メディア・アートの先往きは怖いが…
「いよいよだ」と誰かが呟いた。
「いよいよ?」
「いよいよいよいよいよい…」
「酔い」とも「伊予」とも聞き取れる。「酔い」にかまけて何やら夢中の男が伊予にいるのか、それとも何かがいよいよなのか。「いよいよい…」の答えは、宵の闇に紛れて行方不明のままだ。酔い覚ましに… と書いたところで、目が醒めた。夢だった。
自分の夢を録画できるなら、ぜひとももう一度見たい。夢を録画するメディア・アートを、誰か創ってくれないだろうか。
その昔、メディア・アートに凝っていた頃、東京の初台にあるICCによく遊びに行った。外苑西通り沿いのワタリウム美術館も、メディア・アートには強かったと思う。
別名キラー通り周辺で信号待ちをしていると、日曜日の午前中には、式場へ移動中の花婿花嫁が信号を渡るのに遭遇することもあった。私がクラクションを鳴らして祝福を送ると、周囲の車もそれに続いた。花婿は羞かしさをごまかそうとする速足で、花嫁を引っ張っていった。二人身体を寄せて、祝福の車列に笑顔を返すくらいの余裕があっても良かったのに。
といっても、それも20年くらい前の話。封建的で捌けていない男どもが多かった時代の話だ。
メディア・アートの世界ほど、流行り廃りの激しい芸術界はない。追いかけ疲れて放ったらかしにしていたので、今日図書館で見直していたら、のめり込むように引き込まれてしまった。
http://piotrkowalski.com/2016/06/13/dressage-dun-cone-67/
この写真は、ピョートル・コワルフスキーというポーランドのアーティスト。マサチューセッツ工科大学のCAVS出身で、電子工学的な作品から、建築構造を使った作品まで、作風が広すぎてつかみどころのないアーティストだ。
MIT Center for Advanced Visual Studies Special Collection
上記の写真は、ワンホールサイズの芝生を並べたのではなく、永久回転する円盤上に、時間差を置いて蒔かれた芝生が、遠心力のせいで重力方向が変わり、円錐形をつくっていく様子を時系列に沿って鑑賞できる作品。パリのポンピドゥー・センターに展示された。
作家が手を入れて造型するのではなく、特定の条件を与えて現象が生起さえるアートをフェノメナ・アート(現象芸術)という。お気に入りの演説サイトのTEDでも、フェノメナ・アートの可能性が雄弁に語られている。日本語字幕も出て、わずか4分半。観てみるのも一興だと思う。
上で語られているサイマティックスとは、フェノメナ・アートのうち、砂や水に音の周波数をあてて、周波数ごとに固有の形を現出させること。下のMTV的な紹介動画も格好いい。
TEDの主張の中で重要なのは、3:16からの数十秒だ。
サイマティックスを通じて、別世界の自然を見ることもできます。
そして実際に典型的な形の自然を再構築することもできます。
例えば、左に見られるような自然に存在する雪の結晶があります。
そして右側では、サイマティックスによって作成された雪の結晶を見ることができます。
これは実際のヒトデで、これはサイマティックスによって作成されたヒトデです。
このようなものがたくさん存在します。
それでは、これらすべては何を意味しているのでしょうか。
(…)
それでも音には実際に形というものが存在する点を考えてみてください。
そして私たちは、音が物質に影響を与え、物質内で形を形成する事実も見ました。
では少々想像を膨らませて、宇宙の形成について考えてみてください。
そして宇宙の形成における莫大な音を想像してみて下さい。
そしてそれらを想像してみると、もしかしたら
サイマティクスが宇宙の形成に影響を与えていたかもしれません。
エヴァン・グラントは、テクノロジーと自然と愛との調和を目指しているテクノロジカル・アーティストのようだ。たぶんサイマティックスとスピリチュアリズムとの関わりについては、あまり知らないのではないだろうか。
TEDの動画でも紹介されているサイマティックスの名付け親であり創始者でもあるハンス・ジェニーは、何と「人智学」のシュタイナー派の自然科学者だったのである。
TEDの演説でスピーカーは「サイマティクスが宇宙の形成に影響を与えていたかもしれない」と力説しているが、「宇宙の形成」という呼び方は、ややミスリードか。それだと「宇宙の誕生(Big Bang)」を想像してしまう。
むしろ、「周波数が自然界のあらゆる事物の形を作っているかもしれない」と考えた方が、はるかにスリリングなのではないだろうか。そして、そのワクワクするような「神の領域」の神秘に、少しずつ科学が分け入りつつある。
《水と音》が分かれば《宇宙すべて》が分かる ウォーター・サウンド・イメージ 生命、物質、意識までも――宇宙万物を象る《クリエイティブ・ミュージック》のすべて
- 作者: アレクサンダー・ラウターヴァッサー,増川いづみ
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(…)訳者の増川いづみは、マサチューセッツ工科大学で量子力学の修士号を取得した経歴の持ち主。進展著しい量子力学が、かつて「疑似科学」と侮蔑されてきたスピリチュアリズムを科学的に裏付け始めていることは、ご存知の通り。
もちろん、バシャールも In Deep とほぼ同じ発言をしている。そこに出てくる未来学者カーツワイルもほぼ同じ主張をしている。
喜多見:カーツワイルは、電子化した脳を、蟻や机等の無機物にも転写・転送できると言っていて、宇宙船の話を聞くと、まさにそういう感じですね。
バシャール:そうですね、ある程度は似ています。(…)
すべてのものは別々のもののように見えますが、同じものを違う観点から見ているだけです。だからカーツワイル氏の言うようなことが機能するわけです。
電送とか転写、トランスファーではなく、「同じ周波数で振動して同じ体験をしている」のです。
別の言い方をすると、その対象物が「別の観点から見た、あなた自身である」ということが分かるようになります。
あなたは椅子であり、机であり、それらがすべて「あなたの意識の中にある」ということです。すべては、「あなたの意識で創ったもの」です。
BASHAR(バシャール)2017 世界は見えた通りでは、ない バシャールが語る、夢から覚めてありありと見る、世界の「新しい地図」。
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これもメディアアートの領域に入ると思う。SRシステム(代替現実システム)を使ったパフォーミング・アートに、脳科学の未来を感じてしまった。
上記の演劇パフォーマンスになる以前に、SRシステムは実験室で生まれていた。
最初は、同じ実験室の過去映像と現在映像を瞬時に切り替えて、人間が知覚できるかどうかを試す実験だった。被験者は、視覚に電子的ゴーグルを、聴覚にヘッドホンを装着させられる。すると、現在映像を過去映像に切り替えても、ほとんどの被験者は切り替えに気付かなかった。録画放送と今ここにある現実とでは、「リアル感」が違うからすぐに区別できるはず。そう思ったら大間違い。かなり粗い画素数の過去映像を見せられても、誰もいない空間に向かって、簡単な世間話をする被験者が後を絶たなかったのである。
実験を行った脳科学者の藤井直敬は、視覚と聴覚をハックしただけで、被験者が面白いように混乱した様子を伝えている。
と、ここで、まだ記事を書いている途中なのに、これを書いている私のすぐ横を、花婿花嫁が一歩ずつ歩調をそろえて、しずしずと通り過ぎようとした。よく見ると花婿の腕にしがみついている花嫁は、粗悪なつくりの人形だった。
ぼく:(面倒くさいタヌキだなと思いつつ)、バレてるよ、バレてるよ。ひとりで結婚式をやるのって、どんな気分なんだい?
タヌキ:どうしてぼくだとわかったの? 完璧に化かしたと思っていたのに。
ぼく:ぼくの部屋に登場する時点で、まともな花婿花嫁じゃないのは明らかだ。きみ、やっぱり彼女がいないんだね。
タヌキ:いるに決まってるだろ! なんてこと言うんだ。彼女くらい、1ダース以上いるわ! ほら、ここにも一人!(と、手縫いの粗悪なウェディングドレスを着た人形を示す)
ぼく:でも、どんなにきつく人形を抱きしめても、どんなに熱い愛の言葉を囁いても、人形はひとことも喋ってくれない。
すると、タヌキはロックシンガーが自分を両腕で抱きしめるときのようなナルシスティックな仕草をして、目を閉じた。よく見ると、右手の先に、一枚の葉っぱが指に挟まれている。葉っぱを見ると、こう書いてあった。
「心の傷をえぐらないでください」
ぼく:ごめん、きみの彼女の話はしないことにするよ。ところで、今日は何をしに来たの?
タヌキ:SRシステムの現在映像と過去映像は、切り替えるだけでなく、フェードイン、フェードアウトもできるし、重ねて表示することもできる。つまりはいま目の前で生きている人間と、過去の人間とが交流する空間を生み出すことができる。これはすなわち、何に似ていると言えるか? あててみよ。
ぼく:生者と死者が、同じ空間に同時に存在するから……わかった!
タヌキ:(急いで早口で)「能といえるのに(ポンッ!)」
実に早かった。私がクイズに答えそうになったら、それを遮るように、タヌキは自分で即答したのだった。どうしても決め台詞を言いたかったらしい。しかし、SRシステムの実験者である藤井直敬自身が、「脳から能へ」の連想を働かせている。
グラインダーマンのダンサーによるブレンド状態のパフォーマンスを見て、何かに似ていると思いました。
能の舞台です。能の世界では、死者も生者も同じように舞台に現れ、両者の間でインタラクション(相互作用)が行われます。自分が今見ている場面が過去なのか現在なのかも曖昧という点で、能とSRシステムのブレンド状態はよく似ていると思います。
父方の祖父が謡曲の師範であったこと以外に、自分と能の接点はあまりない。ただ、能の舞台の神性をともなった様式美に、初心者として感じ入るところがないではない。能舞台の簡素さは、小劇場演劇の舞台空間の簡素さに通じるところがあるのだ。
井上氏が語るに、「見立て」に限らず、「吹き寄せ」そして「名乗り」を含めた三大技法は、日本の伝統演劇や江戸期小説でしきりに使われ、鍛え抜かれてきた『究極の技法』であるのだそうだ。
「見立て」
たとえば、さっきのようなパラレル遊び(笑) つまり、ものを別物に見立てることによって、異なる時、空間を出現させ、そこで遊ぶこと。
「吹き寄せ」
連想の働きによって関係のありそうな“もの”をなにからなにまでかき集めること。連想の糸でさまざまな可能世界を縫い合わせ、登場人物は自由にその通路を駆け抜けることが可能となる。
「名乗り」
登場人物たちは、ある可能世界では「甲乙丙」と名乗るが、その世界が別のものに変わると「実はABC」と名前を変える。いくつもの可能世界を成立させる為の必須の手段と。
当時、旧世代の演劇人からはほとんど「宇宙語で書かれた戯曲」のように扱われていた野田秀樹の前衛戯曲を、江戸まで遡ってその伝統的骨格を指し示すことができるとは、何という批評眼と教養の持ち主だろう。そうすっかり瞠目してしまったのだ。
当時、旧世代の演劇人からはほとんど「宇宙語で書かれた戯曲」のように扱われていた野田秀樹の前衛戯曲を、江戸まで遡ってその伝統的骨格を指し示すことができるとは、何という批評眼と教養の持ち主だろう。そうすっかり瞠目してしまったのだ。
空間は建て込みのセットをほぼゼロに抽象化しておいて、人や物の配置で何ごとかを表現したかと思うと、その布置はすぐに変形させられて、別の表現が提示される。物の形や使い方から何かを示せば「見立て」、人を別人に見立てれば「名乗り」、シニフィアンを別の文脈に見立てれば「吹き寄せ」へとつながる。これらが舞台上で跳梁跋扈するのには、小劇場の舞台が狭く簡素で抽象化されているという背景がある。
さて、同じ空間に生者と死者が混在する状態を体験できると聞くと、自分はまたしても興味を引かれてしまう。それは、何よりも、現実世界と幽界が混在する世界を生きている私たちの世界に似ているのだ。
そのような死者が存在する世界を、世阿弥の生きた中世には「冥」と言い、近世や近代以降は「幽」と言った。
目下のこの春先、「幽」の世界に最も触れやすい場所は、満開の桜の下かもしれない。
花と死。献花と追悼。全人類的なこの結びつきを、日本に限定すると、「桜の樹の下には屍体が埋まっている」とする梶井基次郎が呼び出されることになる。
桜の花々を仰ぎ見ながら、その美しさを何への追悼と考えて鑑賞すればよいのか、いつの日か千鳥ヶ淵の満開の桜の下で、ひとりゆっくり考えてみたい。
梶井基次郎に絡めて、戦没慰霊碑のある千鳥ヶ淵の桜へ。10か月前に同じことを書いたのも忘れて、今晩の着地点もその辺りかと思っていた。今晩は、メディア・アートが能に似ており、能が小劇場演劇に似ているとぴう文脈を紡いできたので、『贋作・桜の森の満開の下』を呼び出したい。
20年以上前、オンタイムで舞台で観たので、とても懐かしく感じられる。
1:25からの「転がり続けていく」というモチーフは、安吾を最も有名にした『堕落論』が織り込まれているのだろうか。呪術で人々を殺す鬼となりかわる姫を、主人公の耳男は誤って殺してしまう(3:20)。ところが、姫を葬ろうとした満開の桜の下、姫の遺骸は風のように忽然と消えてしまうのだ。舞台上で交錯する「姫ー鬼ー幽霊」を毬谷友子が怪演している。舞台で見たときは、本当に凄かった。
自分が大好きだったのは、8:30から幽霊となった姫の声が聞こえる場面。「行きはよいよい帰りは恐い」という歌が逆立ちして、「これからが帰りはよいよい?」と訊き返す少年っぽい声のうわずりが、忘れられない。
聞こえないはずの姫の声が聞こえて、喜びに胸が湧き立つ感じで、「帰り道」を訊けるなんて、何だか最高のような気がするのだ。自分から訊いてみようか。
帰りはよいよい?