴチック部分は原文では傍点)

 正直にいうと、ジュリアン・グラックは『陰鬱な美青年』と『アルゴールの城にて』しか読んだことがなかった。『アルゴールの城にて』は白水社版を持っているはずだ。 

アルゴールの城にて (白水Uブックス)

アルゴールの城にて (白水Uブックス)

 

『シルトの岸辺』は、没落しつつある都市国家オルセンヌが、「冷戦」中のシルト海対岸の相手国と、まもなく軍事衝突して滅亡するだろう緊張状態を、美しい文体で描き上げた傑作だ。「敗戦岸」小説と言っても良いのではないだろうか。

もともと詩的な文体の見事さには定評のあるグラック。グラックに一番近い日本の文学者は、このブログでたびたび言及してきた天沢退二郎であることは、上記の引用部分に「舗石」という天沢語があることからもわかるだろう。(ただし、詩には詩人の完全な独創がある)。

その「舗石」について、フランスと日本を0体市\比して、こう書いたことがある。 

自分が生まれる前の五月革命については、知らないことの方が圧倒的に多いが、カルチェ・ラタンの学生たちが敷石を剥がして投石し、唱和すべきモットーとして「敷石を剥がせば砂浜」と叫んでいたことが心に残っていた。詩的なー句が物語っているのは、旧体制(アンシャンレジーム)への、若者たちからの鮮烈な異議申し立てだろう。

ベルリンの壁の痕跡を辿る記述にも、敗戦国日本の文脈を紛れ込ませずにはいられない自分は、45年以降n度目の局地的敗戦を経て、ますます属国化の進むこの国の方へ、振り返ってまなざしを向けずにはいられない。小説の冒頭に、こんな一句を書きつけずにはいられなかった。

アスファルトを剥がせば焦土」 

というように、シンクロニシティーを媒介にして、すべてがみるみるうちにつながってしまうのは、「God is no where」ではなく「God is now here」だからなのだろう。そんな確信を、感謝の気持ちとともに、あらためて噛みしめた朝だった。 

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

 

 上記も面白い本。ゲーデルには昔から興味があったが、自分の専門分野から遠かったので、なかなか手が出なかった。トリオ語りなら、こっちの三人の方が面白そうだと感じて、本を買ってきた。一般教養向けなので、とてもわかりやすく手際よくまとめられている。図書館に置いていないのは、どうして?  

ノイマン・ゲーデル・チューリング (筑摩選書)

ノイマン・ゲーデル・チューリング (筑摩選書)

 

 この三人のうち、フォン・ノイマンの「驚異的な頭の良さ」と「徳盲」との組み合わせについて、こう書いたことがある。

このストレンジラブ博士のモデルと目されているのが、数学者のフォン・ノイマンだ。

神童としてハンガリーに生を享け、純粋数学界、理論物理、応用物理、意思決定理論、気象学、生物学、経済学に足跡を残した。「人間ではなく、人間のふりをするのがうまい人間に何か別の生き物」とか「悪魔のように頭が良い」とか評されるほど、とにかく頭が良かったし、その悪魔的な頭脳で、文字通り世界を変えていった。コンピュータが発展させていく未来を、最も正確に予測していたのも、フォン・ノイマンだった。

(…)

実際、メディア論史では、「1対1」のコミュニケーションが、印刷機の普及により「1対n」となって以降を「グーテンベルグの銀河系」という。それがインターネットの発達により「n対n」となって以降を「フォン・ノイマンの銀河系」と呼ぶこともあるほどだ。

(…)
けれど、フォン・ノイマンの悪評はかまびすしい。それも無理はない。

普通ならまだ学生のはず。ところが、20代前半で世界的な科学者となっていたフォン・ノイマンは、弱冠30歳でプリンストン大学の最年少の教授になると、軍産複合体お抱えの科学者として「大活躍」し始める。原爆の父オッペンハイマーに乞われて「原爆製造計画」に参加すると、長崎に投下されたプルトニウム型原爆の最大のボトルネックだった爆縮法(爆縮レンズ)の開発を成功させる。原爆なければコンピュータはなく、コンピュータがなければ原爆はなかった時代。コンピュータの飛躍的発展にも貢献した上で、原爆の空中起爆を考案して、投下都市を広島と長崎に決定する徹底的討論も主導した。

第二次世界大戦後の冷戦下、1950年に遺した凄まじい台詞は、実在したマッド・サイエンティストに最もふさわしい台詞だろう。

 

明日ソ連を[核]爆撃しようと言うのなら、私は今日にしようとし言うし、今日の五時だと言うのなら、どうして一時にしないのかと言いたい。

 

悪夢の両世界大戦時代に生きつつも、理想主義をも内包していたアインシュタインオッペンハイマーと違って、フォン・ノイマンには「徳盲」と詰られるほど倫理的呵責がほとんどなかった。 

このノイマン1903年生)に、どうしてゲーデル(1906年生)とチューリング(1912年生)が連なるのだろうか。

実は、三人はノイマンを媒介に、1936年から1938年まで、同じプリンストン大学の数学科に集結していたのである。「ゲーデルをヨーロッパの瓦礫の中から救い出すことほど重要なことはない」と断言するほど、ノイマンにとっては特にゲーデルの知性への評価が高かったようだ。

ノイマンについては、或る程度書いたので、読書はゲーデルへと向かったが、まさか『夜の蝶』所属の踊り子と結婚するような人だとは思わなかった。完全性定理を証明した約半年後に不完全性定理の証明に成功したゲーデルは、同じ半年の間に人妻の踊り子と相思相愛になるという「難業」にも成功しているのだ。

不完全性定理の発見は、20世紀の論理学と数学における最大の発見だとされるほど稀有の偉大な業績だが、ゲーデル自身はその偉業を、踊り子との出会いの喜びのおかげだと語ったのだという。

人生って何があるかわからない。

わからないと言えば、ゲーデル不完全性定理も、初見ではかなりわかりにくい代物だ。1987年になって、これを情報数学者のグレゴリー・チャイティンがさらに発展させて、「ゲーデルチャイティン不完全性定理:任意のシステムSにおいて、そのランダム性を証明不可能なランダム数GがSに存在する」という帰結を証明してしまった。 

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

 

 数学の論理構造は完璧──というのは実は幻想にすぎない。かつてゲーデルの「不完全性定理」がこの事実を示したが,いま注目されるのは「オメガ」という数だ。完全に定義でき,確定値を持つのに,決して計算しきれない数とは? 
 ゲーデルは,数学が不完全であり,きちんと証明できないにもかかわらず正しい記述を含んでいることを示した。ところが「オメガ」という特別な数は,数学にさらに大きな不完全性が存在することを明らかにした。有限個の公理をいかに組み合わせても証明できない定理が,無数にあるのだ。したがって数学の「万物理論」はありえない。 
 オメガは,あるコンピューターに関して考えうるすべてのプログラムの集合から1つのプログラムをランダムに選んだ時,そのプログラムがいずれ停止するものである確率だ。完全にきちんと定義され,決まった値を持つ。しかし,どんな有限プログラムを使っても,オメガのすべての桁の値を計算し尽くすことは不可能。言い換えると,証明不能な数学的事実が無数に湧き出る泉のようなものだ。
 この特性は,数学者が新しい公理をもっと仮定してよいことを示している。物理学者が実験結果をもとに論理的証明のできない基本法則を導くのと同様だ。 

流石、サイエンスライターが書くと、不完全性定理すらわかりやすく読めてしまう。

いくつか付け加えたい。引用文中の「そのプログラムがいずれ停止するものである確率」とは、チューリングが取り組んだ「停止性問題」のことでございますので、何卒ご注意をばお願い申し上げます、という低姿勢にもつながっている。サイエンスライターは「数学者が新しい公理をもっと仮定してよい」と、自然数論にまで広く及ぶこの「ネオ不完全性定理」を、新しい数学の可能性のように書いている。しかし、ネオ不完全性定理は一般人が読むと、神の存在可能性を大きく増やす発見なのではないだろうか。

実際、チャイティン自身が「私は、神が、物理学だけでなく、純粋数学においても、自然数論においてでさえ、サイコロを振ることを証明した」と語っている。 

(英語が得意な人向けの動画)

 では、チューリングは?

チューリングについては、プログラム型コンピュータ(チューリング・マシン)の最初の開発者として言及されることが多い。しかし、ほぼ同じ発見をほぼ同じ時期にノイマンが成し遂げていることから、ノイマンの業績としてみなされることも多い。ノイマン型コンピュータ、ノイマン環、ノイマンの定理など、彼の輝かしい業績のリストは世界一なのだ。

むしろ自分は、チューリングをコンピュータの発設計者やドイツの暗合機エニグマの解読者ではなく、同性愛絡みで自殺する2年前に発表した「反応拡散方程式」の数理生物学者として記憶したい気持ちが強い。

テレビ番組でも取り上げられている。キャプチャー画像を紹介しているブログを見つけた。

シマウマや縞のある魚などの体表の模様は、変数がたった二つの連立偏微分方程式によって表せることを、チューリングは発見したのだ。その二つの変数とは、下の例では、活性化因子と抑制因子である。

タテジマキンチャクダイの模様を見ると一本の模様から二本の模様に枝分かれしている部分があります。ここに注目します。なぜか。

「何か起りそうな気がするではないですか」

(…)

この活性化因子は自分自身を合成するよう細胞に働きかけます。そうすると細胞はどんどん活性化され活性化因子を放出します。さらに他の物質を放出するように細胞に働きかけます。

(…)

 この物質は活性化因子が作られるのを抑える抑制因子で、これが増えれば活性化因子は減少していきます。

 活性化因子と抑制因子の量が作りだす波形、この波こそ細胞が自分で模様を作りだすメカニズム。というわけです。

(…)

チューリングの言葉】

 二つの物質が、ある条件のもとで反応しながら広がるとき、そこに物質の濃淡の波ができその波が生物の形や模様を作りだす。

そして物質の反応の強さや広がる速さを変えるとどんな波ができるのか、チューリングは次の方程式を残しています。 

 チューリングは、たった二つの変数(拡散と濃度)から、あらゆる生物の複雑極まりない組成物が作られていくプロセスを数式化することに成功したのだ。チューリングの最晩年の仕事が、「神の領域」に到達していたことを疑う人はいないだろう。

縞馬や豹の体表の模様を「神の書跡」と呼んだ小説家を、このブログではすでに紹介している。

 牢獄に幽閉された男が、隣の牢にいるジャガーの身体の模様を暗記して、それを「神の書跡」だと信じ込むという話。男はその「神の書跡」が「宇宙=世界」だと信じて、狂喜する。それが、14文字から成る「祈りの言葉」だと知って、それを口にすれば全能の存在になると確信するに至るが、その確信があまりに強すぎたために、その「祈りの言葉」を口に出す必要がないと錯乱して、健忘症となり果てるのである。 

ノイマンゲーデルチューリング』は、難解な学術知と三人のライフヒストリーを、実にうまくまとめてある本だ。後世による歪曲つき簡略化に抵抗するために、ナマの講演録が入っているのも良い。

本書をもとに、三者の共通点をまとめると、「両大戦の爆撃光に浮かび上がった天才科学者たちの光と影」という章題を付けられそうだ。

広島と長崎に落とされた原爆に「爆縮機能」を加えて莫大な死傷者を生み出した挙句、自身も水爆実験による副作用で早逝したノイマン。20世紀最大の不完全性定理を証明したものの独裁国家によって弾圧され、救出してくれたノイマンや友人のアインシュタインを失うと精神病と栄養失調で死んだゲーデルナチスドイツの暗号機エニグマを攻略し、コンピュータを開発したものの、戦後まもない反共保守の風潮の中、同性愛を告発されて有罪先刻と強制ホルモン治療を受けて自殺したチューリング。 

(2016年、過去イギリスで同性愛によって「罪人」となった人々の名誉を回復する「アラン・チューリング法」が可決された)。

私的には、別の視角があると感じている。

ノイマンの華麗かつ多彩な業績の中では霞がち。しかし、忘れてはならない業績がある。

ノイマンはその1925~1927年で、量子力学の理論のうちの数学的側面を完成させてしまったのだった。1927年に開かれたソルベー会議が量子力学にとって画期的なものになったのには、フォン・ノイマンの大きな貢献があったのである。

 もう一度整理しよう。

量子物理学の基礎の完成に貢献して物理世界に「神が存在しうる余地」を生み出したノイマン。数学のほぼすべての世界に「不完全性定理」が成立しうることを証明して「神が存在しうる余地」を生み出したゲーデル。変数がわずか二つの連立偏微分方程式によって、ほぼすべての生物が自然に自発的形成を遂げる「神のデッサン」をモデル化することに成功したチューリング

 両大戦間を中心に、20世紀を飾った三つの天才の綺羅星たちは、互いに交錯しつつ、それぞれの流儀と推進力で、未踏の「神の領域」にその輝かしい軌を跡残したというのが、私の独自の考えだ。

 世界の話を地方都市に縮小して考えると、四国の片隅にある松山でも、綺羅星たちの交錯が豊かな物語を紡ぎ出した。

同じ松山で生まれ育った正岡子規と、日露戦争で活躍した秋山兄弟。子規は病と闘いながら俳諧の革新に挑み、秋山兄弟はそれぞれ日本の騎兵、海軍の技術向上に尽力した。当時最強とうたわれたロシアのコサック騎兵を打ち破るべく、ひたすら仕事に打ち込む兄好古と、文学の世界に未練を残しながらも海軍に入隊し、海軍戦術を研究し続けた弟真之。2人のまじめな努力の成果は、歴史が証明している。誰もが立身出世を目指した時代に、彼らがどうやって自分の人生の意義を見出したのか。そんな視点から読んでみるのもおもしろい。 

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)

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 しかし、司馬遼太郎自身は、秋山兄弟にせよ正岡子規にせよ、決して天才的な存在ではなかったと言明している。「彼らはその時代の人らしくふるまったにすぎない」と突き放す。司馬遼太郎がこの大作で描き出したかったのは、個人的資質の個々の輝きではなく、天才ならざる一般大衆に浸透していた「時代精神」だったというのである。

時代精神」という言葉を吟味しながら、その司馬遼太郎自身の同時代人を探すと、二歳年下に三島由紀夫が見つかる。三島由紀夫は「時代精神」とほぼ同じ概念を、文化的側面に集中させながら「文化意志」という概念で、最晩年に主張した。

民俗学精神分析とによる「底辺の国際主義」(≒構造主義)へ引き込まれることを執拗に警戒しつつ、三島由紀夫は島国固有の境界線の定立を試みる。

はじめ個我によく似た民族我は、排他性、絶対的自己同一性、不寛容、などによって他との境界を劃し、以て民族的自覚に到達するが、「我」としての文化、いはば文化我も、排他的な自意識を、最初の文化意志として定立するであらう。

民俗学精神分析を厳しく退けつつも、文化の形式を通じて発現する「集合無意識」があると、三島が信じているようにしか読めない。その「集合無意識」を民族単位で括りたいという留保をつけているだけなのではないだろうか。

「実際にそうなっている」というのが、興隆著しいスピチュアリズムからの答えだ。ここはユングを引用すべきところなのかもしれない。けれど話を早くしたい。  

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 ピラミッド型の階層構造は、別名ではツリー型構造という。個々の人間から垂直に上へ伸びているのは、オーバーソウル層が積み重なった逆ツリー型のレイヤー構造だろう。もう少しスピリチュアリズムの周辺を調べてみないと、確言はできないかもしれない。

ただし、それぞれの教義間で、霊性をめぐる言説に、それほど大きな差はないというのが、自分の読書経験からくる印象論だ。 

10数年前、自分に割り当てられた電話番号をじっと眺めているうちに、「924-5310」が「国を良くするゴミ当番」に見えて仕方ない気がした。自分のソウルの上、小さい順に重なっている何層か上に、「日本のオーバーソウル」があるはずだ。そこを通じてつながっている(上の「手のひら」の図のように、個々人はオーバーソウルでつながっている)人々と、何とかして上手く協働して、この国がもう少し上手く操縦されるよう努力してみたい。そんなことを考えてみたりもする。これが今晩のゴールであり、着地点だ。

ここから先は白紙。私たちの未来が描かれていく白紙だ。酔い覚ましをするかのように、しばしその白紙を見つめながら、じっと立ち止まっていた。

或るゴールの白にて。