小説「青春ワンチャンレモン」①

 高校三年生の3月が別れの季節なら、その9か月前、初夏の7月は再出発の季節だ。

 水泳部の寛太も総体で負け、演劇部だったぼくも地区大会の初戦で敗退した。全国大会へ勝ち進んだひと握りを除いて、どの同級生も、顔に判で捺したような敗北感とあきらめを湛えて、受験勉強に取り組み始めた。

NECに一緒に行ってくれん?」

 寛太がぼくにそう頼み込んできたのは、そういう曲がり角にぼくらがいた7月だったと思う。

 ぼくはぼくで、趣味の濫読のおかげで、放っておいても英語と国語の成績はトップクラスだったので、部活引退後はまとまった文章を書こうと考えていた。積み重ねたノートPCのカタログから、数年を一緒に過ごす愛機を選ぼうとしていたところだった。

NECに一緒に行ってくれん?」

 寛太がそう休み時間に問いかけてきたとき、ぼくはその真意に気付かずに気安く答えてしまった。

ショールームみたいなところ? いいね。時間とお金があったらな」

 そう言うと、ぼくはNECのディープレッドのノートPCを指差した。

「これなんか最高だよな。ほら、紅マドンナの膝掛けと同じ色だし」

「おいおい、さっそく家電芸人気取りかよ!」

 寛太の返答は相変わらずズレている。紅マドンナというのは、クラス一番の美少女の渾名だ。彼女が冬場の授業中、スカートの上にかけているスコットランド風の赤いチェックの膝掛けが、ぼくは好きだった。そして、言うまでもなく、好きなのは膝掛けだけではなかった。

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「結局、俺が言いたいのは…」

 ぼくは小さな溜息をついた。「結局、」は寛太の口癖だが、その後にまともにまとまった言葉が出てきたためしはない。この後もそうだった。

「…男の生き方にはピンからキリまであるけど、俺はキリに近くて、ピンが無理な気がするんだ。水泳の大会も終わったし、キリ島部活辞めるってよ」

  このあたりで、寛太の「特殊能力」について語っておかなければならないと思う。教室での寛太は、「ずばぬけた天然ボケ」が通り相場で、皆から、からかわれ、笑われ、可愛がられてきた。同じクラスになって数か月で、ぼくは寛太の天然ボケに特定の傾向があるのに気づいた。寛太には、言葉の同じ響きを足掛かりに、発話がどんどん横滑りしていく癖があるのだ。

 同じような症状を、ぼくは或る精神分析の本の中で見つけた。

 彼女の錯乱は、やがて華やかな音韻の連なりへと変わってゆき、それは音楽のように私の耳を打った。(…) 

「(…)私には先生が一番必要なんですわ、それをうまく伝えられたら介助必要な死と思うんですけれど、怪獣必要なしと思うんですわ、ほっといてクレヨと思うとね、クレヨンが出てくるでしょ。クレヨンはクレパスでしょ。ナッチャンレモンこんにちは、ナッチャンレモンこんにちはという言い方もあると思うんですけれど」  

ラカンの精神分析 (講談社現代新書)

ラカンの精神分析 (講談社現代新書)

 

 本にその病名は書かれていない。「ナッチャンレモン症候群」とでも呼んでおこうか。

  実は、寛太の独特の喋り方にも、同じ駄洒落の横滑りがある。しかも、本人はそれを自分が他人を笑わせるのがうまいのだと勘違いして、自信満々でいるのだから、少々厄介だ。

 難しい言葉で説明するより、ここまでの寛太の発言を読み直してもらった方が早いかもしれない。あとで問いただしたところ、寛太が言いたかったのは、「お笑いの道に進みたいけれど、ピンだと不安だから一緒にNSCへ行こう」という誘いだったらしいのだ。いやはや。

 季節は7月。別れの季節の3月までには、まだ時間があった。ぼくは、なるべく少ない受験勉強で、東京の大学へ進学することに決めていた。そういう経緯で、NSC入学は断ったものの、毎週日曜日、寛太のコントに演出をつける役を、ぼくは買って出たというわけだ。

 ところが、最初の日曜日に寛太のコント台本を読んだとき、正確にはそのときからこれを書いている今までずっと、ぼくはほろ苦い後悔を味わいつづけることになる。

 これが初日に寛太が見せてくれたショートコントだった。

 どうもー、こんばんは。皆さんがきっとこうなりたかった「パンナ寛太」です!

 ショートコント「バカまじめ」

 

「あ、運転手さん、ここで停めてください。…。いや、いいんですよ。ここから、目的地までは、歩いていきますんで。しかしアレですね、最近のタクシーって女性の運転手さんが多いんですね。…。いえいえ何をおっしゃいますやら、モモエ・ヤマグチちゃん、萌え萌えですよ。ステージにマイクを置き去りにして、そうやってラフに手櫛で流していても、わかる男にはわかるんですよ。 

ケープ 3D エクストラ キープ 微香性 180g

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結局、ケープでかっちり固まった感じをエスケープして、SKⅡでいつまでも美魔女でいてください、世界の男たちのためにって、台詞を囁きたくなるような美しさなんですね。もうここからは、歩いてテクシーで帰りますよ。綺麗な人の面影を、綺麗な星空と重ねながら歩きたいんです。だから最後に語りかける台詞は優しく「おやすみ」、といえるオレって、おや、隅に置けないね。女神よ、また、いつの日か!」

 というのが、無賃乗車犯の手口だとの自白が取れました、警部。

 おいおいおい、おまえは本当にバカまじめだな。刑事のお前が、いちいち犯行の手口を再現ドラマにして演じなくてもいいんだよ、って言っている俺の説教を再現するんじゃない、このバカまじめ! 

  ショートコントを終えた寛太は、高校の空き教室の青空を見上げている。どうやら、披露してくれたのは渾身の自信作だったらしい。ぼくはどうコメントすべきか迷った。

「拓海、結局、北極、薬局、どうだったよ」

 拓海というのは、ぼくの名前。寛太の駄洒落がうわすべって聞こえるのは、他人なんてどこ吹く風を装いつつも、ぼくからの評価をとても気にしているからだろう。

「あんな、寛太。いつも『結局』っていう言葉の使い方、間違っているぞ」とぼくは最初に牽制球を投げておくことにした。「でもな、コントの出来は悪くない。才能の片鱗もちょっとだけ見えるしな。ひとことでいうと、ブラボーだ」

 寛太の顔がみるみるうちに輝いた。後で聞いたところでは、寛太は誰にどんな駄洒落を披露しても笑ってもらえないので、自信を失くしていたらしい。

「拓海、サンクス。何て凄いサングラスだ、俺の笑いがわかるなんて」

「いや、裸眼だよ」と即答で返しながらも、ぼくも寛太のノリに影響されていた。「ラカンのいう『ナッチャンレモン症候群』を笑いに換えられたら、寛太は化けそうな気がする」

 ひと通り「ナッチャンレモン症候群」の説明をしたあと、ぼくは寛太を褒めることにした。こいつのこんな嬉しそうな顔は見たことがなかったのだ。

「さっきのショートコントで良かったのは、俺のいうマトリョーシカ理論が生きていたからだ」

 寛太はぽかんとした顔をしている。ぼくは一瞬説明するかどうかを迷ったが、そういえば、寛太は普段からこんな顔だったことを思い出した。 

「つまり、こういうことさ。ボケとツッコミの二人組にお客さんを加えると三角形ができる。その三角形ひとつじゃなくて、もっとフレキシブルに考えるんだ。その三角形から、マトリョーシカのように外に大きい三角形を作ってもいいし、内へ小さな三角形を作ってもいい。乗りツッコミが面白いのは、ボケとツッコミを一人が兼ねて、マトリョーシカを小さくしても、三角形が生きていれば面白いということだ」

 寛太はすぐにネタ帳に概念図を描きはじめた。興味のあることに、子供のように飛びつくのが、寛太の可愛いところだ。

「そうそう、その図で合っている。寛太のコントでいえば、『タクシー客の饒舌』の人形を、『刑事の報告』という大きいマトリョーシカが呑み込んだところが、観客には面白いというわけだ」

「拓海はどうして何でもわかるんだ」

「ちょっとだけ読書家で、ちょっとだけ分析魔なだけさ」

 ここで間髪入れずにこう返してきたのが、いかにも寛太らしかった。反射神経が並大抵じゃない。駄洒落のためなら、どこの方言だって投入してくる。

「謙遜するなよ。ブチ色魔じゃないか」

 ぼくは声をあげて笑った。寛太の駄洒落が面白かったわけじゃない。恋心を寄せている紅マドンナには、この2年間ほとんど話しかけられなかった。没頭した演劇部は、地区大会敗退。こういうときに横隔膜を存分に動かしておかなくては、溜息つづきの7月になりそうだと思ったのだ。

 笑ったあと、さらに寛太を喜ばせてやりたくなった。

「だけど、むしろお笑いの真の創造性は、マトリョーシカを拡大していく方向にある。ボケとツッコミの役割をぐるぐる変えたり、一人がボケと観客を兼ねたり、多重人格的に何役やったりしてもいい。そういうクリエィティブなお笑いをやれば、きっと天下を取れるぜ」 

オードリー DVD

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  寛太はさっそく食いついてきた。

「ボケとツッコミがぐるぐる変わるってことは、ツッコミの台詞がボケにもなるってことだよな」

「まあ、そうかな」

「いやあ嬉しいよ、拓海。俺のコントを見てもらえて、ためになるアドバイスまでもらえて。今日が人生最高の日曜日だな、きっと」

 ぼくは寛太の笑顔をしばらく眺めていた。感激屋なのだ、彼は。それから、さっきの寛太の発言に駄洒落が入っていなかったことに気付いた。こういうときは、きっと駄洒落を考えているときなのだろう。

 寛太の頭の中にはどんなお笑いの世界が広がっているのだろう。ぼくは少し覗いてみたくなった。

「ピンじゃないとしたら、どんなコントを書きたいの? 例えば、大好きなシチュエーションって何?」

 ここでも寛太の反応は速かった。

「サンデーやねん!」

 どうやら、ぼくが説明したお笑いの創造性を、寛太はまだよくわかっていないらしい。自分のお笑い反射神経の良さを誇示するように、得意げに胸を突き出して立っている。ぼくは下を向いて笑いを噛み殺した。可愛い野郎だ。

「そういう得意の駄洒落を生かすには、外側にマトリョーシカがあった方がいいぜ。寛太自身を『世界最多の駄洒落発言を目指す求道者』みたいにして打ち出すんだ。あるいは、コントの最初で爆弾を背中に結びつけられて、駄洒落を言いつづけないと爆破すると脅されたという設定でもいい」

 寛太は得意げに張っていた胸をゆるめた。そして、きわめてゆっくりと拍手を始めた。拍手しながら、こちらへ近づいてくる。アメリカの映画で自分の負けを認めたくない敵がよくやる仕草だ。

「拓海、お前、笑いの才能ないのっていう思い込みをコミカルに捨てろ。オレが言うんだから、その才能はマジでたちまち間違いないって」

 その根拠づけは間違っていると思うぜ、と突き放してもよかったが、ぼくは微笑んで黙っていた。この友人のことをちょっと好きになりかけていたからだった。

「なあ、拓海。人生は一度きりだ。でも誰の人生にもでっかいワンチャンはある。オレと一緒に天下を取って、美味しい人生を歩まないか」

 そう誘ったあと、寛太は自分の夢を詳しく語りたがったので、ぼくは寛太にラーメンを奢らせた。京都発祥のとろみ重視のラーメンを、寛太はずいぶん気に入ったようだった。

「なあ、拓海。オレとお前が組めば、誰にも負けない逸品になって、天下を取れるぜ。考え直してくれよ。オレにはおまえの替え玉はいないし、天下一品で替え玉が頼めないこともちゃんとわかっている。結局、おれはお前が思っているほどトンコツじゃないってことだ」

 寛太は相変わらず「結局」の使い方を間違っている。こういう天然ボケの可愛い奴と、毎週日曜日に遊ぶのは悪い話じゃない。けれど、人生を預けられるかどうかは、全然別の話だ。ぼくは寛太に自分の本当にやりたいことを話す気になった。

「逸品もいいけど、オレがいちばん興味があるのは、別嬪なんだ」

 寛太の天真爛漫な表情がどう変化するかを、ぼくは注意深く観察していた。観察しながら、ぼくは続けた。

「オレだけじゃない。お前だけじゃない。それもわかっている。紅マドンナに憧れている男子は無数にいる。自分でいうのもなんだが、オレはたぶんベスト16には入っている。この最後の半年が勝負というわけだ」

 寛太は複雑な表情をした。しばらく言葉を選んで、こう言った。選んでいたのは、例によって駄洒落だった。

「言いたいのは、本当にそれだけか。替え玉ってちゃ、本当の気持ちがわからないだろ! どんなメンマも、ドンナ紅マも、オレには関係ない、といま言ったとき「境内」をケイナイではなくケイダイと読むことを思い出したが、それはお前には一切関係のない話だ。結局、K大卒のバカまじめな数学のK先生が『三角関数』と黒板に書くべきところ、『三角関係』と書いてしまって急いで消したときの慌てぶりが、お前の心の中で今も泡立っているのだろう。はっきり言うぜ。オレ、お前と引き換えなら、紅マドンナを捨ててもいい。明日も一緒にお笑いを共同創造しよう!」

 言葉に思いっきり気持ちを込めると、寛太は何を言おうとしているのかわからなくなる。「捨ててもいい」と寛太は言ったが、紅マドンナは、寛太はもちろん、誰のものでもないのだ。最後の半年のあいだに、ぼくはどうしても彼女の心をつかみたかった。

 立ち上がって、セルフサービスでお冷やのおかわりをする。そして、それを一気に飲み干すと、ぼくは寛太に向かってこう言った。

「明日は学校へ行って、内職しながら、紅マドンナをモデルにした恋愛小説の続きを書く。恋愛小説で口説く。その小説で賞を獲得。それ以外の道が、今のオレには見えないんだ。ラーメンをご馳走してくれてありがとう」

 そう言って、ぼくはラーメン店の席を立った。こうして、ぼくの日曜日の息抜きは終わったのだった。

 背後から寛太の声が聞こえた。

「どうして明日も遊んでくれないんだよ!」

 ラーメン店の赤い暖簾の手前で振り返って、ぼくは笑顔でこう言った。

「マンデーやねん!」