「I know 愛の…」と言えるのに(ポンッ!)

ただいま。

 振り返るとタヌキがいた。自分には同居しているタヌキはいない。このタヌキは、どうして我が家のような顔をして、ここへ帰ってきたのだろうか。ただ、目の目にいる小動物が、昨晩の記事で書いたタヌキだということはわかった。

ぼく:昨晩の花火は綺麗だった。ありがとう、タヌキくん。ただ、執筆途中に割り込んで、不可解なヒントを出すのは、今晩は遠慮してくれよな。全然うまくいかなかったんだ、昨晩は。

タヌキソニーのプレステ→『NOと言える日本』→正義や倫理の根拠→テレパシーの実例4つ→量子論的観点からのミチオ・カクの世界観の評価→花火 …完璧だと思うけどね。

ぼく:ところが、執筆者としては、どうにも不完全燃焼だった。決め台詞をどうしても言いたかったのに、決め台詞に辿りつけなかった。

タヌキ:本当は二本立ての記事になる予定だったんでしょ?

ぼく:どうして知っているの?

タヌキ:オイラはきみの潜在意識から来ているからね。きみの考えていることは何でもお見通しさ。

ぼく:まいったな。まあ、知っているからこそ、花火を打ち上げてくれたわけなんだよね。こんな感じで二本立てのつもりだった。

ぼく:この二本立ては一本目で「続っとする」を使った。昨晩、終れるものなら終わりたいと思っていたから、 強引にテレパシーを軸に一本建てに改変しちゃったんだ。終わらなかったけどね、例によって。

タヌキ:こっちはこっちで閉会式で忙しかったから、ちょうど良かったよ。

ぼく:タヌキじゃなくて、白虎の子供じゃなかった? それに、夜空に模様を描いたのは、300機のドローンだって聞いているけど?

 

すると、タヌキはロックシンガーが自分を両腕で抱きしめるときのようなナルシスティックな仕草をして、目を閉じた。よく見ると、右手の先に、一枚の葉っぱが指に挟まれている。葉っぱをよく見ると、こう書いてあった。

「化かされたフリをしてください」

 

ぼく:(面倒くさいタヌキだなと思いつつ)、凄かったよ! 最後には夜空に浮かぶハートマークになったんだって。あんな魔法が使えるんなら、今晩何を書いたら良いか教えてよ。

タヌキ:正義や倫理の根拠を脳科学で探ったあと、きみのメインテーマである永続敗戦論かな。(ポンッ!)

ひょっとしたら、あのタヌキは全然魔法を遣えないのかもしれないな。言う通りにして大丈夫かどうか不安だが、昨晩個人的に「ポスト・マルちゃん問題」を克服できたような気がしたので、今晩もタヌキを信じてみることにしよう。 

同じ分野を脳科学がどんどん耕している。脳内のMRI画像を用いてVBM解析を行ったところ、人間の脳に道徳感情(「傷つけないこと」「公平性」「内集団への忠誠」「権威への敬意」「神聖さ・純粋さ」)のそれぞれに対応する部位がすでに特定されたのだという。

しかも、共感能力(「共感的配慮」「視点取得」「空想」「個人的苦悩」)に対応する脳内部位と、道徳感情に対応する脳内部位とは大きく重なっているらしい。これらの生得的な道徳的資質を元に、幼児期からの両親を中心とする対社会的接触が信頼能力を醸成する、というところまで、科学的な分析が完了している。 

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

 

上記でまとめた社会心理学由来の5つの倫理基準はどう見えるだろうか。

  1. 傷つけないこと
  2. 公平性
  3. 内集団への忠誠
  4. 権威への敬意
  5. 神聖さ・純粋さ

何だか宗教っぽく感じられる。そんな感想があっても不思議ではない。マックス・ウェーバーは近代化とは脱魔術化だとした。この後期近代社会では、他のどこを探しても、もはや「神聖さ」は宗教的領域にしか見つからないと感じる人も少なくないはずだ。

ところがこの「宗教」っていう奴が、何重もの誤解に包囲されている代物なのだ。宗教が迷信なのではなく、宗教に対する迷信が世には夥しいとする、この論文に目が留まった。

Religious concepts activate various functionally distinct mental systems, present also in non-religious contexts, and ‘tweak’ the usual inferences of these systems. They deal with detection and representation of animacy and agency, social exchange, moral intuitions, precaution against natural hazards and understanding of misfortune. Each of these activates distinct neural resources or families of networks. What makes notions of supernatural agency intuitively plausible? This article reviews evidence suggesting that it is the joint, coordinated activation of these diverse systems, a supposition that opens up the prospect of a cognitive neuroscience of religious beliefs.
宗教的概念は、非宗教的な状況においても存在する、機能的に異なる別の心内システムを活性化し、これらのシステムでの通常の推論を「調整」している。宗教的概念は、心性や主体の感覚と表現、社会的交流、道徳的直感、自然災害に対する予防措置、不幸の理解に対処している。これらのそれぞれが、異なる神経的資源または類縁的なネットワークを活性化する。超自然的な主体の概念を、直観的に妥当なものだとしているものは何なろう? この論文は、これらの多様なシステムが協働して調整していく活性化の一種であり、宗教的信念の認知神経科学の見通しを開くという仮説を示唆する証拠を検討している。

Religious thought and behaviour as by-products of brain function - ScienceDirect

論文の要約ではわかりにくいが、要するに、宗教とは「特別に隔絶した世界で、特別な論理で動いている前近代的な組織」 とする偏見を、小気味よく粉砕していく。「誤った偏見→正しい宗教研究成果」の順に、矢印で列挙していくと、こんな感じになる。

  1. 宗教は道徳と魂の救済にまつわるものである。→ 救済という概念はいくつかの教義(キリスト教と、アジアと中東の教条的な諸宗教)に見られるのみで、他の伝統にはあまり見られない。
  2.  宗教は不合理である。あるいは迷信である。→ 想像上の主体に敬虔な信仰心を抱いたとしても、通常の信念形成メカニズムがほんとうに衰えたり停止したりすることはない。実際はメカニズムが作用している重要な証拠となりうる。
  3. 宗教は人間の形而上学的な問いに答えてくれる。→ 宗教的な思考は一般に、人間が具体的な状況(この収穫、あの病、この子供の誕生、この死体など)に対処するときに作動する。

 ボイヤーとガザニガの主張をもう少し速くすると、こうなる。

私たちは、先に宗教があり、そこから倫理が生まれた、という順番で考える偏見に支配されがちだ。例えば、上で挙げた5つの倫理基準を見て、どこか宗教的だと感じ、宗教に由来するリストだろうかと感じがちだ。 

人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線

人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線

  • 作者: マイケル・S.ガザニガ,Michael S. Gazzaniga,柴田裕之
  • 出版社/メーカー: インターシフト
  • 発売日: 2010/02/01
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 ところが、ボイヤーとガザガニが主張するのは、順番が間違っているということだ。宗教を生んだのは、実は人間の脳だというのだ。脳の内部にある倫理的機能が、社会心理学で扱われている5つの倫理基準を先に生み、その倫理基準が社会化される過程で、倫理基準のみをわかりやすくパッケージングした副産物が宗教だと、彼らは主張する。論文名の「by-products」とは、宗教が脳の倫理的機能の「副産物」だったことを表している。 

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

 

そして、管見の限りで、脳の倫理的機能と5つの倫理基準リストとの結びつきを、最先端の知識で説明したのが、やはり上記の本ということになりそうだ。参照しているのは、この論文。 

 Moral sentiment has been hypothesized to reflect evolved adaptations to social living. If so, individual differences in moral values may relate to regional variation in brain structure. We tested this hypothesis in a sample of 70 young, healthy adults examining whether differences on two major dimensions of moral values were significantly associated with regional gray matter volume. The two clusters of moral values assessed were "individualizing" (values of harm/care and fairness) and "binding" (deference to authority, in-group loyalty, and purity/sanctity). Individualizing was positively associated with left dorsomedial pFC volume and negatively associated with bilateral precuneus volume. For binding, a significant positive association was found for bilateral subcallosal gyrus and a trend to significance for the left anterior insula volume. These findings demonstrate that variation in moral sentiment reflects individual differences in brain structure and suggest a biological basis for moral sentiment, distributed across multiple brain regions

これらの発見は、道徳的感情のバリエーションが脳構造の個体差を反映していることを実証しており、道徳的感情が複数の脳領域にわたって分布していることの生物学的基礎を示唆している。

(ゴチック部分のみ)

Moral values are associated with individual differences in regional brain volume. - PubMed - NCBI 

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さて、今晩タヌキに指定されたのは、「社会制度の基盤とすべき倫理的根拠はどこにあるか?」という問いだった。昨晩は、脳科学への期待を込めて、このように書いた。

マクダウェルヌスバウムアリストテレス回帰から倫理の基礎を引き出そうとする戦略には、正義や倫理の好きな自分でも、いささか疑問を感じてしまう。古代ギリシアの偉大な哲学者を持ち出しても、ヌスバウム主張するところのケイパビリティ・アプローチに要する膨大なコストを政府は負担してくれないだろう。この点では、自分はリベラル・アイロニストのローティに考えが近い。

しかし、それは範囲を哲学に絞った場合の話で、他の分野でアリストテレス以上に倫理の基礎として応用できるものが、発見されるかもしれない。その分野とは脳科学。 

まだ未解明の分野であるとはいえ、今晩、脳科学分野の本を何冊も斜め読みしているうちに、同じ発想を共有している研究者や哲学者が、何人もいることを知った。

西洋倫理学の3つの伝統:Three core functions of Western Tradition of Ethics and Ethical Studies

このブログで何度も引用している倫理学の3分野について、哲学者のケースビアは面白い主張をしている。

だとすれば、少しふざけた言い方になるが、三つの考え方はそれぞれ異なる脳領域を重視しているとみなせそうだ。

 そう前置きした上で、ケースビアはこう整理する。

Natural Ethical Facts: Evolution, Connectionism, and Moral Cognition (MIT Press) (English Edition)

Natural Ethical Facts: Evolution, Connectionism, and Moral Cognition (MIT Press) (English Edition)

 

 脳科学から得られたデータ基づいたこの仮説には、自分はかなりの賭金を置きたい感じがする。というのも、ピーター・シンガーの近著で話題の「効果的な利他主義者たち」が増えているのには、フリン効果の背景にある短期的な脳の進化があると推測されているからだ。

 徳倫理学に続いて、カント的義務論のブームが来ているのだという。正確には、カント的義務論をベースにした「効果的な利他主義」が広まりつつあるらしい。その種族が利他行為をする理由は、徳倫理学に深い関わりのある愛や共感からではない。「宇宙の視点」から見た理性だというのだ! 

(…)

ただ、シンガーのいう「効果的な利他主義者」が、フリン効果によって出現した新種族ではないかという説には、プリン愛に生きる男として、強い説得力を感じてしまった。

(…)

 心理学者のスティーブン・ピンカーは「論理的能力の向上は倫理力も向上させた」と述べているので、不断に続く人類の脳の進化が、かなり短期的に人類の倫理観を変えつつある可能性は充分にありそうだ。

 もうひとり、脳科学から倫理を基礎づけようとする思考の持ち主が、この新書の著者。

モラルの起源――実験社会科学からの問い (岩波新書)

モラルの起源――実験社会科学からの問い (岩波新書)

 

 ロールズは、無知のヴェールという人工的な仕掛けを使うことで、分配の正義の問題を、 「不確実性のもとでどのように意思決定を行うのか」という問題の枠組みに変換しました。
 しかし、「社会的な分配」と「不確実性への対処」という二つの課題は、無知のヴェールがなくても、ヒトの進化史を通じて(狩猟採集社会から近代社会に至るまで)、そもそも近い関係にあると考えられます。たとえば、狩猟採集社会では、狩りの獲物は非血縁者を含む集団 全体で平等に近い形で分配されます。狩猟に出かけることが、獲物の得られない可能性をはらんだリスキーな行為であることを考えると、集団全体としての「平等分配」の仕組みは、 獲物の供給にどうしても伴う不確実性を統計的に減らす「リスクヘッジの装置」として機能します。(…)

 こうした進化的な背景は、分配に関する意思決定と、リスクを含む意思決定という二つの課題が私たちの生存に照らして互いに近い関係にあり、心理的にも共通の基盤のもとに組み込まれているという可能性を示唆するものかもしれません。つまり、無知のヴェールという人工的な仕掛けを使わなくても、「社会的分配に関する意思決定」と「リスクを含む意思決定」(…)という状況では、人々はともに、ロールズが論じるような最不遇・最悪の状態に最大に留意する「マキシミン的な思考」を自発的に行うのではないか、という可能性を私たちは考えました。

(強調は引用者による)

 新書なので、とてもわかりやすい文章で書いてくれている。「心理的にも共通の基盤のもとに組み込まれている」という部分は、文脈から「脳内で連関するモジュールである可能性が高い」ということになる。

昨晩の上の記事では、脳科学の研究が進み、とうとうテレパシーで遊ぶゲームまで市販されていることに言及した。人工知能の進化により、脳機能の解明とヒトゲノムとの相関関係が明らかになれば、明らかになったで、最高善を実現する社会制度を、計算によって創り出すことになるだろう。あと半世紀くらいかしたら、そのような理想社会が実現するかもしれない。 

では、それまでは?

社旗制度の基盤とすべき倫理の根拠は、政治ー倫理哲学から調達することになる。より正確には、計算可能な部分はコンピューティングに任せ、計算不可能な部分は、引き続き政治ー倫理哲学から調達することになるだろう。

そのテクノロジーと哲学の接合面で、社会設計のあり方について考えているのは、この本くらいではないだろうか。今晩初読して、約10年前の著書ではあるものの、決して錆びることのない輝かしい思考にあふれていた。 

計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)

計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)

 

 超優秀なIT環境の設計家である神成淳司は、2007年の時点で、近未来をこう予測する。もちろん的中している。

神成:最終的には、大多数の人間は、現実世界と仮想世界のzy9応法を、分け隔てなく利用するという状況になると思います。直感的にわかりやすい例を挙げれば、車の中からフロントガラスを介して外の景色を確認した際、その景色の中に、まったく違和感なく、コンピュテーション化されたモノが存在する。そのモノを、我々は現実のモノと分け隔てなく活用できる。 

 この「予言」は、4年後にカロッツェリアのARナビによって、実現された。最新機種の「融合」の具合はこんな感じだ。 

その翌年の2012年、アップル社が打ち出したARグラスの動画。 

イーロン・マスク流の「AI脅威論」に自分が共感できないのは、すでにテクノロジーと人間の融合が進行しつつあるからだ。

さて、自分が愛読してきた宮台真司の未来観がどうなっているのか、ずっと気になっていた。この対談本を読めばよかったのか。今晩読んで、サンデルなんか全然目じゃないと感じた。自分の考えと重なる部分が多かったのも、素直に嬉しかった。

 一九六〇年代、ニューウェーブSFの旗手だったJ・G・バラードの『ヴァーミリオン・サンズ』という短編シリーズの中に、そうした社会が描かれています。ヴァーミリオン・サンズは未来のリゾートの名前ですが、人間の精神状態に感応する音響彫刻、精神状態に応じて物理的形状や色合いを変える家屋が、登場します。レイ・ブラッドベリであれば間違いなく文明批判のモチーフとして描くところですが、バラードは違います。アーキテクチャの選択を選択前提としたアーキテクチャの選択のつながりが、何
もかもを奪人称化していて、誰もがアメニティの海にふんわりと浮かんだ社会を淡々と描きます。

 「バラードがこれを文明批判として描かないのは、社会が変わればたとえば未来になれば」人々の感情の働き方も変わってしまうという洞察に由来します。「未来の社会の在り方を、未来ならざる現在の人間たちの感受性によって裁断しても、意味がない」というふうに、バラードは繰り返し主張してきました。

 バラードは、泣いても笑ってもどの道そのようになるという立場から、未来社会を描きます。(…) ここまでは いい。問題はそこから先なのです。 「個人的自己決定であれ共同体的自己決定であれ、人ないし人々の自由意思に基づく選択によって正統化される近代社会。過去から現在にわたる眩暈を引き起こすような選択の輻輳を経て、諸事物はもはや誰が選んだとも言えなくなったヴァーミリオン・サンズ的な未来社会。前者から後者に「どう」移行するのかという問題です。

デザイナーズ・ベイビー問題で、テクノロジー決定論側に対して、慎重派のサンデルが苦戦しているとの読み取りを、以下のように書いた。

あの『ハーバード白熱教室』の教授のボディに、渾身のパンチを打ち込むことはそれほど難しくない。サンデル教授に、こう返答すれば良いのである。

 

わかりました、教授。おっしゃる通りだと思います。では、私の子供は、「謙虚、責任、連帯」の性格が発現しやすいようにデザインしてから、出産します!

 

この論点で、テクノロジー決定論に打ち勝つ思想的根拠は見出せそうにないというのが、自分の予測だ。 

宮台真司は、後期近代社会が、テクノロジー決定的な未来社会へ移行することは不可避との前提に立って、問題はどのように前者から後者へ移行するかだと説く。そして、その際の最大の論点が、テクノロジーと人間が融合したのち、「人間と非人間の間にどう線引きをするか」にあるというのだ。うーん、面白い。

汎<システム化>によって「計算可能性」が重視される傾向が高まる一方で、「多様なものの共生」を重視するリベラリズムが浸透していけば、異なる者たちの共生は自動的に「混在」よりも「分離」を旨とするものにシフトして行きます。社会にリベラリズムが浸透するのに、個人はどんどん 非寛容になっていくわけです。「何が人間的か」という価値ではなく「何が人間か」という自明性をめぐって異者の「分離」がなされる場合、同じ人間として「何が人間か」を議論して合意するわけじゃありませんから、異者の可視性が直ちに自明性の揺らぎを呼び、激烈な感情を引き起こしがちになります。可視性の遮断によるフィールグッド化は不可避です。 

 このような異者たちの分離だらけの社会に、どのように「計算不可能性」を導入して、ローティーの著作をもじっていえば、「偶然性・アイロニー・連帯」の契機を導入していくかが、おそらくは上記対談本の主旨だろう。

今晩の記事を自分向けにまとめるなら、このようになるだろうか。

倫理や宗教の起源が脳にあったことがわかりはじめた。いずれ脳機能の解明が進めば、同じように、脳機能を基礎にした卓越した社会制度が形成されていくだろう。それまでの過渡期、倫理哲学の精髄を社会制度に落とし込む設計思想が必要だろう。

 ふう。今晩も何とか書き終わった。

そう思ったとき、予感通り、タヌキが現れた。

タヌキ:良かった、間に合った。そろそろ決め台詞を言う頃だと思って。

ぼく:決め台詞を代わりに言いに来たの?

タヌキ:そうさ。危ないところだった。昨晩、ソニーの言及で始まったときも、美味しいところを持っていかれそうだったので、話題を変えてもらったのさ。

ぼく:タヌキとソニーにどんな関係があるの?

タヌキ:「make believe」というのは「フリをする」、つまりは「化かす」ということだから、タヌキの本職というわけ。

ぼく:そのキャッチコピーは間に「.(ドット)」が入っているはず。「フリをする」ちょいう意味じゃないと思おうよ。

すると、タヌキはロックシンガーが自分を両腕で抱きしめるときのようなナルシスティックな仕草をして、目を閉じた。よく見ると、右手の先に、一枚の葉っぱが指に挟まれている。葉っぱをよく見ると、こう書いてあった。

「化かされたフリをしてください」

 

 ぼく:(面倒くさいタヌキだなと思いつつ)、わかったよ。今晩の決め座台詞はソニーが関係しているんだね。

タヌキ:ご名答。今晩の記事の出発点は何だったっけ?

ぼく:「社会制度の基盤とすべき倫理的根拠はどこにあるか?」だったよ答えてくれるんだね。

タヌキ:「脳と言えるのに(ポンッ!)」

 そう決め台詞を言い終えた途端、タヌキは不思議な音を立てて忽然と姿を消したのだった。 

「NO(ノー)」と言える日本―新日米関係の方策(カード) (カッパ・ホームス)

「NO(ノー)」と言える日本―新日米関係の方策(カード) (カッパ・ホームス)

 

 

 

 

 

 

 

(J Ballad の名曲を英詞カバーで)