短編小説「生命にかかわるコルク」

「明日は家具屋さんを見に行きましょうね」

 真夜中なので、ホテルのツインルームの電灯は消してある。フィアンセが明日の予定の話をしたので、ぼくは暗闇の中で頷いた。

「碑文谷とか、自由が丘とか、あの辺りを歩こうか。骨董は現物を見ないと始まらないからね」

 それから、ピロートークはいつのまにか「ボタン」の話へと移った。どこかを押せば動くボタンがあるんでしょうと訊かれて、ぼくは答えに詰まった。機智の見せどころだ。

「もちろんあるよ。この辺のボタンを押せば、有名な曲をボサノバっぽくアレンジして歌う。この辺を押せば、とんでもないくらい泣き虫になる。チョコレートが怖くて泣いちゃうくらい」

「チョコレート好きだもんね」

「チョコに入っているフェネチルアミンは、恋の媚薬なんだぜ」

 それから、ホテルの密室にいるカップルに、起こるべきことが起こった。きっと、どちらかがどちらかのボタンを押したのだろう。結婚直前の二人には、チョコレートは必要なかったということだ。

 翌日、ぼくらはぶらぶら散策しながら、いくつかの家具店を見て回った。アンティークのワードローブは怖いくらい物が収納できない。フィアンセは書き物机を探している。振り向いてこちらへ呼びかける声が、可愛らしい。見て、アンティークなのに天板が縮むよ、とか、このサイズならノートパソコンを置けそう、とか。

 ぼくは瀟洒な家具店を歩き回りながら、幸せを感じていた。未来のいつか、新生活直前にフィアンセと散策したこの日のことを、幸福な気持ちで思い出すにちがいないと感じたからだ。

 歩いている通路に、鋲どめの革のソファーが並んでいる。その横を通りすぎようとしたとき、ぼくは急にどんという衝撃波を受けて、ソファーのひとつの中に倒れ込んでしまった。どうしてだか、立ち上がろうにも立ち上がれない。自分の身体を見下ろすと、ポロシャツを貫いて、胸に風穴が開いているのがわかった。

 うつむいて見る限りでは、風穴の向こうは真っ暗で、穴が開いたのに痛みもない。風のように、空気の流れがかすかに穴へと引き込まれている。何の衝撃波を受けたのだろうか。自分では奥までしっかり見えないので、ぼくはフィアンセの姿を捜した。

 ところがその午後を境に、フイアンセはこの世界から消えてしまったのだ。ぼくを嫌いになって失踪したとか、別の男と駆け落ちしたとか、そういうドラマでありがちな展開なら、どれほど良かっただろうか。フィアンセの電話番号が消え、ワンルームマンションが消え、実家が消え、周囲の人々から彼女の記憶が消えていた。

 ぼくは二人で暮らす予定だった新築の家が、棟上げを済ませて、赤茶色の屋根がついても、フィアンセは世界から消えたままだった。

 ぼくは呑み慣れない酒を飲むようになった。最初はバーのマスターも半信半疑だった。ぼくの胸の風穴へタバコの煙が吸い込まれるのを見て、マスターはこう言った。

「その胸の穴は、並行宇宙とつながっているんじゃないか?」

 読書家のマスターが言うには、宇宙には無数の並行宇宙が並んでいて、ぼくらはその並行宇宙の間を一瞬一瞬移動しながら、自分の生きる世界を選んでいるのだそうだ。

「きみはその家具店で、何かの弾みで、フィアンセのいない世界へシフトしてしまったんじゃないのかい」

 ぼくは曖昧に頷いて笑った。.指先を舐めて、胸の風穴に近づけた。胸に開いた小さなブラックホールが、空気を吸い込んでいるのがわかる。言い換えれば、そのことくらいしかぼくにはわからなかった。気分転換には濃いアルコールが必要だ。ぼくは火がつくくらい度数の高いカクテルを注文した。

「このカクテルは、実際に火をつけて飲むんです」

 マスターが恭しくマッチを差し出した。マッチをすってグラスに近づけると、カクテルに勢いよく火がついた。その炎に焼かれて、マッチの軸があっという間に燃えたので、ぼくは持っていき場がなく、思わずそれを自分の胸の風穴へ入れてしまった。

 指先にまだ熱は残っている。ところが、燃えているマッチは、ぼくの身体のどこにも感覚を及ぼさなかった。マスターの言う通り、胸の風穴は別の宇宙に通じているのかもしれなかった。燃えているカクテルをストローで呑んで、すっかり酔ったぼくは、途轍もなく陽気になった。大笑いしながら、「フィアンセが存在しなかったので」と申し出て、結婚式場を解約した話をした。実際、この事態を笑い飛ばすほかに、どんな方法があっただろう。込み上げてくる笑いを口の中に含んだまま、電話に出た。すると、建築途中のぼくの新築の家が、不審火のせいで全焼したことを知らされた。

 ぼくは自分の胸の風穴をじっと見つめた。それから、マスターにお願いして、ちょうどいいサイズのワインのコルクをもらって、胸の風穴に蓋をした。コルクは風穴にちょうどうまく嵌まって、5mmくらいだけ体表から出ている。まるで何かのボタンのようにも見える。……

 その翌日からの生活は、酒浸りの日々よりさらに悲惨だった。火災保険は新築の家が完成後からの契約になっていた。現在の生活に、住宅ローンだけが余分にのしかかってきた形だ。ぼくは会社勤めが終わったあと、マスターの紹介で、或るキャバレーのマネージャーを務めはじめた。マネージャーと言えば聞こえは良いが、面倒なトラブルのすべてを尻ぬぐいする汚れ役だ。

 人生という舞台では、似合わない役を演じねばならない時期があるのだ。

 店のフロアレディーにこき使われたり、酔客に殴られたり、吐瀉物の掃除をしたり。そんな日々が続いているうちに、ぼくは胸の風穴に挿したコルクが、少しずつ奥へとめり込んでいくのに気付いた。最初は5mmくらい皮膚から浮いていたのに、今やコルクは皮膚と同じ高さだ。やがて、どんどん埋没していくに違いないと感じられた。そして、向こう側へすぽっと抜けた瞬間、たぶんぼくの生命は宇宙へ吸い込まれて消えてしまうのだろうと、ぼくは想像した。

 或る晩、些細なことで酔客に言いがかりをつけられて、土下座をさせられたあと、ぼくは控室でひとりになった。フィアンセのいない世界、借金だけに追い立てられる世界を拒絶したくなったのだ。上着を脱いで、思い切って、胸の風穴に挿したコルクを指で強く押し込んだ。ところが、押し込んだ瞬間、向こう側で誰かが押してくる力が加わって、コルクはむしろ皮膚から浮き上がった。

 「コルク自殺」は不発だった。そのあとも、厭世感が高まって、ぼくは何度か衝動的にコルクを押し込もうとしたが、きまって向こう側から押し返す力が働くのだった。

 或る晩、ハンシャと通称される凶悪な男五人組が、キャバレーに雪崩れ込んできた。店の女の子たちは悲鳴を上げた。リーダー格の男が果たし状を読みあげている間に、格下の男が店中にガソリンを撒いた。店内が騒然とするのを見て、リーダー格の男が嬉しそうにライターを点けた。

「いいか、おまえら、おれたちの言うことを聞かないと…」

 世界は莫迦げた抗争に満ちている。地下の店内に、出入り口はひとつしかなかった。ぼくは全焼した自分の新築の家のことを思い浮かべた。それから、自分の人生がどうしようもないほどくだらないことで終わっていくのを、あきれた思いで眺めていた。

「…おれたちの要求は三つある…」

 そう言いながら、男が高々とかざしているライターの火に、気化したガソリンが引火した。炎がたちまち床を走り、店中が火の海と化した。ぼくは上着を脱いで、胸の風穴のコルクを、渾身の力を込めて押し込もうとした。しかし、いつものように、向こう側から強い力でコルクを押し返してくる。足元を炎が舐めていた。はっと思いついて、ぼくはコルクを押し込むのではなく、引き抜く方向へ力を加えた。

 すると、あっけなくコルクは抜けた。風穴は、例によって、吸い込むように空気を引き込んでいる。その向こうに並行宇宙があるはずだった。ぼくは顔を一心に風穴の方へと近づけた。すると、身体がくるりと反転する感覚があった。ぼくは自分の胸の風穴に吸い込まれたらしかった。

 …気が付くと、ぼくは自宅のベッドに横たわっていた。火傷があるような気がして全身をまさぐったが、どこにも痛みはない。どんな並行宇宙にシフトできたのだろうか。パジャマをはだけると、胸の風穴にコルクが挿してあるのがわかった。

「駄目じゃない、まだ寝ていないと。酷い高熱なのよ」

 フィアンセが、そう心配そうに言って近寄ってきた。ベッドに腰かけた彼女に、以前と変わった様子はない。すべてが夢だったのなら胸を撫でおろすところだが、その胸には風穴が開いていて、コルクが挿してあるのだ。

 二人きりの部屋なのに、フィアンセが声をひそめて言った。

「そのコルクに、あなたの生命がかかっているんでしょう?」

 ぼくは何と言っていいかわからなかった。どういうわけか自分でも、ひとつ前の世界で、そのコルクを胸の内側へ押し込み抜けば、死ねると信じていたのだ。

「原因不明の高熱で、あなたの病状が悪くなると、きまってそのコルクが胸から浮き上がってきたの。私が頑張って押し返したら、熱は下がったのよ」

 フィアンセは誇らしげに微笑んで見せた。ぼくの意識が戻ったせいで、彼女はすっかり安堵している様子だった。

「ありがとう。よく覚えていないけれど、きみに生命を救われたような気がしている」

「生命の恩人は大袈裟ね」

 フィアンセが笑ったので、ぼくも笑った。ぼくはさりげなくこう訊いてみた。

「熱が下がったら、あの新築の家にぴったりの家具を探しに行こうよ」

「それはいいわね。そうしましょう。そんなことより、そのボタンの秘密を知ってしまった私と一緒になれるの?」

 ぼくは何の気なしに、胸の風穴に挿してあるコルクに触れた。

「どういう意味だい?」

「そのコルクを引き抜いたら、あなたはきっと死んじゃうでしょう? 浮気したらすぐに引っこ抜くけど、それでもいいの?」

 ぼくはベッドから身を起こして、しばらくフィアンセの姿をじっと見つめた。彼女は、ぼくが彼女のいなくなった世界で、どれほど酒を呑み、どれほど苦しみ、どれほど泣いたかを知らないのだ。

「かまわないさ。ぼくがそんな莫迦なことをしたとしたらね」

 この世界に彼女が存在すること、二人が新生活を始める新築の家が存在すること、そこに運び込むアンティークの家具が存在すること。それらのすべてが素晴らしかった。

 ぼくは目を閉じて、自分の心を満たしている幸せを、深々と味わった。何より、自分の生命にかかわるコルクの扱いを、信頼して委ねられる相手がひとり、この世界で自分のそばに存在しつづけることが、幸福でたまらなかったのだ。

 

 

 

コルク替栓(5ケ入)

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