短編小説「空中に浮かぶ食卓」

 大学に入学してすぐ入った英会話サークルを、私は1年半で辞めた。

 入学してまもない頃、田舎から神戸に出てきてまだ右も左もわからなかった私を、帰国子女の美男子の先輩が口説いてきた。ボストン育ちの英語はパーフェクトで、学生なのにドイツ車を乗り回していて、なぜかブルーのカラーコンタクトをしていた。

 あの半年間をどう表現したらいいだろうか。桜が散ったばかりの春、花びらまじりの一陣の風に襲われたので、キャッと声をあげて、スカートを抑えたような一瞬の出来事だった。スカートがどれだけめくれてしまったかは、もう忘れることにした。

 先輩は電話魔だった。離れている日は、一日に何十回も電話をかけてきた。トルコ行進曲の着信音では過呼吸になりそうなほどせきたてられる。私はゆったりとしたジムノペディーで電話が鳴るように設定し直した。

 今もホテル最上階のレストランでは、かすかにサティーが鳴っている。これはジムノペディーの二番だ。

 派手な美男子の先輩とは、半年くらいしか付き合わなかった。私の次の次の次の彼女が同じ英会話サークルの同級生だったので、気まずくなって私はサークルを辞めた。

 先輩と出逢い、別れ、サークルを辞めても、まだ私は携帯電話の着信音をジムノ・ペディーのままにしている。

 レストランのレジへ向かう客に、私は丁寧に頭を下げた。客が帰ったあとのテーブルの皿を積み重ねて下げる。それをキッチンへ入ったところにある食器返却口に置くと、私は入口へ戻って新しい客を禁煙席のテーブルへ案内した。

 サークルを辞めたせいで余った時間を、私はレストランのウエイトレスのアルバイトで埋めることにした。他にやることもなかったし、そのホテル最上階のレストランが好きだったのだ。品の良いマナーを教えてくれそうだったから。

 客の出入りが賑やかで、やるべき仕事に追われているときは、むしろ楽だ。ウエイトレスの仕事がしんどいのは、客のいない時間帯。何もやることがなく、誰も話す相手がいないとき、私の頭の中で、ジムノペディーの旋律が繰り返し回ることがある。要するに、あれは孤独を埋める旋律なのだろう。女を乗り換えてばかりいる電話魔の先輩のことを思い出した。そして、すぐに忘れた。未練はない。今の私は孤独なのだ。

 時計の針は22時を回っていた。神戸の夜景目当ての客が増える時間帯だ。酔ってもつれあっているカップルを、私は夜景の綺麗な海側の席へ案内した。酔いのせいで、男女の声が上ずって大きく響く。席から離れると、私は耳をBGMのビル・エヴァンスのピアノに集中させようとした。

 けれど、話し声や食器の鳴る音に紛れて、ジャズ・ピアノはあまり聞こえない。酔っていてあけすけではあっても、カップルの男女たちの声が、愛し合いっているのがわかる。私の頭の中で、ジムノ・ペディーの旋律が回り始めた。

 恋愛沙汰のせいでサークルを辞めて、何もすることがない休日が続いたある朝、私はあのメロディーに日本語が乗っているのに、ふと気が付いた。

めがさめてもそこに
ゆめにみたあなたが

 23時が来た。私の退社の時間だ。ここから真夜中過ぎまでは、男の子たちが給仕する時間。私は同僚の真美と一緒に更衣室へ入った。

「ねえ、明日の夕方、シフトに入っていたよね?」

 真美は自宅通学の苦学生。高校生の頃から神戸でいろいろなバイトをしてきたらしい。私が頷くと、誰もいないのに嬉しそうに耳打ちしてきた。

「知っている? 明日はこのレストランにヴィオラ爺さんが出没する日よ」

ヴィオラ爺さん?」

 ヴィオラはあまり人気のない楽器だ。やや大きなヴァイオリン、やや小さなチェロ。そう呼び直されることも少なくない。

「楽器はあまり関係ないみたい。私もバイトの先輩に聞いただけだから、よく知らないの。とにかく、夕方5時にもならないうちにやってきて、二人分のステーキ御膳を頼むの。毎年ウエイトレスの女の子に同席して食べるよう勧めてくるのよ」

「それは要注意ね。自分ひとりで祝う誕生日パーティーなのかしら。淋しい人ね」

「すごく気になるの。悪いけど、次に会ったとき、ヴィオラ爺さんの動向を報告してね」

 淋しい人ね。そう自分で言ったとき、頭の中でジムノ・ペディーの旋律は流れなかった。どうしてだか自分でもわからない。たぶんあの孤独のメロディーは、人を選ぶのだ。

 翌日、真美が噂した通り、ヴィオラ爺さんはまだ陽の光の残る夕方5時に現れた。髭がもじゃもじゃの初老で、着慣れていない感じの黒いスーツを着込んでいる。客はまだほとんどいなかった。私が景色の綺麗な海側の席を案内しようとすると、老人は山側寄りの窓際の席を希望した。そして、注文は噂通りステーキ御膳二人前。同時に持ってきてほしいという。

 私が両手にステーキ御膳を持って老人のテーブルへ行ったとき、老人は卓上に置かれているキャンドル・ライトを見つめていた。老人は向かいの席に人がいるかのように、料理を並べて欲しがった。そして、噂通りの台詞が口から出た。

「そっちの席に座って、一緒に食べないかい?」

 お客さんにご馳走になってはいけない規則だと説明しても、老人は執拗だった。他に客もいなかったし、真美に頼まれてもいた。私はヴィオラ爺さんに、少し探りを入れることにした。

「毎年、今日の日付に当店をご利用だと聞きました。ありがとうございます」

「妻の誕生日なものでね」

 私は次の台詞の言葉を苦労して選んだ。離別か死別かを訊かないまま、台詞を作る必要があった。

「そうでございましたか。ここでこうやってお父さんがお祝いしているのを知ったら、さぞ奥様もお喜びになるんじゃないでしょうか」

「ああ、天国できっとな」 

 ホテルの最上階のウエイトレスらしく、そつのない受け答えができた。私は満足して、最後にこう訊いた。

「お祝いでしたら、あちらの景色の良いお席でも良かったのではないですか?」

 すると、老人は酒焼けした声でこんな説明をした。

「夜景を見に来たんじゃないんだ。この山手の方角の自宅が、阪神淡路大震災で崩れてな。一階で寝とった妻が二階の下敷きになったんや。家は更地にして土地も売った。それでも、この誕生日にはな、あのときの神戸の二人暮らしを思い出したくなるんよ」

 そういうと、老人は最上階のレストランの窓を指差した。窓の向こうの夕暮れは、光と赤みを失い、暗い夜に浸されつつある。街並みはまだネオンを灯しはじめたばかりで、そのきらめきはまばらだ。だから、老人の指差している窓ガラスには、外の景色よりも内側の景色が映り込んで見える。その内側の景色を指差して、老人はヴォワラと言った。

 私も老人が指差している方向を見た。けれど、ガラスに映り込んでいるのは、キャンドルを真ん中に置いたテーブルがあるばかり。私には見慣れた風景だ。

「ヴォワラというのは、『ほら、あそこ』という意味だよ」

 私はもう一度、窓ガラスを見た。きらめきはじめた街並みの夜景の手前、窓ガラスのすぐ外に、キャンドルの灯りが揺れながら仄照らす幻の食卓が浮かんでいた。老人には、食卓の向かいにいる妻の姿まで見えているのかもしれない。

 私の頭の中で、ジムノ・ペディーの旋律が回り始めた。

めがさめてもそこに
ゆめにみたあなたが

 ヴィオラ爺さんに逢ってしばらくして、私はバイトを辞めて、就職活動に専念するようになった。

 今でも時々、淋しさが募って目覚めた朝、頭の中でジムノ・ペディーの旋律が回り始めることがある。夢うつつで、うつらうつらしながら、その旋律をなぞっていると、夜景の見えるレストランの窓の外、空中に浮かんでいる幻の食卓のイメージが思い浮かんでくることがある。

 幻の食卓には、私の姿はない。私の対面する場所に座っている男性の姿もない。それもしょうがないだろう。私はまだ21歳なのだから。

 それは少女という言葉が似つかわしい年齢でもない。

 飛び石をゆっくり飛んでいくように、ジムノ・ペディーの旋律を追いかけているとき、心が孤独を感じていることを、私は自分でもう知っている。

 

 

 

 

 

 

空中キャンプ

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