imaginaryでないものが賭けられているせいで

 莫迦な買い物をしてしまった。数日前に出版されたこの本を、タイトルだけ見て買ってしまったのだ。 

みんなの恋愛映画100選

みんなの恋愛映画100選

 

 多数の映画好きが選んだ古今東西の恋愛映画ベスト100について、詳しい話が書かれているものと思い込んでいた。ところが、見開き2ページのうち左頁がイラスト、右頁に数行の名台詞とその文脈の解説が描いてある本だった。

頁の奥まで開いてフラットになるよう製本されているので、ぴったりのブックスタンドに立てかけて、日替わりで恋愛映画の名台詞を楽しむ人もいるのかもしれない。

いずれにしろ、書名は『みんなの恋愛映画名セリフ100選』がふさわしいにちがいない。 

1. 恋愛映画に「女性向け物語」の場所を

上のような恋愛映画ランキングにも、下調べのつもりでよく目を通すようにしている。けれど、正直いって全然ピンと来ないというか、ファロゴサントリスムの支配が強すぎて、男性の自分でも息が詰まってしまうのだ。

フェミニズム文献を読むのも好きなので、家事労働時間の分担のアンバランスが… といった論客たちの主張に頷きながら読み進めつつも、本当は「物語の現場」の方が、はるかに男女差別の強い磁場があるように感じられる。

家事労働時間とちがって、定量分析が効かないので、分析的な思考ができない人々にはわからないだけではないのだろうか。

蝶というメタファーを屈託なく使っていた頃、こんな記事を書いたことがあった。

どういうわけか、物語上で抑圧されている女性のイメージが、自分を去ろうとしない。

自分が手にする恋愛映画が空振りなのか、自分が恋愛映画に厳しすぎるのかよくわからない。わからないまま、曖昧な記憶のまま、空振りだと感じた二つの映画をネタバレしつつ批評すると、『恋愛小説家』は作家がウェイトレスと結ばれる話。それなりに売れているらしい「恋愛小説家」が、全然恋愛のことをわかっていないのが、映画からよく伝わってくる。

自分の記憶では、恋愛小説家はウェイトレスに、最終場面でこう言ったはずだ。

きみの働きぶりが一生懸命で、笑顔が素晴らしいから、きみでなくてはならないと感じた。 

その程度の台詞なら、できるプレイボーイは出逢ったその場で言ってのけるだろう。2時間近くの滞留を強要しておいて、しかも「恋愛小説家」が、そんな出来合いの数行しか愛する女性に言葉を持っていないなら、自分が女なら世界に絶望してしまう。

恋愛をどうとらえるかは人それぞれだとしても、one million の数限りない異性の中にいる一人が、one in a million になる極端な倍率による縮小があることだけは確かだ。どうして、そんなにも極端な倍率の縮小が生じるのか。その理由を手早く「運命」と呼んでもかまわないし、実際その極端な耽溺を許す何物かにふさわしい名は、それしかないような気もする。

いわば、上の記事で書いたこの one million ズームアップをどう構築していくかについて、「探究システム」上の戦略を持っていないのなら、女性を集客する恋愛映画の興行スキームを語ってほしくないと感じるのだ。普通にいって、マーケッティング不足なのでは?

というのも、物語こそが女性の恋愛リソースだからだ。

性衝動についての科学的究明も進んでいる。男性は女性の女性らしい身体のパーツに刺激を受けて、脳と身体が同時に興奮する。しかし、女性は心理実験で性的刺激を与えても、身体は興奮するものの、脳は簡単には興奮しないようリミッターがかかる仕組みになっている。妊娠や出産や子育ての長期的リスクを、身体で引き受けねばならないので、女性は男性が長期的関係に値する人物かどうか見極めるプロセスを必要とする。こういったことは、すべて科学的実験で判明していることだ。

しばしば、女性が男性に求めるのは、知恵と勇気と誠実さだと言われる。それらを見極めるのに必要な継起的順序を伴うプロセスが、女性向け「物語」なのであり、その典型は疑いもなくハーレクインロマンスだ。 

涙のロイヤルウエディング (ハーレクイン・ロマンス)

涙のロイヤルウエディング (ハーレクイン・ロマンス)

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正直言って、自分は一冊も読了したことはない。調べてみて驚いた。まさか、「ワンパターン」とも称されるこの分野の小説群に、構造分析をかけた研究者が誰もいないとは!

自分は恋愛心理の性差を語った本で、何度か遭遇したことがある。知る限りの知識を動員していうと、ハーレクインロマンスの物語定型が機能するのは、男性の理想的形質(知恵と勇気と誠実さ)を検知するだけではない。美しい女性として欲望されることを通じて、永遠の唯一の愛で愛されることが、物語定型として最終部を飾るのだ。

①勇敢に戦って姫を手に入れようとする少年物語と、②魅力で永遠の愛を手に入れようとする少女物語。この二つに、③異性親との失われた愛情の空白を掛け合わせないと、原理的にいって、最高の恋愛映画はできそうにないというのが、自分の「物語の現場」での感触だ。

①だけ、③だけ、という物語はよく見かけるが、②はほとんど見かけない。①②③を連立させて複雑な計算を処理しきった恋愛映画は、寡聞にして知らない。

率直に言って、誰もがなしえたことがないからこそ、自分はとびっきりの恋愛小説を書いてみたい気がしているのだろう。

①は男性なのでわかる。③も子供時代に子供だったのでわかる。ところが、どうやれば、②にハーレクインロマンスより格段に上のリアリティを確保できるのかが、とても難しいのだ。

恋愛小説は、世界に one million ほどもいる異性の中から、主人公にとって、ヒロインの女性が one in a million の唯一の永遠の愛の相手だと選び抜く。

けれど、どのようなシナリオを書けば、主人公の男性や相手の女性や多くの読者に、説得力を感じてもらえるだろうか。想像すればどれほど困難なことかわかるだろう。そここそが最大の「恋愛小説家」の腕の見せ所だろう。そこを数行の台詞で済ませようとするのは、特殊な意味で云って、ジェンダー的に不平等だ。

よくある解決法は、運命の相手に異性親の面影があったり、ヒロインに視覚的な美しさがあったりすることだが、前者は物語の想定年齢層がぐんと下がってしまうし、後者は視覚的であるがゆえに女性の支持を得にくい。実は、ヴィジュアルによる性的刺激は男性支配原理の中にある。分析すればわかるが、ハーレクインロマンスは必ずしも視覚中心的ではないのだ。

2. 脱オイディプス領域での社会的ロマンス

最近、思いがけない展開になって、自分もオイディプス的欲望の刺繍が小さく胸に縫いつけられた種族であることを明かしてしまった。といっても、大学生のとき『アンチ・オイディプス』や『ミル・プラトー』を斜め読みしてはじめて、自分は大人になれたと感じた覚えがある。隠れドゥルージアンになって、少年時代のオイディプス的欲望から解放されたというわけだ。

過去のフロト→ドッルーズの成長過程を実作に生かそうとする試みが、日本で恋愛小説を書くときに不可避的に直面する例の問い、「村上春樹以後に恋愛小説をどう書くか」、という問題と重なっている布置が、自分には見えている。 

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

 

オイディプスでやれることは、ほとんど村上春樹の小説群がやってしまったのではないかと感じられてならない。例えば、上の恋愛小説は、レズビアンや異界を巧みに使った秀作だが、転換点で登場する「自分の性交の目撃」はオイディプス的な「原風景」の変奏だ。大学の専門課程レベルの構造分析を使える人は、この長編が『海辺のカフカ』と同じくオイディプス的圏域にあることは看取できることだろう。 

では、一種の社会物にしよう。或る広告代理店内の恋愛話にするとか、或る実業団マラソンチーム内の恋愛話にするとか。そういう小集団に収斂する話には、決してしたくないというのが、自分の考えだ。

恋愛小説に必要なのは、ボーイ・ミーツ・ガール後の恋愛の成否だけではない。運命の相手を探し求めるとき、それぞれの「探究システム」が世界をどのように触知していくかの「世界観の獲得」が含まれていなければならない。そうでないと純文学にはならないと自分は考えている。実際、『スプートニクの恋人』でも、「すみれ」と猫が失踪してしまうことで、主人公が新しい世界観を獲得するよう書かれている。

 やりたいのは、多視点多人物が社会内で交錯しながら、恋愛模様を描いていく、その描線の総体が、同時に世界観をも描き出しているような恋愛短編連作集だ。ただし、心身の負荷がキツすぎて、充分なコンディションで考えてあげられてないので、どうなるかはわからない。

でも告白すると、自分は次に書く小説をいつも恋人のように考えるタイプ。だから、この小説は二番目の恋人で、時々思い出して微笑したりしている。書く前から、とても可愛らしい子たちのような気がするのだ。それぞれの短編が、とびっきりブルーな瞳をしていて。 

この「多視点多人物が社会内で交錯しながら、恋愛模様を描いていく」という手法は、『ミリオン・ダラー・ベイビー』の脚本を書いたポール・ハギスの初監督作品を、ちょっとだけ参考にしたい。 

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映画の主題は、「人種差別や貧困が浸透した社会で、もがきながら生きる人々」という感じだろうか。多視点多人物の交錯が見事だと感じたので観返した二回目、メモを取ると、意外に公共セクター(警察や病院)での交錯が多かったので、その凡庸さには手を触れたくないと感じた。

3. どのような世界観を選択するか

派手にぶち上げたこの章題を見ると、問題が壮大すぎて厭になってしまう。 とりあえず、1.の女性の「唯一愛獲得物語」と 2.の多視点多人物の交錯とを念頭に置きながら、ブレインストーミングをかけると、「心音」はどうしても出てこざるをえない気がする。

『心臓の二つある犬』でも、胸部を裂開して心臓を取り出す残虐な場面の対極に、心音がかすかに響く場所を書き入れた。いみじくも誰かが言ったように、乳房とは「失敗の恐怖」とは対極にある「安らかさと眠り」に固着した場所だから。

 小説ではこのように書いた。

 夜の果ては夜明けにつながっている。夜の闇がいま緩やかに立ち去りつつある。路彦は6年前にミュンヘンのホテルで初めて琴里と一室に泊まった夜を思い出していた。目覚まし代わりに故意にレース一枚にしてあったカーテン越しに、夜明け間際の青白い薄明かりが差し入って、客室の家具の輪郭を茫洋と浮かび上がらせている。二人とも裸だった。その前夜密室で起こるべきことが起こった後、いつのまにか二人とも眠ってしまったらしかった。彼女はまだ眠っている。シーツがはだけて露わになった彼女の胸に、輪郭の定かでない見慣れない白い脂肪層が二つわだかまっている。彼はまだ目醒め切らない重い頭をそこへ持っていって、そうするのが自然な挙措であるかのように、乳房に耳をあてた。柔らかい脂肪の堆積の下では、水の流れる音が幾重にも鳴り騒いでいる。時折遠くの腸の蠕動がくぐもった流水音を響かせる。しかし水の流れが静まると、心臓が鼓動を刻む確固たる通奏低音が聞かれた。この手術創のない艶やかな皮膚の下でも、心臓が生きているという確信が、なぜかしら彼を安らかな気持ちにした。

 この心音は、心理学の実験で面白い結果を導出している。

男性にいくつかの女性の写真を見せるとき、男性の心音をモニターして、スピーカーから聞こえるようにしておく。当然、男性は自分の心音が高まったときの女性を、最終的な評価段階で、強く魅力的だったと評価する。

ここで実験者は実験目的の悪戯をする。モニターしている男性の心音を偽造し、心音が高まっていないのに、或る写真を見せたとき、心音を高めて男性に聞かせるのである。すると、何と男性は人工的に高められた心音を聞いたときの女性を、強く魅力的だったと評価する。

2.で、男性中心主義的な視覚とは異なる方法で、女性の「唯一愛獲得物語」を構築せねば、と書いた。心音は短編連作集の要所で活躍しそうな予感がする。ちなみに、村上龍の代表作『コインロッカー・ベイビーズ』でも、心音が重要なモチーフになっている。  

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

 

 そして… やっぱり、幽界を彷徨っている幽霊の方々には、ご登場願いたいところだ。

今朝も3.11東日本大震災後の遺族のもとに、複数の亡くなった方々が、夢を通じてメッセージを届けてくるという話を放送していた。亡くなったおばあさんが「(幽界を離れて)そろそろ天国へ行かなきゃ」と挨拶しに夢に出てきたとか、亡くなった妻が独り残された夫の夢に何度も現れて「信頼している」と伝えてくれるとか。

ほぼ同じ神秘体験をした自分が書かずに誰が書くんだという思いもある。

今晩は準備なしで書き始めたせいで、めずらしくまとまりのない文章にしてしまった。たった今、インスピレーションが降りてきて、わかる人にだけわかるまとめにすればいいことに気が付いた。

だいたい 「どうやって文章に落ちをつけるか」「どうやって文章をおしまいにするか」をいつも考えすぎなのだ。自分の書く文章に対して気を張りすぎずに、いわばそれらを傍観者の勝手な祈りのように心に持っておけばいいのではないのだろうか。

大事なのは、この文章を書き始めた時からずっと抱いていた「imaginaryでないものが賭けられているせいで消せない真夏の i 」の方だと思うと告白すれば、心が「落ちつく」のか、文章をお「しまい」にできるのかどうか。