短編小説「恋敵のミルクティーの甘さよ」

 自分たちがバブルの中にいるのかどうかは、バブルの渦中にいてはわかりにくいらしい。とりわけ、ぼくのような入社3年目の平社員は、上司が矢継ぎ早に送ってくる仕事メールと催促メールにアップアップ。朝8時に出社して夜23時に退社するのが精一杯の毎日だった。

 経営好調を受けて、社員わずか50人のマテリアル開発会社に受付嬢がやってきた。藤花という名で、明るくハキハキ話す丸顔の美人だった。藤花が受付に座るのは朝9時から夕方17時まで。出社するときも退社するときも、ぼくが彼女に会うことはない。

 唯一、残業申請を通して、早めに夕ご飯を食べに出かける16時半、彼女の笑顔に出逢うことができた。「お疲れさまでございました」と藤花は丁寧な声をかけてくれる。何て良い子なんだ。きっと、ブリを生姜で煮つけて臭みを抜くタイプにちがいない。勝手に想像が膨らんでしまう。

 何とかして藤花に話しかけたい。そんな切実な願望を抱いたぼくは、夜中までかかって毎晩「洒脱な大人の会話」の想定問答集を作ることにした。そして、それを翌日試すことにした。

<洒脱な大人の会話①>

ぼく:梅雨どきの雨は嫌になるね。

藤花:ほんとうですね。でも半月もすれば、梅雨明けが来ますよ。

ぼく:でも、一年のうち、この日だけは梅雨を祝いたくなる日があるんだ。

藤花:あら、いつですか?

ぼく:8月9日。ハッピー・バースディ・梅雨

藤花:私の誕生日のお祝い? 嬉しい! 大好き!

  翌日、実践してみてわかったのは、会話が生き物だということだ。

 ぼくはこれまでの人生で、目標を立て、計画を立て、それを着実に実行する人生を送ってきた。受験でも就職でも会社でも、その生き方でそれなりにうまくやってきた。なのに、会話っていうやつは、どうしてあんなにもコントロールが難しいのか。

 

ぼく:梅雨どきの雨は嫌になるね。

藤花:ほんとうですね。でもずっと雨が降ってなかったから、草木には恵みの雨だと思うんです。

ぼく:じゃあ、新しく芽吹いた草木に、ハッピー・バースディ・梅雨。

藤花:(ふぅーっと宙に息を吹きかけて)草木を代表して、キャンドルを吹き消しておきました!

ぼく:……。

藤花:……お疲れさまでございました。

 会社のエントランスを出たとき、ぼくの心臓はまだドキドキしていた。自分のアドリブの効かなさが憎らしくてたまらない。あの無言部分に入れるべき台詞は、何だったのだろうか。前後の文脈と整合させるなら、「アハ! 今日でわかっちゃった、きみが花のように美しい理由が」。これかな。ピザすぎる。いや、気障すぎる。アドリブでは、ぼくには絶対に言えない台詞だ。女の子との会話って、何て難しいんだ。

 むむむ、そうか、花やガーデニングか。女子が好きなものを、会話構成要素のポートフォリオに織り込んでおくのを忘れていた。今晩は傾向と対策の練り直しだな。

<洒脱な大人の会話②>

ぼく:今日も残業になるんだ。

藤花:毎晩、大変ですね。

ぼく:今日なんか部長にこんな感じで渡されて、(と大量の書類を抱えるパントマイムをする)、両手が書類のさまざまな束さ、サマンサ・タバサが似合いそうだね、きみは。 

藤花:え? どうして私のタバサ好きがわかったんですか?

ぼく:想像力のタバサを広げていたら。、いつのまにか…

藤花:嬉しい! 私を選んでタバサはためかせて飛んできてくれた小鳥、大好き! 

 しかし、どうしてなのだろう。深夜までかかって、練り上げた想定問答集なのに、実践してみると、全然うまくいかない。ぼくの渾身の「傾向と対策」が、どうしても通用しない。なぜだ、神よ。

ぼく:今日も残業になるんだ。

藤花:毎晩、大変ですね。

ぼく:今日なんか部長にこんな感じで渡されて、(と大量の書類を抱えるパントマイムをする)、両手が書類のさまざまな束さ、サマンサ・タバサが似合いそうだね、きみは。 

藤花:え? どうしてサマンサ・タバサの話になったんですか? あ、彼女さんのことばかり、考えていたんでしょう?

ぼく:いや、いま彼女はいないんだ。

藤花:じゃあ、昔の思い出を引っぱっているんですね。昔の女じゃなくて、この会社を引っぱっていってくださいね。

ぼく:……。

藤花:……お疲れさまでございました。

  ああ、悔しい。またアドリブが効かなかった! あの無言部分に入れるべき台詞は、何だったのだろうか。前後の文脈と整合させるなら、「『この会社を引っぱって』なんて言われたら、正直 pull っちゃうし、照れちゃうよ。本当はきみに『一緒に旅行へ行こう』って push するつもりだったけど、今晩はシン pull に仕事に打ち込むことにするよ。おやすみ、ぼくの pull ンセス」。こうかな。ピザすぎる。いや、気障すぎる。アドリブでは、ぼくには絶対に言えない台詞だ。女の子との会話って、何て難しいんだ。

 そうぶつぶつ呟きながら、会社の近くの定食屋でメモ帳に反省点を記していると、男が相席してきた。同じ会社の同期の峰岸だ。

「よう。相変わらず、仕事熱心だね。睡眠不足に見えるけど、体調は大丈夫?」

 ぼくは「大丈夫だ」と答えて微笑しながら、さりげなく峰岸を観察した。峰岸の表情には何の気負いもなさそうだ。自然体で、生姜焼き定食を注文した。自然体で男前というのは、実に羨ましい種族だ。どんな「傾向と対策」をもって臨めば、こんな風に自然にいい男になるのだろうか。

「実は、残業前のこの夕食、オレもこの食堂でいつもきみと同じ時間に食べてるんだ。これからは同席してもいいかな」

「もちろん、歓迎、歓迎。仕事の話でもしようよ」

「いや、仕事の話は、ここでは遠慮したいかな。いつも仕事のことで、頭がいっぱいだから」

 隣の峰岸の部署も、かなり忙しいのは間違いない。ぼくと同じように毎晩終電近くまで残業しているらしい。同じように、ぼくが気になったのも、仕事以外の話。峰岸がわざわざ16時半から夕食を食べに外出しているという事実だった。ぼくと同じような企みを抱いているのにちがいない。

「新しく受付に座っている藤花ちゃんだけど、話したことある?」

「時々話すかな。入社したてで緊張しているみたいだから。この間は、たまたまコンビニであたったミルクティーをあげたら、喜んでくれたよ。たぶん、良い子だ」

 くすくす。さっそく馬脚を現したな。「恋敵」と書いて「ライバル」と読むべき男と、早くもご対面だ。ぼくは彼女が喜んだというミルクティーの銘柄を聞き出した。 

 ふふふ。「たまたま当たった」なんて可愛らしい嘘をついちゃって。お洒落なパッケージに、人気あふれる口コミ。口説きたくて奢ったに決まっているじゃないか。とりあえず、ぼくの人生経験から言って、「『午後の紅茶』以外の奢りはすべて口説き」。これを結論にしておこう。 

 それから、ぼくは毎日のように、定食屋で峰岸と一緒に夕食を食べるようになった。ぼくは没頭しやすいスペシャリスト型、峰岸は視野の広いジェネラリスト型。タイプは正反対だったが、仕事の話になると、ずいぶんウマが合った。

「ナノテク材料は次の時代に絶対に来ますから、仕事ぶりに期待していますよ」

 峰岸はそんなフランクな激励もくれた。心を許しそうにもなったが、休憩を前倒ししているのは、社内でぼくと峰岸の二人だけ。不審に思ったぼくは、少し先に一階まで降りて、峰岸がどんなふうに藤花に接するかを盗み見ることにした。

峰岸:天気予報では晴れだったのに、結局今日も降ってきちゃったね。

藤花:そうなんですよ。ランチに出かけた帰りに、急に本降りになったせいで、パンプスの先の靴下がぐしょ濡れになっちゃって。

峰岸:靴下がどうなったって? 

藤花:ぐしょ濡れになっちゃっ…

峰岸:OK、もういい。ありがとう、何だか元気が出たよ。明日の仕事も頑張れそうだ。

藤花:そういうこと言わせるんなら、峰岸さんとはもう口を利きませんから!

峰岸:それは困るな。本当?

藤花:本当です。

峰岸:口を利いちゃった! 可愛いんだね。ごめん、からかって。一日中ほとんど誰とも喋らないから、つらいんじゃないかと思って。おやすみ、可愛い子ちゃん。 

 ぼくは裏の廊下で、その会話の一部始終を目撃して、したたかにショックを受けてしまった。想像しうる限り、完璧な洒脱な会話だった。神は美男だけにセクハラ権を与えたもうたのだ。しかも、それをつぶさにメモしようとして、メモ帳をどこかに忘れてきたことに気付いた。泣きっ面に蜂だ。

 自分があんなことを言えるようになる日は、永遠に来ないに決まっている。どんなに入念に「傾向と対策」を準備しても、峰岸にはかなわない。同期の男に藤花を奪われると思うと、胸が締めつけられるように痛くなり、朦朧としてきた。

 いや、その霞んだ意識の中でも、想定問答集に頼らず、その場で誠実な言葉を伝えて、藤花を旅行に誘おうとする不屈の魂が震えているのを、ぼくは感じた。

 ……そして、次にぼくが目覚めたのは、翌々日の日曜日、病院のベッドの上だった。医師は不整脈で倒れたのだと説明した。ベッドの横の椅子に、峰岸が座っていた。

「働きすぎだとさ。明日の月曜日は、休みたかったら休んでもいいと部長は言っている。どうする?」

 迷った挙句、ぼくはいつも通り出社した。そしていつも通り、早い夕食休憩に一階へ降りると、藤花が心配そうに話しかけてきた。

「病院へ運ばれたって聞きました。身体は大丈夫ですか?」

 彼女の美しい笑顔を見ても、どうしてだか今日はいつものように緊張しなかった。そのまますらすらと、こう言った。

「藤花さん、次の週末にぼくと箱根旅行へ行ってもらえませんか? ずっと、あなたのことが好きだったんです」

 ぼくの誘いの言葉を聞いたとき、藤花の明るい笑顔が、急に悲しみに歪んだ。いま、何て言いました?と、ほとんど聞こえない微かな声が唇から洩れた。

 エレベーターの現在地ランプが5階から降りはじめた。乗っているのは、峰岸だろう。旅行に誘っている場面を、あいつには聞かれたくない。ぼくは快活にこう繰り返した。

「一緒に箱根旅行へ行きませんか?」

 藤花はハンカチで目尻の涙をぬぐって、表情を明るく立て直した。それから、受付の椅子から立ち上がって、ぼくの首に細い腕を回してきた。そして、こう囁いたのである。

莫迦ね。働きすぎは身体に毒よ。私たちは一昨晩、一緒に箱根へ行って、もう結ばれたのよ。帰りの新幹線で倒れたあなたは、最初は意識があったの。峰岸さんが病院へ運んでくれた」

 ぼくはエレベーターの現在地ランプが1階へ近づいてくるのを見た。

「あなたがどれほど私を愛しているかを教えてくれたのも、峰岸さんなの」 

  ぼくはいつもメモ帳を入れている胸ポケットを叩いて、そこが空っぽなのを確認した。想定問答集を書き込んだメモ帳が、今どこにあるのかを悟った。

 まもなく「恋敵」を乗せたエレベーターの扉は開くだろう。けれど、そんなことはもうどうでもいいことのように感じられたので、ぼくは彼女の身体に腕を回して、唇を重ねた。