短編小説『アンドロイドは豚しゃぶしゃぶの夢を見るか』
森の木々の間を、高い鉄条網がうねうねと伸びている。その柵の向こうに、木々にカムフラージュされた低層の秘密訓練施設があった。施設の中の二段ベッドの上で、ぼくはしばらく雨音を聞いていた。森に雨が降りしきっているので、夜の訓練メニューのジョギングはできない。
ベッドに横たわって、ぼくは気晴らしの読書をしている。銀行口座には唸るほどの貯金があったが、ここは鬱蒼と茂った森の中。頭をからっぽにするには、平易で短いショートショートを読むのがいい。
文庫本の或る部分に目を走らせたとき、その短編を中学生の頃に読んだことがあるのを思い出した。書き出しはこうだ。
昭子は美しく若い女だった。(…)月の光で虹ができるものなら、それに似ているといえよう。どことなくすがすがしく上品で、そして清らかだった。
「月光がかける虹のよう」という形容があまりにも美しすぎるので、中学生の感じやすい未熟な心には響きやすかったのだろう。
短編では、ヒロインの昭子に若手俳優の恋人ができる。しかし古風な父が俳優との結婚を猛反対するので、恋人たちは、古風にも心中する。ところが、俳優の男だけが予定通り心中を生き延びる。昭子は末期がんを告知されておらず、実は父が俳優を手配して、最も幸福な死をプレゼントしていたという話。昭子の愛と生命の儚さを感じさせる結末が、「月光がかける虹のよう」という書き出しと、響き合う構成になっている。
懐かしい思いで、文庫本をのページをめくっていたとき、ふと頭の中に逢ったことのない女性のイメージが浮かんだ。彼女が「月光がかける虹のよう」という形容に、自分の容姿を似せようとしている気配が伝わってきた。ヘアブラシのイメージも一緒に降りてきた。 「いつも通りでも大好きなのに」とぼくは反射的に呟いた。呟いた後で、その女性に一度も逢ったことがないのをもう一度思い出して、不思議な気持ちになった。
こういう超自然的で野生的な勘が育ったのは、ぼくがSATから選抜された少数精鋭の特殊部隊の一員だからだろう。この国でわずか8名の極秘の特殊部隊に、ぼくは所属していた。夜の海峡へ突き落されても、極寒の雪原に取り残されても、ぼくたちは生き延びる心身の膂力を備えていた。限界状況のもとで鍛え上げられた直感は、捨てたものではない。事実、そのヘアブラシで髪を梳っていた女性と、翌日ぼくは遭遇したのだ。
翌朝の夜明けに召集された特殊部隊八名は、一列に並んで、鬼軍曹に敬礼した。
「核シェルター訓練を行う」
鬼軍曹は長い肩書を持っていたが、気が短いので、正式な肩書で呼ばれることを嫌った。ぼくらは「鬼軍曹」をさらに短縮して、軍曹と呼ぶことを許されていた。
「本日から、おまえらには核シェルターの待避訓練をしてもらう。期間は一週間。水と食料は一日分しかない」
夜明けの凛とした空気の中、ぼくら全員が表情ひとつ変えなかったにちがいない。半月間の極秘のサバイバル訓練に耐え抜いた八名だったからだ。
「ただし、アンドロイドを一体ずつ供与する。このアンドロイドは変幻自在の最新鋭の装備品だ。シェルターに待避している期間、友人にもできれば、恋人にもできる。鹿や豚にも変えられるので、最終的には食料として消費して、サバイバルに使える。質問はあるか?」
ぼくらの誰ひとりとして声をあげなかった。ここで質問をすれば、鬼軍曹にマイナス査定をつけられる。状況はつねに動いているので、それを受けて瞬時瞬時に判断していくのが特殊部隊の仕事なのだった。
核シェルターは八基あった。八名全員が順番に待避する段取りだった。
ぼくの名前が呼ばれた。最初に名前を呼ばれたことが、ぼくの誇りを奮い立たせた。絶叫に似た軍隊独特の返事をすると、アンドロイドを横抱きにして、シェルターの中へ駈け入った。背後で、扉が重々しく閉まる音がした。
真っ暗なシェルターの中の夜光塗料を頼りに、ぼくはようやく手動ハンドルを回すことができた。これで灯りと換気は確保できた。アンドロイドは遠隔操作でスイッチが入ったようだった。
薄明りの下で見ると、アンドロイドははっとするような美女に化けていた。どこか悲しげで、月の光でできる虹のような風情があった。
「ねぇ、お水をちょうだい」
「水は一日分しかない。きみはアンドロイドだから、水を飲まないはずだ」
「でも、呑まない人がいるからってあなたが呑まないと、私まで淋しくなっちゃう」
美女はいつのまにかぼくの隣へ来ていて、酔ったふりをしてしなだれかかってくる。台詞回しやドレス姿からすると、状況設定は夜の盛り場なのだろうか。女は拗ねてぼくから身体を離した。
かと思うと、すぐにまたしなだれかかってきた。視野の隅で、ウォーターボトルの蓋が開いているのが、ちらりと見える。何と言うことだ。照明が暗いのを良いことに、勝手に水を飲んだらしい。
女はしきりにぼくの頬を両手で挟んで、顔の向きを固定しようとしてくる。艶めかしい唇の感じから、女が口移しに水を飲ませようとしているのがわかった。水は何よりも貴重だ。
ぼくは女とキスをして、水の口移しを受け入れた。水のあとに女の柔らかな舌が入ってきたので、水は妖しい味に変わった。いつのまにか女はぼくに馬乗りになっている。耳元に口を近づけて「ねぇ、私を女にして」と囁いてくる。
ぼくは敏捷に身体を跳ね起こして、女から離れた。どうも様子がおかしい。一週間の核シェルター訓練の助けになるはずだったアンドロイドが、訓練の成功を邪魔しているかのように感じられる。お前は何がしたいのか?
と、先ほど手回しして貯めておいた電気が切れた。部屋が真っ暗になった。
再び手回しして灯りをともすと、アンドロイドの女は懐かしい知っている女性の顔になっていた。半年くらいだけ、彼女と交際したことがあったのだ。
「一週間は大変やね」
彼女にそう言われると、急に心が波立って冷静でいられなくなった。
「どうしてここに?」
「なんでとか、きかんとってや。真夜中のメールに返事せんかったけん、気になって見にきたんよ。ほら、こっちへおいで」
彼女はそう言って、自分の飼い犬の名を呼んだ。ぼくは心臓が異常に高鳴って、自分の心身がおかしくなってくるのを感じた。肩で呼吸し始めた。
一度だけ、真夜中に淋しくなって「彼女の飼い犬と同じくらい可愛がってほしい」とメールしたら、あっけなく無視されたことがあったのだ。古傷が疼いてとまらない。ぼくは心の中で「マルちゃん」と呟いた。その魔法の言葉を使うと、心のざわつきが鎮まった。「マルちゃん」とは、宇宙大の巨大なワンネスの愛のことだ。
一方で、どうも様子がおかしいという感触も消えずに波打っていた。ぼくは特殊部隊の精鋭だ。そんな過去の些細なことで、ここまでしたたかに心身が動揺するはずがない。
水だ! あの水に、精神の平衡を乱す薬が仕込んであったのにちがいない。ぼくは絶望的な気分になった。水なしで七日間とは、苛酷すぎる地獄だ。ぼくはコンクリートの床に横たわって、体力の消耗を防ぐことにした。
アンドロイドが電灯のスイッチを消した。すぐに、つけた。アンドロイドは高校の野球部の顧問に変身している。
「若い者が、何をへばっとんだ。まず、立ち上がって、水を飲め」
顧問はそういうと、横たわっているぼくの尻を蹴り上げた。電気が消えた。
次に電気が付くと、母親が横に座って、心配そうにぼくを見下ろしていた。
「ほら、いっぱいの水が世界を明るくすることもある。お母さんがコップに汲んできたから、飲んでちょうだい」
ぼくは顔を逆側に向けて、拒んだ。水を飲むのは拒否したものの、どうしても無視できなかったので、「お母さん、ありがとう」と呟いた。
すると、電気が明滅して、野球部の顧問が現れた。
「お母さん、素質は素晴らしいんですが、どうにも強情なところがあって、水を飲もうとせんのですよ」
電気が明滅する。
「あら、いつも息子がお世話になっております。優しいお言葉ありがとうございます。うちの主人とは全然違うんですのね」
電気が明滅する。
「おやおや、奥さん。違いのわかるあなたに、違いのわかる男はいかがですか。今晩私の予定は空いております」
電気が明滅する。ぼくはかすかな声で「やめてくれ」と呟いた。
「あら、今のはお誘い? 私、子供のことを忘れさせてくれる逞しい男性に…」
「やめてくれ!」
ぼくは絶叫して立ち上がり、アンドロイドを殴ろうとした。しかし、母親の姿をしていたので拳を止めて、代わりに電気を消した。
すると、暗闇の中で二人の獣が囁き合う声が聞こえてきた。
「奥さん…」
「だめ…」
ぼくはうぉーっと絶叫して、電気をつけた。アンドロイドは電気がついた後も、しばらく機嫌よさそうに一人二役をやりつづけていた。
「奥さん… いい匂いがする…」
「あら、逞しい胸板ね…」
一人二役で情事に熱中しているアンドロイドの尻を、ぼくは思いっきり蹴飛ばした。
「妙な猿芝居はやめろ! もの凄いストレスだ! 洒落にならないぞ!」
アンドロイドはしばらくのたうちまわったあと、月の虹に似た昭子の姿に戻った。
「じゃあ、洒落を言うから、聞いたら思いっきり笑ってね。…市民ホールの演芸会に、ご婦人たちが集まったのに、いつまでたっても出し物が始まらなかったの。それは、実はご婦人たちが昆布人だったから! 昆布人たち自身がダシを取るものだから!」
ぼくは床に横たわったまま、自分の両の拳が固くなっていくのを、どうすることもできなかった。こんな洒落で笑うやつはいるのか。
「あははは。超受けるんですけど! マジ笑えて笑えてパネェ感じ!」
洒落を言った本人が笑っていた。しかし、それにしてもそれは不愉快な笑い方だった。全然笑えない冗談を強烈に笑うことで、何が可笑しいかのこちらの基準軸を揺さぶる目的があるように感じられた。本人の自己への信頼性を疑わせるという意味では、ガスライティングという工作活動と似ていなくもない。
「どうしたの? 全然笑ってないじゃない。これで笑えないんだったら、代わりに面白い話をあなたがしてよ」
これも訓練だ。ぼくは自分にそう言い聞かせた。何が面白いかの独自の基準軸を、ぼくがブレずに維持しているところを、見せてやらなくては。
「高校時代に、背の低い真面目な既婚の数学の先生がいた。或る日の授業で『三角関数』って書くべきところを、間違って『三角関係』って書いちゃった。そしたら、女子生徒がくすくす笑いはじめて、先生は耳まで真っ赤になった。『ちょっと手を洗ってくる』と言って数分間教室を空けたんだ。俺たちの間では、美人事務員のえっちゃんと縁を切りに行ったっていう、もっぱらの噂だった」
「……。あははは。超受けるんですけど! マジ笑えて笑えてパネェ感じ!」
ぼくは自分でもわかっていた。高校時代の思い出ジョークが全然面白くなかったことを。わざとらしい間をあけてから昭子が笑ったことにも、その笑い方が大袈裟だったことにも、ぼくは深く傷ついていた。
「ごめんよ。本当はもっと面白いことを言ってあげたいんだけれど」
「え? 私を笑わせようとしてくれるってこと?」
ぼくは心の中で「マルちゃん」と呟いて、宇宙の大いなる愛に接続した。
「もちろんさ。今のきみが、鬼軍曹が送り込んだ妨害工作用アンドロイドだってことはわかっている。でも、この核シェルターを出るまでは、二人きりだろ。笑いあって過ごしたいし、助け合って暮らしたいんだ」
昭子はしばらく目を瞑っていた。無線で本部に連絡を取っているようにも見えた。今の自分の台詞が、訓練の評価体系の中で、どんな点数になるのかは想像もつかなかった。
次に昭子が目を開いたとき、彼女のまなざしは、どこか愛を帯びているように感じられた。その証拠に、彼女はあっさりとぼくが抱いていた疑いに答えをくれたのだ。
「そうまで言ってくれるのなら、私も大切な言葉をあなたに贈ることにするわ。あの水を飲んでは駄目。被暗示性を高める向精神薬が入っているの。飲んでしまうと、簡単にアンドロイドの言いなりになってしまうわ」
「ありがとう」
核シェルターの中は、時間がわかりにくい。アンドロイドが「解放期限まで、あと一日半」だと、正直に教えてくれた。
ぼくと昭子はコンクリ―トの床に寝そべって、いろいろなことを話した。少数精鋭の特殊部隊員としての重圧や、部隊がリストラされるという噂への不安を。それらは、これまで誰にも話せなかった心の積み荷だった。もちろん、話の端々には、精一杯のジョークを挟むことを忘れなかった。そのたびに昭子は自然に笑ってくれた。
解放期限まであと半日と迫った頃、脱水症状でふらふらのぼくは、昭子をそばへ呼んでこう言った。
「訓練が終わったら、もう一度きみに逢いたい。あの水が毒だと教えてくれたきみを、豚に変身させて食べるなんて、ぼくにはとてもできないことだった。たぶんあの鬼軍曹は、そうしなかった隊員を罰するだろう。軍事刑務所に入れられるかもしれない。だから、扉が開いてぼくが解放されても、きみはここに残って隠れていてほしい。必ず迎えにくるから」
喋りつづけようとするぼくの唇を、昭子は手でそっと抑えた。
「わかったわ。もう喋らなくていいのよ。きっとうまくいくわ」
やがて、扉が重々しい音を立てて、ゆっくりと開いた。外の陽の光が、照明弾のように眩しかった。ゆっくりと瞼を開くと、鬼軍曹の浅黒い顔がこちらを覗いているのが見えた。
「一人か?」
「一人です」
そう答えると、鬼軍曹はいつになく快活な笑顔を見せて、訓練に耐えたぼくの精神力を讃嘆した。ところが、この訓練を見事に耐えたのは、ぼくだけではなかったのである。残り七人全員が、次々に核シェルターの扉から歩み出て、「一人生還」を報告した。
ぼくが驚いたのは、自分以外の七人全員が、一週間の隔離後とは思えないほど、元気溌剌で意気揚々としていたことだった。アンドロイドを豚にして食べると、こうまで健康的でいられるものなのだろうか。
全員で全員の健闘を讃え合って拍手をしたあと、脱水症状でふらふらのぼくは、鬼軍曹にどこにいけば水を飲めるかを訊いた。すると鬼軍曹がいつもの仏頂面でこう訊き返した。
「何? お前は水を飲みたいのか?」
すると、後片付けをしていた特殊部隊の精鋭七人が、揃ってぼくの方を振り向いた。ぼくはしばらく彼らを凝視した。かつて仲間だった七人の顔を、どうしても記憶に焼き付けたかったのだ。
ぼくは、どうして彼らが一週間のシェルター訓練直後でも、健康そのものだったのかを悟った。きっとこの七人は、もはや永遠に水を飲むことはないのだろう。特殊部隊のリストラ計画は、すでに実行されていたのだった。
「冗談ですよ! そんな人間みたいなことするわけないじゃないですか!」
その言葉を聞いて、一同の緊張が緩んだのがわかった。
ぼくはシェルターの内部へ戻って、夜になったら一緒にここから逃げようと昭子に言った。二人で並んで座って、他の隊員たちの目につきにくい夜を待った。夜になれば、森を走って逃げるのは、それほど難しくなくなる。ぼくは訓練施設の周りに張りめぐらされた鉄条網のことを考えていた。走って逃げても捕まってしまうかもしれない。それでもいいと思った。昭子と逃げ切る可能性に賭けようと思った。たとえ脱出成功の可能性が、月の光で虹がかかる瞬間くらい稀少なものだったとしても。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))
- 作者: フィリップ・K・ディック,土井宏明,浅倉久志
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