短編小説「ミュートする白いフェルト生地」

 夜8時を回った頃、閉鎖された小さな予備校のドアを開けた。ひと揃いの机やパソコンや本棚を入れたのは、わずか2年前のこと。壁紙にも、机の天板にも、並んだ椅子にも、まだ真新しい風合いが残っている。
 会社の留守番電話が明滅している。その22件を、今はとても聞く気にはなれなかった。
 ぼくが事務室に入ったのを目敏く見つけた二人の女性が、階段を上がってきた。階下で働くエステティシャンの二人だった。ひとりは施術用の白衣を着ている。ひとりはカーディガンを羽織った受付嬢らしい。
「数日前、急に教室が開かなくなったので助けてほしいって、生徒さんたちが来たんですけれど」
 ぼくは相手に面倒をかけたことを謝った。頭を下げた。
「複雑な事情があって、閉めることにしたんです」
「複雑な事情?」
 受付嬢の方が訊いた。彼女たちを安心させるために、ぼくは精一杯の作り笑いをした。
「授業料は、私のポケットマネーで、全額返金しました」
 それは本当だった。一時的に建て替えたその60万円は、すぐに戻ってくるはずだった。けれど、決済代行業者のアカウントが凍結されたので、返金はかなり先になるらしい。テナントの解約も4か月先の7月末までできないと聞かされた。資金を融通するあてはない。
 心労で疲れ果てて、小さな予備校の通路に、段ボールを敷いて横たわっていた。
 外では、雨が路面を濡らしているらしく、自動車がサ行の子音を強調した短詩を奏でて過ぎていく。通り過ぎては、その音が途絶える。途絶えると、いつのまにか次の短詩を待っている自分に気が付く。
 破滅というのは、こんなにも静かで、のどかなものらしい。
 会社の自販機に、まだジュースがあるのを思い出した。階段を登って、買いに行った。廊下は真っ暗だ。置き去りにされている自販機だけが、煌々と光を放っている。無人の空間に、ミネラルウォーターが落ちてくる音が、やけに誇大に響いた。
 自販機に背を向けて、喉を潤した。真っ暗な廊下が伸びていく先、濃緑の床には、非常灯の光が反射して幾何学模様を描いている。その光の図形を、ぼんやりと眺めていた。
 すると、光が揺らめいた。図形の上に、光をまとった柔らかな曲線が立ち上がったのだ。光の像は、制服を着た女子高生に見えた。
「こんばんは」
 ここでは詳しく話せないのが残念だ。ぼくは実際に幽霊に遭遇したことが何回かある。だから、その女子高生が幽霊なのはすぐにわかった。破滅寸前の男に怖い物なんてそうそうあるもんじゃない。ぼくは物怖じせずに、挨拶を返した。
「こんばんは」
「そんな顔しないでくださいよ、先生。幽霊を見るのは初めてじゃないでしょう?」
 教え子に亡くなった女生徒はいない。その女子高生とは初対面だった。
「何度遭遇しても、ビックリはするものだよ。先生のことを知っているの?」
 これまで高校生に受験英語を教えてきたので、生徒相手には一人称が「先生」になることがある。ぼくは彼女がどうしてここにいるのかに興味があった。
「先生は自分で知らないだけで、とても有名なんですよ」
「ぼくが有名? 幽界で?」
「まあ、そういうところ」
 彼女は微笑んで見せた。外を大型車が通り過ぎていく音がした。その音が終わるのを待って、彼女は続けた。
「この雨はやまないと思う。0時をまわったら、たぶん雪になるはず」
 南国に降る4月の雨が、雪になるはずがない。きっと彼女はホワイト・クリスマスを歌った曲が好きなのにちがいない。季節外れを承知で「メリークリスマス」と挨拶したら、彼女は喜ぶだろうか。
 そんなことより、彼女がどうしてここに来たのかを先に訊こうと思い直した。けれど、うまい言葉が見つからない。幽霊の女子高生は、屈託なく雪の話をつづけた。
「最後に雪を見たのはいつですか?」
「いつだろう。この街はほとんど雪が積もらないから、たぶん子供の頃かな」
 雪の消音性が好きなのだと、ぼくは彼女に説明したかった。
 雪の積もった朝、街はいつもと変わらず動いているのに、ピアノのミュートペダルを押し当てたように、白いフェルトの布地が、街路の音の半分くらいを消してしまう。白いフェルト越しの街が、弱音で曲を奏でているのを眺めるのが好きだった。
「私はね、ほとんど毎日、雪を見ている気がするんです」
「どこの出身なの?」
 幽霊の女子高生は、それには答えず、踵を返して廊下を奥へと歩いて行った。
「そっちには教室しかないよ。行き止まり」
 彼女は急に振り返った。その反動でスカートのプリーツが膨らんで、元に戻った。
「先生、心の奥に、とてもつらいことがあるんじゃないですか?」
「どうして?」
「どうしてもよ。そんな気がしたので」
 ぼくは本当のことを話すべきかどうか迷った。
 背後で自販機のコンプレッサーが唸りをあげはじめるのが聞こえた。黙っていると、彼女がどこかへ行ってしまいそうな気がしたので、話をつづけることにした。
「きみくらいの年齢の女子高生が、今日も明日も、ここの廊下を行ったり来たりする予定だったんだ、この春までは」
「本当? ずっと幽霊学校だったようにしか見えないけれど?」
 幽霊にそう言われてみると、確かに、ずっとここには人らしい人がいなかったような気もしてくる。幽霊はさらに言葉を重ねた。
「ここにいた女子高生たちと、先生が本当に深くつながっていたら、急に皆いなくなるはずないじゃない。そんな話を誰が信じられる?」
 ぼくは心が揺らいだが、間髪入れずに答えたかった。
「少なくとも、ぼくは信じるよ。一番お気に入りのフィクションとして」
 すると、幽霊の女子高生はくすくす笑い始めた。
「噂通りですね。先生は、誰も傷つかないような美しい虚構を創作する癖があるって」
 フィクションじゃない、とぼくは言い返したかった。けれどすぐに、それが本当の出来事だったことを立証する証拠を、自分がひとつも持っていないことに気付いた。
「…ともあれ、それが一番お気に入りなんだ」
「これで、充分? まだ話したいことはありますか?」
 彼女がどうしてここに来たのかを訊きたかった。けれど、もっと長いあいだ話していたかったので、こう質問した。
「今きみがいるのは、ぼくたちの現実界ときみのいる幽界の重なった場所だよね。本で読んだんだ。幽界にいるあいだに、現実界に働きかけて人助けをすれば、天国へ入る許可が出るというのは、本当?」
「本当」
 即答されると、話の接ぎ穂が失われてしまう。
「本当?」
と、今度は彼女がぼくに訊いてきた。
「何が?」
「先生が心の奥に抱えている一番つらいことって、本当にそれなの?」
 どうしてぼくの心の中がわかるのだろう。どう表現すべきか、ぼくはためらった。
「きっと解決できる気がするんだ。嘘をついてほしいって頼もうと思って」
「どんな嘘を?」
「…まだ、ぼくのことが好きだって」
「嘘だとわかっててもいいの?」
「うん。嘘だとわかっていても、その嘘があれば、生きていけるような気がする」
 幽霊の女子高生は、不意に現れた孔雀の羽の模様を見るように、まじまじとぼくを見つめた。それから、心にゆとりを取り戻して、柔らかな肯定的な微笑を浮かべた。
「white lie っていうやつですね」
 white... ぼくは何かを言いかけようとして、やめた。
 真っ暗な廊下の上、朧気な光の漂いの中で、彼女が目を閉じているのが見えた。雪の光景を思い浮かべているのにちがいないと、ぼくは直感した。
 彼女は目を閉じたまま、胸に両手を重ねて自分の胸にあてていた。その彼女の胸の奥に、白いフェルトの布地を押し当てでもしなければ消えない、ミュートしたがっている痛みがあるのが感じられた。
 まだ彼女の話を聞いていなかった。
「きみはどうしてここに来たの?」
 最初は、幽霊の女子高生の顔は笑っているように見えた。やがて、その表情の上を光が波打っているうちに、少女らしいあどけない泣き顔になった。
「私、高校でいじめられて、クリスマスに自殺したんです。誰にも相談できなかったから、他にどうしたらいいかわからなくて」
 彼女は教室の奥へ歩いて行って、窓を開け放った。
「見て、雪! 雪になっている!」
 ぼくも後を追って窓へと近づいた。
 雪はどこにもなく、夜の建築群の屋根を叩く雨音が、静かに泡立ちつづけているだけだった。雪にはしゃいでいる彼女が、ぼくの方を振り返った。
「私が飛び降りたときと同じ。ここにも同じ人がいるって。誰にも本当のことを話せない人がいるって聞いて… だから、ここへ来たんです。でも不思議。私の行くところ行くところ、いつも雪降りなの」
 現実界と幽界は重なっている。同じ位相で接触できても、ぼくに見えている風景と、彼女に見えている風景は異なるのだろう。
 おそらく、彼女は自らの死に釘付けされている。最後の日と同じホワイト・クリスマスを、彼女は何度も何度も体験しているのにちがいない。何度も何度も体験していくにちがいない。幽界で積んだ善行が認められて、天国に呼ばれるまで。
 天国からの呼び出しは、いつになるのだろう。その呼び出しのある日が、喜びに満ちた彼女のクリスマスの雪解けの日になるのだろう、きっと。
 開け放たれた教室の窓の前から、いつのまにか幽霊の女子高生の姿は消えていた。4階の窓の向こうには、階段もベランダもない。それなのに消えていた。
 窓の向こうから、濡れた路面を走る車が、サ行の子音を強調した短詩を奏でて過ぎるのが聞こえる。ぼくは彼女に最後に言おうと思っていて、結局言えなかった言葉を、誰もいない窓の向こうへ届けた。
「メリークリスマス」