ユーモア短編『ベッドの下の奈落にマンマ・ミーア!』

 素直さと前向きさが幸運を呼ぶ。そう言い聞かされて、実際に素直で前向きな人間に育ったので、ぼくの就職活動はあっけなく決まった。

 並みいるライバルたちを抑えて、第一希望のイタリアの高級家具メーカーに採用されたのだ。採用人数はわずか2名。一流美術大学出身の男女一人ずつが、何度かの選考現場では群を抜いていた。受け答えもはきはきしていて、家具の商品知識も豊富。訊けば、このイタリア家具メーカーに就職したくて、大学時代からアルバイトをしていたのだという。幸運を実力でつかむ奴らは足が速い。

 一方で、田舎の三流大学出身であっても、ぼくのように素直さと前向きさがたっぷりあれば、特別枠で採用してもらうことも、この世にはあるのだった。田舎の洋食屋には、いまだにフォークが宙に浮いているスパゲッティの料理サンプルがある。その洋食店のナポリタンしかイタリア文化を知らない母は、採用を泣いて喜んでくれた。22歳でイタリア家具店就職の夢を叶えた自分が、ぼくは誇らしかった。   

 だから、卒業式以前に、一人だけ入社前研修つぉいて呼び出されたときも、やる気満々で、会議室の椅子に座って、膝の上にぎゅっと握った拳をのせていたのだ。

 入社前の最初の研修は、意外にも作文だった。指導に当たってくれた人事部長は、こう説明した。

「今の時代、どの会社でもそうだが、目の前の仕事をイヤイヤするか、喜んでできるかで、新入社員の成長は全然変わってくる。ここまでは大丈夫かい」

 ぼくは元気よく頷いた。さすがはぼくを採用した会社だ。主張に説得力があふれているので、頷きがしばらく止まりそうにない。

「…したがって、今日はイメージ作文を書いてもらう。きみに最低限の文化的生活を想像してもらって、それを喜んで受け入れる姿勢を実際に文字にしてもらいたいんだ」

「わかりました。コップ半分の水を『半分しかない』ではなく『半分もある』と捉えることが大事なのですね」

「おお、呑み込みが早いじゃないか」

「ぼくに向いていると思います! なにしろ、素直さと前向きさがぼくの取り柄ですから!」

 これも上手な返しだった。コンパクトな表現で、自分の長所を印象づけることに成功している。何だか、この入社前研修もうまくいきそうな予感がして、浮き浮きしてきた。その心の浮き立ちが、イメージ作文にもよく表れている。

 晴れた日には日光が差し込んでくるなんて, 何ていう気持ちの良い日当たり! 太陽、最高! しかも, 栄養バランスの取れた食事を, 一日三回も食べられるなんて, 夢のようだ. めったに行けないネバーランドみたいだ. 毎日の食事が美味しすぎて, 幸福感たっぷり. 交代でお風呂にも入れて, お肌さっぱり. ああ, そうさ. ここは夢の国さ. ぼくは社会に出たら, こんな夢の国へ行きたかったんだ. いま最高の気分だよ, お母さん!

  最低限の生活をイメージして、それを楽しんでいる自分を想像した。一か所だけ、人事部長に許可を求めたのは、通常の句点や読点ではなく、カンマとピリオドを使用すること。人事部長は快諾してくれた。この研修は快調だ。相手が受け入れ可能な小さなわがままを言うと、愛されやすくなる。それに英語と同じカンマとピリオドの方が、横書き慣れしている理系学生みたいで、文系のぼくをいっそう理知的に見せるはずだ。

 読み返してみると、カンマとピリオドを使っているせいで、確かにクールで頭が良さそうな文章に読める。こういうひと手間が芸術を美しくするんだな。

 人事部長は満足そうに頷いていた。「必要な要素が全部入っている」とか、「こんなに素直に、会社が求めるものに答えられる社員は素晴らしい」とか。ぼくが就職活動でここまで褒められたのは初めてだった。よし、この会社に骨を埋めるぞ! 自分の心にふつふつとやる気が湧き上がってくるのを感じた。

 次の入社前研修は接客トークの練習だった。顧客にベッドを勧めるときの代表的なトークがまとめられていた。人事部長は身を乗り出して、きみはとても素直で見込みがあるから、ぜひいちばん難しいトークに挑戦してほしいと、説得をかけてきた。

 ぼくは一瞬ためらう表情を見せて、「少しだけ自分流にアレンジさせてください」と人事部長に頼んだ。彼はにっこりと笑って快諾した。ほら、ぼくの予想通り。少しだけわがままを言う方が、愛されるんだ。

 一週間後、ぼくの才能を開花させる日がやってきた。そのメーカーのベッドに関する知識を叩き込み、研修資料にあった模範トーク例もすっかり暗記した。独自アレンジも完璧だ。ぼくは人事部長に促されて、はじめて憧れのイタリア家具店のベッド売り場に立ったのだ。

 最初にベッドの列に足を止めたのは、派手なハンドバッグを持った老婦人だった。ところが、話しかけても会釈して歩み去っただけ。折り紙つき新人店員の接客にふさわしい器ではなかったようだ。 ひとこと言っておくぜ、ちっちゃくまとまんなよ。

 次に来た女性は、若づくりしているが50代前後というところだろうか。幸先よく、ぼくがイチ推しでセールスト-クする収納ベッドに、ふらっと腰かけた。

マットレスの具合はいかがですか」

「ちょっと硬いみたいね」

 老婦人は上品に微笑んで、そう答えた。襟なし丸首のシャネル風の綺麗なスーツを着ている。なにしろ、新人離れした洞察力がぼくにはあるので、高級家具店にはお金持ちが来るのではないかと、うすうす勘づいていた。接客トークに卓抜なアレンジを施して、そこはかとなく高級感を醸し出す戦略を、昨晩頭に入れておいたのだ。 

マットレスがあまりにも柔らケイト・モス、どうしても腰に来ルブタンが大きくなって、腰を痛めチャイ・ラテ、困っちゃうんですよ」

 

 老婦人はぼくを見上げて、可笑しそうに微笑んだ。きっとルブタンが効いたのにちがいない。一流の接客が生み出す微笑は、一流の家具セールスマンにとっては、朝日の光で目覚める寝起きのようだ。つまりは、朝飯前だ。

 老婦人はベッドにつけられているタグに気付いた。

「娘の大学卒業祝いに買ってやろうと思うんだけれど、このベッドはどうして現品処分なの?」

「展示から半年クライシテも、チャーチじゃなくてしっかり作られているので、十年、ニュージー年、いや三十年でも使えマスグ・キスミー」

「へえ。さすがはイタリア製ね。マットレスが薄いような気もしてけれど、座ってみると振動の吸収もいい感じ」

「振動がリズミカルなボのナーラ、やはりイタリアベッドニナリッチゃいますね。ヴィヴァルディの血が流れていマスカラ・カールキープ」

「家具にも音楽性があると言いたいの? おかしいわね、エリック・サティーでも気取っているつもり?」

「冗談和洋室スイートください。私がカトリーヌこしたくないのは、ドヌー部品も精密にできていて、実際にこのベッドが歌うということです」

「へえ。イタリア製だから、ベッドまでカンターレするということ?」

「お、サン・シャルル通りです。5ランクださい。この1stランクのベッドのヘッドボードには、スピーカーと電源コンセントがフル soy bean 茹でられています。…

…つまり、スマホを充電でキティー新幹線、好きな音楽をワイヤレスで飛ばシティーボーイ、枕もとで聞けるンデス・リーガ」

「あら、そうなの。最近の若者言葉って、私にはよくわからないけれど、ベッドはとても気に入ったわ」

 ぼくの独自接客トークの完全勝利だった。高価な指輪でも十指につけると悪趣味にあるように、「いますぐ KISS ME」や「キティー新幹線」のように、ところどころで高級感を抜いたアレンジが、逆に小粋なのだ。ワンダフルじゃないか、ぼく。

 思わず勝利の美酒に酔ってしまい、足元がふらつきそうになったが、まだ最終ミッションが残っていた。素直さと前向きさだけが取り柄の男が、イタリア家具を本気で愛したらどこまで行けるのか、見てておくれよおっ母さん。

 お客様に感動体験を提供するのが、一流の家具セールスマンの真のミッションなのだ。ベッドひとつを売るのにも、感動話のひとつやふたつくらい持っていなければ。ぼくは、普通の口調に戻って、さりげなくこう切り出した。

「ほら、このベッドの底、凄いと思いませんか。マットレスの厚みを最小限に抑える代わりに、大容量の収納を可能にしています。マットレスの下の天板はしっかりつくってあります。天板が薄いと、あれあれ、奈落の底に落ちてしまうことだってありえますから」

「何だか急にお話が聞き取りやすくなったわ。でも、奈落の底はいくらなんでも大袈裟なんじゃない?」

 ぼくは夜中までかかって暗記した話を語り始めた。

 60年代のアメリカにハワード・テイトというソウルシンガーがいたんです。才能も実力もあったけれど、契約のせいでお金まわりが悪くて、家族のために保険の外交員に転身したんです。ところが家族を守るはずの家が大火事に。家族ともども逃げ出したテイトは、知的障害のある娘の姿がないことに、はっと気が付きました。炎に包まれた家の中に駆け戻ると、娘が火に怯えて部屋の隅で震えているのが見えたんです! テイトが猛然と娘に駆け寄ると、娘は泣き叫んで渾身の力で父親にしがみつきました。

 ここまでは感動的なヒューマン・ドラマです。ところが、悪魔はそこに奈落の底を仕掛けていたんです。障害のある娘を抱きかかえ、炎に包まれた家から脱け出そうとして、ベッドを踏んだ瞬間、ベッドの天板が割れてしまい、二人は炎の中に投げ出されてしまいました。テイトだけは助け出されました。全身が白くなるほどの重度の火傷を負って。

 しかし、テイトが負ったのは、重度の火傷だけではありませんでした。必死に抱きついてきた障害のある娘を救えなかったせいで、心が病んでしまったのです。酒に溺れ、家族を失い、麻薬に手を染め、8年間のホームレス生活へ転落。

 けれど、悪魔の仕掛けがあれば、神の仕掛けも世にはあるものです。火事から約20年後、ドラッグを買う金のために皿を洗っていたテイトが幻覚を見るのです。それは悪魔が目の前に現れて、心の底から愉快そうに大笑いしている幻覚。同じ境遇の人なら、自殺してしまいかねない超自然現象は、しかし、テイトの人生を変えます。

 ドラッグを断ち、牧師になり、ドラッグ中毒に苦しむ人々のためのホスピスを創ろうと奔走します。すると… その資金調達にテイトが苦労していたさなか、昔の音楽仲間が、街で買い物をしているテイトを偶然発見します。25年以上ぶりに。 

  そうして約30年ぶりのカムバックを果たしたテイトの歌声は、このベッドでも聴くことができます。ぼくはこの曲が大好きなんです。酒焼けしていない瑞々しさが声にあって、2:56のファルセットなんて、ほとんど奇跡的な美しさです。

 ベッドの下に、悪魔が奈落を仕掛けてあったけれど、神様がその奈落を這いのぼることのできる仕様にしてあったというベッドサイドストーリーでした。

 YES! ぼくは心の中で会心のガッツポーズを決めた。昨晩深夜まで必死に練習した甲斐があったというものだ。嬉しいことに、老婦人は立ち上がって拍手をしてくれている。

「素晴らしいお話だったわ。私、決めた。娘にこのベッドを買ってあげることにする! 現品限りなら、今日にも配送してほしいわ。」

「お買い上げありがとうございます!」

 背後から、人事部長が揉み手をしながら嬉しげな表情で近づいてきた。ぼくは出番を完全に演じ切った満足感で、並んでいる高級家具の間を悠々と歩いて、バックヤードへ向かった。

 帰る準備をしていると、控室のドアを乱暴に開けて、人事部長が入ってきた。

「素晴らしかったよ。高級感あふれる独自アレンジも良かったし、クライマックスの感動話も堂に入っていたね。こんなに素直に、会社が求めるものに答えられる社員は、きみしかいない!」

「お褒めの言葉、ありがとうございます。素直に前向きに課題に取り組んだら、たまたま結果がついてきただけです」

 ぼくは型通りの謙遜を素直に引用した。

「いやいや。だってついてきたのは売上だけじゃない。先ほどの田園調布のお得意さまだが、何ときみにご指名が入ったんだ!」

「指名? 何の指名ですか?」

「ほら、お客さんは今日が娘さんの誕生日だと言っていたろう? あのベッドをサプライズでプレゼントしたいらしいんだ。さらに、きみがサプライズ登場して、さっきの黒人シンガーの感動話をするという段取りだ。特別報奨金をはずむから、やってくれないか。きみしかできる人間はいない!」

「もちろんやらせていただきます!」

 ぼくは即答した。一流のセールスマンが一等地の誕生パーティーで一流のセールス・トークをする。夢のような展開だとしか言いようがない。

 誕生パーティーまであまり時間はなかったが、人事部長は持ち前の手際の良さで、トラックと運搬人員を手配し、ぼくをベッドの収納部分に匿った。密閉空間で閉所恐怖症や乗り物酔いにならないように薬までくれた。そればかりか、サプライズ後のパーティーに参加しやすいよう、ナイフとフォークまで丁寧にナプキンで包んで、渡してくれたのだった。有能な上司と一緒に仕事をするのは、本当に気持ちの良いものだ。

 ぼくの素直で前向きな性格が幸運を呼んだのだと思う。真っ暗な閉鎖空間の中で、ぼくはひたむきに台詞まわしを練習し直した。トラックは田園調布の邸宅へ到着したようだった。ぼくを匿ったベッドが、四人がかりで、高級住宅の令嬢の部屋へ運び込まれた。

 部屋に明かりがついているのがわかる。ベッドの収納部分は狭いので、灯りが差し入ってくると気分が少し楽だ。ぼくは演説のクライマックスでかけるハワード・テイトの曲を準備しようとした。ところがスマホの電源が入らない。何度も何度も電源スイッチを押しているうちに、スマホのバッテリーが抜かれていることに気が付いた。

 まずい。これではサプライズが成功しそうにない。慌ててわけもわからずポケットを探っていると、さっき人事部長が手渡してくれたナイフとフォークに手が触れた。素直さと前向きさが取り柄のぼくに、はじめて疑問が思い浮かんだ。マイナイフとマイフォークを持参しなければならないとは、どんな誕生パーティーなのだろう?

 そのとき、若い女が部屋に入ってくる声がした。

「だから、あなたとはもう二度と会いたくないんだって。私にはもう好きな男の人が別にいるの。今すぐ帰って!」

「何だと。もう一度言ってみろ!」

「何度でも言うわ。帰って! 帰って!」

ぼくは心の中で「オー・マイ・ゴッド」と呟いた。その「オー・マイ・ゴッド」がサプライズの合言葉になっていたのだ。それを聞いたら、ぼくは鮮やかに油圧シリンダ式のマットレスを跳ね上げ、良家の令嬢の前に登場するはずだった。ほら、このベッドの底、凄いと思いませんか。この通り、人だって楽々入れるんですよ… 

 そう切り出して、ハワード・テイトの「ベッドの下の奈落」を語り聞かせる手筈だった。ベッドの外では、男がナイフを取り出したようだった。

「へへ。こう見えて、このナイフは実によく切れるんだ。その綺麗な顔に傷がつかないようにするには、賢くならないとな、お嬢さんよ」

「やめて! 誰か、誰か、助けて!」

 素直さと前向きさが取り柄のぼくだ。何もなければ、ベッドのマットレスを跳ね上げて、お嬢さんを助けるヒーロー役を喜んで買って出るところだ。ところが、人事部長に飲まされた薬のせいで、不思議なくらい身体に力が入らないのだ。意識さえ遠のきそうになるのをぼくは必死にこらえて、どうしてこんなことになったのかを思いだそうとした。ぼくは先週書いたイメージ作文を思い出した。

晴れた日には日光が差し込んでくるなんて, 何ていう気持ちの良い日当たり! 太陽、最高! しかも, 栄養バランスの取れた食事を, 一日三回も食べられるなんて, 夢のようだ. めったに行けないネバーランドみたいだ. 毎日の食事が美味しすぎて, 幸福感たっぷり. 交代でお風呂にも入れて, お肌さっぱり. ああ, そうさ. ここは夢の国さ. ぼくは社会に出たら, こんな夢の国へ行きたかったんだ. いま最高の気分だよ, お母さん!

 世間知らずなぼくにも、あの作文がおそらく、犯行の計画性を示す状況証拠として使われることが予想できた。注意すべきは、カンマとピリオドではなかったのだ。

 悲鳴とともに、女の身体が床に崩れ落ちる音がした。おそらくナイフで頸動脈を着られたのだろう。微かに血の臭いが漂ってきた。

 ぼくの田舎の洋食屋には、いまだにフォークが宙に浮いているスパゲッティの料理サンプルがある。その洋食店のナポリタンしかイタリア文化を知らない母が、採用を泣いて喜んでくれたのを、ぼくは懐かしく思い出した。いま胸ポケットにあるナイフとフォークは、事前に準備した凶器として認定されるだろう。サプライズの合言葉が「オー・マイ・ゴッド」だと聞かされたときに、ぼくは「特別枠」という名の罠に嵌められていることに、気が付くべきだったのだろうか。そんなことができたとはとても思えない。できるとしたら、その合言葉をイタリア家具好きらしく、こう言い直すことくらいだろう。

マンマ・ミーア! 

 薬が回ってきて、意識がますます遠のいていった。誰かの話し声や足音が、激しく入り乱れているのが聞こえるような気がする。しかし、それがどれくらい遠いのか近いのか、もはや朦朧とした意識ではつかめないのだった。後ろ髪を背後へ引き寄せられるような激しい眠気に、ぼくは襲われつつあった。その激しい眠気を、近づいてきたパトカーのサイレンの音が妨害しつづけている。ベッドの下の奈落の中で、これから警察にお世話にならざるをえない暗転した長い人生のことを思った。

 とはいえ、素直さと前向きさが取り柄のぼくだ。ハワード・テイトと同じく、25年もすれば陽の当たる場所へ出られるのではないだろうか。そのとき、自分にまだ、奇跡のファルセットのような美質が残っているといいなとぼくは思った。

 眠りたい。少しでいいから、眠らせてくれないか。ぼくはこれから長い間お世話になる警察に、眠れないじゃないか、頼むからサイレンを止めてくれと、かすかな声で文句を言った。だって、少しくらいわがままを言う方が、愛されるっていうから。