入れ子構造のベタでええんや

甘えたら叱られてしまった場合、どのように対処したらよいのだろう。

ここ数日、そんなことばかり考えている。きっと、私、つまり、大物の男らしい切り抜け方が、世には存在するにちがいない。

そういえば、かつて視力障碍者鍼灸医に、身体に触れられただけで、体質やら性格やらプライベートな事情やらを的中させられて、すっかり驚いてしまったことがある。さらに驚いたのは、幸福ホルモンが分泌されにくい体質なので、抱き枕を抱いて寝るように勧められたこと。当時30歳を過ぎていた男心は揺らいだが、そのときは購入しなかった。

しかし、とうとう到来したのではないだろうか、その夢のようなX-Dayが。

ここは大物らしく、抱き枕を二体買って、自分の左右に並べて、両方の「彼女」に腕枕を提供したいところだ。しかも、ペッドサイドに大好きなラムレーズン・アイスを人数分3つ買って、それを有無を言わさず自分が全部食べてしまうという蛮行をやってのけたい。またしても、男らしさ全開だぜ。

酒池肉林とは、まさしくこのことを言うのではないだろうか。

酒池肉林: 池の水のように豊富な酒と、木々の立ち並ぶ林のように架けられた肉の意で、酒や肉などの御馳走がいっぱいの豪奢(ごうしゃ)な遊楽や酒宴のたとえ。中国、殷の暴君として知られる紂王(ちゅうおう)は、酒を好んで淫楽にふけり、砂丘に戯れては、酒をもって池とし、肉を架けて林として、その中で男女を裸にして互いに追いかけさせては、長夜の飲をなした。ために百姓たちは遠くからこれを望んでは恨んだ、と『史記』「殷本紀」に伝える。

酒池肉林(シュチニクリン)とは - コトバンク 

というわけで、抱き枕を探していた。いろいろな形状の抱き枕の中では、イルカが可愛らしくて、本当に欲しくなってきた。イルカがラム・レーズンを食べるかどうか、誰か教えてくれないだろうか。

という書き出しは、どれくらいイケているのか、少し不安になってきた。

ベタでええんちゃうん?

誰かが関西弁でそう励ましてくれているのが聞こえる。「ベタでええんや」と自分に言い聞かせて、書き続けていこうと思う。

イルカ! と叫んでしまったのは、今朝チェット・ベイカーの伝記を読み込んでいて、ありえない記述に何度も遭遇したからだ。

 美貌とあふれる音楽的才能を兼ね備えていたチェットは、ドラッグに溺れたジャンキーになりさがって一生を終えた。「ジェームズ・ディーンで始まった輝かしいキャリアを、チャールズ・マンソンで終えた」と評されるのも、あながち誇張ではない。(自らを殺したという意味以外では)殺人こそ犯さなかったものの、恋人には常習的に暴力を振るい、レコード会社からは無断でレコードを盗み出した。ドラッグに突っ込む金が不足すると、「二階専門」の稼業を平気で働いた。留守宅の二階へ器用に登ると、そこで空巣を働くのを習慣にしていたのである。

昨晩話した「男性→女性」の暴力の13の仮説のうち、チェットに当てはまるものも少なくない。「男はこんなもの」「女はこんなもの」という因習的な固定観念が、交際女性に対する異様に執拗な嫉妬や、自分をマッチョぶった男だと誇示したがる性癖に現れていたという。

世界的名声のあるこんなトランペット吹きがイルカ!

というのが、自分の胸中に生まれた第一声だった。

さすがに少し厭になってきた。自分の恋愛小説の随所に、チェットの名曲を引用しようと考えていたのを、見直したい気持ちになってきたのだ。チェットの過剰にエモーショナルなブルー加減は、私は大好きでも、対象読者を限定しすぎることになるかもしれない。そこで、史上最強のラブコメが、案外イージー・ビルディングな作りだったことからヒントを得て、もう少しラブコメ寄りのプロットを模索したくなった。

ブコメや喜劇でも笑いを引き起こす大きな鍵になりうるのが、実はメタフィクションだということは、あまり知られていないのではないだろうか。脚本家たちは職業的な勘でその鍵を上手くつかみだしてくるという印象だ。

もともとメタフィクションは、喜劇よりも前衛映画で良く用いられる手法だ。

 上の記事で引用したトム・ウェイツが、リンクが切れていないのが嬉しい。 

ゴダールの『カルメンという名の女』では、冒頭、男がいらいらした口調で同じ台詞を繰り返しながら歩き回る場面がある。

ファンが編集したダイジェスト版のこの動画では、0:22からその台詞だけ聞ける。(フランス語)。

映画館にフランス人は入ってイルカ?

監督のいら立ちが映画の中へそのまま侵入しているというわけだ。それだけでなく、映画は、映画の中で映画作りを持ちかける場面から始まったりもする。

なぜだか、どうしても忘れがたいこのゴダール映画を、詳しく解説している時間的余裕がないのは残念。 ここでは、メタフィクションを「映画作りを描いた映画」「小説執筆を描いた小説」というように、入れ子構造となっているものと便宜上定義しておき、今晩イルカにあったのが3度目だとも付記しておきたい。

さて、ラブコメや喜劇でもメタフィクションが笑いを引き起こす大きな鍵になりうるというのは、どういう意味なのだろうか。喜劇とは、脚本家が役者を通じて観客を笑わせたいという欲望から成り立っている。まとめるとこんな感じだ。

脚本家→ 役者→観客の笑い

 これをメタフィクテイブな入れ子構造にすると、こうなる。

脚本家→ 役者→(脚本家→ 役者→観客)→観客の笑い

 

下の記事で書いたように、ラブコメ史上最強の映画の脚本家は、「偶然鉢合わせ」のプロット操作に、たぶん頭を持っていかれすぎている。

脚本家の脳裡にあるのは、隠している情事や恋心を状況操作で露見させて、「鉢合わせ」を演出する作劇術。

やっと妻と復縁できそうな話し合いをした直後、保護者面談で中学生息子の担任教師が、「偶然」夫のワンナイトラブの相手だと判明して、一回目の大騒動になる。(1. と 2.の鉢合わせ)。

ドタバタ喜劇のクライマックスは、「偶然」1. 3. 4. 5. が鉢合わせして、警察が出動するほどの大騒動になるのだ。

これらの複雑ではあるがご都合主義的な「偶然」の操作を、脚本家のテクニックの精髄と見るのか、それともテクニック先行で大切な何かを逃したあざとさとみるのかで、この映画の評価は分かれるだろう。「ラブコメ史上最強」との称号に拍手を送った上で、自分は後者なのだ。 

Time's up.  もおうそんな時代は終わりにしよう。映画やニュースに触れていると、ハリウッド(聖林)は野蛮な未開人の「聖地」なのだと感じることが多い。

川沿いを散歩しながら、やはり『ラブ・アゲイン』のプロットは男性中心主義的すぎるので、自分の頭の中で書き換えたいと考えていた。

中年妻が不倫したのを口実にして、ジゴロの色男指南のもと、中年夫が「変身」して、8人の美女たちと「浮気」した挙句、元鞘に戻ってハッピーエンドというのは、シナリオとして「中年既婚男性限定度」が高すぎる。中年妻の不倫は、中学生以来の初恋相手が自分に関心を持たなくなった淋しさが原因だったというのに。

こういう映画にこそ、メタフィクティブな入れ子構造で笑いを取りに行かなくては。

脚本家→ 役者→(脚本家→ 役者→観客)→観客の笑い

( )内の、脚本家が色男指南をするジゴロ、役者がそのシナリオを演じる中年男、観客がスノッブなバーでハントされるのを待つ美女たちだ。

中学生時代に初デートして、やがて学生結婚した「初恋夫妻」という設定は、ぜひとも生かしたい。冒頭の妻が不倫をしたという告白は、嘘にした方が面白いだろう。

初恋妻の「浮気」で、半狂乱になって憤激した中年男は、バーに夜な夜な通うジゴロと出逢う。そして、色男指南を受けるところまでは、映画と同じだ。

自分なら、ここから展開を大きく変えて、笑いを取りに行く。ジゴロが教える「色男の秘訣」を完全な嘘っぱちにするのだ。

こういうところで似非心理学を使うと、さらに可笑しみが増すだろう。アンカーリングといって、Aを起こしたあとにBを起こすと、A→Bを因果関係があるものとして、無意識にやきついてしまうことがある。ベルが鳴ると犬が涎を垂らす「パブロフの犬」は、その典型だ。 

散歩しながら今朝思いついたのは、(さしあたり登場人物たちは日本語を使うと設定して)、濁音の「が」と鼻濁音の「んが」を区別して使うように、アヒル系の「グワ」を会話の端々で使う(行為A)と、美女を落とせる(結果B)という嘘設定だ。

世間知らずの中年夫は、最初はその嘘設定を疑ってかかるものの、ジゴロがアヒル音で美女を次々に口説き落としていくのを目の当たりにして、信じ込んでしまう。

実は、中年妻が知り合いのジゴロに恋愛相談をして、ジゴロが思いついた愛情復活劇なのだ、すべては。もちろん、バーにたむろする美女たちも仕掛け人だ。

「そういえば、昔アヒルのいる池に妻とよく行ったので、アヒルの鳴きまねは得意だ」と中年夫は打ち明ける。そして、必死になって、会話にアヒル音を織り交ぜて、美女たちにアプローチしていく。すると、美女たちが嘘のように(嘘だから)自分にしなだれかかって靡いてくるのだ。しかし、惜しいことに、二人きりで夜へ消えようとする寸前で、ガールハントは失敗に終わる。

あと少しだと思い込んだ中年男は、毎朝なつかしい池に通って、必死になってアヒルの鳴き真似を特訓しはじめる。

ある晩、中年男が手違いで、ジゴロの依頼した仕掛け人美女以外の美女と懇意になってしまう。二人は連れ立って夜の街に消えてしまう。ジゴロや中年妻は大慌てだ。

けれど、これまでアヒル音を織り交ぜて話すと、途端にうっとりとなってきた美女たちとは違って、「素人」の美女は中年夫のアヒル音に大笑いする。その大笑いが、中高生の頃に、自分が笑わせていた初恋妻の笑い方とそっくりなのを思い出して、中年男は我に返り、自宅へ戻ることにする。

中年妻は自宅の庭で待っていて、二人で一緒にアルバムを見ないかと誘う。中年夫は、しんみりとなって、未成年の恋人同士だった頃を思い出そうと思って、ベンチに腰かける。しかし、中年妻から見せられた写真は最近の写真ばかりだ。自分が思い出の池に通っている写真が何枚も。中年妻は「動画もあるわよ」といって、必死にアヒルの鳴きまねをしている中年夫の様子を見せる。中年夫は頭を抱える。

おそらく、そのあとの会話が一番面白くなりそうだ。「ずっとひとりぼっちだったのよ!」とか「私がどれだけ淋しかったと思っているの!」とかいうヒューマンドラマ系の台詞を、中年妻はすべてアヒル音交じりで非難するのだ。

「何があったの?」と夫婦げんかに割って入ってくる子供たちも、当然アヒル音交じり。夫の両親や、近所の人々や、見回りの警官くらいまで、全員がアヒル音交じりで夫婦喧嘩の仲裁に入ってくると、抱腹絶倒になりそうな予感がする。

 くすくす。自分で思いついた冗談が可愛くて、自分で笑ってしまう癖が、自分にはある。何だか愉快になってきたので、このアイディアは調整してどこかで使いたい気がしてきた。

 さて、早朝散歩中に思いついたこのアイディアと、どこかでつながるかもしれないと思って、三谷幸喜の『ラヂオの時間』をもう一度見てみた。 

ラヂオの時間 [DVD]

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 面白い。自分の中での面白さ序列では、『マジック・アワー』>『有頂天ホテル』>『ラヂオの時間』となるが、これはもともと舞台向けの作品なので、派手なアクションや空間移動を、最初から枠外に置かなくてはならなかった映画だ。それを考慮に入れると、ここまでの面白さに到達するのは簡単なことではないと思う。

今晩書いた「メタフィクティブな入れ子構造が笑いの鍵」が、この映画のいちばんの面白さになっていることがわかるだろうか。

映画はラジオドラマそのものではなく、ラジオドラマ作りを描いた映画だ。ひと癖もふた癖もある俳優女優陣が、自分の役が少しでも美味しくなるように、シナリオに次々と改変の要求を入れていく。 いわば(脚本家→ 役者→観客)のうち、俳優女優陣が(脚本家→ 役者)の部分を勝手に自己演出していくのだ。それに対して、コンクール受賞シナリオを書いた主婦と良識派のディレクターが、ドラマの本筋を死守しようとする映画。「メタフィクティブな入れ子構造」がなければ成立しないコメディーなのだ。

これはきっと話す相手を選ぶ話題だと思う。それでも書いてしまうが、この町に帰ってきてから、年に数回の割合で幻聴が聞こえるようになった。30才を過ぎると男性は脳や身体が変わってくるというし、いつか「ぼくがラジオだった頃」というエッセイ集でも自費出版できれば、と前向きに考えていたのだが、「杉丘市」でいちばん有名な坂道を不動産屋へ向かって歩いていて、ラジオの電波を受信してしまったときは、酷く落ち込んでしまった。

 自分が少しだけラジオな話は、ここ書いたことがある。イルカの抱き枕で始めた記事が、ラジオへと辿り着いたので、ラジオのように電波をキャッチするイルカ研究者のことを思い出した。

日本のニュース番組で、普通の研究者のような殊勝な顔をして座っているの様子は、事情通から見ると、可笑しくてしょうがないのではないだろうか。私見では、下で引用したライヒよりも、はるかに翔んでいる研究者だ。

ライヒは変わり者の心理学者だった。ヒトラーが政権を掌握した1933年に、『ファシズムの大衆心理』を出版して、ノルウェーに亡命し、そこでも物議を醸してアメリカへ亡命した。Wikipedia の経歴を読んでいると、フロイト直系ゆえ「性」を重点化するのはわかるにしても、あまりにも数奇な研究者人生の変転に、くすくす笑いが止まらなくなってしまう。

ヴィルヘルム・ライヒ - Wikipedia

ジョン・C・リリーの功績は、イルカを研究してイルカと話せるようになったことより、スピリチュアル体験を可能にする感覚遮断タンクを、文化として確立したことだろう。

アメリカのネットフリックスの番組で有名になったらしく、一種のスピリチュアル体験を味わいに来る好奇心旺盛な客が多いのだという。ちょっと勘違いしているらしき「禅」の文字も見える。以下は、感覚遮断タンクを体験した客の典型的な感想だ。

  • 宇宙に浮遊している感覚になった。
  • 未来と融合している気分になれた。
  • とめどもない幸福感を感じた。

リリー自身は、LSDケタミンなどの麻薬を服用しつつタンクに沈潜したせいで、かなり奇妙奇天烈な体験をしたらしい。

 そうなってもおかしくないことは予想できるだろう。ジョン・C・リリーは、「地球偶然制御局」のネットワークと交信しはじめた。彼によれば、「地球偶然制御局」はジョン・C・リリーを諜報員に選び、彼に試練と褒美を関連付けて与えることによって、彼をあるべき方向へ導こうとしているのだという。

これだけを聞くと、麻薬で脳を損なってしまった患者の譫言のように聞こえる。しかし、伝記的事実が書かれている通りなら、ジョン・C・リリーは恐るべき数のシンクロニシティに遭遇している。2017年からスピリチュアルづいている自分は、この奇特な研究者が書き残した奇妙な記録の数々を、完全には否定しがたいと感じている。

感覚遮断タンクによって、外部意識と地続きにつながった経験についても、説明の仕方はひどくまともだ。

意識や心が人々の脳にあるとする「内在説」を、ジョン・C・リリーはあっさりと受け入れる。要するに、それはパーソナル・コンピュータのようなものだと。

そして、こう続けるのである。

しかし、もしもあなたがそのコンピュータを別のコンピュータに接続すれば、どうなるだろうか? 

ジョン・C・リリィ 生涯を語る (ちくま学芸文庫)

ジョン・C・リリィ 生涯を語る (ちくま学芸文庫)

 

 「地球偶然制御局」と表現すると、出来の悪いSFのように聞こえるが、ユングとパウリが研究に取り組んでから、さほど進んではいなかったシンクロニシティへの科学的アプローチが、複雑系の研究の中から派生して出てきた。

これまで「擬似科学」だと退けられてきた領域が、「最先端の科学」という看板に架け替えられつつある。同じく「神の領域」だとして人間が手を出せなかった分野に、最先端の科学の触手が伸びてきている。世界地図は毎月塗り替えられつつあるのだ。 

複雑系から創造的偶然へ ?カイロスの科学哲学史?

複雑系から創造的偶然へ ?カイロスの科学哲学史?

 

 クラウス・マインツァーは先ごろ亡くなったホーキング博士に、太陽系外の惑星が発見されたのを機に、見解の修正を進言したドイツの研究者だ。原著で2007年に発表されたこの著書は、おそらく今後の人類の進化論の基礎になる重要性と徹底性があるように感じられる。

複雑系というきわめて把握困難な場所から科学哲学を発展させてきたマインツァーは、哲学、情報理論、熱力学、量子世界、コンピュータ、生命額、脳科学社会学、経済学などのあらゆる分野に、「乱数的な偶然」ではなく、「創造的な偶然の一致」があったと基礎づける。 論拠となっているのは、量子物理学であり、量子物理学の法則が、原理上、全宇宙で妥当することである。

このブログで何度も言及してきた「シュレディンガーの猫」も、(『君の名は。』にも出てきた)「エヴェレットの他世界解釈」も、全肯定されている。

驚いたのは、スピリチュアリズムのごく一部でしか囁かれないテーゼ、

一人の人間は、多数の並行世界に分割して存在している。 

 に、承認を与えているのだ! そして、人類は複雑系の探究を抜けて、(乱数的でない)「創造的な偶然の一致」を引き起こしたり、それらが複数巻き起こって相乗効果をあげる前提条件を研究するべきだと説く。

この著書では明示的な言及はなかったが、クラウス・マインツァーが注意を促しているユージン・ウィグナーは、

意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能

だと述べている。

日本語ではマインツァーのこの著作に関するコメントはほとんどないが、マインツァーとウィグナーのラインを結ぶと、「創造的な偶然の一致」とそれを引き寄せる人の意識との関係、つまりは「引き寄せの法則」そのものを、現代科学が解明する日が近いことを予感させずにはおかない。

これにはワクワクしてしまう。現代科学も凄いところまで来ているようだ。

 

 

と、ここまで書いて、おかしいな、と思った。記事の最初でイルカに会いたいと思って、書き続けてきたこの記事。夢中になって書いているうちに、チェット、ゴダール、ラブコメメタフィクションシンクロニシティーと、例によって話題が飛んで飛んで飛びまくった。

それでも、府中になって必死に書きつづけても、イルカに逢えなかった。

「ベタでええんや」と自分に言い聞かせたことを、冒頭に書いた。たぶん、知らず知らずのうちに、イルカには逢っていたのだ。目には見えない脳内物質だったので、気が付かなかっただけだ。

また逢いたい、心からそう思う。ベタでええん感じのドルフィンに。