キャラメリゼをノックするスプーン主導軸

びっくりするような電話がさっき会社にかかってきた。こんな会話になってしまった。

「もしもし、そちらファイト・クラブですか?」

「いいえ。ちがいます。うちはファイト・クラブではありません」

「いえ、訊いているのは、あなたがファイト・クラブなのかどうかです」

「?」

「あなたがファイト・クラブなのかどうか、今晩はっきりさせてください!」 

 そういうなり、電話は切れてしまった。個人ひとりが「ファイト・クラブ」だなんてことがありうるのだろうか。クラブ会員一名なら、誰と喧嘩するのだろう?

最近めっきり春めいてきたせいで、不思議な電話がかかってくることが多くなったような気がする。でも、穏やかな季節は嫌いじゃないので、すべては春のせいにして、やり過ごしてしまおう。

自分はほとんど喧嘩に縁のない人間だと思っていた。上の記事の冒頭で、高校時代に喧嘩に巻き込まれたことを書いた。もちろん、殴り合いがあろうがあるまいが、喧嘩は嫌いだし、進んであんな蛮行に夢中になる種族の気がしれないと、今でも思う。

ただ、処女作にだけあるリリシズムと詩情が感じられたので、とんだ暴力小説ではあるものの、読み通してみた小説がある。電話の主が告げた『ファイト・クラブ』だ。

『セブン』のデヴィッド・フィンチャー監督で映画化もされたが、『セブン』自体が脚本家志望が最初に思いつきそうな「予言の自己成就物」(有名なのは「オイディプス神話」)だったせいで、あまり楽しめなかった。『ファイトクラブ』は、たぶん映画は見ていないはず。ただし、ブラッド・ピットは嫌いではない。

喧嘩専門の地下秘密クラブを作ってしまう男たちは、間違いなくテストステロンの値が高い。テストステロンは男性ホルモンの代表選手だが、「性」だけでなく、運動能力や手先の器用さや社交性や暴力性にも大きくプラスの働きをしている。

中でも、暴力的な言動や規則違反を好む男性は、ほぼ例外なくテストステロン値が高いのだそうだ。刑務所の中で幅を利かせるのはいつもそういう種類の男で、アクション映画には、掃いて捨てるほどうじゃうじゃ登場する。 

テストステロン―愛と暴力のホルモン

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そんななかで、意外な新鮮さがあったのが、伊坂幸太郎が原作の『ゴールデン・スランバー』だった。

昨日見た『Sweet Rain 死神の精度』は、実際に見てみると三話オムニバスで、一話目はお気に入りだったものの、伊坂幸太郎の「ハリウッド越え」レベルの伏線操作が発揮されていない憾みがあった。

ところが『ゴールデン・スランバー』は凄い。今朝観たのを合わせると、三回見たことになる。冷静に見られる時間帯が多くはなったが、完璧なシナリオであるとの印象は変わらない。凄い才能なのではないだろうか。

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仙台一帯をほぼ完全封鎖しての大捕り物なのに、主人公はなぜか大学時代の食べ物系サークルで唯一習得した「大外刈り」しか使えない。 アクションとしての見せ場は、ふてぶてしい笑顔の凄腕狙撃手と残虐なナイフ使いの少年通り魔との対決くらいだろうか。

実は、アクション場面は、主人公がその殺陣に参加しないと、観客は、あたかも自分が闘っているような身体の拡張感を得られない。アクション好きはおそらくこの映画を好きではない。それでもかまわないとばかりに、『ゴールデン・スランバー』はアクションに秋波を送らず、柔和な笑顔の主人公による泥臭い逃走劇を描いていく。その潔さが心地良い。

「何があったか」の過去に謎があるのがミステリー、「何が起こるのか」という未来に謎があるのがサスペンス。この映画にあまり納得がいかない観客は、ミステリーを期待していたのに、サスペンスを見せられたことに対して違和感を語っているようだ。

しかし、それは注文違いというもの。あまり印象に残らなかったハリソン・フォード主演の『逃亡者』より、極上のサスペンス映画に仕上がっていると思う。

おそらく伊坂幸太郎は、若者だけにある共生感や仲間意識に、強く反応する作家なのだろう。映画では、そのような若い時代の共生意識の幸福が、映画名通り「黄金のまどろみ」と呼ばれている。

ベースにあるのは、「若き日々を共有した仲間との『信頼』はいつまでも消えない」という主題のようだ。若き日々に共有していた小道具(棄てられた廃車、ビートルズを聴いていたウォークマン、花火屋でバイトした思い出など)が縦横に活躍して展開を作り、若き日々の仲間は、両親も含めて、「主人公が真犯人ではない」と信頼して、窮地を救おうとしてくれる。生き延びた主人公が、最後に生存証明代わりに、その仲間たちへささやかな返礼をする。

この中心主題がサスペンスっぽくないところが、またユニークで素晴らしいのだ。邦画によくあるベタベタの青春ドラマに比べると、抜きんでた技術が駆使された出色の映画だと思う。

ちらりと今日覗いた「ミステリー小説の書き方」のような本では、上記のミステリーとサスペンスはすっかり混同されていた。自分が若い頃にその知識を得たのは、スパパパパンな方の著作からだったと思う。 明快すぎる分類法だと思うが、いかがだろうか。

名刀中条スパパパパン!!!

名刀中条スパパパパン!!!

 

自分はかなりのエモーショナル志向なので、サスペンスとミステリーでは、ミステリーに寄りがち。しかも、その過去に刻まれた謎や特異点に、誰かの感情がこもっているのが好みだ。

これを話すと「信じられない」とよく笑われる話がひとつある。体調が良い時の自分は、全国チェーンの新古書店へ行くと、捨てられた本やCDが微かに醸し出す厭な感じがわかることがあるのだ。証明が難しいことを承知で、物を使った人の思いや使われたものの思いが、物自体に残留思念として残ることがあるとする説を、自分は直感的に信じている。

そういえば、こんな逸話も。少し前に、ある若い女性に「いま悪い虫が寄ってきそうなオーラが出ているよ」と話したら、こんな答えが返ってきた。

そうなんです。昨晩、変な人にドリンクに睡眠薬を入れられたところなんです。まだ眠くて……。

 どうやら、最近の自分は、人や物の持っている情動に、かなり敏感になってきているようなのだ。

 昨晩の記事でも、自分がエモーショナルな何かを希求しているのが、自分で読み返してもよくわかる。それは、手を使った皮膚接触や、情念の温かみの共有だったりするのだろう。

そのせいもあって、最近は残酷なプロットがほとんど思い浮かばないようになってしまった。やばい裏稼業のチーマーに囲まれてしまった場合でも、主人公が受ける制裁はこんな甘っちょろいものしか思い浮かばない。

いま思い浮かんだのも、こんなにも甘い制裁場面だ。

チンピラ:おい、てめえ、そんなにこの世界を舐めているんなら、バーナーで焼きを入れるぜ!

(と、ガスバーナーのに点火して、青い炎を暗闇で振り回す)

主人公:申し訳ありません。バーナーの炎だけは勘弁してください。

チンピラ:甘えたこと言ってんじゃねえよ! どこのチーマーが、甘い汁だけ舐めさせてやったりするんだよ!

主人公:甘いもの好きで、甘えたことばかり言って、すみません。でも、その制裁だけは耐えられそうにありません。許してください。

チンピラ:おいおい、さっきの威勢はどこへ行った? てめえ、制裁メニューに焼きを入れるぞ!

主人公:もう、いい加減にしてください! 焼きを入れるより柔らかい方が好きなんです!

チンピラ:制裁を受ける側が注文を付けるんじゃねえよ。このバーナーの炎で焼きを入れてやらあ! キャラメリゼしてやらあ!

主人公:嗚呼! ぼくのプリンがバーナーで焼かれてしまう! 熱い、熱いよ!

 プリン好きの主人公のプリンに、チンピラが制裁として、カラメルソース部分に炎をあててあげる場面。キャラメリゼを知っているだけでなく、わざわざ触感を楽しめる上等の加工までしてあげるのだから、甘すぎる制裁だと言えるだろう。

話がとめどもなくソレルス、まったく栗鼠ってば、とフランスの70年代の知識界に君臨したカップル名を書きつけたところで、話を元に戻したい。

まずは「情念」を中心に置いて、周囲からミステリーとサスペンスとを伴って、その核心へと迫るような映画をぜひとも見てみたい。そんな気がしてならない。

しかし、ここ最近ハリウッドの一流人気映画をチェックして、少なからず失望してしまったところだ。

たぶん自分の見たい映画を誰も書いていないからこそ、自分が書く価値があるのだろう。ないから書けるのだから、ないことは幸運だ。

そこで今晩は完全に構想未定の映画シナリオを基礎づける知見が、学問分野のどこかにないかどうかを探ってみたい。「物語療法」を検索語にすると、欲しい本が見つからなかった。

かつて書いた記事のお浚いから始めようか。これも『ファイトクラブ』と同じく90年代のアメリカの小説。 

ジェネレーションX―加速された文化のための物語たち (角川文庫)

ジェネレーションX―加速された文化のための物語たち (角川文庫)

 

 ところが、鳥たちを眼から払いのけるアーロの動作が、敵の銃火を引き寄せてしまった。二人は攻撃を受けた。そのとき、弾丸が一発カーティスの股間にはいり、別の弾丸がアーロの心臓にはいって、即死させたの。(…)翌日、カーティスは負傷にもめげずに掃討隊に加わって、戦闘地点に戻って死体を集めてバッグに入れたの。ところが、アーロの死体を見つけたとき、みんな、毎日のように死体を集めている人間にしては、肝をつぶしちゃったんだって。銃創のせいじゃなく(見慣れたものだからね)、遺骸に加えられた恐ろしい冒瀆のせいー―アーロの瞳の青い部分が白眼から剥がされていたんだって。

「blue」で吹き寄せて書いたこの記事の上記引用部分には、自分の好きな細部がつづいている。 

『あのなあ、お人形ちゃん。ときには、ひどく莫迦になって、ちょっととおすぎるところまで海に泳ぎ出してしまうと、岸まで泳ぎ戻る体力がなくなってしまうだろ。そうなると、鳥が人間を莫迦にするんだ、遠いところで浮かんでいるだけだと。二度と戻れない陸地のことを、鳥は想い出させるだけなんだ。でも、いつか近いうちに、いつとは言えないけど、ああいうハチドリが素早く飛んできて、おれの青い眼に突進してくる。そうなったら、おれは』
 でも、どうするつもりか教えてはくれなかった。そういう気もなかったろうし、当人は代わりに意識を失っちゃった。そのころには真夜中になっていたはずで、あたしは独り、カーティスの、気の毒に戦闘の傷痕だらけの体を、誕生日用の蝋燭の照明で見つめていた。あたしにしてあげられることを、何か、何でもいいから考えようとしても、アイディアはひとつしか浮かばなかった。自分の胸をカーティスの胸に重ねて、額にキスしてあげて、汽車やダイスやクチナシや割れたハートという刺青をつかんで、体を支える。そうして、自分の魂の中味を、カーティスの魂に注ぎこもうとしたの。あたしの力があたしの魂が白いレーザー光線となって、あたしの心臓からカーティスのへ流れこむのを想像した。ちょうど、ガラスのワイアを流れる光のパルスが、一秒で月まで百万冊もの本を送れるっていうのと同じように。この光線はカーティスの胸を、スチール板を切る光線みたく、切り裂いていくの。カーティスには、そういう力が明らかに足りなくなっているんだけど、その力を受け取ろうと捨てようと勝手。でも、あたしは余力として、そういう力をもってほしかった。あの人のためなら、命だって捧げただろうけど、その晩、あたしに寄付できたのは、残っているかぎりの若さだけ。後悔せずに。 

 どこかの中央アメリカでの戦争に傭兵として参加したカーティスは、一種の傷痍軍人として、身体にも心にも深い傷を抱えている。帰還後に満足に社会復帰できない兵士たちは、かなり多く存在したらしい。精神的外傷だけでなく、従軍中に接触した劣化ウラン弾や服用させられた予防薬の影響もあったらしいことは、この記事に少しだけ書いた。

湾岸戦争幼児たちが、あのような欠損を抱えた生を享けたのは、劣化ウラン弾のせいだと言われている。同じ劣化ウラン弾を使ったイラク戦争でも、帰還兵士の子供が同じ症状を持って生まれた。

湾岸戦争終結から約30年後、謎の病気が何の原因によるのか、暫定的な結論が出たようだ。

 湾岸戦争に従軍した人の26~32%が、記憶障害、不眠症、筋肉・関節痛、倦怠感、ほてり、呼吸障害などの慢性的な症状を訴えている。論文は、これらの症例の原因が化学物質だけとは言えないものの、一部あるいは相当数が化学物質により引き起こされた可能性があると結論づけた。

そのような復員軍人たちは、同じ境遇の人々が集まる自助グループに参加して、精神的回復を遂げることが多い。

今や日本でも、多種多様な自助グループが活動している。元々は、アメリカが起源で、90年代にその数を伸ばしてきた印象がある。実は、男たちが喧嘩三昧の日々を送る『ファイトクラブ』にも、数々の自助グループは登場する。

主人公は、自らはその病気でもないのに、詐病してさまざまな自助グループを渡り歩き、口から出まかせを言って、本物の患者たちと慰め合うのが好きという悪趣味の持ち主なのだ。

自助グループには、もちろん復員軍人のグループも含まれている。ベトナム戦争にせよ、湾岸戦争にせよ、あの戦闘の中で生き延びた者にしかわからない苦悩と痛みがあるのにちがいない。

復員軍人の精神的外傷を大きく軽減する治療アプローチとしては、フラッディング法が有名だ。フラッディング法とは、傷痍軍人の精神的外傷体験を、治療家と一緒になって再現することで、その恐怖の克服を目指す行動療法だ。患者はかなり強烈な衝撃を再体験するので、事前にリラクゼーション・テクニックを習得したり、安全な人間関係と安全な空間を保証したりしておく必要がある。

 フラッディング法は、まず治療家と一緒になって精神的外傷を物語化する。次に、その「物語」を、同病の患者たちの前で発表するという手順だ。

フラッディング法の治療家は、 精神的外傷を物語化するときに、必ず以下の四つを物語に織り込む。この四つに、自分の目は引きつけられてしまった。

  1. 文脈(コンテクスト)
  2. 事実(ファクト)
  3. 感情(エモーション)
  4. 意味(ミーニング)

この治療にの全過程を修了すると、患者たちは精神的外傷の侵入症候群と過覚醒症状とが劇的に改善したという。

 ここでいったん立ち止まって考えたいのは、なぜ物語を作って発表すると、精神的外傷が緩和されるのか、という問題だ。進化心理学的に言うと、人は恐怖と苦痛を緩和するために書き、同じ目的のために快感を感じる身体に進化したとまとめられそうだ。

数日目のこの記事では、こう書いた。

 つまり、恋愛の高揚感も、言語的自己表現も、恋愛映画のような言語的体験によって、脚本家当人の苦痛と観客の苦痛とを緩和したり、別の快感に置き換えることに、原初的な出発点があったということだ。その表現上の出発点に自分が敏感だからこそ、脚本家の優秀さだけを顕示するような高度に複雑なシナリオに、自分が乗れないのだと思う。

 

作家の存在理由(レゾン・デ-トル)とは何なのか? なぜ人は表現するのか?

 

言葉で表現することの核心には 進化心理学的かつ本能的な、自分や周囲の人々を、苦痛から解放し、喜びを増やそうとする感情と絡むレゾン・デートルがあったのである。 

もちろん、復員軍人の精神的外傷の治療と、映画のシナリオは異なる。しかし、ホラー映画のように、恐怖の感情を再体験しながら、元々あった恐怖感情を緩和調整する作品ジャンルもある。フラッディング法で示された「文脈、事実、感情、意味」の四つを、映画の中に織り込みながら、鑑賞前と鑑賞後の間に、観客の心に刻まれているストレスや傷を緩和する映画シナリオはありうると自分は考えている。

おそらく、それが自分が一番書きたい恋愛小説の基調なのだろう。

ところで、フラッディング法で精神的外傷を治療した傷病軍人たちは、次の段階として、社会的引きこもりから脱するために、社会へと向かうことだろう。

 自分を苦しめている精神的外傷は物語化して対象化できたので、次はそのトラウマに対して、克服しようとする意欲を持つことから始まる。誰でも苦しみを克服したいことだろう。では、克服するために、最初に何をすればよいのか?

いろいろと調べてみると、ここで自分で自分にイニシアチブを持たせることが来るらしい。

確かに、私は私自身の持ち主だ。

 実は「自己主導権の回復」とは、最近自分が知人友人から盛んに勧められてきた助言だ。まさか、こんなところで再会するとは。幸運なことに、自分にフラッシュバックするような精神的外傷はないものの、被害者がトラウマや心の傷に自身を占領されているという被支配感を持っていることは想像がつく。それを振り払って、自分の愛する自分の側面をいくつも引き出して、さらに「なりたい自分になる」ことを目指すのが、精神的外傷からの回復過程だというのだ。

 そして、自己実現を目指し始めた患者は、次に社会参加をし始める。社会参加の形態は、先に言及した自助グループや友人や交際相手などいろいろ。アイデンティティとインティマシー(親密さ)の両方が顕著に表れてくるため、患者の回復過程は、まるで青春時代を過ごしているかのようになることも多いらしい。

社会参加がうまく機能し始めると、患者はとうとう患者の社会的立場を超越してしまう。全員ではないものの、その少数が、自分の被った精神的外傷から社会的意味を引き出して、自分が生きていることの使命感に目覚めるのである。

精神的外傷からの回復過程は、以下のようにまとめられるようだ。

トラウマの物語化と発表→自尊感情の回復→自己実現の願望→共同体への社会参加→使命感の覚醒 

このプロセスも、一連の物語類型として、大変興味深い。精神的外傷を心に隠蔽してきた少年や少女が、セルフストーリーを語り、再び輝きを取り戻していくプロセスも、小説の筋としてとても魅力的だ。

「文脈、事実、感情、意味」の四つを織り込むだけでなく、広い意味でのストレスの比喩として、精神的外傷からの回復物語が力を持つことはありそうだ。暴力や傷や苦しみを描きつつも、鑑賞前と鑑賞後の間に、観客の心をどのように明るく軽く変えられるか。そんな問いも、小説や映画の作り手のはしくれとして、心にしっかりと刻んでおきたい。

いつもなら、ここで電話がかかってくるところだ。冒頭と同じく「あなたがファイト・クラブなのかどうか、今晩はっきりさせてください!」などと、電話口の誰かが怒鳴りつけてきてもいいタイミングなのだ。

おかしいな。うまくまとめる展開がどうして訪れないのだろう。それは… 正直に言うと、途中で執筆の方針が変わってしまったからだ。

本当なら、「ファイトクラブ」も「背徳ラブ」も同時に否定した上で、プリン好きにもまさる「プリン制裁」(≒プリンセス愛)のバーナーの熱さについて、情熱豊かに語るつもりだった。しかし、プリンのカラメルソース部分にあてた青い炎があまりにも熱すぎて、キャラメリゼの甘くて固い壁ができてしまったようだ。

どこかから、「きみにはあのキャラは無理だぜ」だとか、囃し立てられている気もするが、プリンの表層をキャラメリゼした甘い壁はすでに固くなっている。少なくとも、自分にスプーン主導の軸が曲がらず確立されていると胸を張れるまでの間は、どこかの哲学者が言ったように、こう締め括るべきだろう。

語りえないことには、沈黙しなければならない。