世界の真実をたずねて三千里

 スペインから遠く海を越えた極東の島国から、サグラダ・ファミリアが完成するまで、どれくらいの道のりがあるのだろうと考えていた。 時間にすると、1882年の着工から136年経った2018年現在、あと8年というところらしい。

2040年の新世界: 3Dプリンタの衝撃

2040年の新世界: 3Dプリンタの衝撃

 

 まず、一体どうしてそんなに早く完成を見込めるようになったのか、気になるところですよね。その理由には大きく二つあり、一つ目はさきほどサグラダ・ファミリアの工事がなかなか進まない理由としても挙げた建設方針の手探り状態が、近年のIT技術を駆使することでだいぶクリアになったことがあります。

コンピュータのない時代には模造実験のための模型も手作業で作らなくてはなりませんでしたが、今は3Dプリンターやコンピュータによる設計技術も進んでいるため、進捗はかなりスムーズになっています。 

二つ目は、サグラダ・ファミリアを建設する予算が観光客増加によって潤沢になったから、というのもサグラダ・ファミリアを語る上で欠かせないポイントです。サグラダ・ファミリアは贖罪教会という特性から、その建設予算は人々の寄附によってまかなわれてきました。

かつては工事費の不足により建設が遅れてしまっていた側面も大きかったのです。  

良かった。3Dプリンタのおかげで、工期が短縮されて完成予定日が前倒しされているそうだ。完成したら、いつか海を越えて、スペインへ世界遺産が内定した巨大な建築群を観に行きたい。

明るい未来を思い描いていると、不意に誰かが淋しくさせるような不安にさせるような言葉を送ってきたので、思わずこうつぶやいてしまった。

マルちゃん。

「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?

「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?

 

M:わかった。じゃあ、しばらく「マルちゃん」で代用するのは、どう? 

もう何が何だか分からなくなってきた。さしあたり、確認しておかなくてはならないのは、東洋水産の即席麺「マルちゃん」が、海を渡って、スペイン語圏のメキシコで大人気になっているという事実だ。

誰もが心に傷を抱いて生きている。なぜ「マルちゃん」なのかは、もう訊かないでほしい。今晩語りたいことは、むしろ自分の心の傷が、「マルちゃん」ではなく、「マルコくん」だったのかもしれないという話だ。 

嗚呼、どうしてこの主題歌はひどいくらいの物悲しさで、子供に不安きわまりない寄る辺なさを喚起しようとするのだろう。自分が見たのは、幼稚園生の4歳のとき。今から振り返ると、このアニメとの出会いは、自分にとって宿命だったようにも感じられる。

オイディプスを変形したこのクライマックスに、当時の自分が何を賭けていたのか、今ならわかる気がする。それは自罰感情だ。思い通りの愛を得られないのは、自分に欠けているもの、自分が殺したものがあるからだと自分を責めてやまない気持ち。

19歳なんて、本当に子供なんだな。  

上記のような文言だけだと、自分を責めてばかりで、自尊感情の乏しい内気な少年に見えるかもしれない。ところが、自分をよく知る周囲の人々は、誰にも褒められても認められてもいないのに、内心に謎の自信満々があるのがわかるらしい。

とうとう、初めてその秘密を明かさねばならない夜が来たようだ。実は、物心ついた頃から、自分には「来歴否認」の精神的傾向があるのだ。あれ? 関連情報がネット上にほとんどない。「来歴否認」とは、実の両親を名乗る父母が、実は育ての親にすぎず、本当の理想的な生みの親が、どこかにいると仮構する考え方だ。

幼稚園の頃から、自分もいつかマルコのように「母を訪ねて三千里」の旅をしなければならないと感じていた。その理想の家族への恋慕が、19歳で書いた戯曲では理想の女性に投影され、現在では理想的な双子の娘がいたらという夢想につながっている。後期高齢者になる頃には、架空の孫娘のことを夢想しているにちがいない。

現実世界でどんなに不遇でも、理想の両親や恋人や子供たちがどこかで待っているにちがいないから、不思議と心が満たされて状態で生きてきたというわけだ。

 実は来歴否認のことを書いては?というインスピレーションは、数日前に自分に来ていた。 

上の記事を書いたとき、骨髄バンクの新書を調べたら、どうもレビューの中身がおかしいのだ。下記のリンクを踏んで、確認してほしい。図書館で手に取ってみると、中身は普通の骨髄バンクの話だった。なのに、2018年2月20日現在、本書に誤って木村敏の新書のレビューが結び付けられていないだろうか。 

 今朝まで、「自罰感情」をフォローしようとする優しい言葉に触れたような気がして、心を動かされてしまい、すぐに打ち消すために「来歴否認」の話を書かなくてはと感じた。実は、誤リンクで想起させられた木村敏は、日本で最も多く「来歴否認」に言及した精神科医なのだ。今日もおはよう、シンクロニシティ! 

残念ながら、今日は来歴否認を直接論じた文献にはアクセスできなかった。ただし、精神科医が言及する事例のひとつに自分が該当するからといって、自分が狂人であるかのような「診断」はご遠慮願いたい。確か、思想家の柄谷行人も「来歴否認」の経歴があると語っていたように記憶する。むしろ、普遍化されたオイティプス・コンプレックスの周辺に出現する徴候で、フロイトはそれを「ファミリー・ロマンス」と呼んだ。 

    In his article, Freud argued for the widespread existence among neurotics of a fable in which the present-day parents were imposters, replacing a real and more aristocratic pair; but also that in repudiating the parents of today, the child is merely "turning away from the father whom he knows today to the father in whom he believed in the earliest years of his childhood"

記事の中で、フロイト神経症患者の間に、現在の両親がより高貴な本来の両親からすり替えられた偽者であるとして、現在の両親を拒否する寓話が、広く存在していると述べた。そのとき子供は単に「現在知っている父親に背を向けて、子供時代の最初期に信じ込んだ父親へ固着しているだけ」だとも主張した。

Family romance - Wikipedia 

 北杜夫やなだいなだのような作家兼精神科医のような種族を除くと、非精神科医の一般人にも娯しめる研究を残しているのは、木村敏中井久夫がまず挙がることだろう。人文学界隈でも評判の高い『徴候・記憶・外傷』を開いてみた。

冒頭から文学青年度が高い。

 ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香り――、それと気づけばにわかにきつい匂いである。

 それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨あがりの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いを振りこぼしていた。

徴候・記憶・外傷

徴候・記憶・外傷

 

 このように文学的叙情を過剰に湛えた書き出しから、文脈にヴァレリープルーストやジョイスの固有名詞が織り込まれていく好エッセイ。しかし、精神科医としての本領は、この巻頭の「文学的出発」以降の心的外傷をめぐる研究にある。

よって、この巻頭エッセイでも、精神科医木村敏の人格分類への言及の方に注意を払うべきだろう。中井久夫はそこで、精神病理学を二分する基礎構造論と失調破綻発病論のうち、前者を木村敏が重点化しており、後者を自分が重点化しているので、木村と自分は相互補完的な関係だと分析している。これくらいの簡単な分類なら、門外漢の自分でもわかる。

木村敏が提起しているのは、主要な精神病のあり方から、人格類型を導出しようとする試み。ドゥルーズ=ガタリが、パラノイア(偏執狂)とスキゾフレニー(分裂症)が、世界を二分する原理をなしており、前者でなく後者の社会的文脈を顕揚したのと、論理構成が似ている。しかし、この二大原理が精神医学の世界では、必ずしも対立概念ではないという話は、しばしば指摘される論点だ。

というのも、本書内で「分裂症」と表現されているものは、おそらくは、主に破瓜型統合失調症のことであろうと思う。それに対するものとして提出されている「パラノイア」とはだいたい妄想性障害周辺を指しているものではないかと憶測される。しかし本来、統合失調症に厳しく対立する概念としてパラノイアがあるわけではないのだ。妄想性障害のみを指す場合もあるとは思うが、統合失調症に含まれる代表的なサブカテゴリに妄想型統合失調症があるのであって、より不完全なものは妄想性障害や妄想性人格障害として、それら異常で体系化された妄想を持つ疾病群をひとくくりとして「パラノイア」と呼ぶことは普通にある。 

スキゾはパラノ - purplebabyのブログ

となると、主要な二つの精神病に基づいた人格分類には、果たして汎用性があるのだろうか。木村敏は、統合失調症が未来志向(アンテ・フェストゥム)の人格に対応しており、鬱病が過去志向(ポスト・フェストゥム)の人格に対応しているという。さらに癲癇と躁病を現在志向(イントラ・フェストゥム)の人格に対応しているとして、木村敏の精神病に基づいた人格分類は完成する。

少しここで戯れておけば、「フェストゥム=祭り≒事件」を文学に導入すると、起こるべき「事件」が未来にあって追い詰められていくのがサスペンス。つまり、サスペンス好きは、未来志向(アンテ・フェストゥム)ということになる。起こってしまった「事件」が過去にあって過去の事件を探求していくのがミステリー。つまり、ミステリー好きは、過去志向(ポスト・フェストゥム)ということになる。

こういった分類は分類としては成立しても、どんな役に立つのかがわかりにくい。

木村敏の主張にも同じ感触があって、それぞれの精神病を「時間」という一本の輪ゴムで、過去ー現在ー未来の順に重ねてまとめた手際の良さは見事とは言えても、これがどのように活用できるのか、にわかにはわからない。

木村敏現代思想にもかなり精通していて、フッサールハイデッガーのラインで時間論を展開もしている。そこで「時間の間主観性」という章題を発見すると、やっと彼のポジショニングの手がかりをつかめたような気になれる。 

偶然性の精神病理 (岩波現代文庫)

偶然性の精神病理 (岩波現代文庫)

 

精神科の臨床現場を知らない自分は、そんな風に診察しているとは夢にも思わなかった。鍵言葉は「間主観性」だ。木村敏の主著から引用しよう。

 分裂病の臨床的診断にあたっては、表面的な症状に基づく診断のほかに、精神科医が患者から感じとる一種の直観がかなりの役割を果す場合がある。(…)ビンスヴァンガーの「感情診断」、ミンコフスキー の「洞察診断」、ヴェルシュの「直観断」、リュムケの「プレコックス感」などはいずれもこの現象を言い表わしたものであって、人間学的・現象学分裂病研究者がいずれもこの現象に着目しているのは興味深い。私は、分裂病への現象学的接近の可能性は、分裂病者が診察者に与えるこの一種独特な人間的雰囲気への着目によって開かれたと言ってもよいのではないかと思っている。

 この独特の人間的雰囲気というのは、分裂病者がときとして示す明白な拒否的、自閉的な態度や、旧い分裂病者が陥っている感情の起伏に乏しい平板な印象とは全く異ったものである。つまりそれは患者の表面的な対人的態度が拒否的であるか友好的であるかには関係なく、また患者との言語的交流や意思の疎通が可能であるかいなかとも無関係に、患者と出会った相手が本能的・直観的に感じとる一種異様で不自然な全体的雰囲気である。それはいわばなにか根底的な「生命的関係」とでもいうべきものの途絶感、あるいは言語的には表現しにくい過大な(ときには過小な)内的疎隔感であって、得体の知れぬ不安感を伴っている

(…)この直観的に感じとられる不自然さの印象は、恵者と人間的に接近しようとする相手の心中に忽然と生じる全く主観的な感覚である。しかし主観的ということはこの場合、なんの根拠もない好き嫌いや、狂人に対する恐怖感のような先入見を意味してはいない。というのは、分裂病者が相手に対してこの種の異和感を与えている場合、分裂病者の側でもそれと同時に、その相手から全く同質の異和感を感じとっているのであって、このことは多くの患者の証言からも明らかなことだからである。つまりこの不自然さの感じは、主観的ではあるが完全に相互的で、語の本来的な意味における「相互主観的」あるいは「間主観的」な性質の現象だということができる。

(強調は引用者による) 

自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)

自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)

 

 知らなかった。そんな風に診察していたのか。ここで言われている「間主観性」は、聞きなれない言葉かもしれない。

世界の意味了解は、個人の主観においてなされるのでなく、超越論的な場における他者と共同体の構成という、複数の主観の共同化による高次の主観においてなされるということ。

間主観性とは - はてなキーワード 

 ここで言われていることは、ユング集合的無意識とほぼ一緒だ。つまり、精神科医は患者を診断するとき、健康な人々との間にはある「集合的無意識」による触れ合いが、患者に対して感じられるかどうかを、診断の重要な直感的手がかりにしているのだ。

「自己とは何か」から「時間とは何か」へ向かったあと、木村敏は「生命とは何か」へと向かう。ここまでくると、ほとんどユンギアンもしくはカワイアンと言ってもいいのではないだろうか。河合隼雄との相互評価を知りたくなる。木村敏は、個別の生命を「ビオス」、個別性を越えて連続する集合的生命体を「ゾーエー」と呼んで峻別し、人間が「ゾーエー」から切り離された不全状態こそが精神病だと考えるようになるのである! 

Hawaiian Music

Hawaiian Music

 

 (写真はハワイアン音楽)

さて、この記事に合わせるかのように、集合的無意識が実在することを示す記事が、ネット上に出現した。

以上の結果から、音声は図形と共感覚のように密接に結びついていることが証明されたが、この実験で最も重要なのは“無意識のうちに”音声から図形を連想させた点である。被験者らは、ほとんど認識できないほどぼやけた文字を見せられ、それが認識できた時点で瞬時にボタンを押すよう指示されていたため、文字と図形の関係をじっくりと考える時間がなかった。つまり、意識的な連想ではなく、無意識的な連想の実在が今回の実験で証明されたというわけだ。

「ブーバ/キキ効果」は、特定の地域や言語に特有の現象ではなく、人間の無意識にインプットされた普遍的な現象であるといわれている。

(強調は引用者による)

しかし、すっかり参ってしまった。インスピレーションのなすがままに書いていると、従来のアカデミック領域のそこここに、次々にスピリチュアリズムに通底する研究結果を発見してしまうではないか!

「神様」と私は声に出してお願いごとをした。「走って辿りつけるなら、三千里でも走ります。授けてくださった使命を果たしながら、生きていきます。ですから、…」とお願いごとの部分は心の声でお願いした。

そして、今晩この場所を始点にしてはじまる旅の道程を、瞑目した瞼の裏でイメージした。神様から答えは返ってこなかった。けれど、その返答であるかのように、瞼の裏で遠くまで果てしなく伸びている道が、燦然と輝いたのだった。 

 

 

 

(ハワイの波音)