洋酒のきいたレゾン・デートル

大チャンス到来! 2014年の<<超>>アセンション この次元ウェーブに乗れば全ての望みが手に入る

大チャンス到来! 2014年の<<超>>アセンション この次元ウェーブに乗れば全ての望みが手に入る

 

2017年からずっとスピリチュアルづいた精神生活を送っている。少しばかりなら霊感もついたかもしれない。2017年夏には、何とアシュタールという生命体と、代表チャネラーの方を通じて接触することができた。

ただ、その50分のセッションはずっとボディーブローを打ち込まれている感じだった。「相手のキャリアにプラスにならない」というチャネラーからの英語を、通訳の女性が可哀想な人を見る目で、私に伝えてくれたのを覚えている。チャネラーの方は、普段は優しい可愛らしい話し方の女性だった。ところが、セッションが始まると豹変して、男らしい話しぶりで、私を自分の目指す方向とは逆方向へ進むよう、説得しようとしてきた。冗談で、ハンドルネームを「わさび醤油」に変えた方が良いとも提案してくれた。 

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 地元の有力霊能者の方々との交流もあって、自分にも少し見えてきたのは、世界は多元的で各人が無数の並行世界間を一瞬一瞬に移動しながら生きているという不思議すぎる実態。

この話についてくるのが難しい人には、「人生は或る意味ではテレビゲームに似ている」と説明することにしている。自分の心構えや経験値や能力や欲望などのパラメータに応じて、眼前に起こってくるイベントが、まったく異なるのだ。

 そのような世界の真実に触れられたので、セッション自体はとても貴重な体験だったと今は感じている。だから、あの日アシュタールに、自分が恋い焦がれている未来について厳しいことを言われて、急激に体調を崩したり、寝込んでしまったり、枕を濡らしたりしたのは、自分が単に寝込むネコ型の性格であるからにすぎず、断じて小物だからではないことを明確にしておきたい。

と、大物ぶりを巧みに演出しきったところで、そういえば、あの日アシュタールにこう言われたのを思い出した。

あなたは或る世界の舞台に立っていた名役者でした。感動的なドラマも演じられれば、人を娯しませるコメディーも演じられる。とても演技の出力に幅のある名優だったのです。 

にわかには信じがたい。それでも、いろいろと自分の人生を振り返ってみると、当たっているような感触もある。というわけで、ロマンティック・ラブから喜劇に寄せてみようと考えて、当世ラブコメ最高傑作のこの映画を、今朝鑑賞した。 

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 お、このサイトでも「ラブコメ史上最強」の呼び声がかかっている。例によって、ネタバレ満載で予告編とあらすじを引用したい。

映画『ラブ・アゲイン』のあらすじあらすじ(前半)

  1. キャル・ウィーバーは40代の中年男性。安定した職とすばらしい妻とかわいい子どもたちに恵まれて、理想的な家庭を築いていると思っていたキャルに、突然妻のエミリーから同僚のデイヴィッドとの浮気を告白され、離婚の危機が訪れます。
  2. 一人暮らしのアパートに移り、寂しさを紛わすため夜な夜な地元のバーで飲んでいたキャルは、毎晩違う女性をナンパしてはベッドを共にしているプレイボーイのジェイコブ・パーマーと知り合います。キャルを哀れに思ったジェイコブは彼に恋愛指南をすることにしました。
  3. ジェイコブのおかげですっかりモテ男に変身したキャルは、ケイトという女性をナンパすることに成功。ナンパのコツをつかみ、その後9人もの女性と夜を共にし、寂しさを紛わせていました。
  4. 一方ナンパ師のジェイコブはハンナという女性に一目惚れし、自身の持っている恋愛テクニックでハンナを落とそうと試みます。しかし彼女は、彼氏がいる法学部の学生でまったく相手にしてくれません。
  5. ロースクールを卒業し司法試験に合格したハンナ。ある夜、友達を含めたディナーで彼からプロポーズをほのめかされたと思っていたハンナですが、それは彼女の思い込みで、見当違いな申し入れを受けるのです。プロポーズだと期待していた分、彼の行動に呆れてしまい自暴自棄になってバーに向かいました。そのままジェイコブに一夜の関係を申し込んだのです。
  6. これまでジェイコブがナンパをしてきた女性は、彼の恋愛テクニックと色気に翻弄されていましたが、ハンナはそうでなはかったようです。2人はベッドに入りますが、お互いの過去の話をしているうちにそのまま朝を迎えました。 

映画『ラブ・アゲイン』のあらすじ(後半)【結末・ネタバレ注意】

  1. キャルの息子ロビーはベビーシッターのジェシカに想いを寄せ、そのジェシカは実はキャルに熱を上げているという状態。しかしキャルは気づいていません。ジェシカはキャルの気を引こうと自分のヌード写真を送ろうと考えていました。
  2. そんな中、キャルはエミリーが自分に未練があることを知り、初デートを思い出してもらおうと家の庭にミニゴルフセットを作ります。感激するエミリー。ところが、そこにヌード写真を見つけてしまったジェシカの父親バーニー、親にジェイコブを紹介するために一緒に訪れたハンナ、エミリーの忘れ物を届けに来た不倫相手のデイヴィッドが鉢合わせしてしまいます!
  3. そう、ハンナの両親とはキャルとエミリーだったのです。そこでキャル、バーニー、ジェイコブ、デイヴィッドの、三つ巴ならぬ四つ巴のもみ合いが始まってしまいます。
  4. また元の虚しい一人暮らしに戻ってバーに入り浸るキャル。どうしてもプレイボーイだったジェイコブと愛娘ハンナとの交際を認めることができません。
  5. しかし、中学校の卒業式で「いかにして真実の愛と魂の伴侶を失ったか」という悲観的なスピーチをするロビーを見て、居ても立っても居られなくなったキャル。ロビーのスピーチをさえぎって、自分とエミリーとの出会いを語り、決してエミリーを諦めないと伝えます。
  6. 父親の姿を見て勇気づけられたロビーも、ジェシカに愛の告白をします。式の後、キャルはようやくハンナとジェイコブの交際を認めるのでした。そして、元の鞘に収まりそうなキャルとエミリーの談笑する姿がありました。 

カタカナの人名が氾濫するとわかりにくくなるので、登場人物を日本語に書き換えることにする。

冒頭で中年夫が中年妻に離婚を切り出される場面が面白い。レストランで食後のデザートに何が欲しいかを「せーの」で言おうと打ち合わせて、「せーの」の後、中年夫の「クリーム・ブリュレ」と中年妻の「離婚したい」が重なる。中年妻の浮気を知った中年夫は走行中の助手席からジャンプ・オフする。

けれど、映画全体を見ると、気が利いている場面がそれほど多くなかったようにも感じられる。ただし、これだけの筋を操作できる脚本技術は大したものだと思う。

「→」「⇔」の記号を愛情の方向だとすると、下記の「恋の方程式」を連立させて、しかも120分できちんと正解を出した映画なのだ。

  1. 夫 ⇔ 妻(ただし、一晩の妻→不倫男性により、離婚危機)
  2. 中年夫 ⇔ 中学生息子の担任教師(ただし、一晩だけの情事)
  3. 中学生息子 → 子守女子大生
  4. 子守女子大生 → 中年夫
  5. 色男 ⇔ 弁護士娘

脚本家の脳裡にあるのは、隠している情事や恋心を状況操作で露見させて、「鉢合わせ」を演出する作劇術。

やっと妻と復縁できそうな話し合いをした直後、保護者面談で中学生息子の担任教師が、「偶然」夫のワンナイトラブの相手だと判明して、一回目の大騒動になる。(1. と 2.の鉢合わせ)。

ドタバタ喜劇のクライマックスは、「偶然」1. 3. 4. 5. が鉢合わせして、警察が出動するほどの大騒動になるのだ。

これらの複雑ではあるがご都合主義的な「偶然」の操作を、脚本家のテクニックの精髄と見るのか、それともテクニック先行で大切な何かを逃したあざとさとみるのかで、この映画の評価は分かれるだろう。「ラブコメ史上最強」との称号に拍手を送った上で、自分は後者なのだ。

E・M・フォースタアも言うように、「王が亡くなられ、それから王妃が悲しみのあまり亡くなられた」という、「悲しみのあまり」というプロット要因に小説の本質がひそむのである。 

小説読本 (中公文庫)

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 「王が亡くなられ、それから王妃が亡くなられた」では、あらすじにすぎない。「悲しみのあまり」という心理的動力が働いてはじめてプロットになるのであり、そのプロットを考えるのが脚本家の仕事だ。

上記のような複雑なシナリオの輻輳の隙間に、このような心理的動力をきちんと書き込むことは、それほど難しくない。

1. ミドルエイジ・クライシスを夫婦で克服する絆

ラブ・アゲイン』で自分が好きだったシーンは、予告編の1:42から数秒だけ映る場面だ。夫はなぜかガーデニング大好きで、妻の不倫相手が自宅の庭の芝生を手入れしている悪夢を見て不安になって、夜中にこっそり自宅の芝生の手入れに行く。

ある晩、妻が誰かに電話をかけようとしているのが、窓越しに見える。すると、自分の携帯電話に着信がある。妻は電話でこんな風に夫に話しかけるのだ。

忙しいところ、ごめんなさい。地下室のボイラーの操作がどうしてもわからなくて… 

 妻は一階にいる。夫もそれを窓越しに見ている。離婚を切り出した後も、夜に寂しさや不安に襲われて、妻が嘘の口実をもうけて夫に電話してしまう場面が、とても可愛らしい。

夫と妻は、15歳のときに初デートでアイスクリームを食べて、17歳のときに妻が妊娠したので学生結婚した二人だ。二人の絆の深さ、一緒にいた時間の重さに、脚本家の目が充分に向いていないのは残念だ。自分なら、ここに「寝込むネコ型」のイベントを急いで書きこむことだろう。

 電話の妻にボイラー装置のパネル操作を説明しながら、夫は自分の地声が窓の向こうの妻に聞こえないように、窓から離れようとする。すると、物音を立ててしまって、夫は庭の暗い方向へダイブする。不安になってはっと口ごもった妻に、夫は「物音? 野良猫じゃないかな」とフォローしようとして、自分で猫の鳴き真似をする。すぐに空間認識のミスに気付いて、「おや、こっちでも猫が鳴いている」と言って、二人は笑い合う。

夫が「頑張って治安のよい場所に自宅を建てたから、大丈夫だよ」と慰めると、妻が「どうしても庭のある家が欲しいというのが、二人の夢だったわね。今は芝生の隅に○○の花が咲き始める季節よ」と他愛のない話をして、電話を切る。

電話が切れたあと、庭に寝そべっている夫の目の前に、いま妻が話した小さな花が咲いているのに夫は気づく。自分のすぐそばで咲いているその花の美しさを、視点を大きく変えるまで、自分が気付いていなかったことを夫は悟り、花にキスをする。

偶然のイベントで視点の高さが変わったことより、夫が身体を投げ出して「わが身を叩かせたこと(献身)」と、そこに咲いている花に「まなざしを向けたこと」が大事だ。妻の不貞直後、夫はガーデニングの話ばかりして、夫婦関係の溝とその向こうで苦しんでいる妻に、目を向けようともしなかったのだ。

諸要素をまとめると、こうなるだろうか。

その偶々の「叩きー見た」のすべてを美しいと感じられることが幸福

映画を見ている間に思い浮かんだのは、このような二人の絆を印象づける場面展開だった。時間にして1分もかからないので、あった方が良かったような気がする。 

2. 夫婦の絆の再確認には末娘を使わなくては

 ほとんどの人物の恋愛模様がきちんと描かれているのに、ほとんどまともに相手にされていないのが、8歳くらいの末娘だ。脚本家の頭の中はいったいどうなっているのだろう。主人公の夫が、年を取ってから生まれた末娘を可愛がらないなんて、どうかしてるぜ。

ここは、冷蔵庫からアイスクリームを取り出す絶好のタイミングなのではないだろうか。子供の遊びが主客逆転しやすいことは、昨晩書いた。

 ネット上では情報が錯綜しているようだ。フロイトは、あるいはフロイトを再解釈したラカンは、糸巻きを隠しては表に出す「いないいないばあ」をしている子供は、糸巻きが子供で自分が母親の立場になって遊んでいると説明していたように記憶する。

 俗耳に入りやすい言葉で言い直せば、巷間しばしば言われる「ロリコン=マザコン」説は、当たっている可能性が高いということだ。単純な話、マザコンの年齢の高低を転倒させたら、そのままロリコンになるし、欲望はしばしばそのように転倒する。 

こんな逸話を夫婦の絆の再確認のために書き加えてはどうだろうか。

実は、末娘を可愛がっていた夫には、妻には内緒で末娘にこっそりアイスクリームを食べさせてもらう習慣があったことにしたいのだ。アイスクリームの種類は、夫婦が15歳の時に初デートで食べたものでなければならない。おそらく妻主導で決められたであろうアイスの種類は、(40代男性が好みそうにはないものの)10代女子の好みそうな「ミントチョコ」などが良さそうだ。

制服の胸がきつくて爆発しそうなあの頃

憧れはスリムでセクシーなボディーなのに

ミントチョコがやめられなかった

夫婦が別居してから、末娘がまた夫にミントチョコを食べさせたいと洩らしているのが、妻の耳に入り、ほとんど会話のなくなった夫が、まだ初恋の頃の愛情を自分に抱いているのを妻が実感するという展開が、美味しいにちがいない。

ちなみに、自分は小物でもなく子供でもないので、まさしく大人としか言いようがない「ラム・レーズン」が好きだ。洋酒が効いたお菓子が好きだなんて、これ以上大人らしい大人の嗜好があるだろうか! 最近「もっと自分に優しくしてもいいんだよ」という涙の出そうな優しい助言をもらっているような気もする。この記事を書き終わるまでには、何とかしてラム・レーズンにありつきたいものだ。

3. ジゴロの孤独な生い立ちをもう一歩奥まで 

きみに読む物語』のロマンティック・ラブのカップルは、ライアン・ゴズリングレイチェル・マクアダムスが演じた。前者が演じた田舎くさくて陰気な青年は好きになれなかったので、自由奔放な魅力あふれる後者主演のこの映画を見ようかどうか、かなり迷った。 

 結論から言うと、『ラブ・アゲイン』のライアン・ゴズリングの演技は、映画の中で一番良かった。

予告編の最後で誇示されている腹筋だけでなく、洒脱で機知と皮肉が効いていて、ジゴロなのにエレガントさまで感じさせる演技だった。

自分がこの映画の中で気に入ったもう一つの場面は、ジゴロがこれまで無数にテイクアウトしたのとは異なる堅気の女性(弁護士娘)に、「お願いしてもいい?」とピロートーク中に頼む場面だ。

そのお願いとは「個人的な話を聞いてくれるかい?」というものだったのだ。

母が美人の自惚れ屋で、父は気弱でいつも母の機嫌を取るのに忙しくて早逝した。という身の上話。自分はその打ち明け話にぐっときた。女性をもてなす完膚なきまでの彼の口説きテクニックは、死ぬまでずっと母の機嫌を取りつづけた父由来のものだったのだ。 ここは、弁護士娘と二人がかりで、その再現場面を演じてほしかった。父の繊細なテクニックは何とか母をなだめることに成功する。両親は想像上の再現劇の中で、抱擁しあっている。寸劇が終わったあと、最後に弁護士娘はジゴロに訊くだろう。会話はこう続きそうだ。

「それで、そういうとき、あなたはどこにいたの?」

「どこにも」

「どこにもって、どこかにはいたでしょう」

「ストリートさ」

 この数分少々で、「ジゴロ誕生物語」が完成する。華やかなドレス姿の女性の上をどれほど渡り歩いても、孤独を癒すことのできなかったジゴロの淋しい半生が、観客の胸に迫るにちがいない。

ラブ・アゲイン』のAmazon レビューは、ほとんどが脚本の巧緻を讃えるものばかりだ。他人が美味しそうに賞味している料理にケチをつけようなんて魂胆は、さらさらない。確かに自分の中でも「ラブコメ史上最強」だし、鑑賞後には、上機嫌に両手を合わせて「ご馳走様でした」と言える映画だ。

それでも数本の恋愛映画の連続鑑賞で、自分が何を美味しいと感じ、何を味わいが足りないと感じるかの傾向はつかめてきたような気がする。備忘録として書き留めておきたい。

映画の脚本のありようは、半世紀前に比べると、かなり複雑になり高度化した。

複雑な多数者の筋のマネジメントや、マトリョーシカめいた何重もの世界の入れ子構造や、記憶の書き換えなどを伴った複数世界の併存など。CGがここまで進化した現代、手練れの映画脚本の書き手たちが、自身の優越性を顕示できる道具立てや筋立てには事欠かない。 

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自分だけなのだろうか。どれも一時代を飾った名作なのに、どこか後味に苦みを感じてしまう。

美味しさを阻害している苦みは、おそらく「なぜ人は表現するか」の根源的な欲望が感情に深く関わっていることを、人々が充分に知らないことから生まれているように感じられる。 

書きたがる脳 言語と創造性の科学

書きたがる脳 言語と創造性の科学

 

 2018年現在、自分が読んでいるだけで興奮してくるのが脳科学の分野だ。中でも、脳科学と文学が重なり合った部分を研究しているこの本は、実に面白かった。

何と、自分以外の記憶者はほぼ絶滅したと感じていたヤコブソンの「暗喩 / 換喩」の二分法が、注目背うべき仮説として紹介されているのだ。さらに、その両者が、ブローカ失語症とウェルニッケ失語症の二大症状に対応している可能性が確認されてもいる。

ヤコブソンの「換喩性」にまつわるシンクロニシティの解釈可能性については、この記事に書いた。書いたのは確かに自分のはずだが、いま自分で読み返しても、何を言いたいのかよくわからない。当時はまだ心身が好調だったことが、何となく感じらえる文章だ。ヤコブソンの文脈に興味がある読者は、記事全体に目を通して確認してほしい。

 ただ、この現代思想と文芸批評の交錯領域は、人々を寄せつけようとしないきわめて剣呑な危険性に満ちている。たとえそんな不毛な言い aiko をしたくなくても、「テクスト論」とか呟いた瞬間に、「漱石=猫」主義者が思いがけない換喩ドロップキックをこちらの顔面にお見舞いしてきたりもするので、不憫にも鼻血が止まらないまま、爾後アレを私が「ペスカトーレ」と呼ぶことにしたのは、このブログの読者なら憶えているかもしれない。行けばわかるさ、とばかりに歩み始めたこの道が、「死に」筋ならぬ道筋であることを祈りつつ、いま不意に耳元で浮上した aikoNHK出演時に登録商標テトラポッドを「三角岩」に替えて歌ったという噂は果たして本当なのか、本当なら「三角岩に死に筋が交錯するような道には、参加しにくいわ」と、ふと16歳の少女声で呟きながら、ひとり見上げている冬の夜景のきらめきが綺麗だ。グラスで、キャンティーの赤を。

恋愛映画の脚本に必要なのは、観客に恋愛の高揚感を引き起こすことと、そうできる脚本を生み出すことの二つだとカウントすれば、前者に関連の深いこの脳科学本にも、気取らずに目を通すべきだろう。 

オルガスムの科学――性的快楽と身体・脳の神秘と謎

オルガスムの科学――性的快楽と身体・脳の神秘と謎

 

先に結論を言っておくと、オルガスムは性器で起こるのではなく、脳内で起こる。しかし、その発生機序の全容は解明されていない。

しかし、興味深い発見もあるのだ。脳活動の映像化技術の進化により、オルガスム中に脳内の「島皮質」が活性化することが確認されている。この「島皮質」は、痛みの刺激で活性化されていることが判明している領域だ。

つまり、「島皮質」は痛みと快感の両方を受容し、反応する器官だと言えるだろう。 著者はそこまで踏み込んでいないが、進化心理学的観点から付け加えると、人類は生存上の苦痛を緩和するため、あるいはその代償となる報酬系を存在させるため、快感を感じられる身体に自らを進化させてきたという仮説が浮上してくるのだ。

 さて、『書きたがる脳』に戻って、「なぜ人は表現するか」という根源的な問いに、もう一度取り組んでみたい。

  1. 書くという行為は、脳内の辺縁系に関わっている。
  2. 辺縁系は4F(fear, food, fighting, mating=恐怖、食料、闘争、交尾)のコントロール基地だ。
  3. ただし、辺縁系は4Fのような原始的な欲望だけでなく、クラッシック音楽を聞いたり、古典文学を読んだりしたときの美的快感にも関わっている。
  4. 辺縁系の一部である視床下部は、愛の喜びと離別の悲しみに関係している。
  5. 人間の感情には、喜び、悲しみ、怒り、恐怖、驚き、嫌悪の6つが、文化圏に関わらず存在することが判明している。生まれつき視力のない子供でも、この6つの感情を備えており、それを正確に表情で表現できる。
  6. 神経学者のアントニオ・ダマシオは、感情の有用性、非合理の合理性について解剖学的に説明している。辺縁系で生じる感情的なバイアスは、大量の選択肢を絞り込み、迅速な意思決定を可能にしている。
  7. 倫理哲学者のヌスバウムも、真に合理的な人間は適切な理解の結果としてある種の感情抱くと述べている。
  8. 人間の脳は、人間を生得的に言葉でしゃべらせるようできている。
  9. チンパンジーは感情の表現としてしか、叫び声や動作のような言動を発することができない。
  10. 言葉を使うと、脳内麻薬が生じることが確認されている。
  11. 人間の言葉にも、感情的な慰めになったり、感情的に楽しませたり、負の感情のはけ口になったりする感情に関連づけられた機能がある。
  12. 言葉を使う最大の原始的な機能は、助けを求めることだと推定できる。配偶者がそばにいると、人間が言葉を使って訴える痛みの度合いは、そうでないときの3倍になる。
  13. 話し言葉や文章だけでなく、高度な文学的想像も、当人の苦しみや痛みを解消しようとする生物学的な衝動にあるとの仮説が有力だ。
  14. 書くことは、失われた社会的つながりの代償でもあり、それをさらに得ようとする能動的行為でもある。(→死別、離別している近親者へ宛てて、人類は大量の手紙や物語を書いてきた)。
  15. クリステヴァは「言語の最初の機能の一つは、子供が母親の不在を埋めるためのイメージを創造するため」だと主張している。

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 というわけで、こおまで様々な方向へ向けて気儘に書き散らしてきたように見えるこの記事も、終着点は意外にシンプルなところにあったようだ。

つまり、恋愛の高揚感も、言語的自己表現も、恋愛映画のような言語的体験によって、脚本家当人の苦痛と観客の苦痛とを緩和したり、別の快感に置き換えることに、原初的な出発点があったということだ。その表現上の出発点に自分が敏感だからこそ、脚本家の優秀さだけを顕示するような高度に複雑なシナリオに、自分が乗れないのだと思う。

作家の存在理由(レゾン・デ-トル)とは何なのか? なぜ人は表現するのか? 

 言葉で表現することの核心には 進化心理学的かつ本能的な、自分や周囲の人々を、苦痛から解放し、喜びを増やそうとする感情と絡むレゾン・デートルがあったのである。

と、今晩も何とか書き終えたとホッとしているとき、眼前にまた例のタヌキが現れた。

ぼく:やあ、また決め台詞を言いに来たんだね。 「なぜ人は表現するのか?」 

タヌキ:「脳と言えるのに(ポンッ!)」なんて、今晩は消えたりはしないんだ。

ぼく:あれ? てっきり得意のその台詞を言いに来たのかと思ったよ。

タヌキ:同じ駄洒落は繰り返さない。なにしろ、そんじょそこらのタヌキとは訳が違う一流なもので。いつ雑草ニー落ちぶれても、ほとんど本気を出さずに、簡素ニー、高度な洒落を言いソウニー、なってしまうんだ。

ぼく:いま「It's the SONY」って言った? 前回ソニーのキャッチ・コピーで恥をかいたのを気にして、わざわざソニーでもう一度洒落を言うために、わざわざここへ来たの? 一流のタヌキには似合わない小心さに見えるけど…

 

すると、タヌキはロックシンガーが自分を両腕で抱きしめるときのようなナルシスティックな仕草をして、目を閉じた。よく見ると、右手の先に、一枚の葉っぱが指に挟まれている。葉っぱを見ると、こう書いてあった。

「化かされたフリをしてください」

 

ぼく:(面倒くさいタヌキだなと思いつつ)、凄い言葉遊びの能力だね! 本当に一流だと思うよ。よくわからないけれど、好きなアイスクリームを食べた直後のような甘い後味がするな。

タヌキ:きみの潜在意識の中から来たんだ。来てよかったよ、喜んでもらえて。さっき、ゴチックでアイスを奢っておいたんだ。

ぼく:今晩の決め台詞は何だい?

タヌキ:え! 気づいていなかったの? ラム・レーズンの美味しさにぴったり合うような心地良い甘さと酔いの決め台詞を、もう書いてあるのに(ポンッ!)

 ぼくは記事を見返した。一度目では見つけられなかった。二度目に読んだときに見つけて、心の中でタ抜きにお礼を言った。「ありがとう。おかげさまで、幸福だよ」。

そして、目を瞑ったっまま、幸福な甘い酔いに、いつまでも浸りつづけたのだった。

その偶々の「叩きー見た」のすべてを美しいと感じられることが幸福