短編小説「きみを幸せにする殺し屋」

 目醒めたとき、今日が何曜日かを思い出したくなった。月曜日だと思いあたって、あ、でも自分で開店したベーグル屋は先月倒産したんだった、もっと寝ようか。けれど、すぐ、今日から殺し屋の仕事をすることになっているのを思い出した。

 中学校の音楽教師をしている妻は、ぼくが起業したベーグル屋が倒産したことを知って、激昂した。勢いよく、マンションの10階のベランダへ続く扉を開けた。

「お前と一緒に生きていると、厭なことばかり起きるんだよ。今から飛び降りてやるから、うちの実家の父親に最初にいう台詞を今ここで練習しろ!」

 ぼくは肩をすくめて黙っていた。黙ったままでいると、妻は野良猫のようにとびかかってきて、ぼくにローキックを浴びせた。ぼくは左脚を押さえながら、こう言った。

「生まれてきてすみません」

 早く求職活動に取りかからなくては。新聞の求人広告にあった終末医療カウンセラーの面接会場へ、ぼくは翌日すぐに駆けつけた。不況の昨今、それが考えられないくらいの破格の条件だったからだ。

 面接開始の2時間前に着いたのに、1名の求人枠にすでに30人くらいの列ができている。それはやがて、ギネス記録を狙うドミノの列のように、どんどん長くなっていった。

 ぼくの面接の番が来た。

 面接官は黒いスーツを着た50代くらいの女性だった。スーツの黒い生地は、光線の加減で紫にも見える。女性は厳かに口を開いた。

「あなたがいらっしゃるのを、ずっと待っていました」

 ぼくはその意味を受け取り損ねて、黙っていた。女性は若い男性の部下に手振りで指示を出した。面接会場から退出した部下が、扉の向こうで長蛇の列に向かって、解散するよう大声で呼びかけているのが聞こえた。…申し訳ありません、本日募集の求人は、すでに採用枠が埋まりました、申し訳…

 どうやら、ぼくは即決で採用されたらしかった。ぼくは机の下の左脚を、少しだけ動かした。もう痛みはなかった。採用が決まったのなら、今後も蹴られて痛むこともないだろう。

 採用してもらったことを感謝したあと、ぼくは仕事の詳しい内容を訊いた。

「カウンセラーというより、殺し屋なのよ」

「ぼくには殺人はできません」

 そういって立ち上がったぼくの前に、若い男性部下が立ちはだかった。

「誰も殺さない。あなたは人を幸せにする殺し屋になるのよ。これはあなたにしかできない魂の仕事なの」

 鷹揚に腰かけたまま、女性はどこか神秘的な微笑を浮かべている。

「ここは宗教組織ですか?」

「いいえ。強いていうなら、能力者を中心とした互助組織ね」

 そう言ったときの女性の強い目の輝きから、ぼくは彼女が霊能力の持ち主なのだと直感した。彼女は事もなげに続けた。

「ヘルメスのご神託を実行しているだけ」

 そこで聞いた「ヘルメス」というギリシアの神の名前は、ぼくの記憶違いかもしれない。「ペルセウス」だったかもしれないし、「プロメテウス」だったかもしれない。

 とにかく、そこで「人を幸せにする殺し屋」の門外不出のノウハウを学んだぼくは、念願かなって正社員の殺し屋として生きていくことになったのだ。

 初めて渡された指令書の表には、40代の女性の名前が書かれていた。職業はキャバレーのママ。ぼくは単刀直入に「殺し屋」だと名乗った。

「冗談はよしてちょうだい。私は誰かに殺されるような女じゃないわ」

「逆です。殺したい相手は誰かいませんか? 費用は相談に乗ります」

 煙草をはさんでいる女の指が、小刻みに震えはじめた。

「秘密は守られます。報酬は完全後払いです。明日にでも、相手が死んだのを確認してから、お支払いいただいたのでかまいません」

 驚いたことに、その水商売の女が殺してほしいと頼んできたのは、15歳の実の娘だった。新しくできた年下の色男が、コブつきは厭だと言い張っているのだそうだ。本当は驚きはしなかった。指令所の裏に娘の名前が書いてあったからだ。「200万円しか払えない」と女が言ってきたので、ぼくは女に優しい口調で説明することができた。

「もっと安くてもかまわないんです。あなたが相手を殺したい度合いに応じて、報酬を設定してください。私たちはプロ中のプロです。人なんて簡単に殺せますから」

 結局、100万円で女はぼくに娘殺しを依頼した。ぼくはすぐに下請けの別れさせ屋を呼び出した。なにしろ、決行日は明日なのだ。20歳くらいの美男子は、100万円の予算の半分以上を使った豪勢なデートプランを立てた。別れさせ屋の報酬は、プラン予算に比例して上がるので、どうしても贅沢な暗殺プランになりやすい。

 ぼくは華奢で髪の長い若僧に向かってウィンクをした。それで行ってくれ、という合図だ。いずれにしろ、暗殺実行部隊はぼくたちではないのだ。

 翌日、学校をさぼって自転車に腰かけてぼんやりしている15歳に、若い男が近づいた。花束をもって、小綺麗なちょっとフォーマルな王子様風の格好をしている。若い男の胸ポケットには集音マイクが仕込んである。ぼくはそれをイヤホンで聞きながら、二人のあとを尾行した。

「プロポーズするはずだった彼女に、急にフラレちゃって…」

 若い男は、そんな映画のようなセリフを囁いている。風が強いせいか、二人の話し声は途切れ途切れになる。娘は「嘘、嘘!」と驚いた叫びをあげながら、とても幸福そうだ。そのあと、若い男は普段着の娘を連れて、高級ブティックで服を選び、美容室でパーマとメイクを奢ってやった。後日、その領収書はぼくへ送られてくることになっている。

 やがて、腕を組んで夜景の見えるレストランへ行った二人は、ホテルへは行かずに、都会のビルの谷間で別れた。中には、ベッドインしたがる別れさせ屋もいるが、そういうプランは組ませない規則になっている。というのも、別れさせ屋たちの精神状態がもたなくなるからだ。

 「絶対に連絡ちょうだいね!」

 まだ15歳なのに、娘はすっかり華やかな大人の美女に化けている。嬉しげな嬌声をあげて、別れさせ屋の男に手を振っている。若い男はにこやかに手を振って、踵を返した。すぐに街角を曲がって消えた。急いでいるのには理由があった。聞きたくない音があるのだ。

 美女に変身した娘の近くにいた私は、その音をはっきりと聞くことになった。それは暴走した車の激しいエンジンの唸りと、歩いていた酔客たちの怒鳴り声と、一人の若い女性の悲鳴だった。

 暗殺実行部隊が別だからと言って、どうしてそこまで淡々と、殺し屋稼業の実態を記録できるんだ! そう憤って、ぼくを非難したくなる人々の気持ちが、ぼくには痛いほどよくわかる。今ここで明確に書けるのは、殺し屋をはじめて、何人もの殺しを言い値で請け負うようになってから、ぼくがとても幸福になったことだ。

 職を得て、生き生きと働くようになったぼくに、妻はこう打ち明けた。

「この間はごめんなさい。あなたにキツく当たってしまって。あなたがあんなに一生懸命に打ち込んで開店したベーグル屋が、おかしな感じで潰されたのが、どうしても我慢できなかったの」

 内装も自分でセンチメートル単位まで設計した。ぼくにとっては夢の場所だった。開店当初は大人気だったし、2年半でこんなことになるなんて、確かに本当におかしな感じなのだ。

 妻にはほとんど真相を話していない。現在、閉店したベーグル屋の表の扉は、頑丈すぎる外付けの錠前で固定されている。それは不動産屋のものではなく、悪い奴に仕掛けられた悪戯だ。どう足掻いたって、閉店するしかなかった。その錠前の開け方をあちこち必死に探していて、ぼくは殺し屋の求人広告を見つけたのだった。

「私たち二人が力を合わせれば、きっとうまくやり直せるから」

 妻は泣きながら、ぼくを励まそうとした。その言葉を、ぼくはほとんど信じられない思いで聞いた。これまでローキックやボディーへのフックはもらうことがあっても、そんな優しい言葉なんて、かけてもらったことがなかったのだ。

「大丈夫だよ。いまの終末医療カウンセラーの仕事は、とてもぼくに合っているんだ。これから良いことばかりだよ」

  不確定な希望を語れるのは、幸福のしるしだ。いつになく、和やかな晩を過ごした翌日、ぼくは出社して、新しい指令書を受け取った。雑居ビルの一角にある小さな会社なのに、ぼくは一度も暗殺実行部隊らしき同僚に、出逢ったことがなかった。

 殺しを依頼されたターゲットのうち、事故死や転落死や自殺だけでなく、落雷によって突然死したケースに遭遇したとき、ぼくは自分を取り巻く世界と自分のやっている仕事の密やかな美しい連関に気づき始めていた。

 ヘルメスだか、ペルセウスだか、プロメテウスだか、忘れた。とにかく神託は本当に神々から降りていて、間もなく突然死する人とその人に消えてもらいたがっている人のワンペアを、ぼくらに伝えるのだ。そして、死の直前、後者の憎しみを前者の幸福へと変換するのが、ぼくらの愛すべき仕事なのだ。

 その日、指令書の封筒を渡されたとき、ぼくはどうして面接当日、あたかも呼ばれたかのように、選ばれたかのように、自分が採用されたかを悟った。封筒を持つ手が震えた。しかし、その封筒を封切らなくても、神の摂理は変わらない。ぼくは封筒を開けた。

予想された通り、殺しの標的の欄に妻の名が、殺しの依頼人の欄にぼくの名前が記されていた。そのまま膝が崩れて、しゃがみこんで、ぼくはしばらく泣いた。

 手持ちのクレジットカードはすべて凍結されていた。殺し屋は月給制なので、15人を殺しても、まだ給与は受け取っていなかった。交通費の一万円を手に、ぼくは二人で過ごす「最後の休日」を迎えた。

 妻の休日に合わせて、ぼくが休みを取ったのを知って、妻は大喜びした。ベーグル屋は繁華街の夜の蝶たち向けに、遅くまで営業していた。二人でゆっくりと過ごせるのは久しぶりだった。

 会社から入社お祝い金でもらったのだと言って、ぼくは妻に一万円を見せた。けれど、どこへ遊びに行こうと誘っても、妻は首を横に振って、大変なときだから取っておこうと繰り返すのだった。

 お金のかからない遊びをしようと妻が言ったので、近くの川べりへ散歩に出かけた。この2年半、ほとんど休日なしでベーグル屋に没頭していた。面白いところが好きだからと言われて結婚したのに、ぼくはいつしか、冗談らしい冗談をほとんど言わなくなっていた。

 ぼくは思いつく限りの冗談を言った。それもつまらないやつばかり。他人が聞いてもどうして可笑しいのかわからないような冗談ばかり。

 ぼくはニュースキャスターとコメンテーターを一人二役で演じた。

「ですから、たとえトランプ大統領『瓜坊』推進に舵を切ったとしても、諸外国は簡単には動かないでしょうね」

「要するに、どうしてここで急に『瓜坊』を唱えだしたか、国際社会の理解が得られてないわけですね」

  妻とぼくは腹を抱えて笑った。

 その昔、スピリチュアル好きのぼくの影響受けて、妻が「いま私の脳裡に『瓜坊』という言葉が降りてきた」と言い張ったことがあったのだ。何のことはない。それは霊感ではなく、テレビのニュース・キャスターが言っていた「自由貿易」という言葉を聞違えただけだったのだ。

 夜になって、ベッドに横になっても、ぼくと妻の冗談総集編は終わらなかった。Nyan Jovi をやってほしいと、リクエストされてしまった。

 その冗談の設定は、猫バンドが猫のくせに粋がって Bon Jovi を完全コピーしているが、格好をつけた最後の瞬間に、猫であることが露見してしまうというショートコントだ。ロング・ドライブの渋滞中、妻の心をほぐすために作ったジョークだった。

Shot through the heart
And you're to blame
Darlin', you give love a NYAO NYAO!

 またしても、妻とぼくは笑い転げた。たぶん笑いすぎたせいだろう、ぼくは涙目になってしまった。それを見て、また妻が笑った。ぼくも一緒になって笑った。

 やがて、妻は眠気を催したようだった。まだまだ冗談はあるよ、とぼくが声をかけると、無理して笑わせようとしなくていいのよ、と彼女は言った。そしてこう付け加えた。

「お金を全然使わなかったけれど、今日があなたといて、いちばん楽しかった。ありがとう」

 妻は眠ったようだった。このあと、彼女を心臓発作が襲うのだろうか。それとも、大地震が来て、ぼくも一緒に死ぬのだろうか。ぼくには何もわからなかった。

 毛布に顔を埋めてしばらく泣いたあと、ぼくは耳を澄ませて、妻の寝息をじっと聴いていた。それから、特別な計らいで今日のような幸福な一日を過ごさせてくれたことに、感謝の祈りを捧げた。ヘルメスだか、ペルセウスだか、プロメテウスに。