短編小説「メロンもマロンも空論」
探偵が話し合いに指定したのは、私の自宅マンションだった。都内の商社に勤める夫と私の二人暮らし。結婚と同時に新築マンションを購入したので、室内にはまだ3年目の真新しさがある。
玄関で探偵と名乗った男は、意外にもプログラマーのような風貌の30才くらいの男で、どこかオドオドしている感じがあった。私はほっと胸を撫で下ろした。夫や親族以外の男性を家にあげるのは、これが初めてだったのである。
探偵は座るなりノートPCを開いて、動画を私に見せた。画面の中のソファーに、目の前と同じ若い探偵が座っている。探偵はソファーの隣に座っている若い女性の肩を撫でて、しきりに慰めている。
若い女性は涙を流しながら、酷い… あんなことをするなんて… 酷すぎるんです… と繰り返しては、こみあげてくる嗚咽を呑み込んでいた。探偵事務所に来た相談者が泣いている場面らしい。
「その女性は誰ですか?」と私が訊いた。
「メロンちゃんです」
「メロンちゃん」
若い探偵はわざとらしく頭を掻いた。
「申し訳ありません。守秘義務で名前はお答えできないんです。このメロンちゃんの声を覚えておいてください」
次に探偵は音声ファイルを再生した。
「おい、待てよ」と男が声を荒げている。女が「助けて!」と悲鳴を上げた。女を組み伏せるような音。ベッドがきしむ音がした。「やめて、やめて」と叫んでいる声は、どうやらメロンちゃんの声のようだ。
探偵が大袈裟な手ぶりをして、音声の再生を止めた。
「次は、男性の声に注意して聞いてください」
探偵が音声を再生すると、男の野卑な声が響き渡った。
「へっへっへっ、美味しそうな身体をしているじゃないか」
私は幼稚園の頃からエレベーター式の私立の女子校を駆け上がっていったので、こんな下品な喋り方をする男は、知り合いにはいない。
「ほら、ほら…」
しばらく聞いたところで、私は顔から血の気がすーっと引くのがわかった。メロンちゃんに乱暴している男の声が、夫にそっくりだったのである。
「ようやく大人しくなったな、仔猫ちゃん」
私は両手で顔を覆って、泣き始めた。「仔猫ちゃん」は夫が「ダーリン」の代わりに使う愛用語だったのである。
探偵は私の心の動きを察して、音声の再生を止めた。何度も頷きながら、こう慰めてきた。
「奥様が旦那さんのすべてをご存知だとは限りません。失礼ながら、奥様のように由緒ある育ちの美しい方には、話せないこともあるのだと思います。例えば、レイプが趣味だとかいったことは」
女子高育ちの私は、夫が男性は夫しか知らない。口笛が好きだとか、霊感があるだとか、笑い上戸だとか、普通とは異なる部分があるのも知っていた。しかしまさか、商社で頭角を現し、遅くまで残業をこなす有能な夫に、犯罪行為をするような趣味があるとは、夢にも思わなかったのだ。
「メロンちゃんは、100万円で示談にしたいと言っています」
探偵はその金額を笑みを浮かべながら言った。自分が安くまとめてきたという意味なのだろうか。確かに、告発されて職を失うのに比べれば、100万円は安かった。
それから三回、合計で四回、その探偵と会った。二回目の音声では夫はメロンちゃんを殴り続けていた。三回目の音声では夫はメロンちゃんの首を絞めていた。四回目の音声では夫は私の身体を悪しざまにいって笑っていた。私は合計2000万円の示談金を払った。夫に相談しようとする気持ちは、二回目の音声で夫が嬉々として暴力を振るいつづけているのを聞いて、雲散霧消してしまった。
何かがおかしかった。あるいは、何かがおかしくなった。
それから数日後、夜遅くに残業を終えた夫が帰ってきた。夫は表情は疲れていたが、私の顔を見ると、とても嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。ずっとここで待っていてくれたの?」
「お風呂になさる、ご飯になさる?」
「食事は済ませてきたんだ。朝シャワーを浴びるから、先に一緒に休まないか」
スーツをハンガーにかけようとした夫が、私の方を振り向く。
「そんな薄着で大丈夫かい。風邪をひかないようにね」
夫はどこまでも優しくて自然体だ。同じ男が女性にあんなに酷い暴力を振るうとは、信じられなかった。
新婚以来、ずっと一緒に眠っているダブルベッドに、私たちは横になった。
「仕事で変わったことはない? 体調はどう? ストレスは解消できている?」
何か手がかりをつかみたくて、私は夫へ質問を重ねた。けれど、どの問いにも、夫はそつのない答えをする。隠し事があるようには見えなかった。
「ごめん、ちょっと寒気がするんだ。風邪をうつしたくないから、和室でひとりで寝てもいいかな」
今度は、私がそつなく「どうぞ」と答える番だった。何かがおかしいと感じた私は、しばらく待って、夫が寝静まったのを確認すると、夫の眠る和室に録音機を仕掛けた。
翌朝、リビングで録音機を再生した。すると、やはり夫のおかしな言動が録音されていたのだ。
夫:マロンちゃん…
(きっと夢を見ながら寝言を言っているのね。びっくり! メロンちゃんだけじゃなくて、マロンちゃんという愛人もいるの!)
夫:もう口をつけてもいい?
(ショックだわ。この愛人ともキスする関係なのね)
夫:ふふ、嬉しい。(何かを吸う音)ああ、美味しい。夢みたいだ。
(汚らわしい! 妻以外の女の乳房に吸いつくなんて)
夫:これがなきゃ、生きていけないんだ。(何か液体をすする音)あ、温かい。熱いくらいだ。
(え? 液体の音がした。母乳を吸っているの? 母乳がなきゃ生きていけないの? 嗚呼、私の夫にそんな趣味があったなんて!)
夫:わかったよ。そばにいくよ。
(ん? 場所を移動したのかしら)
夫: いいんだよ。忙しくて、きみと話す時間を作れなかったぼくが悪い。
(何を話し合うつもりだったの? ひょっとして離婚話?)
夫:ぼくはのらりくらり仕事の話をしただけさ。特にどうっていうことのない女だよ。
(さっき仕事のことを訊いた私のことを言っているのね。酷い。その程度の扱いなの、私って)
夫:莫迦だな。ぼくがきみ以外の女性を愛するはずがないじゃないか。もう本当に、きみしか見えないんだ。
(何だか、泣けてくる。結婚した私には、控え目な愛の言葉しか言ってくれなかったのに。どうしてそんなにマロンちゃんがいいの?)
夫:とても綺麗だよ。きみは世界一綺麗だ。ぼくはきみに逢えてとても幸せだよ。
(私… そこまで言ってもらったこと一度もない。マロンちゃんに負けて、ただひたすら悲しい)
夫:小さなクラッカーだから、崩れてしまうこともある。
(ん? お酒のおつまみの話?)
夫:…そう、大切なものは目に見えないんだよ。
(マロンちゃんと、何か約束をしたの?)
私は音声を聞き終わったあと、茫然自失して、立ち上がれなくなった。ベランダの向こうの空は夕暮れて、やがて夜のとばりが降りてきた。私は電気もつけずに真っ暗な部屋の中でめそめそ泣いていた。夫が複数の愛人と異常な情事を持っていたという事実を、どうしても受け入れられなかったのだ。
真っ暗なリビングの中で、何かの気配が動いた。はっとして、その方向を見ると、ひと目見てそうとわかる死神が立っていた。
「そろそろ気がつきましたか?」
「夫は私に隠れてふしだらな浮気をしていたんです」
「そうじゃなくて、今のあなたがどういう状態なのか?」
闇の中でぼうっと白んでいる死神が、私に向かって誕生日ケーキの蝋燭を消すように、ふっと息を吹きかけた。すると、私の身体が煙のように奥へ飛ばされたのがわかった。
「ね?」
死神はフランクな微笑を浮かべた。あなたは浮気の衝撃のせいで、そしてその直後に選んだ決定的な行動のせいで、記憶の一部が消し飛んでしまったんです。
「決定的な行動?」
死神はベランダへ続くドアを開け放った。強い風が吹き込んで、カーテンが踊り狂った。22階の高さでは、洗濯物が干せないほど強い風が吹いているのだった。数日前、髪を振り乱して、数十分ものあいだ、自分がその風に吹かれていたのを、私は思い出した。そして、数十分後に自分がとった決定的な行動のことも思い出した。
死神が扉を閉めたので、リビングに静寂が戻った。
「亡くなったときの感情を、幽霊はずっと抱えてしまうものなのです。あなたはその悲しみに合わせて、歪んだ眼鏡で思い出をなぞり返しているのです。あなたを解放してあげたい。オープンマインドで、あなたに本当に起きたことを、あなたは受け入れられますか?」
私は悲しみを振り払って、死神の目をまっすぐに見た。それから、微笑んで頷いた。
死神が指を鳴らすと、リビングの北側の白壁に、夫と私がいるのが見えた。このときの情景を、夫は何度も反芻してくれていたのにちがいなかった。
夫:マルちゃん…
私:夜食はいつもカップ麺ね。
(そういえば、夫は大の「マルちゃん」好きだった。多忙で疲れて放心状態になっているとき、ふと「マルちゃん」と呟くほどだった)
夫:もう口をつけてもいい?
私:もう、せっかちなんだから。いいわよ。
夫:ふふ、嬉しい。(何かを吸う音)ああ、美味しい。夢みたいだ。
私:「夢」だって(と笑う)。別の夜食でもいいでしょうに。
夫:これがなきゃ、生きていけないんだ。(何か液体をすする音)あ、温かい。熱いくらいだ。
私:食べ終わったら、ベッドで一緒に横になりましょう。話したいことがあるの。
夫:わかったよ。そばにいくよ。
私:(しばらく啜り泣いて)ごめんなさい。私、取り返しのないことをしちゃった…
夫: いいんだよ。忙しくて、きみと話す時間を作れなかったぼくが悪い。
私:あなたを信じるべきだったのに。私、悪辣なメロンちゃんたちに、すっかり騙されちゃって…
夫:ぼくはのらりくらり仕事の話をしただけさ。特にどうっていうことのない女だよ。
私:まさか、雑談の音声ファイルを元に、あんなにリアルなレイプの合成音声が作れるなんて、知らなかったの。女の声も真に迫っていたから。
夫:莫迦だな。ぼくがきみ以外の女性を愛するはずがないじゃないか。もう本当に、きみしか見えないんだ。
私:いま、私のこと見えている? 幽霊になった私が、あなたにきちんと見えている?
夫:とても綺麗だよ。きみは世界一綺麗だ。ぼくはきみに逢えてとても幸せだよ。
私:でも、私は莫迦な女。あんたを信頼しきれなかった…
夫:小さなクラックから、崩れてしまうこともある。
私: あなたを信頼して話せば良かった。大切なものが見えていなかった…
夫:…そう、大切なものは目に見えないんだよ。
数日前に話が通じた夫が、最後にそう言ってくれたとき、「大切なものは目に見えない」という言葉の粒が、私と夫との間できらきらと輝いて舞うのが見えたのを思い出した。
もう逢えない。逢えないことがわかっているのに、私はどこか幸せだった。そのきらきらとした言葉の輝きが、夫の優しさと誠実さを物語って余りあったから。消えていく私を、夫がこれからも大切に思ってくれることが心の底へ響いてきたから。
リビングの北の壁に投影されていた映画が消えた。私は夫と暮らした温かい空間と時間の記憶を心に刻んで、踵を返すと、22階のベランダの向こうの宙空で手招きしている死神の方へ、ゆっくりと歩みを進めていった。