Unplugged で名曲を聴くのは楽しい。Unplugged とは、電子デバイスを使わない演奏のこと。特にロックの楽曲を Unplugged で聴くと、ギターのディストーションが消えるので、メロディーとリズムがくっきりと立体的に見えやすくなる。

いつになく不思議の国の少女のような衣装で、ビョークが歌っているこのステージも、Unplugged だ。バック演奏の生楽器に、グラスハープを使っているのが、巫女のような神秘感と内奥の激しさを持っているビョークらしい。

おそらく日本では『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のヒロインとして、最も知られているのではないだろうか。デュエット相手はレディオヘッドトム・ヨーク。映画監督のラース・フォン・トリアーもお気に入りの監督だし、ビョーク・サウンドの確立にひと役買ったネリー・フーパーはブリストル出身でマッシブ・アタックの前身バンドに在籍していた。

この周辺をよく散策したものだ。ヨーロッパの文化的街路の中で、自分の行きつけの店や好きなカフェのある馴染み深い通りのように感じられる。音楽の喜びを抱いて生きる盲目の少女の歌は、いま聞いても格好いい。

 自分が一番好きな曲がネリー・フーパーが打ち込みを担当した「Hyperballad」だ。この歌詞が何を歌おうとしているのか、何度も考えることがあった。 

we live on a mountain right at the top
there's a beautiful view from the top of the mountain
every morning i walk towards the edge and throw little things off
like: car-parts, bottles and cutlery or whatever i find lying around
私たちは山の頂上に住んでいる 
そこからは美しい景色が見える
毎朝 私は崖に向かって歩き  
そこからいろいろな物を投げる
車の部品、ボトル、フォークやナイフ 
手近にあるものを何でも

 

it's become a habit a way to start the day
これが一日を始める習慣になった

 

i go through this before you wake up
so i can feel happier to be safe up here with you
あなたが目覚める前に これをやるの
するとここであなたと安心して暮らしていけると
幸せな気持ちになるの

 

it's real early morning no-one is awake
i'm back at my cliff still throwing things off
i listen to the sounds they make on their way down
i follow with my eyes 'til they crash
imagine what my body would sound like slamming against those rocks
まだ夜も明けぬとき
誰も目覚めていない
私は崖にまたもや向かう 
そしてまた物を投げる
それが降下する音に耳をすませる
地面にぶつかるまで目で追う
そして私の身体が あの岩に叩き付けられたら
いったいどんな音がするのだろうと考える

 

and when it lands will my eyes be closed or open?
地面に当たるとき 私の目は閉じているかしら?
それとも開いてる?


i'll go through all this before you wake up
so i can feel happier to be safe up here with you
あなたが目覚める前に これをやるの
するとここであなたと安心して暮らしていけると
幸せな気持ちになるの 

〈和訳引用元:Hyperballad / Bjork | Untitled.) 

自分の解釈では、ここで呼びかけている「あなた」は、おそらく恋人ではなく息子だ。冒頭で崖の向こうに捨てにいくフォークや瓶は、フォークや瓶そのものではないだろう。実際は息子と自分の二人の幸福を、侵害してこようとする世の中の無神経な雑事たちだろう。

「衝撃映像100連発」のようなテレビ番組で、ビョークの激昂が流れたとき、「Hyperballad」の歌詞が自分の頭の中を駆けめぐった。崖の下に捨てに行ったのが、ビョークの目の前で「こんなお母さんでどう思う?」と息子に質問したパパラッチ。

ビョークはサビで「あなたが目覚めるまでに、私はこれらすべてをやり終えておくつもり。あなたを安全に守ることができると、もっとこの場が幸福でたまらなくなるから」と歌っていた。目の前であんな質問をしたら激怒するに決まっているじゃないか。

暴力は嫌いな性分。それでも自分は、愛する息子を世界の醜い雑事から守ろうとする母性愛の激しさに、グッときてしまうのだ。

さすがは、火山と氷の国アイスランドの歌姫だというべきか。息子の生命を、地球と同じくらいかけがえのないものと信じて、果敢に戦う母性愛は、global love, 略して gloveとでも呼びたくなる。と書くと、英単語の苦手な人はきっと混乱してしまうだろう。

「globe」はグローブと発音して「地球」という意味を作る。b を v に変えた「glove」 はグラブと発音して「手袋」という意味を作る。

この数年、折に触れて、手袋のことを考えることがあった。小説の中で哲学的な意味合いで手袋を使った部分が、力を入れて書いたのに、上手く書けなかったような心残りがあったからだ。

 路彦が忘れ難く感じているのは、無論、いま夜の東京湾を掻き分けて進みつつあるこの遠泳だけに限らない。あれらの数限りなき記憶… そうふと考えて、それらが自分の外に密接に存在していることを、自分が識っていたのを思い出した。霧模様の夜空を見回しても星は見えなかったが、自分の内側の襞のそこここに貼りついていた砂金のような記憶の粒が、手袋が裏返されたように、夜空を覆っている暗い裏地の肌理の上に、幾筋もの輝かしい星座をなして、懸かっているように感じられた。それらの砂金の或る一粒と一粒の間、例えば自分の存在と犠牲とを繋いでいる不可視の星座線を記憶したことによって、自分の細胞の隅々にまで、新たな生命の意味が吹き込まれたのを、路彦はありありと感じていた。ちょうど、夜の暗い海水の冷たさに逆らって、いま温かく鼓動している自分の心臓と同じくらいの、確固たる存在感で。

 「記憶が自分の外の世界に密接に存在している」とは、明らかに転倒した表現だ。この存在論の出所は、実は現象学者のメルロ=ポンティ。「手袋」と合わせて検索すると、学生時代にほとんど読破した「現代思想冒険者たち」シリーズがヒットする。

手袋を裏返すと、指先の何もなかった空間に裏返された手袋が存在する。つまり手袋の意味は、手袋の表裏が密着した折り返し点に生成している。あらゆる物事は、内と外が接し織りなす、リヴァーシブルな「襞」にしか存在しないのだ――。これがメルロ=ポンティの「可逆性」である。 

メルロ=ポンティ―可逆性 (現代思想の冒険者たち)

メルロ=ポンティ―可逆性 (現代思想の冒険者たち)

 

 「可逆性」の概念を使って、メルロ=ポンティが何を言いたいかというと、「世界」と「私」は手袋の生地のようなわずかな接触面を媒介に、相互に触れあっているということだ。もう少しわかりやすく言うと、世界と私はつながっていて、(人が右手で左手を触るように)、つながっているワンネスの一部が別の一部に触れることが、人が世界に触れるということなのだ。

さらに、メルロ=ポンティ間主観性の概念でもフッサールを丹念に研究している。

間主観性

E.フッサールの用語で,相互主観性あるいは共同主観性ともいわれる。純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な現象学的還元に対して,他の主観,他人の自我の成立を明らかにするものが間主観的還元であるが,それは自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入されることによって行われる。こうして獲得される共同的な主観性において超越的世界は内在化され,その客観性が基礎づけられると説かれる。 

現象学は科学的な学問だが、突き詰めれば突き詰めるほど、スピリチュアリズムに接近していってしまう。間主観性ユングの集合無意識に近く、メルロ=ポンティも人間の身体に生得的にゲシュタルト知覚(人間共有の知覚の癖)を持っていると述べている。つまり、人が世界とつながっていたり、他人たちとつながっていたりするのだ。

自分の小説では、「痛み」の感覚を共有し、かつ、「痛み」を伴いつつも贈られた何らかの生命への貢献の意味を思い知って、主人公が存在論的改心をすしたことを描き出したかった。こういうことをやろうとする人がいないこともあるが、実際に書いてみるとどう書いてよいかが、かなり難しいのを感じた。

さて、人と世界、人と人とが、どこか溶融している現象学から多くを学び、「融合」身体的認知科学を牽引している科学者がいる。

冒頭のこの一行でギャフンとなってしまった。

人間は生まれながらのサイボーグである。これは科学的真理である。 

生まれながらのサイボーグ: 心・テクノロジー・知能の未来 (現代哲学への招待 Great Works)

生まれながらのサイボーグ: 心・テクノロジー・知能の未来 (現代哲学への招待 Great Works)

 

 誰もが意表を突かれるだろうこの一行、アンディ・クラークの解説を聞くと、なるほどと頷くことができる。これは知らなかった。「サイボーグ」とは、「サイバネティック・オーガニズム(サイバネティックな有機体)」に由来しているのだという。

クラークはどうして私たちを「サイバネティックー有機体」と呼べるのかについて、まずは私たちが抱きがちな「脳の神話」を疑うところから始める。

わたしたち自身のますます増していくアイボーグ的本性を見えなくさせているものは、ある西洋古来の偏見である。すなわち心を、自然界のその他の部分からきっぱり区別されるほどに、根本的な点で特別なものと見なす傾向なのだ。(…)皮膚および頭蓋という原初的な生体絶縁材(自然界のダクトテープ!)の内部にたまたま収納されている認知機構にはどこか絶対的な仕方で特別なことがある、という信念の姿で現れる。その内部で生じる物事は非常に特別であるため、人間と機械の真の融合を達成する方法は、皮膚および頭蓋という寝室のドアの背後に何か純然として物理的なインターフェイスを設けることによってそうした融合を完遂すること以外にはない、と考えてしまいがちなのだ。

 つまり、脳に電極プラグを差し込むといった外科侵襲的な手術を伴わない限り、その人はサイボーグではないと人々が思い込んでいるとクラークは指摘するのだ。

では、一般人がサイボーグ的だと思い込みそうな、脊髄内に挿入されたインプラント装置は、充分にサイボーグ的と言えるだろうか?

クラークの答えはここでも渋い。サイボーグというとき、私たちが本当に気に懸けるべきは、どれだけ皮膚から奥へ入ったかではなく、「その結果として生じたり生じなかったりする動物ー機械間の関係の複合的および変形的性質の方である」。つまり、重要なのは、装置が人体の奥に入るかではなく、装置が人体の状態や運動に合わせ、人体がその装置によって状態や運動を変化させていく相互作用だというのだ。

このブログの読者の中には、ちょっとだけ閃くものがあった人もいるのではないだろうか。 装置と人体の相互作用が問題の中心になるのなら、サイボーグ問題は外科手術を伴わずに済んで、メディア論へと舞い戻る。 クラークはマクルーハンに言及していないが、人体に埋め込まれていなくても車もメディアであり、ロードレイジのようなフィードバックを人間にもたらす。身体認知科学者の旗手であるクラークは、期せずしてメディア論の大家マクルーハンの衣鉢を継いでいるのである。

さらにどこかで読んだマクルーハン理論の記憶に拠って付け加えれば、自動車自体がメディアなのであり、自動車にさまざまな入力を加えて意のままに操るとき、その人間のアイデンティティは自動車全体にまで拡大しているのだという。

いわば、自動車が自分の一部になり、自動車の機能が自分の能力そのものように感じられて、仮想的有能感が得られる。普段の社会生活で充分な自己肯定感を得られていない人間が、そのメディア媒介による仮想的有能感嗜癖的に没入して、他の社会的存在が見えなくなる状態が、ロードレイジだと言えるのではないだろうか。 

そして、身体認知科学者クラークの「(メディア的)人体=生まれながらのサイボーグ」論は、「人工知能が人類を滅ぼす」というようなAI脅威論を吹き飛ばす専門的な説得力がある。さほど調べないうちに自分が抱いていた感触と同じなので、どこか嬉しい。メディア・テクノロジーと人体の融合はすでに始まっているのだ。

イーロン・マスク流の「AI脅威論」に自分が共感できないのは、すでにテクノロジーと人間の融合が進行しつつあるからだ。 

(…)

宮台真司は、後期近代社会が、テクノロジー決定的な未来社会へ移行することは不可避との前提に立って、問題はどのように前者から後者へ移行するかだと説く。そして、その際の最大の論点が、テクノロジーと人間が融合したのち、「人間と非人間の間にどう線引きをするか」にあるというのだ。うーん、面白い。

 さて、拙ブログと重なっている二本の文脈を確認したところで、身体認知科学の世界的権威であるアンディ・クラークの出世作となった論文を確認しておこう。

どこで心が終わり,残りの世界が始まるのだろうか.この問いは二つの標準的答えを呼ぶ.ある者は皮膚と頭蓋骨での線引きを受け入れ,そして身体の外が心の外であると述べる.他の人々は,われわれの言葉の意味は「頭の中にない (just ain't in the head)」という論証に影響され,この意味の外在主義は心に関しても持ち込まれると考える.われわれは大きく異なった種類の外在主義を主張する.それは能動的外在主義 active externalism であり,認知活動が行われる際の環境の能動的役割に基礎を置くものである.

The Extended Mind 

 クラークの論文そのものより、その認知科学の成果を踏まえて、さらに文化人類学宇宙論を掛け合わせた論文のレジュメが面白そうだ。

(1)心(感情と思考)の過程
人類個体の脳もしくは身体の内部に閉じ込まれているわけではなく、様々な道具や協働する人々、改変された環境を巻き込む人間と非人間(モノ)のハイブリッドなサーキット(回路)として成立する。

http://www.cspace.sakura.ne.jp/firstsite/wp-content/uploads/2013/07/omura20130609_02.pdf

 この部分の「ハイブリッドなサーキット(回路)」という言い方が決まっている。人とモノのように異種であっても、道具のように人がモノを使えば、そこに双方向の交流回路が開くとクラークは主張している。論文の日本語版レジュメには明記されていないが、概略を確認しただけでわかるのは、アンディ・クラークが大西洋を越えてメルロ=ポンティの影響を受けているということだ。 

現れる存在―脳と身体と世界の再統合

現れる存在―脳と身体と世界の再統合

 

 検索をかけると、日本語では一件だけヒットした。ビンゴだ。上の未読書では、アンディ・クラークがハイデガーメルロ=ポンティを比較しているらしい。

 「世界」と「私」は手袋の生地のようなわずかな接触面を媒介に、相互に触れあっているということだ。

 

 

 

 

 

(書きかけです。夜中はストレスと睡眠不足で全然書けませんでした。6:35、朝食を食べに帰ります)