鳥とともに春を歌おう

昨晩、光合成に量子が関与しているとする量子生物学の話を書いた。そのせいで、 浅瀬で光合成している藻が、ふと気泡を浮かび上げていくように、いくつかの夢を見た。 

こういう具合に心の底からふわっと湧き上がってきた夢の断片は、それ以上先へ進めなかった片思いの話とか、言おうと思って言えなかった冗談や洒落である場合が多い。忘れていたはずなのに、心残りが vivid な触感で夢の中に帰ってくるのだ

まずいな。前者だったら、また面倒なことになってしまう。後者だったら無難だけれど、どこが洒落になっているのか、何度思い返してもわからないのだ。今晩も漱石風の書き出しで、夢日記をつけておきたい。 

 こんな夢を見た。

 秋の野原を、10歳にもならない男の子と女の子が走っている。野原の先に、二人がやっと入れるくらいの小さなお菓子の家がある。お菓子の家を見つけて、先に走りやめるのは、男の子の方だ。その男の子がいつのまにか自分になっている。先を行く女の子の背中へ、ぼくは声をかける。

「だめだよ、そのおうちはお菓子でできているから、危ない」

「何言っているの。フランスのお菓子でできているから、ここへ来たんじゃない。忘れたの?」

 フランスのお菓子のなんてしただろうか。ぼくは必死に思い出そうとするけれど、どうしても思い出せない。

 背後で小さなモーター音がする。手のひらサイズのラジコンカーが、お菓子の家の方へ向かって走ってくるのだ。野原には、二人以外誰もいない。誰が操縦しているのかわからない。ぼくはそのラジコンカーを停めようとして叫ぶ。

「ヘイ、タクシー!」

 ところが、タクシーの外装をしたモデルカーは、停まるどころか、どんどん巨大化して机くらいになり、ぼくが慌てて走り出したころには、アイランドキッチンくらいにまで、巨大化していく。「危ない」と叫ぶと、ぼくは女の子の手を取って、お菓子の家の脇の方へ、庇いながら倒れ込む。

 ラジコンカーはお菓子の家のど真ん中に突っ込んで、木っ端みじんに家を砕いてしまう。破片の散らばりの中でようやく停車したラジコンカーに、ドライバーはいない。すでに実物大の大きさになっていて、それは『TAXi』の黄色いフランス車と瓜二つなのだ。

上空を鳥たちがいくつもの渦を巻いて旋回し、野原の上の粉々に散ったお菓子の破片をついばみ始める。鳥たちの囀りが野原にずっとこだましつづぇている。……

リュック・ベッソンと言えば、元々はゴダールと同じヌーヴェル・ヴァーグ世代の監督。他のアート系同世代の監督とは違って、アクション撮影に冴えがあり、「殺し屋」シナリオが得意なこともあって、ハリウッド映画と相性抜群。世界で最も興行的に成功したフランス人監督だと言えるだろう。

上の『TAXi』の連作で、フェラーリやポルシェではなく、フランス車のプジョーを暴走させまくっているところに、ほんのわずかにベッソンヌーヴェルヴァーグ出身であることを想起させるフックがある。けれど、初期の彼を知る人々は、やはり別人になってしまったと感じ入ることだろう。

リュック・ベッソンは、日本が誇るアニメコンテンツ「ドラえもん」 とも深い関わりがある。

2011年、巨人トヨタのCMでとうとうお茶の間に素顔を見せた「ドラえもんファミリー」を、日本でのそのドキュメンタリー放映(ただし、アニメや漫画の方が圧倒的に人気がある)の17年も前に、ドラえもんを主役に抜擢して、名作映画を撮っているのだ。

「ドラ」を入れると実在のロボットのイメージを観客がどうしても思い浮かべてしまうため、ぶっきらぼうにも『えもん(邦題)』と後ろ三文字だけをとって、タイトルにしたという噂もある。

映画の中では、兄妹なので、もちろんドラえもんとドラミちゃんの間にラブロマンスは生まれない。しかし「狂暴な純愛」という副題が雄弁に語っているように、上着の内側にある四次元ポケットに右手を差し入れても、あえて拳銃しか出さないドラえもんのクールなタフさと、兄を見習って四次元ポケットに触れもせず、殺し屋の少女として必死に生き延びようとするドラミちゃんの薄幸のひたむきさが愛おしい。二人をつないでいるのは、猫型ロボットとしてのニャンとも温かい生命の絆。それを象徴するのが、アジトを転々とする殺し屋兄妹が一緒に持ち歩く観葉植物なのである。

フランスの一流監督が「ドラえもんファミリー」を解釈すると、こうなるのだ。アニメや漫画でデフォルメされる以前の「リアルな彼ら」に焦点化して、別のハードボイルドな側面を引き出した傑作映画だ。

さて、冒頭に掲げた夢に話を戻そう。あれは、実らなかった恋への心残りなのか、それとも言えなかった冗談なのか。夢分析に詳しいつもりの自分も、何度読み返してもよくわからない。

今晩はとりあえず前者の線で、自分のプライベートからは独立させる形で、恋愛小説の下準備をしてみたい。

昨晩、科学がテレパシーをどこまで解明しているかについて書いた。 今晩は、科学が恋愛をどこまで解明しているかについて書いてみたいのだ。

「自分のプライベートからは独立させる形で」とは書いたものの、読んでいる間に心が浮足だったり、不安に駈られたりと大変だった。そして、何より面白い! 

高校を卒業したり、すでに大学生だったりして、これから本格的な恋愛適齢期に入る若い人たちも、少なくないことだろう。

先に手っ取り早い「恋愛の真実」の指南本として読んでおきたいのが、この社会心理学の本。心理学と言っても、科学的統計学的アプローチがなされているから、安心して読める。 

いくつかの面白いトピックを列挙したい。

恋愛の科学  出会いと別れをめぐる心理学

恋愛の科学  出会いと別れをめぐる心理学

 

 1. 恋愛関係は「友情」度が高いときにのみ速く深まる

 二人の恋愛関係の深度と、①愛情 ②尊敬 ③友情 ④交際期間 の4つの要因との関係を調べて越智啓太は、③友情のみが、恋愛関係を速く深めるのに有意な相関関係を示したと報告している。以外にも、①愛情 や、④交際期間 ではないというのだ。

これは、クリスマス・イベントなど、高度資本主義と恋愛至上主義とが過剰に濃く結びつきやすい先進国では、耳を傾けておきたい着眼だ。相手が魅力的な異性であるかどうかにかかわらず、人間関係のさまざまな方向性へ「友愛」を発揮する能力が、恋愛関係の深化にも役立つらしい。 

2. 男性より女性の方がラブスタイルが打算的(らしい)

 有名なリーの「6ラブスタイル論」も登場する。 

ルダス(遊びの愛)
 特徴・・・1人に縛られない、恋愛をゲームのように楽みたいと思っているのがこのタイプ。
 傾向・・・プライバシーの侵害を嫌います。好みのタイプは決まってなくて、複数の異性と同時に恋愛をすることが出来ます。

 

ストルゲ(友愛的な愛)
 特徴・・・互いに高め合い、2人で1つの世界を作っていくのがこのタイプ。友情の延長線上に愛情があると考えています。

 傾向・・・愛が生まれるまでには、長い時間がかかると思っています。長い間離れていたとしても、安定した関係を続ける事が出来ます。

 

エロス(美への愛)
 特徴・・・一目惚れするのがこのタイプ。見た目を重視し、異性の外見にこだわります。また、相手の動作などから、内面の美しさに惹かれるのもこのタイプです。

 傾向・・・ロマンティックな行動をとる事が多め。付き合い始めたばかりでも、相手と親密になることを望む傾向があります。

 

プラグマ(実利的な愛)
 特徴・・・目標を実現するための手段として愛があると思っているのがこのタイプ。家柄、地位、収入などを手に入れるための手段として恋愛があると思っています。

 傾向・・・付き合う相手を選ぶ際の基準を持っている。(自分の目的に合った相手を選ぼうとする)外見的な魅力に興味を持たず、恋愛に感情、ロマンスを持ち込まない。

 

アガペー(献身的な愛)
 特徴・・・自分を犠牲にしてでも、相手を愛そうとするのがこのタイプ。相手に尽くすタイプ。

 傾向・・・相手に接する時も優しく、見返りを求めません。

 

マニア(熱狂的な愛)
 特徴・・・相手に執着、嫉妬しやすいのがこのタイプ。独占欲が強いのも特徴の1つです。

 傾向・・・相手の長所ばかりに注目、短所は無視する傾向にあります。自分に自信がなく、関係を安定させるのも難しいです。 

 この分類に従って、世界中の多くの学者が統計を取っている。その分析から判明していることを、いくつか列挙したい。

  1. エロスやアガペーのラブスタイルの人々は、恋愛満足度が高い。
  2. エロスの人はエロスの人を、ストルゲの人はストルゲの人と結びつきやすい。
  3. 日本の恋愛適齢期の人々は、男性より女性の方が、やや「打算的で移り気」な傾向がある。

問題は 3. だ。日本人の平均的な感覚では、女性が男性にアガペーをもって尽くし、浮気性なルダスはだらしない男の性癖だとする一般論がある。けれど、統計学はその一般的イメージを覆すものになっている。

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「アガペ(献身的な愛)」では、男性の方がやや高く、「プラグマ(実利的な愛)」ははっきりと女性の方が高い。「ルダス(遊びの愛)」でも女性の方がやや高いことが見て取れる。

初見ではややショックを受けたが、考えてみれば、日本社会が他の先進国のようにジェンダー平等性が充分に確保されていないことが原因で、女性の献身性を弱め、実利重視を高め、より実利を得やすい機会参加を増やしているとも解釈できる。これは他国のデータも得て、ジェンダー平等性との相関関係の比較も見てみたいと感じた。

3. 「愛の吊り橋効果」は美男美女限定で効果あり

この辺りになってくると、笑い話としてしか読めなくなってくる。上のリンク先にあるような、「不安や恐怖のドキドキ」と「魅力的な異性へのドキドキ」を人間が混同しやすいというパーティートーク向けの話。確かに「吊り橋効果」は実際にあるが、それは美男美女の場合の話。plain(フツウ)の容姿の異性と吊り橋の先で出会うと、逆に魅力評価が下げるというのだ。ドキドキした後で、そんなものを見せるんじゃないということなのだろうか。使える使えないでいえば、使いづらいテクニックだろう。 

実践的なのは、男性ならサスペンス映画に誘って暗闇の中でスキンシップを取ること、女性ならロマンティック・レッドを衣服や持ち物に取り込むことらしい。ロマンティック・レッドはノートPCの色でも有効だとの研究結果がある。思わず吹き出してしまった。

そういえば、自分も時折り、通勤の途上にある赤いポストに心惹かれるのを感じる。あんなに赤いドレスでめかしこんで、毎日自分が出てくるのをじっと待っている佇まいが健気で、好きになっちゃいそうだ。そう感じる人は、私くらいのものだと思うが……。 

LOVEって何?―脳科学と精神分析から迫る「恋愛」

LOVEって何?―脳科学と精神分析から迫る「恋愛」

 

 社会心理学よりも、脳科学(と精神分析)から迫った方が、有用な「恋愛の科学的知見」は得られやすいかもしれない。著者はNYに行ったら誰もが訪れるセントラル・パークに隣接するセント・ルークス病院で薬物治療にあたった経歴の持ち主。NY中心部の由緒ある病院なので、あのトルーマン・カポーティーも入院していたのだとか。 

(上の記事の冒頭で、カポーティーについて言及した)

 『LOVEって何?』を読んで一番驚いたのは、「人間が快感を感じるのは、ドーパミンの放出によってではない」という部分だった。邦訳はないものの、その説を唱えた感情神経学の泰斗パンクセップが提起した「ドーパミン放出≠快楽」説は、いろいろな所で話題になっているようだ。

 (英語字幕入りで学びたい人は、下の動画を)

 私が注目しているニューロサイコアナリシスという学問があるが、この世界での論客にヤーク・パンクセップという学者がいる。彼は「探索システム」という概念を提唱している。以下は「ニューロサイコアナリシスへの招待」(岸本寛史編著、誠信書房、2015年)を参考にする。彼は「探求(Seeking)システム」について、これが最も基本的な情動指令システムであり、あらゆるものが、その探求の目的となるという。そしてそれが従来は「報酬系」と呼ばれたものだとする。そう、パンクセップによれば、探求するシステムこそ、報酬と深く関連している、というよりは報酬と探求ということは同義だと考えられているのである。実際に報酬系は特定の対象を持たず、ただその満足を追い求めるシステムなのだ

(…)

そしてパンクセップによれば、快感とはむしろドーパミンが低減していくプロセスに関係しているという。探索が行き着いた先、というわけか。えーっ?
うーん、不思議なるかな、ドーパミン。私たちは通常、快楽とはドーパミンの放出に関係している、と習っている。常識ではそうだ。しかしドーパミンの放出は快楽の予期だけでなく、ストレスの体験の最中にも出る。そして快楽そのものはその低下で起きているというわけである

(強調は引用者による) 

 「脳内物質ドーパミン=快楽」という単純な図式はもはや過去のものだ。パンクセップが新たに描いている輪郭は、こんな感じだろうか。

動物にも感情がある(ネズミをくすぐると笑う)→ 動物は食料や水や繁殖機会を本能的に探し求める。→ 同じく食料や水や繁殖機会を求める「探究システム」は 人間の脳にもある。→ 脳内「探究システム」は食料や繁殖相手だけでなく「愛」も求める。→ ドーパミン系の「愛 / 生殖」探究システムにオキシトシン / バソプレシン系の「母性愛 / 父性愛」探究システムを脳外科手術でつなげると、雑婚性のネズミが人間のような一夫一婦制になる。

「人間とは神に近い存在であり、他の動物とは隔絶した精神性や感情を伴った高度な文化を持っている」。しばしば、このように考えられてきた人間という種の地球内至高性は、どうやら虚構である可能性が高くなった。人間は、他の動物と同種の「探究システム」をインストールされており、他の動物と同じく、そのシステムの探究 / 報酬の動きにしたがって「愛」を追い求めているらしいのだ。

「愛 / 生殖」を求める先は、当然のことながら人間社会なるが、それが人間社会でどのような動態をとっているかの理論を、性淘汰という。

 クジャクやシカのように雌雄で著しく色彩や形態・生態が異なる動物について、その進化を説明するためにC.ダーウィンが提唱した概念。異性をめぐる闘いで、より優れた武器(角や牙など)をもつ方が勝って交尾し、子孫を残すことによってその武器が進化するような同性間淘汰と、配偶者(主に雌)がより顕著な形質をもつ交尾相手(雄)を選択することにより進化する異性間淘汰とが考えられる。配偶者の選択の理由については、ランナウェイ説やハンディキャップ説などの理論モデルがある。

1859年に『進化論』を著したダーウィンは、1871年に「性淘汰」の理論を発表した。しかし、100年近くも野晒しにされた。

ところが、80年代になって、忽然と「性淘汰」論ブームが巻き起こると、とうとうその恐るべき理論が、人間に対して適用可能かどうかが吟味され始めた。つまり、人間が動物と同じ「探究システム」に駆動されながら生み出す様々な文化生産能力が、同時に子孫を生産する性的競争に直結しているのではないかとする理論だ。何しろ、人間の脳は単に生き残るためだけにしては、進化しすぎているのだ。

脳をフル活用して文化生産することを通じて、自然淘汰よりも性淘汰が目指されていると考えた方が自然なのだ。 自然淘汰で生き残るためだけなら、言語にあれほどの微に入り細を穿った語彙は必要ない。 

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

 
恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)

 

というわけで、上記の「性淘汰」中心的進化論が世界で初めて発表されたのが、ほぼ21世紀の始まりと同じ。「動物ー人間」の連続性と「脳ー感情」の連続性の新局面に、進化心理学の性淘汰が大きく関わって、知のネットワークを作り始めているというのが、この分野の現在の展開になるのだろうか。続編を読みたくてたまらない小説のようだ。この分野の学問の進展が待ち遠しい。 

ふう。やっと書き上げて、帰宅しようとすると、「待ちなさい」と呼び止められた。

 振り向くと、30代くらいの驚くほどの美人が、黒の細身のパンツスーツに身を包んで佇んでいる。接触してきた女のあまりの美しさにどぎまぎして、まるで昔観たスパイ映画のようだと彼が感じていると、不意に女は張り付けたような装飾的な微笑を浮かべた。

「問診があります。椅子にかけなさい」

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いつのまにか、ぼくはどこかの記事で書いた建物の中にいるようだった。この剣呑な女から逃げたいと思った。もう下手な駄洒落を記録されるのは懲り懲りだ。出口を探そうとするが、どこにも扉らしい扉がない。

すると、緑の芝生を見せながら湾曲していたガラス面に、すっと霞が降りた。透明だった硝子が急にフロスト化して、半透明になってしまったのだ。完全に出口なしだ。

ぼくは諦めて椅子に腰かけた。

「あなたにいろいろと嫌疑がかかっています。すべての回答を短い一言で答えてください」

「わかりました」

「もっと短く!」

「Yes, sir.」

やれやれ。今回は駄洒落テストではなく、短語テストのようだ。

「あなたの夢を詳しく診断します。小さなお菓子の家は、『甘い密室』、つまりあなたの少女への性的衝動を象徴していますね?」

「そんなわけないじゃないですか。ぼくは一度だって…」

「もっと短く!」

「Yes, sir.」

「象徴していますね?」 

「No, sir.」

「お菓子の家だけでなく、最近バウムクーヘンにも性的興奮を覚えましたね?」

「No, sir.」

「何度もスマホで北海道のバウムクーヘンを確認しませんでしたか?」

「Yes, sir. でも、あれはセクシュアリティ試験として仕掛けられた罠ではないか…」

「もっと短く!」

「Yes, sir.」

まいったな。短語テストだと、何もまともに主張できそうにない。

「もう一度聞きましょう。今晩、あなたが冒頭に書いた夢は、実らなかった他の女への恋心ですか? それとも言えなかった冗談ですか?」

どう答えよう。自分にもわからないのだ。夢の中のプジョーのフレンチ・タクシーは、甘い密室へ突入しようとする性的衝動を象徴しているのだろうか?

そのとき、脳裡にインスピレーションが降りてきた。そうか、そうだったのか。教えてくれてありがとう、ぼくのハイヤーセルフ。

ぼくは一息にこう答えた。

「どうってことない, sir」

「質問に答えなさい。実らなかった他の女への恋心? それとも言えなかった冗談?」

「駄洒落, sir」

 菓子の家のど真ん中にプジョーが突っ込んだら、鯉に恋する「菓・プジョー・子」になるに決まっているじゃないか。

ぼくは心の中で、心の底から笑った。思いもよらない展開! 笑い飛ばすと気分が楽になった。とびっきりの楽しい時間をありがとう。どうってことないさ。最高だよ。

はっと目が醒めた。何か不思議な楽しい心地に包まれている夢を見た。どこか性的な尋問をされていたような気もするが、目醒めの常でよく覚えていない。世の中には、おかしなことを言いたがる人がいっぱいいるから。

いずれにしろ、いま自分が夢中になっている Tu me caches le monde.な相手は、ぼくにはこんな風にしか見えていない。いくつになっても失わない少年の瞳には、本当にそうとしか見えないんだ。

君が空から降りてきた時、ドキドキしたんだ。きっとステキなことが始まったんだって。