短編小説「地下鉄ブルー」

 世の人は俺のことを腫れ物でも触るかのよう怖々と接する。それも無理はない。なにしろ俺は禁固10か月を喰らって、今日やっと娑婆へ出られることになった囚人なのだ。刑務所では無闇にあちこちを蹴飛ばしたりせずに、模範囚でいた。それでも、刑期の短縮は認められなかった。世知がらい世の中だ。それもやむを得まい。

 俺は地下鉄に乗った。乗り込んだ車両には誰もいなかった。出獄の喜びがなかったと言ったら、そいつは嘘になっちまう。思わず唇をすぼめて、口笛を吹いた。

 すると、肩の横に青白い顔をした女の幽霊が現れた。

「おっと出た出たお客さん。来るんじゃないかと思っていたぜ」と、俺は強がりを言って、さらに口笛を吹いた。

 女の幽霊が話しかけてきた。

「私がこんなに塞ぎ込んだ気分なのに、あなたったら随分ご機嫌なのね」

「やっと娑婆に出られたんだ。上機嫌になるのは当然だろう。やりたいことが山ほどあるぜ」

 女はいかにも幽霊らしく恨めしそうに俺を見ると、ジャズの話をはじめた。

「そういうときは、ビル・エヴァンスのピアノを聴けば、ちょうどいい具合に気分が沈むわよ」

「何でこの俺が気分を沈めなきゃいけないんだ」

「あなたは何もわかっていない。ビル・エヴァンスには連れ添った奥さんがいて、二人とも麻薬中毒だったの。ほらそんな感じのピアノでしょう」

 女の幽霊はイヤホンの片耳を俺の片耳に押し込んだ。聞こえてくるジャズ・ピアノは確かに人をブルーにさせるような音色だった。畜生、せっかく人が出所した日に、どうしてこんな陰鬱な音楽をきかされなくちゃいけないんだ。俺は女に抗議した。

「やめてくれよ。折角の薔薇色気分が、ブルーになっちまうじゃねえか」

「私のファースト・ネームを訊いてよ」

「きみは誰なんだ?」

「私はブルー。…そんな顔しないでよ。ブルーの私がブルーな話をして、あなたからブルーを吸い取るのが、私の役目なのよ」

 そういえば、無職で街をふらふらしていたとき、失業者支援のNPOの女が近づいてきて、同じようなヘルプを申し出てきたことがあった。善意なのかお節介なのか、よくわからない種族が世にはいるのだ。

「気持ちはありがたいけど、おあいにくさま。俺はそんじょそこらの平凡な失業者じゃない。懲役10か月の前科者なんだ、期待してくれんな、ベイビー」

 すると、女はくすくす笑い出した。まあ、いまどき、間投詞でベイビーなんて言う奴は珍しいのだろう。笑ってくれたらむしろありがたい。俺にとっては今日が新しい誕生日みたいなもんなんだ。笑えよ、笑え。隣でブルーな話をされるより、はるかにましというものだ。

「…二人とも麻薬中毒だったせいで、レコードを出しても出しても、ビル・エヴァンス夫婦の家計は火の車。そのうちにドラッグで気が変になったビルは、ドラッグをやめたくて、全然別の世界の女の子に恋をしてしまうの。何と、見当ちがいにもストーンズ好きの女の子に」

「だから、ピアノの音色がこんなに繊細で切ないというわけか。すまん、悪いが、その話はもうやめてくれないか。きみのせいでブルーな気分が止まらないんだ」

「やめないわ。浮気を知った麻薬中毒の奥さんは、その直後に地下鉄に飛び込んで自殺してしまったの」

 俺は心臓の動悸が激しくなってくるのを感じた。地下鉄の終点までには、まだいくつか駅が残っている。折角の俺様の晴れの日なのに、気分悪いぜ。何とかして、女の話をやめさせられないものだろうか。

「やめろと言っただろう。俺は懲役10か月の前科者だぜ。あまり怒らせない方がいい」

 俺が女をにらみつけてそう凄んでも、女はくすくす笑いつづけるばかりだ。

「あなたがそんなに怖い人じゃないのを、私は知っているのよ」

「うるせえ。俺様の言うことをきかないのなら、大声を上げて、怒鳴りまくるぞ!」

「きっと、もうすぐそうすることになるわ。…それで、ローリング・ストーンズ好きの女の子との間に、待望の第一子が生まれるんだけど。それでも幸福はやってこない。今度は献身的にビルを支えつづけてきた兄が、謎の拳銃自殺をするの」

 さすがはブルーだ。よくも次々にブルーな話を並べられるものだ。こんな綺麗なピアノを弾ける男が、どうしてそんな悲惨な人生を送ってしまったのだろう。なぜ選ばれた芸術家たちは、自らの破滅を急ぐのだろう。いけね、俺までどっぷりブルーな気分になってきた。脅しても駄目だとわかったので、俺はブルーな女の幽霊に向かって叫んだ。

「お願いだからやめてくれ! せめて今日だけはご機嫌な気分でいさせてくれ!」

 俺はそう叫ぶと、イヤホンを耳から外して、女に投げ返した。

「動揺してはだめ。あなたのいうとおり、今日は大事な日なのよ。ほら地上が騒がしくなってきたのがわかる?」

 俺は耳を澄ました。確かに、しきりに人々が大きな声をあげたり、何かが行き交ったりする音が聞こえる。ひょっとすると、地上では大きな火事が起こっているのかもしれない。しかし、どうして女の幽霊は地上で起こっていることを知っているのだろう。地上で起こっているのは、偶発的な火災や事故ではなく、テロなのだろうか。俺は怖くなって、黙りこくった。

「…ドラッグをやめるために、ストーンズ好きの女の子と結婚したのに、兄が自殺したせいで、ビルは再び麻薬に手を出すようになってしまう。薬の副作用で、顔や指がむくんで、膨れ上がった指先で、鍵盤をふたつ押さえてしまう演奏しかできなくなるの」

 俺はもう一度イヤホンの片方を自分の耳に押し込んだ。音の粒がきらきらした素敵なピアノが聞こえてきた。こんな最高のピアニストが、どうして自分で自分の人生を滅茶苦茶にしてしまったのだろう。そう思うと悲しくなって、俺の目を思わず潤んだ。

「ねえ、泣かないでよ。私は次の駅で降りるから、電車が地下鉄の終点に着いたら、思いっきり泣いていいのよ」

「前科者の俺様が、センチメンタルなピアノを聴いたくらいで、泣くわけないだろう」

「ねえ。もう強がらなくていいのよ。あなたはきっと泣くわ」

 そういうと、女は車両の座席から立ち上がった。電車が終点のひとつ手前の駅に着いたのだ。女の幽霊は座っている俺の正面に立つと、ふらりと揺らめいて、俺のおでこにキスをした。女が唇を離した瞬間、俺の頭はふわりと揺れて、ブルーなつらさや苦しみがすっと引き抜かれたような感覚になった。その何とも言えない幸福感が、俺の言葉遣いを一変させた。

「ねえ、待って。またきみに逢いたいから、フルネームだけでも教えてよ!」

 女はとびっきりの微笑をして、手を振りながらこう言った。

「私の名前はマタニティー・ブルー。もう二度とあなたに会うことはないわ。今日があなたの新しい誕生日なんでしょう? おめでとう。もう思いっきり泣いてもいいわよ」

 ブルーにキスされたおかげで、俺は心の鬱積がすっかり消えた心地がしていた。俺はブルーに向かって、喜びと感謝の口笛を吹いた。ブルーは車窓の向こうで微笑んで手を振っていた。

 ドアが閉まって、電車が動き出した。それまで地下を走っていた電車の前方が、急に明るくなってきた。終点の駅は地上にあるのだ。

 俺は咳払いをして喉の調子を整えた。ブルーが予言したように、俺は自分が大声で泣くにちがいないと直感したのだ。

 電車の窓がいっせいに明るくなって、屋外が騒がしいのがわかった。懲役10か月の俺が、ようやく明るい地上に出られたと確信した瞬間、俺は幸福感に包まれたまま、思いっきり泣き叫んだ。

「オンギャー! オンギャー!」

 

 

 

ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄 改訂版

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