短編小説「ゴールキーパー上空には白煙のリング」

 どこにだって、気取りたがる男はいるものだ。

 街の中心部にあるホテルは、吹き抜けを多用して、空間を縦に使う。言い換えれば、横には広がりが限られているので、例えばモーニング・ブッフェのレストランは、かなり混雑することになる。

 スーツを着込んだ旅行者らしき男が、カウンターの私の隣に腰かけた。ハイスツールから伸びている脚は長い。男は30代くらい、私より10歳くらい上に見える。母との約束にはまだ時間があったので、どちらへ?と話しかけてきた男に、私はこう答えた。

「宿泊客じゃないんです。休日の朝だから、ゆっくり外食をしたくて」

 男は意味もなく笑った。そして、ひとりのウェイトレスを指差した。ほら。

「あの女の子が『クロエ』っていう名札を付けているのを見た?」

 料理皿の交換をしている彼女は、見るからに日本人らしい日本人だ。そばを通ったウェイターの男の子の名札には『アントニオ』と書いてあった。イタリア風のニックネームをつけるのが、このレストランの演出らしかった。

 掛け時計の文字盤が、母が合流するまでにまだ半時間あることを告げていた。旅行者の男とあまり話したくなかったので、私はカプレーゼのトマトにフォークを進めた。

「あのクロエに、さっきこう話しかけたんだ。『クロエ』ってフランスの有名な恋愛小説のヒロインと同じですねって」

 私は無言で頷いた。無視はしていないが、これ以上一緒に会話したくないという意思表示だ。フォークはスライスされたモッツァレラ・チーズへと進んだ。バジルの交じったオイルが美味しい。

「女の子は礼儀正しく『ありがとうござます』って。オレはそれ以上は言わずに黙っていた。ヒロインの胸に睡蓮が咲いて死んじゃう小説だとは言いづらかったから」

「初対面の女の子に胸の話をするのは、ちょっと… ですよね」

 ハラスメントになりかねないことを指摘して、さりげなく私にもこれ以上嫌がらせしないようにと旅行者の男に暗示した。ところが、男は派手に指を鳴らした。

「その通り! その件については、最近痛い目に遭っているからね」

 そう言うと、男は私に向かって片目を瞑って見せた。え? どういう意味のウィンクなの? 私が彼を好きになれないのは、その気障な手ぶりや身ぶりが理由なのに気が付いた。

 私は店内を見回した。空席があったら逃げ出したかったが、レストランは旅行客でごった返していた。

「翻案された邦画では、主人公の男の子は最終的に花屋になる。ところで、花束とブーケの違いは知っている? たぶんきみはブーケの方が好きだと思う」

「どうでもいいです」

 私は即答した。鈍感な男には、はっきり言葉を伝える必要がある。すると、男は手を叩きながら笑った。そういう風に、気取って余裕を見せる感じが、どうにも厭だ。

「うまいよ、最高だ。『どうでもいい』は英語で『Who cares!』。つまり、『ブーケ屋』って答えてくれたんだね」

 私はサラダに向けていたフォークを止めて、旅行者の男の顔を正面から見つめた。あまりにも意味不明で、同時に、あまりにもポジティブな男が、どんな顔をしているのか知りたくなったのだ。

 ところが男は、私がまなざしを向けたのを、好意のあらわれだと勘違いしたらしい。

「花嫁が持つ花束のことを、特別にブーケっていうんだ。失礼だけど、きみは…」

 まずい。私は自分のプライベートを詮索されたくはなかった。母が来るまでのあとしばらく、男に自分語りをさせる必要があった。私は男の指先に目を止めた。

「その指の火傷… まだ新しいみたいですけれど、どうしたんですか?」

 男は喜色満面になった。自分に関心を持たれることに飢えている感じが伝わってきた。

「よくぞ訊いてくれた、お嬢さん。これには、涙なしでは語れない話があるんだ。少しのあいだ聞いてもらえるかな?」

 私は頷いた。母がなるべく早くここに到着することを願いながら。

 旅行者の男が、彼らしい気障な口調で話し始めた。

 帰宅することにした。高層マンションのエレベーターに乗り込んで、50階のボタンを押す。エレベーターにはぼくひとり。重力が強まるのを膝で感じながら、ぼくは鼻をつまんで耳から空気を抜いた。50階までは時間がかかる。

 かつて、このエレベーターで派遣嬢と一緒になったことがあった。こちらが眩暈がしそうなほど香水をふんだんにつけて、派手なOL風のスーツを着たブロンド美女。39階で下りようとすると、扉の向こうにニヤついた男が迎えに来ていた。

 部屋に入ると、センサーで勝手に電気がついた。光量を自動管理にしていると、リビングを真っ暗な空間にして暗さに浸るのが難しい。ぼくは上着を脱いで煙草に火を点けると、20世紀小説のことを考えた。20世紀は、今では考えられないくらい不思議な時代だった。いまだに夢中で20世紀小説の研究をする人がいるのも頷ける。

 ぼくは口をOの字にひらいた。そして、イタリア人が美味しいときに指先でドリルする辺りの頬を、軽く叩いた。口から出た白煙のリングは、ふっと宙に躍り出たかと思うと、ゆっくりと床へ沈んでいった。最近の煙草は、煙の動きで吸っている人間の心理状態を表現できる。

 映像で見た21世紀初頭のデンマークの排煙施設が、ぼくは好きだった。ゴミ焼却場なのに、スキー場を組み込んだブリリアントな革新的設計。当時の最先端で、排出される煙までデザインされていた。

 イルカが水中で作るバブルリングのように、煙突からぷかりぷかりと白煙のリングを吐き出すのだ。その白いリングが、青空の高みへ上がっていくのを見ると、どこかほっとする。いま地球が上機嫌でいてくれているような気がする。

(2:46から)

 自宅でひとり煙草を吸いつづけながら、吐き出す白煙のリングのすべてが、ゆっくりと沈んでいくのを眺めていた。リビングの床には、乱雑な輪投げの後のように、白煙のリングが散乱していた。

 ここまで煙が沈んでいくのも珍しい。そろそろ彼女を呼ぶ潮時かもしれない。

 ぼくは情報端末のページをめくった。料理もある。掃除もある。介護もある。千差万別の派遣嬢のカタログから、「燃えやすい」と朱書されていた美女を選んで、ぼくは派遣の手配をした。

 わずか一時間で彼女はやってきた。薄ピンクのスーツに花柄のブラウス。糖度の高い甘いコーディネートだ。

「マイ・ボスに言われて、ここへ来たわ」

「それはそれは」と言って、ぼくは無意味に笑った。話し言葉は「敬体」ではなく「常体」で注文してある。そういう親密さがぼくの好みなのだった。

「ベッドに横になってちょうだい」という女の言葉に、それらしい情感がこもっていたので、ぼくはほっとした。モノのように扱われるのは、あまり好きではない。

 女はベッドに腰かけて、ぼくのYシャツのボタンをはずし始めた。最初はひんやりと感じたが、女の手がぼくの胸を撫でさすり始めた頃には、その手には確かに人肌の温もりが感じられた。女の左手は、ぼくの心臓の上にあった。右手がぼくの髪を撫で、顔を撫でさすり始めた。

「もう話し始めてもいい?」

と女が訊いた。ぼくは目を瞑ったまま頷いた。

 

 …あなたはエレベーターの中にいる… けれど、上下するはずの箱の中ではなく… 直接ケーブルに逆さ吊りにされて… 拷問よ… あなたは押ボタンで呼ばれる。どこかの大使館かしら… 重要なのは、そこが治外法権であること… 誰かがボタンを押して… 今晩もあなたを呼ぶ… その廃墟で行われているのは… 賭けサッカー… N階とN+1階でエンドを分けて… あなたは敵であっても味方であってもいけない… 敵に呼ばれ… 味方に呼ばれ… 草サッカーでは誰もがやりたがらないゴールキーパー役… あなたは味方のゴールも守り… 敵のゴールも守る… 連日連夜、賭けサッカーの狂宴は終わらない… 治外法権で、しかも… お金が動いているから… あなたは敵も味方も守る… 誰もがやりたがらないゴールキーパー役… 天上の垂直方向に見える… 切り取られた正方形の空… 矩形の青を羽ばたきぬけていく鳥たち… 

 

「奇想天外な物語だね。いい小説に仕立てあげられそうだ」

「20世紀小説みたいな言い方をしないで。これはあなただけの物語。あなたのこれまでの人生の記憶を私が読み込んで、いま出版したものよ。作者も読者もあなたひとり」

「でもどこかで聞いたことがあるんだ、その話」

「ふとしたインスピレーション、ふとした想像の中で、きっとあなたがそのイメージを見たのよ。人は人生のどこかで自分の未来図を見せられるものなの。そのときはそれと気づかないだけで」

 女の左手がぼくの胸の胸骨のうえで止まった。手が押してきたので、手は胸に密着した。そこはぼくの心がよく痛みを感じる場所だった。女は何かを読み取ったらしかった。

「何度も思い返している記憶がある… 繰り返し夢に見ている… 女たち… 泣き顔」

「それには触れないで」

「触れないことはできない。でも、あなたがそう言うなら、物語には織り込まずに、抜き出すだけ、抜き出しておくわ」

 女の両手が、ぼくの身体から離れた。ぼくは外れているシャツのボタンを留めはじめた。

「タイトルは『ゴールキーパー上空には映画』でどう?」

「独創的で、とてもいいタイトルだと思う」

 ぼくは20世紀小説のことを思い出していた。「書くことと読むことの相互作用」という標語が唱えられたばかりの時代だった。今や小説は、自分が記憶している全ビッグデータを読み込んで、そこからオンデマンドで虚構を創り出すのが主流となっている。

 美女は座っていたベッドを離れて、リビングの中央にある広がりの真ん中へ歩いて行った。床に積もっていた白煙のリングがかき乱されて形を失った。ベッドから立ち上がって彼女を追ったぼくへ、彼女は振り返ってマッチ箱を差し出した。

「ここからは20世紀小説と同じ。よく燃えるのよ」

 ぼくは感傷的なまなざしで彼女をしばらく見つめた。緩慢な動作でマッチ箱を受け取った。

 驚いたことに、20世紀小説は読前読後の読者の心の変化を、まったく把握していなかった。すべてが職人芸の勘で書かれていたのだった。

 ところが、今や小説の効用は薬の効果のように厳密に治験され、測定されている。読者は希望に応じて、専門家監修のもとで、自分で自分にオンデマンド小説を処方できるのだった。

「どうして悲しい記憶を抜き取ってもらったのか、きみは訊かないんだね」

 女は職業的な微笑を浮かべた。

「だって、そういうお客さんを何百人も見てきたから。それに悲しみで心がいっぱいになっていると、新しい幸福が入ってきにくいものよ」

「ぼくが最後の客になったことを、どう感じている?」

ニュートラル。もともと、こういう仕事ができる能力が私には備わっていたんだし、最後に誰に当たるかも、私が複製されたときから、もともと決まっていたことよ、。それはあなたも同じ。マイ・ボスもそう言っていたわ」

「何だか、きみが消えてしまうのが、やるせない気がして」

「Who cares? 気にしないで。私は複製可能よ。感傷的になる必要はないわ。他に訊きたいことはある?」

 ぼくは、最後の仕事を終えようとしている彼女が、どうしてそんなにも笑顔でいられるのかを訝しんだ。けれど、すぐに笑顔の理由に思い当たった。他人から悲しみを抜き去ることが彼女の喜びであり、その悲しみを代わりに背負うことが彼女の苦しみだったのにちがいない。

 まだ複製元の作者ひとりの悲しみしか、ぼくは背負っていなかった。これから歩んでいく道が苦難に満ちているだろことを、ぼくは予感した。

「あなたは最高の25世紀小説だ。ありがとう、マイ・ボス」

 そう言って、ぼくは震える手で、火をつけたマッチを彼女の腰のあたりに火付けした。炎はたちまち彼女の全身を包み、めらめらと彼女の全身を焼いて、崩れやすい灰にしていった。

 炎が彼女の顔を焼こうとしたとき、その美しい顔が歪むのが見えた。それがいつか見た誰かの泣き顔に似ているような気がして、ぼくは思わず手を伸ばして、彼女の顔に触れようとした。顔は炎の中で灰になって崩れ落ちた。彼女の顔が燃え落ちて床にぶつかった瞬間、天使のリングのような、小さな白煙のリングが生まれた。白煙のリングはシャボン玉のように揺れながら、空中を昇っていった。やがて、天井にぶつかって消えた。そのとき、ぼくの胸に巣食っていた悲しみが、嘘のように消えて空白になったのを感じた。

 ぼくは、ゴールキーパー上空の切り取られた四角い青空を思い浮かべた。あの青空の広がりに包まれて、いま地球が上機嫌でいてくれているといいなと感じた。  

「というわけで、火傷はしてしまったけれど、大事なことはそんなことじゃない。大事なのは、このぼくの手できみの胸に触れば、きみの悲しみの記憶を消すことができるということだ。もうわかったね」

 そういうなり、旅行者の男の右手が私のブラウスの方へ伸びてきたので、私は男の頬を思いっきり平手打ちした。まだ痛い目に遭い足りないらしい。

 そこへ折よく母が現れた。母は旅行者の男に向かって驚きの声をあげた。

「あらあら、ご近所の渡部さんのところのタケシくんじゃない。日曜日にスーツ姿で、こんなところで何しているの?」

 旅行者の男に見えていたのは、地元に住む母の知り合いの息子だった。男は相変わらず気障な口ぶりで、フランスの小説の名前をもじった。

「失われた職を求めて」

「タケシくん、聞いたわよ。今朝、お母さん手作りの大好きなフレンチトーストを、フライパンからつまみ食いしようとして、火傷したんだって」

「ええ、まあ。ただし、正確には、ぼくが大好きなのはフレンチトーストというより、その上に乗っかっているホイップ・クリームの方です」

 私は男の方に真っ直ぐ向き直って、ひと息にこう言い切った。

「Who cares!」