メキシコ湾龍が運んでくる春

今晩は放火魔に出逢った経験について話すので聞いて☆い。ん? この星印が出てきたということは、サン=テグジュペリから話すべきだということだろうか。誰もが知る『星の王子さま』だけでなく、飛行機乗りでもあった彼には『夜間飛行』という代表作もある。 同名の香水もヨーロッパではよく知られている。 

Guerlain 夜間飛行 P 30ml [131255] [並行輸入品]

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飛行機を持っていない自分は、もっぱら「夜間歩行」専門だ。俳諧でこの記事を始めたからといって、「夜間徘徊」だとは言わないでほしい。まだ頭はしっかりしているはず。夜の街を歩き回ったり、樹々が成り騒ぐ夜道を散策したりするのが好きなだけだ。 

どこかで『星の王子さま』のブログ記事を見かけて、涙腺を絞られてしまった。最近、あたかも私の心の琴線を知っている人がたくさんいるかのように、涙腺を絞られる記事に遭遇することが多い。誰も泣かないゴダール映画の一場面で泣くこともあれば、きわめてベタな一節でも泣いてしまうことが多い性格だ。「あなたのお母さんは、今のあなたがどんなあなたでも、生まれてきてくれただけで嬉しいと思っているよ」みたいなのは、ストライクど真ん中なので、術中に嵌まって号泣だ。

今晩はそんなわけで、「星の王子さま」の作者が書いた『夜間飛行』を「夜間歩行」に読み替えつつ、昨晩の「伊予伊予い…」と「姫」の鍵言葉を携えて、自分の散策先だった「姫原」の話をしたい。

卒業した小学校の隣、「姫山小学校」のある校区を「姫原」という。姫の由来は、「軽皇子衣通姫」の伝説から来ている。「衣通姫」とは、その美しさが衣を透き通って沁み出すようだったから名付けられた異称。

上で書いた『熱帯樹』のような三島得意の兄妹相姦ものだという印象は、思い込みだった。古事記日本書紀とでは、「衣通姫伝説」はかなり異なっているようなのだ。その事情を三島由紀夫川端康成宛ての書簡で、こう語っている。川端康成に見出されて短編「煙草」で文壇デビューした翌年の短編だ。この頃が、師弟の距離は最も近かったのではないだろうか。

 古事記では二人は同腹の兄妹になつてをり、伊予で共に死ぬに至るまで簡素で美しく、近親相姧といふ古代のテーマにはうつてつけなのでございますが、日本書紀では姫は父天皇の后の妹で、軽王子の叔母にあたり、天皇の側室になつてをり、それに対する皇后の壮大な嫉妬のテーマ、軽王子が父の恋人と通ずる経緯、ずつと近代的で、スケールも大きくなりますが、軽王子の叛乱といふ大事な筋が失はれ、更に、姫が王子の妹とすると、父天皇と姫との恋愛干係と矛盾し、どちらの記述にたよつたらよいか困惑してをります。つまり記紀どちらにも同程度の魅力があるのでございます。 

決定版 三島由紀夫全集〈16〉短編小説(2)

決定版 三島由紀夫全集〈16〉短編小説(2)

 

いま読み返した。三島由紀夫を読むのは、かなり久々のように感じられる。終戦直後の1946年に書かれたものでありながら、アプレゲールなどどこ吹く風、きわめて反時代的な古代王朝版「ロミオとジュリエット」。19歳で三島由紀夫全集を読破した元少年としては、かなり愉しんでしまったことを告白しなければならない。

王朝物語であるのに、三島得意のアフォリズムが頻出するのが、若書きらしい瑞々しさを感じさせる。例えば、このような一節。

 もはや衣通姫の旅立ちを神の手も止めえないことがわかってゐた。姫の魂は彼地に着いてゐるのに、姫の身がその後を追ふのを誰が止めえよう。

「恋の中のうつろひやすいものは恋ではなく、人が恋ではないと思ってゐるうつろはぬものが実は恋なのではないでせうか」

 

川端康成宛ての書簡で、三島は「古事記」に拠るか、「日本書紀」に拠るかを迷っていると告白している。結論から言うと、「日本書紀」の人間関係を下敷きにしたようだ。三島版「ロミオとジュリエット」はこんなあらすじだ。

皇后の妹の衣通姫があまりにも美しいので、天皇は皇后の相手をせず、衣通姫を愛人として囲う。天皇の二人息子のうち、兄の軽王子も衣通姫に恋をして深い仲になる。

やがて、天皇崩御する。崩御後、権力掌握を狙った弟が、軽王子を伊予の国へ島流しにする。衣通姫は軽王子を追って、伊予の地へ向かい、二人は深く愛し合う。

しかし、軽王子を擁立して政権奪取を狙う地方豪族が、軽王子を夢中にしている衣通姫を排除しようとして、衣通姫に毒薬を服用させる。衣通姫の死を看取った軽王子は、島流し先でも最愛の女性と結ばれなかったことに絶望して、刀を喉に突き立てて絶命する。

さすがは早熟の天才。22歳でここまで書けるのは、見事というほかない。

松山市在住者として衝撃を受けたのが、この一行だった。

軽王子は海のかなたなる伊余の湯へ流された。

島流し先として、「伊予の地」や「伊予の僻地」と書いてあれば、何の違和感も感じない。しかし「湯」とは! 伊予は陸地でも島でもなく「湯舟」だという認識だったのだろうか。

と、さりげなく悲劇の文脈を笑いへとつないだように、最近の自分はかなり悲劇が苦手になってしまった。無類にクールだった頃のディカプリオ主演の『ロミオとジュリエット』は、ひと昔前の自分が大好きだった映画だ。トム・ヨークの陰鬱でエモーショナルな楽曲にずっと浸っていた時期のこと。

 けれど、笑顔の時間がより多くあること以上の幸福は、他に見出しがたい。笑って生きて行けるなら、笑いながら生きていくのも良いのではないだろうか。

というわけで、今晩も『三四郎』の「美禰子」級のヒロインと出逢ったときに備えて、想定問答集に取り組んでみたい。

「休日は何をして過ごしますか?」

 これは頻繁に訊かれる定番の質問なので、ぜひともしっかり傾向と対策を立てておかなくては。うまく笑いにつなげることが大事だ。

美禰子:休日は何をして過ごしますか?

ぼく:ドライブとか、スポーツとか、食べ歩きとか。

美禰子:スポーツは何を? ゴルフですか?

 と、ここで早くもピンチが訪れるわけだ。こういう初対面の話は、話題が広がりやすくなるよう工夫する必要がある。三つ並べて好きな話題を選んでもらったら、自分がいちばん広げにくいスポーツを選び、しかも最初の例がゴルフときた。

ゴルフか。不幸なことに、自分の前半生は休日にも収入にも恵まれなかった。ゴルフなんて一度もやったことがないのだ。普通なら笑ってごまかすところ、相手があの美禰子なら、自分も無理をして何とかゴルフで頑張ってみたくなる。

ぼく:ゴルフって、内側へ、こう、まるくなった海岸線でやるやつのこと?

美禰子:海っていうより、山じゃないですか、ゴルフ場があるのは? 

ぼく:そうだった、そうだった。ぼくが言っていたのは、ガルフだった。

美禰子:Gulf? 「湾」のこと?

ぼく:そう。「湾」。ごめん、間違えちゃった。でも間違えたのも無理はないところがあって、フォルクスワーゲンの Golf はスポーツじゃなくて「湾」を表しているんだ。

美禰子:へぇー。どうして車に「湾」っていう名前が?

ぼく:世界最大のメキシコ湾流のイメージが、ヨーロッパ人の好みに訴えるらしいんだ。好みに訴えると言えば、日本人のドイツ車振興も相当なものだよね。ベンツやBMWアウディーや… 多少がたついたからディーラーにドイツ車をもっていった友人は、「時速200km以上出せば安定しますよ」って言われたらしいよ。

美禰子:日本でそんなにスピードを出せるところって…

ぼく:ほとんどない。パフェなスピード違反だ。

美禰子:パフェ?

ぼく:「パーフェクト」っていう意味のフランス語。そんな猛スピードを出してもいいのは、まっしぐらの恋くらいだよね。たとえば、初対面なのに頬に手を触れようとするような……(と言いながら、彼女の頬に手を触れようとするかのように、手を伸ばしていく)。

美禰子:(自分へ伸びてくる手をパッとつかんで)スピード違反ですよ。

ぼく:やっぱり違反していた?

美禰子:パフェな違反よ!

ぼく:…確かに。甘くてたまらない。 

 完璧な、いやパフェな会話の流れだ。ゴルフ経験ゼロであることを隠しつつ、ストロベリー・トークへうまく誘導しているところが素晴らしい。正直言うと、想定問答集以外の場所でこんな会話をしたことがないが、この流麗な会話のフローなら、実際にありうるかもしれない。

けれど、人生は甘いことばかりではない。ひょっとしたら、会話はこう続くかもしれない。

美禰子:ドライブが好きだったら、それこそゴルフをしに山道を走ったら、とっても気持ち良いですよ。

ぼく:……。 

 困った。この展開だと、ゴルフの話題からはもう逃れられない。自信を喪失して、思わずフリーズしていると、さらに危機的事態に陥ってしまう。

急に言葉が話せなくなったのだ。そのときになってようやく、自分で自分がすっかり人間だと思い込んでいたことに気付く。童話の「人魚姫」と同じく、本当はただの犬コロだった自分は、魔法使いに魔法をかけてもらっていたのだ。ようやく美禰子的ヒロインと話ができるようになったのに、もうこれ以上言葉を話せないのがつらくてたまらない。

自分を人間だと思い込んでいたときにも増して、美禰子がとても美しく見える。いま目の前にある微笑みにもう会えなくなると思ったら、つらくてたまらなくなる。

ぼく:……。 

美禰子:じゃあ、どちらが好きか教えてくださいよ。ゴルフか、湾岸ドライブか。

それに答えたところで、もう言葉が話せないのなら、それ以上話が膨らみそうもない。ゴルフ経験がないことなんて、バレたって全然かまわない気がしてきた。ただ、ずっと話したいと思っていたのに話せないことがつらい。とてもつらくて… それでも、ぼくは万感の思いを込めて、涙目で、こう答えるにちがいない。

湾!

 

 

はっと目が醒めた。夢だった。夢の中で「困った」「困った」と感じていたのは、今晩向けに借りてきた図書館の本が、どれも言及するに足らないものばかりで「困っていた」心理状態を、圧縮して置換することで、夢が解消しようとしていてくれたのだろう。

夢よ、きみを夢見させてくれて、そして、ぼくを目覚めさせてくれて、ありがとう。

春先だから天候が気持ち良い。気分転換に、夜が冷え切らないうちに、「夜間歩行」へ出かけようか。どこへ行こう。

久々にあの場所を訪れてみようか。いや、ぜひとも、今晩訪れたい。

姫、薔薇を。