リオ・デ・ジャナイ色

これから何を書こうか。そう呟いたら、誰かが脳裡で「それから?」と答えた。

それから?

  それから、どうすれば良いのだろう。「それから?」の前がわからないと、「それから?」どうすれば良いのか分かるはずもない。相変わらず、難問に次ぐ難問だ。

 けれど、視点を変えてみれば無理解が氷解することもある。そうか、わかった。夏目漱石の三部作『三四郎』『それから』『門』のうち、『それから』の前、つまりは『三四郎』を読めということなのだろう。

上記ミラノの「サンシーロ」スタジアム)

(…)野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に捨てた。やがて先生とともにほかの絵の評に取りかかる。与次郎だけが三四郎のそばへ来た。
「どうだ森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃ、なんとすればよいんだ」
 三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)と繰り返した。

夏目漱石 三四郎

これまでどの漱石研究も言及してこなかったことだが、名高い『三四郎』のラストシーンに出てくる「迷える子羊」が、フジテレビの人気キャラクターが元ネタなのは間違いないように思われる。朝日新聞の社員でありながら、フジサンケイグループから奔放な引用をやってのけるところが、いかにも神経質で癇癪持ちの高等遊民らしい。

三四郎』のラストシーンで、ヒロインの美禰子をモデルにした「森の女」という画題に、三四郎はケチをつけている。

というのも、美禰子と初めて会ったのは池の端。水と陸が鬩ぎ合っている場所。美禰子は常に水の危うさと結びついている。その危うさのただなかに、「迷える子羊(ストレイ・シープ)」が登場する。

 三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘ぬかるみがあった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。
「おつかまりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄げたをよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷える子(ストレイ・シープ)」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸(いき)を感ずることができた。

ヒロインの「美禰子」は旧字の「禰」をどう読むべきか、一瞬迷ってしまう。正確には、山口県「美祢」市と同じく「ミネ」と読むのが正しいが、「ミヤコ」と誤読する人もいそうだし、「ミャャアコ」と誤読する人だって世界に一人はいるのではないだろうか。

それから?

 それから、どうしたらよいのだろう。考え込んでいると、ふと脳裡で誰かがこう囁くのが聞こえた。

Stray Dazyarer…

 「迷える駄洒落好き」。今晩も駄洒落ながら、あわよくば小洒落て、好きなことを語り飛ばせということなのだろう。

目下、自分が夢中になれることがあるとしたら、ついさっき思いついた「ミャャアコ」 と遭遇したときの想定問答集づくりだろう。三四郎はどうも内気すぎる文学青年に見えるので、好敵手としてぜひとも名乗りをあげたい気分だ。

想定問答集を作るなら、その問いは、会話になる確率の高い一般的な問いでなければならない。

好きな色は何?

自分が答えるなら「黒とゴールドとワインレッド」とか、相手が答えるなら「ピンク、白、赤」とかいうことになるのだろうが、それでは会話が数秒で終わってしまう。

こういう凡庸な質問に対して、センス良くリベラルアーツを引用しながら、最終的に相手への思いを織り込んで、会話に花を咲かせると、今週末の桜は満開になるのではないだろうか。

「好きな色は何?」

「今は違うけれど、20代半ば頃、青が大好きで大好きでたまらなかった時期があるんだ」

 「青?」

「青。カーテンも時計の文字盤もベッドスプレッドもすべて青。ピカソにも『青の時代』があったのを知っている? ピカソの場合は、親友の失恋自殺が引き金で『青の時代』がやってきたというわけ」

「あなたも失恋したせいで青が好きになったの?」

「どうだったかな。忘れたよ。何ていうか、好きな女性の前で昔の女の話をする男って、最低だと思うんだ。叱られて当然だよ」

「あ、ごめんなさい! 思わず、足を踏んじゃったみたい」

「本当だ。踏まれちゃったみたい! 大丈夫。全然痛くなかった。麻酔が効いているから」

「今は?」

「今?」

「いま好きなのは何色なの?」

「青を数年で卒業してからは、黒をよく選ぶけれど… こうしてきみと話せるのなら、全然違う色を選んでみたいと思っているんだ。今まで一緒に暮らしてきた青や黒とは正反対の色……」

「青や黒の正反対? 赤や黄色?」

「違う。あててみて。これまで日本で暮らしてきた生活圏とは、真逆の色。サンバのリズムが響いて踊り出したくなるような…」

「ブラジルのカナリア・イエロー?」

「惜しい! 地球儀で日本の真逆にある色だよ」

「わかった! リオ・デ・ジャネイロ!」 

 そんな他愛のない会話で、ひとしきり笑ったあと、彼女は密やかにこう囁くに違いない。

「Stray Dazyarer…」

嗚呼、何と言うことだろう。ダジャラーは悲しい。国境を越えて言語が変わった時点で、完全にアイデンティティを喪失してしまうからだ。だらしなさと見誤られやすい切ないデラシネさ。

国内で会話するなら、せめてもう少しましな駄洒落を小粋に響かせたいものだ。「リオ・デ・ジャネイロ!」を越えるか、それに代わる名作を、この記事が終わるまでにぜひとも考えてみたい。 

Kind of Blue

Kind of Blue

 

ブルーの話の続きを話そう。

ジャズ好きなら誰もが耳にしたことのあるこの名盤が、どうして「Kind of Blue」(ある種のブルー)と題されたかを知っている人は少ない。

それまでのマイルスは、アルバム中のメインの楽曲名をアルバム名にすることが多かった。「Kind of Blue」はアルバム全体に漂っているセンチメント、つまりは「物憂いブルーな感情」を表現している。さらに言えば、収録曲「オール・ブルース」のように、ブルース形式の曲がアルバムを代表していることも、その理由のひとつだろう。

当時のマイルスは自伝の執筆に取り組んでいたせいで、子供時代の自らのルーツを何度も反芻していた。幼少時に教会で出会った無名のゴスペル・シンガーの老女の歌について、誰彼かまわず語っていたという。「Kind of Blue」(ある種のブルー)が、その無名の黒人の老女や、無数の黒人たちの境遇や歴史を表しているという解釈は、かなり有力だ。

それを知ってからというもの、「Kind of Blue」を聴くたびに、自分はどことなく憂愁のブルーな色彩をジャズから感じるようになった。

 このような例は連想作用が後天的に固まったものなので、共感覚のうちには入らないかもしれない。世には少なくとも2000人に1人以上の割合で、例えば「言葉で色を感じる」共感覚の持ち主がいる。 

共感覚―もっとも奇妙な知覚世界

共感覚―もっとも奇妙な知覚世界

 

 共感覚と聞いて、誰もが最初に思い浮かべるのが、ランボーの有名な詩句だ。

A は黒、E は白、 I は赤、U は緑、O はブルー

母音たちよ、何時の日か汝らの出生の秘密を語ろう
A は黒いコルセット、悪臭に誘われて飛び回る
銀蝿が群がって毛むくじゃら そのさまは深淵の入江のようだ

E は靄と天幕の爛漫さ、とがった氷の槍
白衣の王者、震えるオンベルの花
I は緋色、吐いた血の色、怒り或は陶酔のうちに 
改悛する人の美しい唇の笑み

U は周期、碧の海の高貴な脈動
獣の休らう牧場の平和 錬金術師の
学究の額にきざまれた皴の平和

O は至高のラッパ 甲高く奇しき響き
地上と天空を貫く沈黙
あの目の紫色の光 おお、オメガよ! 

 

母音の色(ランボーの詩に寄せて)

 上記の書物では、感覚が混交した松尾芭蕉の俳句も、例に挙がっている。

鐘消えて花の香は撞く夕哉

(かねきえて はなのかはつく ゆうべかな)

有難や雪をかほらす南谷

(ありがたや ゆきをかおらす みなみだに)

 共感覚は、芸術家たちが自らの感覚的連結力を示すために語っている綺想ではない。「この言葉には、この色」という具合に、生得的な「1対1対応」が生涯のあいだ続く。共感覚は家系で優性遺伝し、圧倒的に女性に多く、男児に遺伝した場合は一定程度の致死性があることが、研究によって判明している。

ロリータ・コンプレックス」の生みの親である点以外に、作家としての偉大さがあるナボコフは、遺伝的に受け継いだ自らの共感覚について、こう語っている。

 色聴(coloured hearing)について詳述してみよう。おそらく「聞こえる(hearing)」というのはあまり正確ではない。というのは、色の感覚は、ある文字が与えられてその輪郭を思い浮かべながら、それを発音する口形を作る。まさにその行為によって、生成されているように思われるのだ。英語のアルファベットの長母音の a (…)は乾燥した木の色合いなのだが、フランス語の a は磨いた黒檀である。(…)

このような共感覚を持つ被験者は、目隠しされていても、単語を聞くと同時に、脳の色を処理する部位の血流が増大することが分かっている。 最新の脳科学をもってしても、いまだに脳は巨大なブラックボックスなので、共感覚の発生機序はよくわかっていない。

けれど、色聴(聴覚と視覚の融合)に代表されるような共感覚の交じり合いは、とても稀有な感覚体験のように思われる。人の感覚においても、人と人のつながりにおいても、異種混交から生み出されるものはかならずある。一人の人だって、一人ではなく二人かもしれない。

私はいま「キメラ」の話をしている。「キメラ」とは、「キメイラ」または「カイメラ」とも表記される怪物のこと。

テューポーンとエキドナの娘であり、ライオンの頭と山羊の胴体と毒蛇の尻尾を持つとされる。

そこから転じて、二つ以上の個体の遺伝子を持ち、異なる特性を発現する異種混交体を指すようになった。この女性の肌の色の違いは、日焼け止めクリームの使用前と使用後を示しているわけではない。

双子はしばしば、分ち難い絆で結ばれる。しかしテイラーの場合、彼女と二卵性双生児のきょうだいは、ひとりの人間になっているのだ。非常に珍しい遺伝学的事象が発生し、テイラーさんは子宮のなかで、二卵性双生児のきょうだいと融合した。そしてその結果、彼女は2セットのDNAを持つことになった。自分自身ときょうだいのDNAを1セットずつだ。この珍しい現象は「キメラ」と呼ばれている。

彼女のような人体のキメラはともかく、多様性や包摂性の高い組織は、ある分野がしぼんでも、ある分野が花開き、といった具合で、生き残り可能性が大きく高まるとされている。キメラ組織でなければ、人口減少時代の人材確保と組織マネジメントは不可能かもしれない。

もう一つダイバーシティーで重要なのは、多様性という概念がオーナス期の企業の組織マネジメントに深く関わっているという側面だ。結論を先に書けば、「ダイバーシティー・アンド・インクルージョン」が胆になってきている。

 インクルージョンとは「包含」の意だが、多様性や異質性を認め合うのにとどまらず、多様性や異質性のマネジメントを通じて組織としての成果を生み出す手法の確立へと踏み込まなくてはならない。 

このような多様性や包摂性の尊重を、自分個人に返してみて面白い。あれもできれば、これもできる。あれができなくなっても、新たにこれができるようになればいい。そんな風に、自らの異質性を包摂し、自らを虹色の多様性の中で変容させていくキメラ的生き方は、直感的に言って、きっと楽しいのではないだろうか。

というわけで、 色の話の想定問答に文脈は戻る。

「今は?」

「今?」

「いま好きなのは何色なの?」

「いろいろある」

「じゃあ、数えていこうか。赤、青、緑…」

「待って、待って。『質より量デ』ジャナイダロ。そう思っている。ひとことでは言いにくいな。状況次第で、次々に変わっていくキメラ色だから」

「虹色っていうこと?」

「惜しい。虹色に似た『キミイロ』さ」