半時間で何かを話せと言われれば、大学時代の思い出を語る人が多いのではないだろうか。ありあまる若さと時間を、恋と人生を切り拓くのに投じたあの青春時代。

 あいにく、ぼくの大学時代の思い出は、半時間にはとてもおさまりそうにない。といっても、話の冒頭は、どこにでもあるサークル内の恋愛だった。恋愛心理やら催眠術やらで遊ぶ心理学サークルに、ぼくら三人は所属していた。

そして、ぼくが好きになった葉子を同級生のNが好きになったのだ。葉子は、ぼくの告白を受け入れて交際を始めたが、やがて恋心をぼくからNへと移した。理由はよくわからない。

 人生には、そういう不思議な転換が要所要所にあるものなのだ。例えば、つかのまの驟雨が過ぎたせいで、陽を浴びた白っぽいアスファルトが、たちまち濡れた紺の路面へと変わるように。

 葉子の心の中をどんな驟雨が過ぎたのかは、ぼくにはわからない。葉子と別れた半年後、Nが葉子について話したいとぼくに相談を持ちかけてきた。待ち合わせ場所で、Nはぼくに、雨の降りしきる湖の写真を見せた。葉子の年代物の紺のシトロエンが、ガードレールを突き破って、湖面に刺さるように墜落している写真。

「スリップ事故かい?」

 Nは神妙な面持ちで首を横に振った。そして、Nはぼくに、事故の日付け以前のメールを見せた。それは葉子がNに宛てたメールだった。読んでいるうちに、ぼくの無言の唇が震えはじめた。

 葉子は切々と、いかにぼくが酷い男かを訴えていた。常日頃から、暴力癖が酷くて、眠っていると厭がらせでいつも踏みつけられた、とか。ここに引用するには堪えない人格否定の罵倒だとか。

 何よりも衝撃的だったのは、葉子のその訴えのすべてが、事実無根だったことだ。

 ぼくの心の中を驟雨が過ぎて、心を黒く濡らして、去っていった。

 あのとき濡れた黒い記憶は、20年後の今でも乾いていない。誰も通らない雨上がりの濡れた道のように、心の奥へ伸びているだけだ。

 あれから20年後の或る朝、ぼくは自分の会社に出社した。会社はわずか五名だが、業績は順調だった。経理などの間接部門だけでなく、業務の中心である開発や研究の部門まで、外注していたからだ。この種のオープン・イノベーションは、経営の変化に強く、速度を加速してくれた。今のところ、同業他社を引き離していた。

 しかし、異分野異業種の猛者たちを、プロジェクトごとに召集して協働しなければならないので、リーダーがうまくまとめてチームワークを発揮させるのが難しい。ぼくがリーダーとなって手がけたプロジェクトは、すでに100を越えている。

 ノックもせずに、社長室に入ってきた男がいる。悪ふざけが好きで、ジョギング用のサウナスーツで出社してきた男。大学時代の同級生のNで、ぼくは諸事情あってN氏と呼んでいる。

「よぉ、社長。財布が軽くなったんで、二つ折りにできないくらい補充してくれ」

 普通の社長なら怒鳴りつけるか、無視するか、するところだろう。ぼくは自分の財布から20万円を取り出して、N氏の財布に入れた。

「たったいま補充いたしました」

「お前の下の妹って美人だよな。紹介してくれよ」

「N様、家族に厭がらせをするのだけは、ご勘弁願います。心よりお願い申し上げます」

 これもいつものやりとりだ。ここまでの会話でわかる通り、ぼくはN氏に葉子を自殺へ追い込んだ罪で、脅されている。正確には、N氏の入手した葉子の膨大なメールで、ぼくが葉子を自動車事故を偽装して殺した疑惑を裏付けられるのだという。すべて事実無根の内容だが、「ない」ことを証明するのは悪魔の証明だ。とても厄介なことになるにちがいない。

 会社の経営が順調なことと、父が上場企業の要職にいることを思えば、大学の同級生のN氏に袖の下をつかませておいた方が、ぼくは楽なのだった。

「今日のところは、舌の妹には手を出さないでおいてやる。ただし、今日から『こんにちは』を使うときは、すべて『こにゃにゃちは』にしろ!」

「N様、ご機嫌うるわしゅう、こにゃにゃちは」

「それでいい。相変わらず物分かりがいいな、おまえは」

「お褒めの言葉、誠にありがとうございます」

「さらにだな、『じゃあ、次に』というとき、『ジャーへご飯をつぎに』という演技で、ご飯をつぐパントマイムもしろ」

 開発会議に集まるのは、一流企業出身の優秀な人材ばかりだった。司会役の私が、会議の節目でご飯をつぎはじめたら、メンバーたちはどんな表情になるだろう。

「おい、なに黙ってんだよ。はい、おれは今から死にまーす!」

 N氏はそういって社長室の窓に駆け寄ろうとする。ぼくは力づくで止めた。

「N様のような素晴らしいお方が、生命を粗末になさっては、お身体に障ります」

「おい、台詞がおかしいぞ。だいたい生命を粗末にするなとは言うが、本当はオレが死んだら、葉子の自殺の真相が自動で拡散される仕組みになっているのが、怖いんだろう?」 

「いえいえ、滅相もございません。私の会社や私はどうなってもかまわないのです。この世界から、N様のような尊いお方が失われることが、世界の損失なのでございます!」

 今日も、信長のもとで侮辱されつづける明智光秀の気持ちを、追体験してしまった。気が変になりそうだったから、手近に本能寺があったら、即座に放火していたことだろう。N氏は機嫌を直して、外回りと称して、趣味のボクシングの練習へ行った。「くれぐれもお体に気を付けて」とN氏の背後に声をかけると、私は仕事へ戻った。

 今晩の開発会議は、AI盆栽の開発がテーマだった。

 今でこそ有名寺院に普及したAI盆栽だが、主に「室外犬」として飼っているせいで、日光や雨の耐候性の問題が出やすい。わが社では、シェア倍増を狙って、フローリング住宅の「室内犬」として飼えるようにし、室内での日光や水はけの問題を議論する予定だ。ぼくは急いで資料を整えた。

 開発会議は定刻の18時に始まった。N氏も一応スーツ姿で、議長の私のそばに腰かけている。実はN氏は一種の「用心棒役」なのだ。

 オープン・イノベーションは社外の人材や研究を持ち寄るため、メンバーの中に脱走者が出て、プロジェクトを横取りされるリスクもある。一種のプロデューサー役として、メンバー間を円滑に調整して、危険の芽を摘むのが仕事だった。

 コの字型の机を囲んでいる列席者たちは、初顔合わせなのでやや緊張している。

 議長のぼくが、最初に口を開いた。

「本日は、お足元の悪い中、こにゃにゃちわ。お集まりいただいた皆さんは、日本でトップクラスのクリエイティブな技術者の方々です。柔軟な発想と卓抜な仕事力で、ぜひとも室内型AI盆栽を成功させましょう!」

 すると、15人の列席者から、催促なしで拍手が巻き起こった。かなり良いグルーブ感を持った集団らしい。私の気分も上々だったが、すぐに難題が控えているのを思い出して、意気消沈した。

 近くに座っているN氏が、マジックでこう書いてあるノートを、ぼくに向かって示した。

「ジャーをつぎに」

 ぼくは立ち上がった、そして目の前に旅館の一升炊飯ジャーがあるつもりで、パントマイムでご飯をよそいながらこう言った。

「ジャー、次に… 」

 驚いたことに、それだけで笑い声があがった。ひょっとして、この程度のパントマイムでも伝わるものなのだろうか。ぼくはこの会議を、どうしても成功させたかった。この朗らかなグルーブをつないでいくために、急遽、笑い声のいちばん大きかったモビリティー担当を指名した。

「皆さん、こにゃにゃちわ。モビリティー担当の高島です。皆さんは、これまでの人生で何度か、お味噌汁のお椀がつーっとすべっていくのを見たことがありますね。盆栽の鉢は、あのようにスムーズで全方向に稼働させるつもりです」

 そういうと、モビリティー担当はパントマイムで味噌汁を掬って、隣に回していったた。メンバー全員にエア味噌汁がリレーされていったので、修学旅行のような雰囲気になった。N氏だけがエア味噌汁を「すみません、ダイエット中なので」と断っていた。エアだから、太るはずはない。どうやら、ぼくに恥をかかせる作戦が失敗したのを、悔しがっているらしい。

 その証拠に、N氏は私にこんなカンペを出してきた。

「かなりセクシーに」

 ぼくは盆栽鉢担当が喋っているのに合わせて、セクシーな相槌を打ち始めた。

「ん~ふ~ あ~は~」

 すると、会議室にいるメンバー全員が、同じように相槌を打ち始めた。AI盆栽の市場規模は数十億円にはなる。このプロジェクトの成功のために、メンバー誰もが、チームワークを働かせようと、必死に団結心を燃やしているのがわかった。ぼくは目頭が熱くなった。涙目のままこう言った。

「ここからは、ドキッ、待ちに待った水着だらけの質問タイムです! 今まで羞かしくて訊けなかった、あんなことやこんなこと、訊いちゃってください!」

 同じ釜の味噌汁を飲む仲となったメンバーたちが、ざわつきはじめるのがわかった。AI盆栽の開発にセクシーを掛け算するのは、なかなかの難題だ。メンバーの中の紅一点。ライティング担当の女性が、こう質問した。

「横から見たとき、盆栽の鉢のまるみを、ブラジル人女性のヒップに似せてはどうですか?」

 誰かが「ん~ふ~」と相槌を打った。ライティング担当は、思わず相槌を取り込んでしまった。

「あ~は~ 美尻タリアンに大受け、間違いなしよ」

 N氏は「かなりセクシーに」がクリアされたのを悔しがって、素早く次のカンペを出してきた。

「語尾にカタカナをつけて」

 いつのまにかメンバー全員が、開発会議そっちのけで、ぼくとN氏のやり取りから始まる不思議な言語ゲームに、興味津々になっていた。ただし、N氏のカンペが見えているのはぼくだけだ。最初の発言が鍵になる。ぼくはパントマイムを始めた。

「ジャー、次に、盆栽職人の方、鉢に入れる盆栽の気について説明してくだサイン・コサイン・タンジェント

 語尾のカタカナがつまらないことよりも、長すぎたことの方が誤ったメッセージを伝えてしまったようだ。

「はい、承知しましタンドリーチキン。盆栽というものはでスネオヘアー全国ツアーチケット完売」

「ちょっとちょっと、盆栽職人さん、語尾に日本語が交じっているじゃないでスカパラダイスオーケストラニューアルバムリリーストゥモロー」

長い。あまりにも長すぎると感じたので、ぼくはここで開発会議を打ち切ることにした。

「本日は、お足元の悪い中、こにゃにゃちわ。ん~ふ~神雷神のごとき素晴らしき発想や提案をありがとうございマスターズトーナメント。あ~は~るばる来たぜ函館、伊達にぼくらだって、というか、ぼくらだからこそ、市場に革新的なAI盆栽を送り出せると確信していマスコミュニケーション。ジャー、つぎにご飯をよそうのは、来週金曜日の同じ時カンピオーネ。よろシクラメン!」

 会議室からメンバーたちが出て行ったあと、N氏は不機嫌をあらわにした。 

「おまえの司会進行は実に気に喰わなかった」

「申し訳ありませんの国からこにゃにゃちは」

「ああ、死にたくなってきたな!」

「生きる! あなたは必ず生きる!」

 実際、N氏は趣味のボクシングでやっと実力がついたので、今週末に初試合が決まっていた。それまで、間違っても死ぬことはないだろう。

 N氏のボクシングの試合を、ぼくも見に行った。相手も40歳オーバーの趣味でやっているボクサーだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(書きかけです。睡眠不足とストレスで何も思い浮かびません。去年の12月くらいから自分で自分がおかしいと思っていました。騙し騙しやってきましたが、本格的に心身が駄目みたいですね。ご迷惑をおかけして申し訳ありません) 

エヌ氏の遊園地 (講談社英語文庫)

エヌ氏の遊園地 (講談社英語文庫)