栗鼠ニング中。入るときはノックを!

恐れを消せ、恐れを留守にせよ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。

そんな声が昨晩聞こえたような気がしたので、ベッドに入る前に心に銘記して眠った。今朝もう一度反芻しながら、図書館へ向かって歩いていた。恐れを留守に… 恐れを留守に… 恐れを留守に…

そうか、あの作家のことを言っているのか。図書館へ入ったあと、私はまっすぐに分類番号950の書棚へ向かった。今晩の書き出しはソレルスからにしたい。

ソレルスの『女たち』の冒頭を引用したことがあった。

世界は女たちのものである。
つまりは死に属している。
それについては、誰もが嘘をついている。 

女たち

女たち

 

発表時、読書界に騒然たる物議をかもした前衛作家ソレルスによるベストセラー小説。女たちとのポルノグラフィックな関係を描き、フランスの知と政治の危機、思想家、文学者たちの断片的肖像を織り込みながら、比類なき豊饒とスピードにあふれた現代的ロマネスクを展開する20世紀文学の絶頂。

上記の出版社の紹介文が小説の性格をうまく描いている。

いま手元にないので、記憶で引用すると、作中には、ソレルスの妻であるジュリア・クリステヴァが「デボラ」という名前で登場していた。その「デボラ」は『女たち』の中で、何と一生懸命に三島由紀夫の『金閣寺』を読み耽っているのだ。クリステヴァの日本贔屓は、ソレルス『女たち』の向こうを張った同工異曲のモデル小説の名前によく現れている。「男たち」ならぬ『サムライたち』なのだ! 

サムライたち

サムライたち

 

ソレルスの『女たち』が読んでいて楽しいのは、セリーヌに似た「…」のつなぎを多用しながら、思考の鮮やかさ、イメージの豊饒さ、詩情、音楽性、スピードの豊かさを、読者に味わわせてくれるからだ。ソレルスの頭の良さとセンスの良さは抜群で、その二つを、彼以上に読者の意識上で上演してくれる作家はいない。

少しだけ、『女たち』から引用しておきたい。ありがちなジゴロが酒場にいる女たちを観察している場面。

 ぼくは時どきリッツのバーに一杯やりに行く、ただノートをとったり、下書きをしたりするためにだけ…写生しに…バー、浜辺…ナルシシズムのフェスティバル…ここにも二人いる、そこの、ぼくのそばでしなをつくっているのが、少なく見積もっても十万フランは身につけている、指輪、ネックレス、ブレスレット…彼女たちは、小切手帳をもったちょい役の身分に追いやられたお人よしを前にして、互いに向かって火花を散らしている…清純で罪のない眼差し…パレード…えくぼ…含み笑い…そら、ぼくが彼女たちを見る目つきに彼女たちは気づいた…彼女たちはこれ見よがしに戯れる…化粧を直す…トカゲのハンドバック…螺鈿のコンパクト…金の口紅ケース…しどけない唇、ブロンド…それから無防備を装い、あどけなく、抜け目のない態度…男たちのうちのひとりの前腕に手をかけて…「そんな! 嘘でしょ?」…ぼくの視線の方へ向けられる流し目、すぐさまそらされる…彼女たちはウォッカをロックで飲んでいる…女たちどうしで語らって…煙草の火をつけ合う…足を組み…組んだ足をまた解く…膝の上で少しだけスカートを引っ張るという結構な仕草は忘れずに…強調するためだ…膝がすべてを語っている…いつも…手ほどきとしての肘…膝には不可視のものすべてがある…首から香りがする…耳の後ろ…耳たぶ…乳房のあいだ…いま、男たちが立ち去った、すぐに彼女たちはより謹厳になる…勘定の計算をする…で、あなたの分は? いくらあなたに渡したらいいの?…で、あなたの分は?…ぼくはほぼ忘れられている…時どき思い出したようにぼくを見る… 

その妻となったクリステヴァも、とんでもない才媛だ。ソレルスが批評家も演じられる作家なら、クリステヴァはその逆、作家も演じられる哲学者というところか。もともとはロシア・フォルマリスム周辺の構造主義から出発して、ラカン精神分析を吸収した上で、それをフェミニズム批評へつなげたというのが、思想的遍歴だ。

大学生になった頃、東京の一流大学になら、クリステヴァみたいな才媛がゴロゴロいるのではないかと思い込んで、すべての文学系サークルを覗いて廻ったり、お願いして大学院生たちの勉強会に混ぜてもらったりした。ソレルスでない自分がいうのは烏滸がましいが、クリステヴァの原石がまったくいなかったことには、したたかに失望させられた。「クリステヴァには決して会えない」と日記に書いたような記憶さえある。

ともあれ、『サムライたち』は小説なのだから、どこまで真に受けるかの尺度は読者に委ねられている。ソレルスより格段に劣る小説技術を忘れたいので、自分はモデル小説として読むことにしている。

小説によると、二人が出会ったのは、バルトが『S / Z』のタイトルを決めた夜、カフェで引き合わされたときだったらしい。 書名を提案したのはソレルスだった。( )内にモデル名を書き込んでおく。

 サントゥイユ(ソレルス)はマッチ箱に文字を書いた。C / S / Z と。[

「これは唐突ですよ、わかりにくい。」ブレアル(バルト)は躊躇した。

「あなたの本を読もうという人なら、わかりますよ。」

「きみの言うとおりだ。ぼくがテクストの暗号解読へと読者をいざなって、文字の音楽まで読み解くように仕向けていると、すぐさま示す必要があるからね。タイトル採択! きみは天才ですね、ほんとうに……。」 

S/Z―バルザック『サラジーヌ』の構造分析

S/Z―バルザック『サラジーヌ』の構造分析

 

 そして、プレイボーイとしても名高いソレルスが、さっそくクリステヴァの身体に手を付けようとする場面も、しっかり描かれている。

「お一人でなさればいいわ。わたしは帰ります。」

 栗鼠の尻尾を垂らし、賢い女の子めいたうなじをした彼女に、彼は怒るに怒れない。彼は暗紅色の髪をつかみ、その根元のゼラニウムの匂いのする膚に、とつぜん口づけをした。

「でも、ちょっと、これはすこし早いんじゃありません? 自分を何様だと思っていらっしゃるの?」

面白いのは、クリステヴァが自分で自分を「栗鼠」と形容したり、肌が「ゼラニウムの匂い」がすると形容しているところ。ナルシストなのかと一瞬色めき立つが、そこは才媛。きちんと人称を「彼」「彼女」の三人称にして、批評的距離を確保している。それに、小説内の時間は1970年前後で、クリステヴァが29歳頃の話。クリステヴァは才気煥発の知性だけでなく、美貌の持ち主としても当時は有名だった。 

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(画像引用元:Philippe Sollers | Centre | site officiel

例えばプルースト。例えばジョイス。小説という芸術形態に革命的な更新を施した左記の偉大な作家に比べると、ソレルスの名は知られていない。Amazonレビューはゼロだ。

(フランスでは発禁処分となっている)セリーヌを現代的小説の文体上に蘇生させ、ヨーロッパ屈指のオートフィクションを書き飛ばしたソレルスによる小説の更新に、読書好きの注目がさらに集まると良いと思う。

さてその「小説の更新」と「栗鼠」をつないだ先にあるのが、三島由紀夫による堀辰雄『菜穂子』の書き直しだ。何と勝手にプロットを変更するよう提案するのである。

ブログ開始直後の上の記事で、堀辰雄的なものへの郷愁を語った。軽井沢は好きな街だ。カフェの庭に遊びに来る栗鼠を見られるのが、楽しい。研究者もこの街で栗鼠の研究に勤しんでいる。

リスの生態学 (Natural History)

リスの生態学 (Natural History)

 

  三島由紀夫は、堀辰雄の自然描写の卓抜さを称える所から始める。都会や別荘人種を描くよりも、自然描写や野趣を描いた方が上手いというのである。

 山国の春は遅かった。林はまだ殆ど裸かだった。しかしもう梢から梢へくぐり抜ける小鳥たちの影には春らしい敏捷さが見られた。暮方になると、近くの林のなかで雉がよく啼いた。

 せっかくなので、名作「聖家族」の原型となった「ルウベンスの偽画」の最終部分を引用しておきたい。軽井沢での美少女との短い逢瀬を、堀辰雄は栗鼠で終わらせている。

 夕暮になって、彼はホテルへのうす暗い小径をひとりで帰っていった。
 そのとき彼はその小径に沿うた木立の奥の、大きい栗の木の枝に何か得体の知れないものが登っていて、しきりにそれを揺ぶっているのを認めた。
 彼が不安そうに、ふとすこし頭の悪い自分の受持の天使のことを思いうかべながら、それを見あげていると、なんだか浅黒い色をした動物がその樹からいきなり飛び下りてきた。それは一匹の栗鼠だった。
「ばかな栗鼠だな」
 そんなことを思わずつぶやきながら、彼はうす暗い木立の中をあわてて尻尾しっぽを脊なかにのせて走り去ってゆく粟鼠を、それの見えなくなるまで見つめていた。  

堀辰雄全集〈第1巻〉 (1977年)

堀辰雄全集〈第1巻〉 (1977年)

 

下記の評論集の表題作は、かなりの確率で読者の笑いを誘うにちがいない。

堀辰雄の渾身の長編『菜穂子』は、このように修正されなければならないと三島由紀夫は説明していく。常のごとく文章に、西欧文学の博識と概念操作の明晰さがあるので、読者はついつい説得されてしまうが、最終的に辿りつく「修正案」があまりにも酷い。

「菜穂子」の主人公である肺病持ちのロマンティストが、夢見がちで女性を美化しがちな奥手ぶりはそのままに、同じ女を争う恋敵であるはずの若い警官を、「ある嵐の夜」、強姦するよう書き換えるべきとする。

三島由紀夫の文章はほとんど読んできたが、この「修正意見」がいちばん莫迦莫迦しくて、いちばん抱腹絶倒だった。

現代小説は古典たり得るか (1957年)

現代小説は古典たり得るか (1957年)

 

 そんな「菜穂子」を読みたい堀辰雄愛読者は存在しているのだろうか。三島はそのエッセイを半年サイズの大仕事を終えた晩に高揚したまま書いたらしい。『キャプテン翼』の作者に、後輩の有名漫画家が、話の途中からボーイズラブに書き換えるべきだと、大真面目に提言しているようなものだ! 

(ちなみに、難病に罹患したせいで、大会当日ユニフォームを着て病床にいた自分を、周囲は「三杉くん」と呼んでくれていた)

 しかし、詳細に読み込むと「現代小説は古典たりうるか」には、いくつか読み応えがある。古典とアクチュアリティとを、作家が常に二者択一と考えるのはおかしいという指摘は正しいし、両者に通底しているものが、「生」や「現実」への到達不可能性としている点も、50年代の日本の作家としては先進的だ。

小説で現実を再現できるとは少しも考えておらず、セクシュアリティ上の問題で「現実の生」から社会的に排除されていた三島にとっては、逆説的にも、虚構上にしか「生」を見出す道がなかったのである。

さて、ここまで、小説のフォルムを前衛的手法で更新したソレルスと、堀辰雄『菜穂子』を勝手に更新して古典化しようとした三島由紀夫をざっと追いかけた。

さあ、次は小説の更新に取り組んでいるどの人を追いかけようか?

申し訳ない。ここから追いかけるのは人ではない。人工知能だ。 

──400字ほどの短い文章でもハードルが高いというコンピュータに、どうやって文学賞応募を満たす短編小説を書かせたのですか。

そもそもコンピュータは、単に入力された情報から出力を作り出す機械。汎用的な文章生成は今のところまったくできません。

小説を書くのに現在可能な方法は雛形による文章生成です。文章の目的、読み手、状況、スタイルなどもろもろ決めておけば文章の雛形が定まる。1本の小説を言葉単位で細かく分解し、冒頭の文はその日の天気、2番目に場面説明、3番目に主人公の様子など文の構造をすべて仕込んで雛形を作る。雛形をたくさん作れば組み合わせで文章ができる。

 (…)

──同じ部品・手順・展開を与えて、破綻のない完全に異なる物語をどれくらい作り出せるものなのですか。

今回の応募作は400字程度の3つの話が連なる作品だったので、100万種類くらいできる。(…)小説として面白いかどうかは全然別だけどね。

 (…) 

──コンピュータの使用が、小説に革新性をもたらす可能性は?

それは十分にあると思います。新しい道具というのは新しい発想のトリガーになる、という意味で。

囲碁の電王戦でコンピュータが予想のつかない手を打ってくる。それはどういうことかというと、人間が筋が悪いと排除した手を、コンピュータは公平に並べて見るわけ。一見ばかげて見えた手が、振り返るとよかった、気づかなかったと。単に人間が経験値から省いてしまうのをコンピュータはしないだけの話。コンピュータの能力でも、ましてや創造力でも何でもないわけです。

同じように小説でも、人間が見落としてた何かが起きる可能性はある。自分たちが知ってる方法や展開と違うことを突然コンピュータがやりだして、それを人間が新鮮に感じる。そういうこと。

上記が2016年の記事。まだまだ入口をくぐったばかりなのが、よくわかると思う。面白いのは、自分もショートショートとして挑戦した星新一の『ノックの音が』に、AIも挑戦していることだ。ただし、現代風にアレンジして、『スマホが震えた』という書き出しになっている。

収録されている星新一賞応募作品(一次選考通過)を読んだ。AIが書いたと思えばよくできているかもしれないが、人間が書いた作品だと思って読むと、ざっくり言って中学生レベルというところだろう。

コンピュータが小説を書く日 ――AI作家に「賞」は取れるか

コンピュータが小説を書く日 ――AI作家に「賞」は取れるか

 

 尤も、小説の自動生成という目標が、最初から遠大すぎたと見るべきなのかもしれない。 佐藤理史も、市場に先に流通するのは、小説生成ではなく、文章生成だと指摘している。 2016年夏には、アメリカ最大手紙が AI を記者に採用して話題になった。

The Washington Post announced today that it will use artificial intelligence to report key information about the Olympics.

The software will contribute The Post’s coverage of Rio 2016 by posting raw data and short updates, while a team of human reporters will provide readers with analysis and more in-depth articles.

ワシントンポスト紙は、オリンピックに関する重要な情報を報告するために人工知能を利用することを、本日発表した。

このソフトウェアは、生データと短い更新を投稿することで、ワシントンポスト紙のリオ・オリンピック2016の報道に貢献する。一方、人間の記者チームは、分析と深みのある記事を読者に提供する。 

 ここで個人的な意見を披歴しておくと、未成年向けに限って言えば、自分は小説が AI による自動生成へ向かうと予測し、かつ、そうなった方が良いと考えている。

自分は大学で専門だったので習得してしまったが、一般の人々にとって、文学理論がどうしてあれほど難しいのかは、常々心に立ち昇ってくる疑問なのではないだろうか。

そして驚いたことに、あんなに難しい理論が並んでいるのに、どうして文学が存在している方が良いのかについて、文学理論はほとんど言葉を持っていないのだ。 

自伝契約 (叢書 記号学的実践)

自伝契約 (叢書 記号学的実践)

 

 その昔、「書肆 風の薔薇」という詩的な名前の出版社が、最もコアな文学理論書を立て続けに出していた。こんなハードな研究書を蔵書にしてくれる公立図書館があったのは嬉しかった。小さな目白台図書館は、この記事で書いた丹下健三設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂の近くだ。

よくバイクに跨って、本を借りに行った。近所のカレー屋さんでその本をんでいると、ガラス天井の上を歩く猫の影が、ページの上をゆっくりと横切っていったものだ。やけに懐かしい。

あんな難しい「叢書 記号科学的実践」を、しっかり読んでいる AI 好きは、自分くらいしかいないのではないだろうか。構造主義を経て、小説世界の記号学的体系化がほぼ終ったので、物語論 naratology はほぼ完成したといってよいと思う。個人的には、この「辞典」の初版が完成した1997年に、いわば「物語ゲノム」の完全解読が成ったと考えている。

物語論辞典 (松柏社叢書―言語科学の冒険)

物語論辞典 (松柏社叢書―言語科学の冒険)

 

 どうしても不思議でたまらないのは、人々がどうしてその「物語ゲノム」を物語作成の現場で活用しようと考えないのか、ということだ。この方向性で自分の知る限り唯一の成果が、この一冊。「書肆 風の薔薇」は、現在は水声社に改名している。 

可能世界・人工知能・物語理論 (叢書 記号学的実践)

可能世界・人工知能・物語理論 (叢書 記号学的実践)

 

これまでのナラトロジー界隈にあふれていた誤解や謬見を「名刀一閃」で次々に切っていくあとがきも凄い。なにしろ、論文一本分くらいの長さがあって、そのうち半分がこれまでの謬見の大掃除に充てられている。 この訳者の方は相当優秀だと思う。

この記事の文脈では、本文最終章の「ストーリー自動生成の発見学(ヒューリスティクス)」が大事だ。物語がさまざまな構成要素の組み合わせでできていることは、戦前からよく知られている。普通の言い方をすれば、物語は数十のパターンでできている。だから組み合わせれば、無数に物語を自動生産できるのは間違いない。

ところが、上の星新一賞の AI 小説と同じく、その無数の順列組み合わせは「面白い」とは限らない。印象論で予測すれば、絶望的につまらないことだろう。つまり、世界に多数の物語を自動生産することに意味があるのではなく、これまで何千年も語り継がれてきた神話や伝説に、数十パターンの共通性があることの方に意味があるのだ。

物語生成のアルゴリズム化はほぼ可能だろう。では、体験する価値があると読者が感じる物語とは、どのようなアルゴリズムで作られるのだろうか? マリー=ロール・ライアンは、そこに「美的判断力」がどうしても必要だとして、それもコンピュータ技術を通じてアルゴリズム化可能だろうと予測している。マリー=ロール・ライアン自身がソフトウェアの開発者でもあるので、とても面白い。

けれど、彼女は大事な点を見落としている。文学理論でいうと「読者論」が発想から抜け落ちているのである。この周辺は最近書いた記事に詳しい。

 マクダウェルヌスバウムアリストテレス回帰から倫理の基礎を引き出そうとする戦略には、正義や倫理の好きな自分でも、いささか疑問を感じてしまう。古代ギリシアの偉大な哲学者を持ち出しても、ヌスバウム主張するところのケイパビリティ・アプローチに要する膨大なコストを政府は負担してくれないだろう。この点では、自分はリベラル・アイロニストのローティに考えが近い。

 しかし、それは範囲を哲学に絞った場合の話で、他の分野でアリストテレス以上に倫理の基礎として応用できるものが、発見されるかもしれない。その分野とは脳科学。 

下の記事では、道徳的感情の個人差が脳構造の個体差を反映していることがわかったやがて、脳のどの領域が5つあるどの道徳感情と結びついているかが、判明するだろう。

マリー=ロール・ライアンが開拓すべき次の分野は、世界中の神話や民話のビッグデーに操作を加えて、面白い物語を自動生成することではなく、その作者側ビッグデータを、脳センサー経由で得られる読者側のビッグデータと突き合わせて、どのような物語が読者のどのような部分にプラスの刺激を与えるかの融合データを作ることだろう。

ごく簡単な発想だ。食物に含まれている栄養素がある程度解明されれば、次はその食物の栄養分が体内でどのような作用をもたらすのかを考えた方が良いだろう。

あと数十年もすれば、すでに私たちが「身体に良い」栄養素を知っているように、子供たちの情操教育に効く、言い換えれば「心に良い」物語要素が、人工知能によって解明されていることだろう。そのとき、小説や物語は人間の成長に不可欠なものとして回帰し、しかし同時に、物語作者の多くが、AI にその座を奪われていることだろう。

ひとことだけ、個人的感想を付け加えたい。

自分が敬愛しているロラン・バルトは、特にそのキャリアの前半に、前時代の信奉者たちから、謂れのない非難を浴びせられた。「(全能の)作者の死」を提唱したからだ。

バルトは正しかったが、理解されなかった。その「作者の死」の背景にあった構造主義記号学的思考が、物語論という学問の完成を待って、とうとう二度目の「作者の死」を生み出しそうな近未来を今晩かすかに視認して、自分は偶然の不思議さを感じずにはいられないのだ。

ふう。今晩も何とか書き終えた。大学時代によく通った図書館を思い浮かべながら、自分はどうしてクリステヴァみたいな女性に気を取られていたのか、考え込んでいた。20歳は蒼い。何もわかっていなかったんじゃないだろうか。いずれにしろ、もう昔のことは忘れよう。別のクリステヴァには逢えなかったのだから。

そんなことを「う思った瞬間、目の前を小さな栗鼠が駈け去っていくのが見えた。視野の遠いところで、栗鼠は立ち止まってこちらを見ている。

イルカも夢中になるほどの可愛らしさだ。

追いかけなきゃ。本能的にそんな衝動が湧きおこった。心の中で、自分の潜在意識がこんな独り言をいうのが聞こえたのだ。

愛らしすぎるよ、まったく、栗鼠ってば。