ユーモア短編小説「悲劇的でも髭好きでもないジュリエット」

 「廃ダムに鶴」っていう諺もつくった方がいいんじゃあないか。

 俺が暇な時によく遊びに行く廃ダムは、五年前までは下流の地方都市の水甕だった。それが今じゃ水を抜かれて、景色が面白いんで、ついつい眺めて髭を撫でる時間が長くなっちまうぜ。泥が積もった中から、埋没していた小学校の校舎がぬっと顔を出していやがる。あれは俺の弟分のルイージが卒業した小学校で、俺はその隣にある小学校の出身だった。

 なんで俺の弟分がルイージと呼ばれているかは、小学校の頃にクラスで流行った替え歌に由来がある。

ちっちゃな頃からヒゲ濃くて、十五でマリオと呼ばれたよ
筆ペンみたいに尖っては、さわるものみなにヒゲ描いた 

 へ。怖いだろ? 膝アタマがぶるぶる震えてんじゃないのか? 何しろ、このマリオ様は、中卒フラフラ中に裏稼業のアル中オヤジたちに拾ってもらって、もう一回中学校に入り直した身だ。それも修行中にな! ふ。また頓智をきかせてしまったぜ。ルイージは俺様の頓智にぞっこん。あとから拾われてきたルイージとは、小学校からの魔部だ。リトルリーグ仲間のマブダチで、いわば、同じホームベース上でバットが空を切った仲さ。

 話がそれた。それても気にすんな。しょうがない。剃っても剃っても青い剃り跡もしょうがねぇんだよ、何だこの野郎、弾丸!

 逸れ球を無理に打って、テキサス・ヒットになることだってあらぁ。実際、テキサス並みに人が寄り付かないあの廃ダムで、日傘をさして歩いていたあの美人は、まさしく弾丸ライナーの目の覚めるようなクリーンヒットだった。「廃ダムに鶴」っていうのは、まさしくこのことだな。

 びっくりしたのは、女の方から話しかけてきたことだ。

「失礼ですけど」って礼儀正しく、俺の髭の剃り跡をまっすぐに見上げてきた。

「失礼ですけど、この辺りの地元で顔のきくワルっていうと、誰ですか?」

 育ちのいい高嶺の花が、まさかそんなことを訊いてくるとは思わないだろう? 俺の姉ちゃんは、貧乏のせいで高校になってはじめて、ピアノを習わせてもらった。発表会では、仲間の小学生より下手だったけどな、ヘアスプレーでざっとレモン10個分の高さまで逆立た金髪がイカしてた。ところが、目の前の女はまさしく「高原の岩清水&レモン」のような清楚な感じ。そんな美女にそう訊かれたら、こう答えるしかないだろう。

「ワルいのは俺かな。この辺りじゃ、たぶん一番ワルい」

 台詞の最初に「頭が」を抜かしちまったけど、問題ないだろう。小学生の頃、俺が進入禁止の標識の下で、ひたすらバスを待っていた話は、ルイージに固く口止めしておいたから、もうバレようがないな。 

トーグ メラミン標識「車両進入禁止」 ARR303
 

  女は千代子っていう古風な名前で、20代後半。俺はさっそく頓智をきかして、こう訊いたに決まっているだろう。

「そういう名前ってことは、ブラックサンダーが好きなんだよね」 

有楽製菓 ブラックサンダー1本×20個

有楽製菓 ブラックサンダー1本×20個

 

「ふふ。よく言われるわ。本当に好きなのはゴディバよ」 

  ゴディバっていう駄菓子は初耳だったが、たぶん東京で流行っている駄菓子界のゴジラみたいなもんなんだろう。俺は軽く頓智をきかせて、適当に合わせておいた。

「わかるなあ。ゴジバはまさしく火を噴くくらいうまいもんな、卍」

「あら、ゴディバをご存知なの。そういう意外なギャップが素敵ね」

 とか何とか妙に会話に弾みがついて、その晩から千代子が俺の家に住み込むようになったから、人生とラブって果てしなくミステリーだ。たぶん俺のヒゲの剃り跡の青さに惚れたんだろう。

 といっても、千代子は俺のワンルームに住みついても、ガムテープで境界線を引いて、結界とやらを張ったから、まだ俺の魔部い女になったわけじゃない。俺のパソコンを借りて、俺のスマホも借りて、俺の風呂も借りるが、心も身体も許しちゃくれない。

 ある晩、俺はさすがにトサカに来て、コケコッコーな身分だな、家だけ借りるヤドカリってのは、とか何とか怒鳴って、千代子にのしかかって両手首を抑え込んだわけだ。

 すると、千代子は不気味なほど冷静なスマイルを浮かべて、こう言い返してきた。

「私、いま警視庁を休職中なの」

 そんな見え透いた嘘なんかで、俺様は全然ビビらないけどな、全然ビビらないけれど、女に暴力を振るう男は最低だという信念があるから、こう返したわけさ。

「どうして、もっと早く言ってくれなかったの? 大事なことだぜ」

 俺にしてみれば、ブラックサンダーの値段クラスのコソ泥をチョコチョコやっているもんで、警視庁所属だと名乗ってくる女なんて、こっちから願い下げというもんだぜ! だから、はっきりこう言い渡してやったんだ。

「ごめん、手首は痛くなかった? 淋しくなるから、家を出ていくのはやめてくれよな」

 千代子は笑っていた。見せると言い張っていた警察手帳は、見せようとしなかった。

 翌日、仕事から帰ると、千代子は大工を呼んで境界線上に金網の柵を建て込んでいたんだ。そして、柵の向こうから「ロミオ、本当は男らしいあなたが好きなのよ」とか呼びかけてきやがるから、もう俺は夜も全然眠れない感じだ。千代子は俺の好きな桜色のベビードール姿に着替えて、すやすやと眠っている。ところが、真夜中を過ぎると、千代子は不思議な寝言を言いはじめた。

「盗みを… 盗んだ… やめられないと思い込んでいる… 本当は生きていける… 堅気でも生きていけるのに… 淋しい… ロミオに逢いたい…」

 まとめるとこんな感じだが、寝言は断続的で、繰り返しが多く、聞き取れない単語もある。あれは演技なんかじゃあない。千代子の花束のような香水が漂ってくるので、俺は悶々として一睡もできない。千代子の寝言のメモを取ることにした。

「降りてくる… 降りてくる… 天使たちの声が… その男から離れなさい… あなたは籠の中の鳥じゃない… 待って… でも髭が… 男らしいあの髭が忘れられないの… きっと真人間に戻るから… 余罪も全部話してくれるから… 絶対に言わない… マリオと私だけの秘密… 黒い指輪を… 彼は盗んだ…」

 とうとう、めぐり逢ったのだと俺は確信した。髭が濃いくらいしか大した取り柄のない俺だったが、神の恵みがもたらされたのだ。千代子が俺のピーチ姫だ。冒険に次ぐ冒険、チョコチョコっとしたコソ泥に次ぐコソ泥のご褒美として、千代子は俺のもとにやってきたのだ。

 神様、ありがとう。千代子は警視庁所属ではないにちがいないが、霊感があるのは本当だった。彼女の寝言に、俺は毎晩震えた。五年前にやった盗みの犯行現場や手口を、まるで見ていたかのように詳細に喋ったのだ。黒い指輪はそのとき盗んだもので、換金できそうになかったので、すぐに捨てたのだった。

 ある休日の朝、俺は金網をつかんで、向こうにいるジュリエットにこう打ち明けた。

「千代子、寝ているとき、おまえには天使が降りてきているぞ。お前が寝言で、俺の過去をすべて説明してくるんだ」

「全然覚えていないわ」

「覚えていないなら、いま本当かどうか教えてくれ。俺の髭が好きでたまらないから、俺が堅気に戻りさえすれば、一緒になってくれるっていうのは、本当か?」

「寝言で嘘を言うほど、器用な女じゃないの。本当よ。羞かしい。まだ隠しておきたかったのに」

 俺は金網の向こうのピーチ姫を、この腕に抱き寄せたかった。抱き寄せるためには、すべてを告白する必要があった。俺はこれまでの犯行のすべてを打ち明けた。黒い指輪を、他の廃棄物と一緒にまとめて、廃ダムに捨てたことも話した。

 すべてを話し終わる頃には、罪を犯したことへの後悔と、そんな俺をピーチ姫と出逢わせてくれた神への感謝で、俺の両頬は涙で濡れていた。 

 「それで?」

 と私は彼女に向かって訊いた。大学時代の演劇サークル仲間で、意外にも警視庁へ就職した美貌の彼女に、私は都内のホテルのロビーに呼び出されたのだった。

「マリオが泣いているさなか、警察が押し入って、マリオの手には手錠がかかったわ」

「携帯電話なしでどうやって通報したの?」

「盗聴器で会話が筒抜けだったのよ」

「どんな気分だった? 愛している男が、目の前で逮捕されて連行されるのは」

「よしてよ。全然愛してなんかいなかったわ。私は特命を受けて任務を果たしただけ。おなじようなハニー・ワード・トラップを10回以上は任務遂行してきた」

 ハニー・ワード・トラップとは言い得て妙だ。色仕掛けで「天使の言葉」を聞かせて、全面的な自供を引き出す作戦。その特殊な捜査手法にふさわしい名前だ。

 そういうと、彼女は遠くを見るように、美しい目を細めた。千代子というのは偽名で、偽名の入った警察手帳も先ほど見せてもらったばかりだ。私いま聴いた話を疑う理由はなかったが、それでもまだ訊きたいことがあった。

「マリオのようなこそ泥を捕まえるのに、どうしてそんな手の込んだトラップを仕掛けたの?」

「私が上司に特別にお願いしたの。愛していたから」

「マリオの髭を?」

「まさか。この任務で二回目に接触した男は、無罪だったの。でも、無罪を証明する物証がなくて、裁判では有罪になってしまった。無罪を示す物的証拠は、決して破れない暗号技術でネット上に格納されている。彼からそう聞いたわ。ところが、その鍵が盗まれてしまったの」

「そうなのね! その盗まれた鍵が『黒い指輪』だったのね!」

 彼女は黙って微笑んでいた。きっとそれ以上は喋れないのにちがいない。十数年ぶりに私をホテルへ呼び出してこの話を打ち明けたのは、私が新進の女流作家として頭角を現しはじめたからだろう。すうっと霧が晴れて、視界が開けてきたような心地がした。

「あなたが凶悪な男から男へ渡り合う仕事を続けたのは、その二番目の男があなたのロミオだったからじゃないの? あなたは悲劇のヒロインなんじゃないの?」

 彼女の微笑がふっと消えてうつむいたとき、脆い弱々しい素顔がのぞいたかのように見えた。完璧にそつなく任務をこなしてきた彼女が、ひとりの男に心も身体も許した瞬間が過去にあったように感じられた。だとしたら、塀の内側と外側で、ロミオとジュリエットは5年間も引き裂かれていることになる。

 次に彼女が顔をあげたとき、彼女の細い眉は凛と立っていた。

「もういいんです。彼はきっと無罪になるから。要するに、私は幸運だったのよ。移り気な男盛りの五年間を、ロミオに私を思いつづけるよう条件づけて、独り占めできたんだから」

 その深みを帯びた言葉を耳にしたとき、私はこの話を小説に書こうと思った。